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 八丁堀の「天竜堂」では、夜明けとともに戸を叩く音が絶えなかった。咳の止まらぬ老人、煤で目を腫らした職人、腹痛を訴える子供。凌庵は一人ひとりの声を丁寧に拾い、薬を処方し、朝からの怒濤の診察を終えた頃には、日は高く昇っていた。

 訪れる患者を診終えた凌庵は、簡単な朝餉を済ませて留守番を彩乃に託してある場所へ向かった。小石川養生所だ。

 薬篭箱には、中身が洩れぬ様に厳重に布で包まれた例の佐葦の露が入った瓶が入れられている。持参した理由は誰かに譲渡するなんて、生易しい物じゃない。この薬について調べるためだ。設備は天竜堂もそれなりの者がそろっているが、養生所に比べれば月と鼈だ。薬の関係の調べ物をする際には、打ってつけ場所と言う事だ。

 広大な薬草園を抜け、番所の近くを通ると、見廻り方同心・秋月伊織(あきづきいおり)とすれ違った。

 「凌庵殿、今日は如何致した? 蓬洲先生からの呼び出しか?」

 「少々込み入った事情がな。秋月殿、あんたも養生所を見廻る同心として一枚噛んでもらいたいのだ。」

 「ふむ、お安い御用だ。」

 二人が向かったのは、土の香りと酢酸の匂いが混じり合う奥まった薬煎調合室の一室。中では、一人の白衣姿の男が薬研を操っていた。金創治療を専門としながら、天才的な本草学者としての顔も持つ松崎慶斎(まつざきけいさい)である。医者としては凌庵より先輩だが、話の馬が合う盟友だ。

 「よぅ、珍しい御仁のお出ましだな。」

 「慶斎殿、あんたの眼を見込んで調べて欲しい物がある。」

 凌庵が往診鞄から「佐葦の露」の小瓶を取り出すと、慶斎は鼻先でその香りを軽く煽り、即座に目を細めた。

 「ほほう、そいつは『佐葦の露』じゃないか。まさかお前が色恋にうつつを抜かすために手に入れたわけじゃあるまい?」

 「これ一瓶で旦那を骨抜きにできると市井で噂されている。先日、心中として処理されかけたおはつの遺体からも、これと同じ匂いがした。悪しき片手業に利用されている可能性がある。どうもこの香り水は、怪し材料を寄せ集めて作られている様だ。こういう時、あんたの知識が頼りだ。よろしく頼む。」

 凌庵の言葉に、慶斎の表情から遊びの色が消えた。

 「そうか、いいだろう。医術の裏側にある『毒』を暴くのも私の役目だ。見てみようか。」

室内の棚には、一般的な町医者にはまず並ぶことのない、南蛮渡来の硝子器が並んでいた。フラスコ等の薬品が入った器が、格子窓から差し込む陽光を浴びて妖しく輝いている。正確な薬品政策の為に、慶斎が発注を掛けて手に入れた品々だ。

 慶斎はこれら機材を使い、異国の医者達が秘密裏に行ったとされる実験方法を実施した。

 「佐葦の露」を数滴フラスコに落とし、アルコールランプの青い火にかけた。熱せられた液体が気化し、ビードロの管を経て冷やされ再び滴り落ちる。その過程で、複雑な成分が冷ややかに分離されていく。 程なくして、室内には昨夜の鶴亀屋で感じた、あの鼻の奥を刺すような甘美な香りが充満した。

 「・・・こりゃいかん!」

  慶斎の顔色が変わる。危険を察した伊織が、室内の窓の襖を勢いよく開け放った。流れ込んできた初夏の新鮮な空気が、澱んだ甘い香りをかき消していく。

窓を開けて開口一番、伊織が言葉を発した。

 「な、何だこの煙は・・・。暫く嗅げば、身も心も蕩けてしまいそうな・・・、妖術の様な力があるな。」

 香りが窓から抜けたのを確認すると、書物を睨みながら、滴り落ちた水滴を詳しく調べて行く。

 「成程な。調べれば調べるほど、ろくでもねえ物が混ざってやがる。」

 慶斎は硝子器の内壁に析出した粉末の形状を鋭く観察し、その正体を断定していった。

 「凌庵、これはただの香り水などという生易しい代物ではないぞ。恐るべき毒物、鬼の産物だ。」

 慶斎はピンセットで挟んだ脱脂綿をビードロ板の上に慎重に置いた。

 「香りの主成分は伽羅(きゃら)白檀(びゃくだん)薔薇(ばら)の精油。これだけでも脳を蕩けさせるが、問題はその奥に隠された『核』だ。・・・我ら養生所が長年、大手術の際の極秘麻酔として研究してきた薬草がある。南蛮から入る芥子、すなわち『阿片』だ。この佐葦の露には、阿片の成分が極めて微量、かつ気化しやすい形で調合されている。それだけではない。この独特の青臭い苦みは、曼陀羅華(まんだらげ)の毒葉の抽出液だ。そしてもう一つ・・・、龍涎香(りゅうぜんこう)だ。それも極めて稀な異形の塊。通常の龍涎香は抹香鯨の腸内で生まれる至高の香料だが、これはおそらく、深海の毒藻か何らかの病によって、その成分が異常に変質して固まったものだ。」

