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四十九

 「はあ・・・っ、はあ・・・・っ」

 朝、薄暗い部屋の中で、勝吉は這うようにして畳の端へと寄り、ガタガタと震える手でそれを捲り上げた。床下の湿った闇に向けて、手に握りしめた竹の棒を突き立てる。

 ――カチャリ。

 土の中に深く埋められた木箱の蓋に当たり、硬く重い音が暗闇の室内に響いた。 その音を聞いた瞬間、勝吉の口から「ヒッ」と短い呼吸が漏れ、引きつっていた肩の力がふっと抜けた。勝吉はその場に力なくへたり込み、胸を押さえて深い溜め息をついた。

 「・・・あった、ある・・・・。まだ奪われてねえ・・・・っ」

 毎日、朝から晩までこれの繰り返しだった。思えば、このところまともに目を閉じた記憶がない。昼間に買った竹の棒の先端は、夜通し畳の隙間から床下を叩き続けたせいで、すでに惨めに押し潰され、ささくれ立っていた。木屑が指に刺さっても、痛みすら感じない。ただ、箱がそこにあるという事実だけが、かろうじて勝吉の正気を繋ぎ止めていた。

 凌庵が計らい、福寿堂の善右衛門から借り受けた本物の小判五百枚――。 その大金は、凌庵の思惑通りに勝吉の生活を劇的に、そして破滅的に変え放った。

 女房であるおたえの内職による微々たる稼ぎで、チマチマと貧乏徳利を傾けていた勝吉は、まさに鬼に金棒とばかりに人が変わったように豪遊を続けた。 まず勝吉が向かったのは、深川の路地裏に溜まりに溜まっていた居酒屋や飯屋のツケ払いだった。懐から輝く小判を叩きつけるように差し出し、店の者たちの顔前で威張り散らした。今まで勝吉を疫病神か厄介者のように見ていた店の者たちも、あまりの羽振りの良さに目を丸くし、揉み手をして平伏したものだった。

 「だから言ったじゃねえか、そのうちまとめて払ってやるってなあ! こちとら江戸っ子だ、二言はねえんだよォ!!」

 そう大声を張り上げ、高笑いを響かせる勝吉。 しかし、どれほど大酒をあおり、通りすがりの仲間を引き連れ、岡場所で芸者を侍らせてどんちゃん騒ぎをし大口を叩こうとも、その目は血走り、常に怯えと疑心に満ちちぎれていた。

 最初の数日は、確かに快楽があった。周りに無心されるまま金を与え、今まで味わったこともない贅沢を噛み締めた。「魚勝の旦那」とおだてられ、いい気になった。 だが、そんな浮世離れした豪遊を続けていれば、噂というものは露骨な悪臭を放って路地裏から路地裏へと広がっていく。

 「あの魚勝が、急に万札の小判を振り回している」 「どこかで大きな金を当てたに違いない。」

 金があるという噂を聞きつけ、自暴自棄な豪遊を見せつける勝吉の元には、どこから集まってきたのか怪しげな金貸し、ろくでもない半端者、かたり、ごろつきの類が蟻のように群がり始めた。

 「おい魚勝、良い儲け話があるんだ。一口乗らねえか?」

 「一杯奢っておくれよ、大将! あんたほど太っ腹な男は江戸中にいねえや。」

 「ちょっと困っててね・・・、相談に乗ってくれよ。」

 名前も顔も知らぬ連中が、卑しい笑みを浮かべてすり寄ってくる。その集団の中には、かつて酒を奢ってやったはずの長屋の馴染み客や飲み仲間も交ざっていた。だが、彼らの目つきは以前のそれとは違い、濁った金色に怪しくギラついていた。

 すり寄ってくる者たちの媚びへつらう顔の裏に、勝吉は凄まじい幻覚を見出す。

 (こいつら・・・全員、俺を殺して金を奪う気だ・・・・!)

