五十
薄曇りの多かった近頃とは打って変わり、雲が僅かにしか浮かばない爽やかな晴天だった。天竜堂には柔らかく清々しい日が差している。
居間の隅では彩乃が規則正しい音を立てながら薬研を操って薬草を磨り潰し、磨り潰された薬草から発せられる仄かな匂いが立ち込めている。
その横では朝一番で天竜堂を訪れた幸兵衛が凌庵の前に座り、左手を差し出す。凌庵は親指部分に人差し指を当て、脈を図っている。大家として気苦労の多い幸兵衛は、度々血の巡りが悪くなっては受診に訪れる。
「うん、この前よりは落ち着いている様だ。」
「左様でございますか、それは良かった・・・。まだまだくたばるわけにはいかないのでねえ。ところで先生・・・、この間辻斬りが出たそうじゃありませんか。」
治療を終えた幸兵衛が、耳にした事件について問いて来た。
「辻斬りなのかは解らぬが、人死にが出たのは確かだ。」
「物騒ですねえ、みんな怖がっておりますよ。次は自分では無いかだなんてねぇ。」
「無理もない。」
「全く、富突きの騒がしさもまだまだ残っているってえのに。くじに外れた連中が『細工でもされているんじゃねえのか』なんて負け犬の遠吠えを上げておりますよ。まったく、ろくでもねえ話ばかり・・・。溜まりませんわ・・・。」
「世の中が乱れれば、身も心も乱れると言う物だよ。大屋さんの気苦労も絶えぬな。」
「そうですねえ、町方もしっかりして欲しい物です・・・。」
患者を完全に治すには、治療を終えた後も生きねばならない世の中の乱れも同時に正す必要がある。凌庵自身もそれを解っているから、検使医として手を貸しているのだ。
脈を診終えた凌庵は、その様子を備に書き留めて行く。
「ともかく幸兵衛さん、比較的落ち着いている。薬もよく効いているようだな。」
「先生のおかげです、まったく世話になりっぱなしですなあ。あたしの身体のことも、勝公のことも・・・。」
そう幸兵衛が溢すと、薬研の手を止めた彩乃がすぐに反応した。
「そう言えば、どうしたのでしょうね、あの飲兵衛さんは。」
「大金を手にしたんです、毎晩どこかで豪遊していることでしょう。」
控えていた英助も、彩乃の呆れ顔に同調して頷く。
「悪銭身につかずと言いますからね。福寿堂さんや先生のご好意が、裏目に出なきゃいいですがねえ。」
「さて、それはどうだろうか・・・・。」
書き物をしながら、凌庵はふっと笑みを浮かべる。
凌庵が笑顔を浮かべた直後、玄関先で呼ぶ声が聞こえた。
「ごめんくだせえ、先生はいらっしゃいますか?」
天竜堂の玄関扉がゆっくりと開くと、其処には勝吉とおたえが切羽詰まった様子で立っていた。予想通りならば酒毒に犯され豪遊しているはずの男の来訪に、最初に怪訝な顔をしたのは大家の幸兵衛、そして彩乃と英助もまた同じような顔をしている。
しかし、彼らの怪訝な表情は直ぐに一転する。その理由は、勝吉の変わり様だった。
洗いたての清潔な着物を纏い、髪を綺麗に結い上げた勝吉と、その少し後ろで慎ましく手を揃えるおたえ。勝吉の顔からは前日の土気色や黒い隈が綺麗に消え去り、まだ幾分痩せてはいるものの、その瞳にはかつての威勢の良さと澄んだ光が戻っていた。
「なんだ、勝吉じゃねえか。どうした?朝っぱらからそんな改まった顔をして、何があったんだ?一生左団扇と息巻いていたオメエが。」
「具合でも悪くしたか?」
そう凌庵らが聞くと、勝吉はつかつかと前に出た。
「突っ立てないで上がれ。」
次の間に通されるや否や、勝吉はドカリと膝をつき、まるで奉行所のお白洲に引っ立てられた下手人のように勢いよく頭を擦りつけた。
「幸兵衛さん、先生え・・・。この度は・・・俺の愚かな大ボラと酒の上の浅はかさのせいで、滅相もねえご迷惑とお手数をおかけしやして!!申し訳ありやせんでしたァ!!」