 「とんでもねえ物が混ざっているな。この香りを例えて言えば妖術に等しい物・・・妖香と言った感じだな。」

 凌庵の呟きに、慶斎は白眉を上げた。

 「正にそれだ。此奴を付けた者に周りは夢中になるが、それは『人』に惚れているんじゃない。香りに脳を依存させられ、傀儡にされているだけだ。一度これに慣れちまったら、より強い香りを、より強い『夢』を求めるようになるのさ。」

 慶斎は、不気味に佇むビードロ瓶を睨み据えた。

 「人の情念を薬で操り、富も権力も思いのままに吸い上げる仕組みが、この江戸の闇で出来上がってやがるぞ。」

 そこへ、きつい臭いに顔を顰めた蓬洲が入ってきた。

 「なんじゃ、この鼻が曲がるような悪臭は!養生所を化け物の棲家に変える気か?」

 「とっつあん、済まないがこれは御用に関わる事ゆえ御容赦を・・・。」

 「御用だと?その南蛮渡来の道具を引っ張り出してまで、何を調べておるのだ?」

 「三島屋おはつの一件だ、おはつの体より匂って来た香り水を断定し、調べていくととんでもない事実が解った。こいつは、洒落や色気で片付く問題じゃねえ。」

 「どういう事だ?」

 凌庵と慶斎の真剣な面持ちを見て、蓬洲も何か察しがついたようで話を聞いた。凌庵は蓬洲に対し、三島屋の心中死の不審点と、この香り水の関連性を手短に説明した。すると蓬洲は、ふと思い出したかのように眉を跳ね上げた。

 「三島屋の悪評は、儂の耳にも届いておる。縛り付けられた挙句に、悪しき物に手を出したと言う事か・・・。」

 「産まれた家が悪かった・・・、と言う事だな。」

 「それで此度の事、得心が言った。件の三島屋だがな・・・、先ほど公儀の沙汰が下ったそうだぞ。三島屋は闕所、財産没収と家名の取り潰しが決まったとな。」

 「な・・・、何と!?」

 凌庵の顔色が変わった。新太郎や仁吉が調べていたはずだが、あまりにも早すぎる御沙汰であった。

 「何故だ?何故その様な・・・。」

 「身内が御法度の遊びに関わっていたこと、そして心中という不祥事で民心を騒がせた角だそうだ。財産没収を主導したのは、闕所奉行は柴田(しばた)監物(けんもつ)。既にあらかたの財物が召し 上げられたはずだ。」

 「納得がいかぬ・・・!」

 凌庵の瞳に、激しい怒りの炎が宿った。

 「自分の腕前をひけらかすわけではないが、心中ではないと俺の検使で断定できている。それは間違いないはずだ。確実に他の手に掛かって殺されている。これは間違いない。下手人が別にいるかもしれぬ状況で、ただの見せしめのために商家を潰すのか!店で働く者の行末はどうなる!」

 「儂に食って掛かるな、決めたのは御上だ。」

 「そうだ凌庵殿、御神の御沙汰は俺たち医者にはどうにもならぬ。」

たじろぐ蓬洲を放っておき、凌庵は手早く荷物を纏めて養生所を飛び出した。

 「凌庵殿、行くのか?」

 「ああ。法の名の下に真実を埋め殺す裁きなど、俺は絶対に許さぬ!・・・・慶斎殿、鑑定感謝する。秋月さん、俺はこのまま呉服橋へ向かう!」

 凌庵は薬篭箱をがっしりと掴むと、養生所の長い廊下を脱兎の如く猛然と駆け抜けた。

 小石川から呉服橋まで、凌庵は一度も足を止めることなく駆け抜けた。町奉行所の威厳ある黒門をくぐるなり、凌庵は吟味室へと直行した。すれ違う与力同心をかわし、吟味室の前で止まった。返答以下によっては、強談判も辞さないと覚悟を決めて襖に手を掛ける。しかし、襖を引くよりも早く中から激しい怒声が漏れ聞こえてきた。