 恐怖に耐えかねた勝吉は、酒に酔った勢いで暴れ出し、纏わりつく客を突き飛ばし、悲鳴を上げながら長屋へと逃げ帰る日々が続いた。日に日に、誰も信じられなくなる中毒的な疑心暗鬼が、勝吉の脳味噌を泥のように侵していった。

 長屋の狭い六畳一間。畳一枚を隔てたすぐ下には、重さ何拾斤にも及ぶ小判五百枚が重々しく埋まっている。その異様な存在感と、土と金属が混ざり合ったカビ臭い金の匂いが、逃げ場のない狭い部屋を重苦しく圧迫していた。

 勝吉は部屋の明かりを油皿の芯一本にまで小さく絞り、重い心張木をガタガタと震える手で戸に立てかける。 障子のわずかな隙間を抜ける夜風の音、屋根を揺らす猫の足音、遠くの路地を通り過ぎる夜回り番人の拍子木――そのすべてに心臓が跳ね上がり、冷や汗が全身から吹き出した。

 「おい・・・っ、おたえ・・・・。外に誰か立っていねえか・・・?刃物を持って俺の首を狙って覗いてるんじゃねえか・・・っ?」

 「いないよ、誰も。ただの風の音さ・・・・。」

 布団の上で力なく答えるおたえの目は、激しい悲しみと冷ややかな諦めに満ちていた。この虚しく恐ろしいやり取りを、一夜のうちに十度も二十度も繰り返す。

 青ざめた顔で小さく震える勝吉は、這うようにして再び畳の端へと寄り、畳を持ち上げてささくれた竹の棒を暗闇へと突き立てる。

 ――カツン。

 「・・・あった、ある・・・・。まだ奪われてねえ・・・・。」

 勝吉は胸を撫で下ろし、荒い息を吐く。だが、安堵など一時間も持続しない。しばらくするとまた胸の中をムカデが這い回るような疑心が湧き上がり、再び竹の棒を手にして床下を突き立てる。

 ――カツン、カツン・・・。

 夜が明けて東の空が白むまで、幾度となく繰り返される虚しく乾いた打撃音。 金を得て左団扇で優雅に暮らすはずが、そこに待っていたのは贅沢の悦楽などではなく、己の欲が生み出した妄執と、いつ誰に刺されるか分からぬ死の恐怖に苛まれる精神の監獄であった。嘗て「空天秤の魚勝」と謳われ、江戸の威勢を誇っていた魚屋の面影は完全に消え失せ、勝吉は一昼夜ごとに痩せこけ、目の周りに深々と黒い隈を作りながら、確実に正気を失いかけていた。

 「お前さん、ちょいと内職の荷を届けて、次の職をもらいに出かけてくるよ。」

 「お。おぅ・・・っ、気を付けてな・・・・。」

 おたえは、ようやくありついた内職の荷物を大事そうに抱え、力なく戸を開けて出かけていく。 その背中に向かって掠れた声をかけ、勝吉は部屋の隅に転がっていた貧乏徳利を持ち上げた。茶碗に注ぐ手すら微かに震え、こぼれた安酒が畳に染みを作る。一気に喉へ煽り込んだ。

 しかし、どういう訳かまったく酔えない。 近頃、どれだけ強い酒を胃袋に流し込んでも、頭の中の恐ろしい冴えが消えないのだ。酒の味がするどころか、胸の中に冷たく重い鉄の塊が居座り、酒の酔いをすべて弾き返してしまうかのようだった。

 (酒だ・・・酒が足りねえ・・・・。)

 徳利を傾け直そうとしたその時、表の戸をトントンと静かに叩く音が聞こえた。

 勝吉の体が跳ね上がるように強張った。

 「ヒッ・・・!?な、何だ・・・?おたえか・・・?忘れ物でもしたのか・・・・?」

 返事はない。ただ、規則正しいノックの音がもう一度響く。 勝吉は腰の引けた足取りで、障子へ歩み寄った。怯えを必死に押し殺しながら心張木を外し、滑り悪く障子を少しだけ開けた。

 そこに立っていた人物を目にした瞬間、勝吉の息が止まった。

 煤けた羽織に身を包み、柔和な目元に深い刻み皺をたたえた男――「仏の半兵衛」と市中で恐れられ敬われる、北町奉行所の臨時廻り同心・山村半兵衛であった。

 (や、役人・・・っ!?なぜ八丁堀がこんな所にっ!?)