その激しい平伏ぶりに、凌庵も幸兵衛も驚きを隠せない。
「な、何だ勝吉。ペコペコ頭を下げていねえで顔を上げろ、先生がお困りじゃねえか。」
「いいえ!今までの御無礼!!こんな物じゃ足りやせん!!心配してくださった皆さんにも、本当に申し訳がねえ!!」
「勝吉、落ち着け。」
凌庵に促されゆっくりと顔を上げた勝吉の目線は、今度は彩乃に向いた。
「彩乃先生!あっしは以前、酒の上の勢いで小娘扱いし、数々のご無礼を働きやした!!どうかお許しくだせぇ!」
自分を「竹にもならない筍娘」と小馬鹿にし、徳利を投げつけて来た男にいきなり深々と頭を下げられ、彩乃は驚き慌てて手を振った。
「えっ、あ、私なんかにそんな!気になんてしていませんよ!」
全員に詫びを言い終えた勝吉は、正座したままで頭を上げて深刻そうな顔をした。
「酔っていたころの自分を思い出すと、本当に情けねえです。こんな事なら、きちんと富くじを見るべきだった。酒に酔いながら見たものだから、見間違えちまって・・・。」
「どのくらい飲んでいたのだね?」
「そこら中で振る舞い酒をしていましたので、方々で飲み漁り、富突きの場に着いた時はもうご機嫌で。札の番号は『松の五百九十六』・・・確かに壁に張り出されていたように見えたんですが・・・・。」
考え込む勝吉に続いて、おたえが静かに口を挟む。
「先生、後からあたしが確認しましたら、札の文字は『梅の五百九十六』でしたの。勝吉は『松』と『梅』の字すら霞んで見えなくなる程に酔っていたのです。」
「ですがオイラと来たら、当たりだ当たりだと大騒ぎ。おたえに外れのくじを渡して家を飛び出しちまったものだから、違ってるよと言う間もなかった。オイラは本当に馬鹿だった・・・。」
あからさまに反省した様子の勝吉、その隣で夫の肩に手をおいて同じ様に神妙な顔を浮かべるおたえ。そのおたえを見て、幸兵衛が口を開く。
「お前のその馬鹿に、女房が合わせてくれたんだ。いい女房を持ったじゃねえか。」
幸兵衛の言葉に、勝吉は深く頷いた。
「ええ、おかげで金の恐ろしさというか、自分の愚かさを知ることが出来やした。最初は極楽でしたが、周りの連中が鬼に見えて、聞こえねえ声まで聞こえて、段々と針の筵に座らされている様に・・・。自業自得と言う奴ですね・・・。」
凌庵は書き物をする手を止め、静かに語りかけた。
「全ては酒が見せた幻だよ。酒というものはなあ、確かに百薬の長と言うが、過ぎれば『毒』になる。時に人が内に抱える強い欲望や恐れを何倍にも膨らませ、見えないものを見せ、聞こえない声を聞かせる『毒』にもなるのだよ。ありもしない大金を手にしたと思い込み、その金を守るために夜も寝ずに怯える。簡単に言えば、あんたは極度の酒毒と心労の中で『大枚の金を手にした恐ろしい悪夢』を見ていたんだよ。」
勝吉は申し訳なさそうにぽりぽりと頭を掻き、力なく苦笑いを浮かべた。
「夢・・・ですか・・・・。」
「そうだ、過ぎた酒と金の力が見せた、幻夢だな。」
「そうとも、オメエが妙な夢に狂っているものだから八丁堀の旦那も心配していたぞ?身の丈に合わねえ贅沢に耽っていれば、悪事に手を出してやしねえかと疑われるものさ。」
幸兵衛の言葉に、勝吉の顔から血の気が引き青ざめた。噂を聞きつけ、様子を見に来ながらも深く追及せずに去っていった半兵衛の姿が思い出されたのだ。
「それは心配いらぬ。」
凌庵が温かく制した。
「山村の旦那のことは、俺も知っている。あの人は老練な方だ。勝吉さんが悪事を働いて得た金ではないと見抜いていたからこそ、あえて深く追及せずに去られたのだ。このままお前さんが考えを改めねば更に疑いを掛けられていただろうが、お上が本格的に動く前に、自分自身の手でその悪夢から覚めることが出来たのは実に幸いだった。」