 「何故です! 納得がいきません!三島屋がこれほど拙速に闕所とされるのですか!?」

 「落ち着け、新太郎。これには御奉行も疑問を隠せぬご様子だが、これは御老中方の閣議での決定なのだ。奉行所一箇所の裁量で覆せるものではない・・・。」

 「いくら何でも沙汰が早すぎる!御上も御奉行も、この御沙汰の裏に何かあるとは思わなかったのですか!?」

 真っ赤な顔で詰め寄る新太郎を宥める平蔵、成程新太郎も納得がいかない様だ。

 「凌庵だ、邪魔をするぞ。」

 凌庵の声が、低く鋭く吟味室に割り込んだ。新太郎が驚いて振り返り、「凌庵先生!」と声を上げる。

 「よぅ先生、何か用か?済まぬが今取り込み中なのだが・・・・。」

 凌庵は、腕を組んで佇む「鬼の平蔵」こと神山平蔵の眼前に歩み寄った。

 「神山殿。貴殿の鋭い目で見透かした、この闕所の真意とは?」

 「流石に耳が早い・・、思いは新太郎と同じか。だが、我ら末端の役人には御歴々の考えなど解からん。悲しい哉、上が香だと言えば従わねばならんのさ。」

 平蔵は一度目を閉じ、重い口を開いた。その言動には、宮仕えの虚しさ悲しさがにじみ出ている様な気がした。

 「三島屋はどうなっている?」

 「生ける屍だ。家財を運び出されるのを、ただ呆然と見送っている。跡取りの卯之吉は、この醜聞でまとまっていた縁談が即座に破談となり、それきり行方を晦ました。自棄を起こして失踪したと見られている。」

 「三島屋が手にしていた御用商人の利権は、誰が引き継いだのだ?」

 「阿波屋治兵衛(あわやじへえ)だ。三島屋の鑑札の多くを、紙屑のような値段で引き継いだそうだ。」

 「阿波屋・・・、あの『阿波治大尽』か。」

 凌庵の脳裏に、派手な金遣いと強引な商売で知られる政商の顔が浮かぶ。商売仇であった三島屋が消え、その利権をまるごと飲み込んだのが阿波屋だとすれば、何とも出来過ぎた話だ。

 「新さん、歌之丞の一件はどうだ。」

 「ああ、タニマチに名のある商家がいてな。桔梗屋(ききょうや)(かく)右衛門(えもん)だ。桔梗屋は大名旗本と言った武家の筋を商売相手に質る様でな。他の商人とは手にしている力が違う。そして、裏で糸を引いて横槍を入れてきているのが、桔梗屋と昵懇とされる武家の一人、大目付の京極備前守だ。」

 名前の挙がる役者が全て同じ「水野派」の系譜に連なっていることに、凌庵は背中に寒気を覚えた。やはりこの処置も改革の一端なのではと思えたからだ。

そこへ、静かに戸が開かれた。北町奉行・遠山金四郎が、どこか疲弊した色を隠さず立っていた。

 「ずいぶんと賑やかだと思ったら、来ておったか。」

 「御奉行、これは俺のお節介なのだが、際の露について養生所へお願いし調べたのだ。この書付を見てくれ。」

 凌庵は挨拶も早々に、慶斎が書き記した『佐葦の露』の鑑定書を差し出した。金四郎はその驚くべき麻薬の成分に目を通し、平静を装おうとしたが、その驚きは隠せなかった。

 「なんと、これほどの毒が香り水として江戸の街に流れているのか。正に人を惑わす妖しい雫だな。」

 香り水の鑑定結果に、驚きを隠せない様子の金四郎。すると新太郎がそれを打ち請わず様に、我慢ならんといった様子で金四郎に詰め寄った。

 「御奉行! 三島屋闕所の裁決を下した真意をお聞かせください!これが正しき法の色ですか!」

 「新太郎、控えよ!」

 神山が制止するが、金四郎は静かに手を挙げて新太郎の目を見据えた。

 「・・・儂とて、納得はしておらぬ。だが、幕閣の御歴々がこぞって水野様に同調されるのだ。北町奉行一人の声など、荒波の前の小石に等しい。・・・私は力及ばなかった。」

 「三島屋闕所の訳は?」

 「幕府の財政は、今や逼迫を通り越して破綻寸前だ。水野様は天保の改革で緊縮を強いているが、それだけでは追いつかぬ。・・・要するに、三島屋のような巨大な富を持つ商人の財産を没収することで、その『穴埋め』をせんとする思惑があるのではないかと、俺には思えるのだ。あくまで憶測だがな・・・。」