 「こ、こりゃ・・・八丁堀の旦那!」

 「おぅ、勝吉か。近くを通りかかったものでな。また日の高えうちから酒を喰らってるのか?」

 半兵衛は気安く声をかけながら、すっと細い目を長屋の内部へと向けた。急な役人の訪問に、勝吉の心臓は口から飛び出そうになるほど激しく脈打った。全身の血が引いていく。そして隠しきれない極度の動揺から、勝吉の視線は無意識のうちに、隠し金の眠る床下の畳へと吸い寄せられてしまった。

 半兵衛はその視線の揺らぎを見逃さなかった。柔和な表情のまま、ふっと勝吉の顔を覗き込む。

 「どうした勝吉、顔色が著しく優れんな。まるで幽霊でも見たような顔だぞ。」

 「あ、いや・・・ちょいと酒を飲み過ぎましてね・・・・。」

 「結構なご身分だな。カカアを外へ働かせて、亭主は昼間からへどが出るほど酒を喰らうか。・・・ところでオメエ、近頃随分と羽振りが良いようだが、何か良いことでもあったのか?」

 「え・・・っ!?」

 勝吉の背中に冷や汗が流れた。富くじに当たったという事実は、口が裂けても話せるわけがない。どれだけ酒に酔いどれていても、拾った富札で当てた金だという罪の呵責が、勝吉の胸の奥底に重く伸しかかっていた。何より、拾い物のくじで大金を得たなどとお上に知れれば、即刻召し捕られてどんな厳しいお咎めを受けるか知れたものではないからだ。

 「い、いやあ・・・・。実はうちのカカアがね、割のいい内職をめっけて来たようでして……。それで近頃は助かっておりやすんだ、へへへ。」

 勝吉は引きつった笑みを浮かべ、必死に嘘を吐いた。 その瞬間、半兵衛の柔和だった目が、氷のように冴え渡り、一瞬だけ鋭い刃のように光った。老練な八丁堀の手だれ同心に対して、こんな稚拙な嘘をつくなど、はっきり言って命知らずの自殺行為であった。

 半兵衛の視線は、勝吉の汗ばんだ顔と、不自然に波打って僅かに隙間の開いている畳の端とをゆっくりと往復した。その沈黙の数秒間が、勝吉には百年にも千年に感じられた。

 (バレた・・・!畳の下を見られる・・・・っ!)

 だが、半兵衛はそれ以上追及しなかった。深く追いつめて勝吉を破滅させることを避け、フッと鼻から息を吐き出した。

 「割のいい内職なぁ・・・、まあ良い。何でも良いがな勝吉、悪い事だけはしてくれるなよ?それと、いい加減女房に食わせてもらうなんて情けねえ真真は辞めろ。亭主が働かず、喰わせてもらってるなんざ、カカアだってバツが悪いはずだぜ。」

 「へ、へいっ!肝に銘じますっ!」

 「それじゃあな。」

 半兵衛はゆったりと背を向け、長屋の路地を去っていく。

 その羽織の裾が路地の角へと消えた瞬間、勝吉の膝から完全に力が抜け、その場にどたりと座り込んだ。全身の穴という穴から、滝のような嫌な汗が吹き出して畳を濡らす。

 (ちっきししょう!だれか役人に差しやがったなっ!誰だ!誰なんだ!もう俺には、周り全部が敵しかいねえのか・・・!?)

 今まで突き放した仲間や、たかってきたごろつきどもが、やっかみ半分で八丁堀に告げ口をしたに違いない。勝吉の頭の中は、激しい被害妄想と狂気じみた恐怖で完全に毒されていった。

 「怖え・・・、怖えよォ・・・・。」

 半兵衛が去った後、勝吉の精神は完全に崩壊の縁に立たされていた。 昼間だというのに部屋の隅にうずくまり、要るはずもない刺客の影や、自分を縛りに来る捕方の幻影が見えるようになっていた。

 (酔いに任せて富くくじを拾って、大金を手にしたばっかりに……なんでこんな目に遭わなきゃならねえんだ・・・。)

 「はあ・・・、はあ・・・・。金なんて・・・・、金なんて持つもんじゃねえ・・・・。」

 ささくれた竹の棒を畳の隙間から引き抜いた勝吉は、力なくその場に崩れ落ちた。目の周りには黒々と太い隈がこびりつき、頬はげっそりと削げて、嘗ての威勢の良かった魚屋の面影は微塵もない。五百両という金が生み出す底なしの疑心暗鬼と、八丁堀に見咎められた恐怖が、勝吉の精神を芯から叩き割っていた。

 「酒だっ、酒持って来い!」

 誰もいない部屋で掠れた声で叫び、勝吉は床に転がっていた貧乏徳利を掴むと、茶碗にも注がず口へ直接流し込んだ。喉を焼く安酒の激しい刺激だけが、胸の中の冷たい恐れをほんの一瞬だけ麻痺させてくれる。