「そ、そうですか・・・・。」
気が張り詰めていた勝吉は、安堵の溜め息をついた。勝吉の拾ってきた富札は、紛れもなく『松の五百九十六』だったのだ。もしおたえまでもが千両富という目先の大金にとり憑かれ、幸兵衛や凌庵に相談する事無く換金しようとしていたら、拾得物の横領として厳しい調べを受けていたところだった。内助の功とはまさにこの事だ。
「外れて良かったじゃねえか、人はコツコツ稼いでこそだよ。」
「そうですねえ。大家さん、先生、今更遅えかもしれねえが、これからは真面目に働きやす! 先ずは石にかじりついてでも働きやす。」
「そうだ、その粋だ勝吉さん。ようやく真人間に近づけたな。」
勝吉とおたえが再び平伏する。そして勝吉は、神妙な顔立ちでぽつりと胸の内を吐き出した。
「・・・凌庵先生。オイラは今まで酒に溺れて、おたえに苦労ばかりかけてきやした。おたえの奴は子供が好きでしてねぇ、オイラも嫌いじゃねえし望んでおりやした。貧乏と酒のせいで夫婦仲が悪 くなってからも・・・その、恥ずかしながら何度か夜の営みはあったんですがねえ・・・さっぱり鳴 かず飛ばずでして。子宝にも恵まれねえのは、やっぱり俺が酒で体を痛めつけ、神仏からバチが当たったからなんでしょうか・・・。」
「何言ってるんだい・・・、お前さんは悪くないよ。いいのよ、子供なんかいなくたって・・・、お前さんさえ達者なら。」
「でもよお・・・、やはりオイラなんかの女房になったのが間違いだったんだ。」
「お前さん・・・、そんなこと言わないでおくれな・・・。あたしも魚屋の女房、見る目はしっか りしているんだ。」
「そうか・・・、だがおたえ、この先も望めねえかもしれねえぞ?酒が種を、すっかり流しちまったのかもしれねえ。」
情けなさそうに涙ぐむ勝吉の隣で、おたえもまた愛おしそうに夫の肩を見つめている。その二人を交互に見つめ、凌庵と彩乃は顔を見合わせて温かな笑顔を浮かべた。
「バチだなんて馬鹿を言うんじゃない、そんな事があってたまるか。まだまだ望みはある。」
「本当ですか?」
「長年の酒毒で体の芯が冷え切り、気血の巡りが滞っていただけだ。今日から酒をキッパリと断 ち、朝早くから魚を担いで汗を流し、正しい養生に戻せば、自ずと体は本来の健やかさを取り戻します。子宝もまた『縁』だ。酒という悪縁を断ち切れば、その後から必ずや良い縁が結ばれるものだ。」
「そうですかねえ先生・・・オイラには胤がねえ、役立たずなんじゃ?」
そこへ彩乃がすっと前に出ると、胸を張り、誇らしげな顔で言った。
「心配いりません!飲兵衛に子供が出来たと言う例もあります。時期の問題ですよ、女の私が保証します。お体のお手入れを整えて養生すれば、まだまだ機会には恵まれます。……こういうのを、メリケンの言葉で『チャンス』と言うんですよね、先生!」
「ほお、メリケンの言葉をよく知っているな。」
凌庵が目を細めて褒めると、彩乃は「エッヘン」と鼻を高くし、勝ち誇ったような可愛らしい顔を見せた。天龍堂の中に温かな笑い声が弾ける。
「そうだ、まだまだチャンスはある。腐らずに夫婦で励みなさい。おたえさん、これから定期的に天竜堂に通うと良い。彩乃殿にお体の調子を診てもらいましょう。同性の方が相談もしやすいでしょうからね。」
「はいっ! ありがとうございます、彩乃先生、凌庵先生っ!」
おたえが何度も頭を下げると、勝吉もまた強い決意を瞳に宿して顔を上げた。
「凌庵先生、大家さん!俺の為に福寿堂さんから借りてくださったという五百両・・・、身を粉に して働き、一生かけてでも必ず返してみせやす!」