 推測の域を出ないが、まんざら憶測とも言えない。今回の闕所の裏に、普段から人を人とも思わぬ圧政を敷く水野忠邦の影がちらついている。今回の一件が殺し、そして三島屋乗っ取りであるとするならば、忠邦が黒幕だったのではとも考えられた。先程背筋に感じだ寒気もそうだが、今回の悪事は水野忠邦が裏で糸を引いていると思えてならない。この方法は、かつて「三方領知替え」という諸大名を巻き込む強引な領地替えで財政回復を図ろうとした強硬なやり口そのものだった。

 奉行の言葉を聞いた新太郎は、庶民が幕府の政策の犠牲になったと考えた様で、いよいよ鶏冠に血が上り怒り心頭。更なる強い力で奉行に詰め寄る。

 「御奉行の声が届かずとも、上様は何と仰せなのですか!幕臣たちのこのような愚行を、何故止めようとなさらないのです!」

 「新太郎っ!」

 神山が真っ青になって新太郎を叱るが、金四郎は悲しげな微笑を浮かべて首を振った。

 「新太郎、上様とて思うところはあるはずだ。だが、いざ意見を述べようとすれば、老中達に『幕閣のことは我らにお任せください』と体よく制されるのがオチだ。・・・幕府という祭りの神輿があるとするなら、上様は華やかな『飾り』、我ら幕臣はそれを担ぐ『担ぎ手』だ。担ぎ手の中に不心得者が混じり、神輿を泥沼へ運ぼうとしても、飾りの人形にはそれを止める術はないのだよ。」

 金四郎の言葉に、凌庵は胸の奥を抉られるような暗澹たる思いに駆られた。

 「神輿の飾りか・・・。だが、もしその飾りに、決して交わってはならぬ『もう一つの正統な血』が流れているとしたら・・・。その血が自ら動き出した時、この神輿はどこへ向かうのだ?」昨夜、 本郷丹後守から告げられた「御世継の危篤」と「御落胤」としての己の宿命が、重く脳裏に明滅する。

 しかし、凌庵はあえてそれを振り払うように、穏やかに、しかし力強く言った。

 「まあ新さん、上の間違いは俺たちが正すものだ。担ぎ手の足並みが乱れたのなら、他の誰かがそれを正せばいい。それが、この八丁堀に生きる者の意地というものだろう?」

 新太郎はハッとしたように顔を上げた。

 「・・・そうだな、先生。落ち込んでいる暇はねえ。仁吉を連れて、もう一度歌之丞と京極の周りを探ってみる!」

 猪突猛進に吟味室を飛び出していく新太郎の背中を見送り、凌庵もまた「御奉行、座り過ぎは毒ですぞ。たまには夜風に当たることです」と言い残し、奉行所を後にした。

 凌庵が奉行所を出て呉服橋を渡ろうとした、その時だった。 前方から、息を切らせて猛烈な勢いで駆け込んで来た仁吉と、危うくぶつかりそうになった。

 「おぅ仁吉、どうしたそんなに急いで。」

 「あ、兄貴!どうしたんだこんな所で?」

 「ちょいと野暮用だ。それよりどうした、顔が真っ青だぞ。」

 「若旦那は!?中にいるか!?」

 「おう、すぐ後ろにいるが・・・何があった?」

 仁吉の身体は小刻みに震え、その声は掠れていた。

 「・・・三島屋が・・・・伊左衛門の旦那が、首を括りやがった!」

 「何だと!?」

 背後から追いついた新太郎が、その言葉を耳にして絶句した。

 「・・・本当なのか、仁吉。」

 「ええ、臨時廻りの山村半兵衛(やまむらはんべえ)様と、定町廻りの渡辺主膳(わたなべしゅぜん)様がすでに現場に向かってやす。麹町にある三島屋の別邸です!」

 三島屋伊左衛門。誇りを奪われ、家財を奪われ、最後に自ら命を絶った。その死は、単なる絶望の果てか、あるいは「死人に口なし」を狙った黒幕の策略か。しかも、動いているのは北町ではなく、 南町の山村半兵衛たちだ。管轄違いの壁が立ちはだかる前に、現場を押さえねばならない。

 「行こう、新さん!」

 「おう!」

 凌庵と新太郎は、初夏の夕闇が迫る江戸の街を、麹町へ向かって死に物狂いで駆け出した。 法が真実を殺すなら、医者がその死骸から真実を奪い返す。凌庵の瞳には、かつてないほど峻烈な「検使医」としての炎が宿っていた。

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