 だが、飲んでも酔えないはずの酒が、極度の疲弊と心労が重なった身体を急速に蝕んでいく。視界がグラグラと歪み、頭の中に激しい痛みが走った。

 「ちっきしょう・・・。富くじなんざ、当たんなきゃよかったんだ・・・・。こんな思いするなら、貧乏のままがマシだった・・・。消えろ・・・、消えろ・・・・、皆消えてくれ!夢なら覚めてくれ・・・っ!」

 呪詛のような言葉を吐き捨てると、勝吉はそのまま畳の上にドサリと倒れ込み、泥のように深い昏睡へと落ちていった。

 

 「お前さん。お前さん、起きおくれ」

 肩を優しく揺すられる感触に、勝吉は重い瞼をゆっくりと開けた。

 障子越しに見える外の景色は、薄紫色の寂しげな夕闇に包まれている。枕元には、内職仕事を終えて帰ってきたおたえが、静かな顔で座っていた。

 勝吉はぼんやりとした頭で天井を仰ぎ、自分がまだ生きていることを確かめるように荒い息をついた。喉はカラカラに渇き、頭痛がガンガンと響く。 しかし、目を覚ました瞬間に真っ先に頭をよぎったのは、棒で突かれたあの金の音——昔は喉から手が出るほど欲しかったはずの小判が、今となっては身の毛もよだつ程に恐ろしい呪いの音となって脳裏に響いていた。

 勝吉はハッと跳ね起きると、狂ったように畳の端を指差し、青ざめた顔でおたえにすがった。

 「お、おたえ!床下だ! 金だ!誰か入ってこなかったか!?さっき来たんだ、八丁堀の旦那 がっ!旦那が俺を疑いに来たんだよ!誰かが俺を密告しやがったんだ!」

 ガタガタと全身を激しく震わせながら叫ぶ勝吉の姿を、おたえは怒るでもなく、慌てるでもなく、 ただ哀しそうに目を見開いて見つめていた。その瞳には、かつてのような恐怖はなく、深い慈愛と哀憐の色が宿っていた。

 「もう・・・、いいんだよ」

 おたえの静かで落ち着いた声に、勝吉は毒気を抜かれたように言葉を失った。

 「何が、いいんだよ!?」

 「もう、苦しまなくていいんだよ。」

 「どういう意味だお前?」

 「富くじなんて、最初から当たっちゃいなかったんだよ。」

 「・・・・は?」

 勝吉の思考が完全に停止した。時間が止まったかのような静寂が部屋を包む。おたえは静かに首を振り、言葉を重ねた。

 「あの富札はね、一文字違いでハズレだったんだよ。千両なんて、どこにも当たっちゃいなかったのさ。」

 「な、何を寝ぼけたこと言ってやがる!俺は見たんだ!現に崇元寺で一番富の番号が張り出されて、俺は確かにあの番号を見たんだぞ!それに、あの五百両は!?床下に埋めた小判五百枚は一体何なんだよ!?」

 取り乱して叫び、畳を引っ掻く勝吉に、おたえは膝の上で静かに両手を重ね、隠していた真実を包み隠さず語り始めた。

 「あの時あんたは泥酔していたんだ、だから番号をよく確認できなかったんだよ。あたしが後から改めて見たら、完全に外れてたんだよ。それなのにあんたったら『一千両当たった』って言って大騒ぎして、祝い酒だ何だって街へ繰り出しちまったろ?『外れた』なんて言ったら、あんたの面目が潰れてどうなるか分からなかった・・・・。だからね、あたしが大家の幸兵衛さんや天龍堂の凌庵先生に相談してお金を借りたんだよ。」

 「借りたって・・・・、借金か!?」

 「そうだよ!あんたが富くじに当たったって大ぼらを吹き散らすから、男の顔を立てるために、あたしと大家さんと凌庵先生で福寿堂さんから五百両を借りてきて、あたかも富くじの半金が支払われたように見せかけたんだ。あの小判は全部、福寿堂さんにお返ししなきゃいけない、ただの他人様の金なんだよ! 五百両なんて大金、あんたがあっという間に使い込んじゃって・・・・。どうするんだい、あんた! あんたの吐いた大ボラのせいで、うちには今、山のような借金が残されたんだよ!!」