「ふふ、福寿堂の善右衛門さんは金に無駄な執着を持たぬお人だ。『魚勝さんが真人間になって働くのなら気長に待つ』と言っておられたよ。」
「いいえ!それじゃあおいらの気がすみません!一日も早く、一文でも多く返してみせます!それが俺の犯した、大ボラの落とし前です!」
その目には、かつて河岸で「空天秤の魚勝」と持て囃されていた頃の気概が満ち溢れていた。
「変わったなお前も・・・・。よし!そこまでの覚覚悟があるなら言うことはねえ。」
幸兵衛が膝をパンと叩く。
「勝吉、溜まった店賃は待ってやる!明日からまた威勢のいい声で美味い魚を売りに来い!そして、金が溜まったら払いに来い!」
「へい! 必ず稼ぎ、払いに来やす!!」
「勝吉さん、奥さんに精が付く物を食べさせてあげる事もお忘れなくね。」
凌庵や彩乃がそう言うと、勝吉たちは何度も頭を下げ、涙を拭いながら天龍堂を後にする二人。朝日の差し込む八丁堀の街並みへ歩み出していくその背中は、どこまでも晴れやかであった。
勝吉たちを見送り、その後に訪れた何人かの患者を診察した凌庵の姿は、今北町奉行所の吟味室にあった。
奉行所の奥、重苦しい空気に包まれた吟味室には、与力の神山平蔵と半兵衛が共に筆を走らせたり、吟味所に目を通していた。
「おぅ凌庵先生、待っていたぞ。」
平蔵の言葉こそ明るいが、その眼光は重く硬い。一瞬、凌庵の背筋に冷たいものが走った。勝吉の富札の件、そして福寿堂からの五百両を巡る一幕が見抜かれたか――という疑念が胸をかすめる。
「忙しい中済まなかったな。」
「いいえ、それで呼び出しの理由は?」
「うむ、ちょいと仔細があってなあ。」
平蔵は冷めかけた茶を啜ると、鋭い目つきのままゆっくりと語り始めた。
「其の方を呼び出したのは他でもない。入船町で見つかった死骸について、判明したことを知らせようと思ってな。」
(何だ、そっちの話だったか。)
凌庵は静かに息を吐き、座布団の上に腰を下ろした。
「先生に検死してもらったあの男の名は為蔵。松島町の治兵衛店に住まう版木職人だ。」
「やはり版木職人だったか。」
「ああ。腕の立つ職人で、大店の版元から読売屋まで手広く仕事を抱えていたんだが、このご時世で仕事はめっきり減っていた。・・・だが、ここからがおかしい。仕事がないはずの為蔵が、本所や深川の岡場所で豪遊していたのだ。『俺は金の生る木を手に入れた』と周囲に吹聴しながらな。」
「金の生る木、ですか。」
貧乏人が唐突な大金に浮足立つ――勝吉の件と酷似しているが、決定的に異なる点があった。勝吉にあった「大金への怯え」がこの男にはなく、むしろこれからも金が湧き続けることを確信しているような不自然な余裕だ。
黙って話を聞いていると、直ぐに平蔵が言葉を繋ぐ。
「その為蔵だが、最近崇元寺へ足繁く出入りしていたという。信心とは無縁で『神に手を合わせたって腹の足しになりゃしねえ』と言っていた男がだ。御用聞きの徳五郎の探りによれば、境内でお百度参りをするでもなく、寺の坊主とコソコソ密談を交わしていたそうだ。」
為蔵の手の甲に残っていた、落ちにくい特殊な墨の跡。そして信心なき男の寺への日参。凌庵の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが繋合し始める。
「為蔵が言っていた『金の生る木』・・・富札を偽造していたのではないだろうか? 二重刷りの札か、当りを後から仕込む特殊な版木を彫っていたとすれば、辻褄が合う。」
「富札の偽造・・・、やはりそう見るか。」
平蔵は深く頷き、一枚の書付けを開いた。