 おたえの怒号のような叫びが、狭い六畳一間にバリバリと響き渡った。雷に打たれたように、勝吉はぐうの音も出ず口を開けたまま硬直した。

 更におたえは立ち上がり、畳の端を力任せに捲り上げた。

 「あんた・・・、この数日間、何をしていたい!?自分の金でもないものを床下に埋めて、夜も寝ずに竹の棒で叩いて怯えて・・・・。酒を煽って、ろくでもない奴らに威張り散らして・・・。それがあんたのやりたかったことかい!?『空天秤の魚勝』と言われたあんたが、そんな惨めな姿になって・・・、恥ずかしくないのかい!?」

 何時もなら「うるせえ!」と逆上する所だが、勝吉はぐうの音も出ず、只黙り込む。

おたえの目から、溜まっていた涙がどっと溢れ出し、頬を伝って畳へとこぼれ落ちた。

 「あたしはね・・・貧しくても良かったんだよ。毎朝威勢よく仕入れに行って、お客さんと軽口を叩きながら美味しい魚を売ってくる、あの真っ直ぐで格好いいお前さんに戻ってほしかっただけなんだよっ!」

 おたえの悲痛な叫びが、夕闇の迫る長屋の部屋に虚しく響き渡った。

 勝吉は、床下に埋まる重々しい箱と、目の前でボロボロと涙を流して泣きじゃくる女房の顔を、交互に見つめた。

 己が恐れていたのは、外からやってくる盗人や役人ではなく、己自身の身の丈に合わない「強欲」そのものだったのだと、冷や水を浴びせられたように理解した。五百両という金の重みは、最初から自分を押し潰し、狂わせる為だけに作られた悪夢だったのだ。

 そして同時に、胸の奥底から込み上げてきたのは——あの恐ろしい「金の魔物」から解放されたという、あまりにも巨大な安堵感であった。

 自分を殺しに来る奴もいない。自分を縛りに来る役人もいない。金など、最初から無かったのだ。

勝吉の唇がガクガクと激しく震え、目からボロボロと大粒の涙が溢れ出してきた。

 「俺は・・・俺は一体、何をやってたんだ・・・・。全部、酒に酔った挙句の身勝手だ・・・・。世の中が悪いと不貞腐れて・・・、自棄酒に溺れて・・・。なんてぇざまだ・・・・っ!」

 勝吉は畳に顔をこすりつけ、声を上げて激しく泣き叫んだ。 威勢の良かった男の妙なプライドも、大金の幻影もすべて脆くも消え去り、そこには己の浅はかさを心から恥じる一人の無力な男だけが残されていた。

 「すまねえ・・・!すまねえ、おたえっ!!」

 勝吉は大粒の涙を流し、その場に深く土下座した。

 「俺が・・・、俺が浅はかな大ボラを吹いたばかりに・・・!またお前に苦労を掛けた・・・・。全部俺が悪いんだ・・・・。懸命に働いたお前に食って掛かって、大金に目がくらんで・・・。本当に馬鹿だったよォ!!」

 「分かったなら、いいんだよ・・・・。」

 おたえは涙ぐみながら近寄り、勝吉の細くなった肩を優しく抱きよせた。

 すると勝吉は弾かれたように立ち上がり、部屋の隅に転がっていた貧乏徳利を掴むと、流しへ向かってその中身を勢いよくぶちまけた。安酒の匂いが部屋中に広がる。

 「おたえ、この徳利捨てちまえ・・・。いや、買ってきた俺が後で捨てる。それからな、もう酒を買って来ないでくれ。」

 「え?」

 「もう酒は辞める!金輪際、一口も飲まねえ!!俺、働くよ!借金だって、一生かけて俺が魚を 売って返してみせる!言い訳じゃねえ、嘘じゃねえ!!昔みたいに、血吐く思いで懸命に働く!!大丈夫だ、商いは体が覚えている。だからおたえ・・・、もう一回だけ俺を信じてくれ!!」

 おたえは涙を拭い、温かい笑顔を勝吉に向けた。

 「信じる、信じるともさ・・・。あたしが惚れたあんたの言葉だもの。疑う訳がないよ。」

 「有難うよ、おたえぇ・・・。先ずは、凌庵先生と大家の幸兵衛さんにお詫びをしに行かなくちゃ ならねえな。商いはそれからだ。」

 「そうだね、お前さん。」

 涙を拭い、しっかりと覚悟を決めたように頷く勝吉の顔からは、あの不気味な黒い隈も引きつりも消え、憑き物が落ちたかのように晴れやかであった。

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