「更にもう一人、為蔵と共に遊び歩いていた甚兵衛という指物師がいる。大工上がりで腕はいいが 借金まみれの男だ。その甚兵衛も急に羽振りが良くなり、酒場で『神の思し召しだ』と高笑いしていたという。」
「指物師と版木職人・・・。」
凌庵は目を細めた。
「その腕がいい甚兵衛が細工を施したからくり箱を作り、為蔵が富札を刷る。特定の番号しか突けぬ二重底の箱、あるいは細工された突き錐・・・。当りが出ない、あるいは身内だけに当たる富くじを開催すれば、千両の当り金はすべて寺の懐に入る。」
「成程、流石は先生だ。崇元寺の現住職の法仙についてはね、かねてより不穏な噂があったのだ。寺の再建と称して何度も富くじを開帳しているが、『どうも当りが出ない』とな。負けた者のやっかみかとも思われたが・・・。」
平蔵は吐き捨てるように言い、ちらりと半兵衛に視線を送った。
「不正の疑いがある以上調べねばならん。実は町方でも、急に羽ぶりの良くなった者を洗っていたのだよ。・・・最近大金を振り回していたという魚勝のこともな。」
不意に落とされた名に、凌庵は顔色一つ変えずに茶碗へ手を伸ばした。
「そうか・・・・。」
「まあ、魚勝の方は特に疑わしい部分が無かったがね。」
煙管をくゆらせていた半兵衛が、含みのある笑みを凌庵に向けた。
「あの札一枚を巡って、裏で誰かが上手く立ち回って大事にならねえ様に収めたような気もしてねえ。お上を騒がさず、馬鹿な男を真人間にしてしようと言う人格者がいるのでは、とね。」
半兵衛の鋭い眼光。凌庵は静かに茶を口に含み、心の動悸を殺した。
(半兵衛殿は見抜いている・・・だが、咎めはしない。勝吉を救うための俺の『嘘』を、黙認してくれたのだ。)
「・・・・そんな人格者がいるのかねえ。」
凌庵がさらりと受け流すと、半兵衛は満足そうに「くっくっ」と喉を鳴らし笑った。
「さて、崇元寺に疑わし部分が見えた訳だが、問題は此処からだ。
平蔵が表情を引き締める。
「寺社は寺社奉行所の管轄、寺社方は大名職で高飛車だ。役人達もまた大名家の家臣で構成されている。町奉行所を『町方風情』と見下し、協力を求める首など縦に振らぬ。しかも、今月番奉行の戸田大和守様は水野派の閣僚。遠山様が仕切る北町の申し出を聞くとは思えん。管轄の壁というのは実に厄介だ。」
組織による取り締まりを円滑に進める為の縄張り、それ故に目の前の悪に手が届かない。江戸の行政が抱える不条理に、吟味所の空気が重く沈む。
その重い空気を打ち砕く様に、半兵衛が煙管をトントンと叩いた。
「先生、八丁堀の仕事ってのはね、突っつきすぎるとボロが出る棒切れみたいなもんだが、突く場所を間違えなきゃ、腐った木桶の底が抜けて汚水が一気に吐き出される事もある。御奉行も同じ考えと見えて、早々に阿部伊勢守様に文を送り、大検使の速水様に調べを頼んだそうだ。不正を嫌う速水様なら動くだろうよ。」
「なるほど・・・、上から叩くわけですな。」
「そうだ。ともかく先生を頼ったのは正しかった。あんたの見立て通りに動いてみるよ。」
「お役に立てたなら幸いだ。調べは町方にお任せしよう。俺はただの医者だからな。」
立ち上がりかけた凌庵に、半兵衛がふと思い出したように声をかけた。
「そうだ先生、あの魚勝は近頃どうだ? まだカミさんに苦労させて酒を喰らっているのかね?」
凌庵は振り返り、心からの温かな笑みを浮かべた。
「いや・・・、自分の愚かさに気がついたようでね。今朝、晴れやかな顔で再び天秤棒を担ぎに出ていきましたよ。」
「そうか。・・・・いい薬を処方されたものだな、凌庵先生。」
半兵衛の言葉に見送られ、凌庵は深く一礼すると、奉行所の重々しい門をあとにした。崇元寺の闇はまだ深い。しかし、朝日の下へと戻った凌庵の足取りは、どこまでも確かなものだった。




