四十八
崇元寺の境内で「松の五百九十六」の一番富・千両が発表されたその日の夜――。
深川の路地裏に立ち並ぶ酒場街では、勝吉がまるで取り憑かれたように酒をあおっていた。昨夜拾った富札が千両という途方ない大金に化けた驚愕と歓喜。しかしそれ以上に勝吉を支配していたのは、胸の奥から湧き上がる猛烈な欲望と、それと表裏一体をなす「誰かに奪われるのではないか」という異常なまでの疑心暗鬼であった。如何に酒で酔おうとも、何かが自分をどこかで狙っているのではないかと無意識にキョロキョロとして、どこか挙動不審だった。
「おい店主!酒と刺身をありったけ持ってこい! 半端な物出すんじゃねえぞ? オイラは玄人の魚屋だ。」
「勝公よォ、随分とご機嫌だがな。大分ツケが溜まってるんだぞ?」
「あぁ? だと? けっ、笑わせるんじゃねえ! 俺を誰だと思ってやがる。近いうちにドカンとまとめて払ってやるよ! 小銭でガタガタぬかすんじゃねえ!」
「何だ?博打で大勝ちでもしたか?」
「馬っ鹿野郎、俺は酒は飲んでも博打は嫌えなんだ!兎に角酒だ!!酒持って来い!!」
勝吉は大声で放言し、付け払いが溜まっていた居酒屋の亭主を怒鳴り散らした。酒の勢いにまかせて「まとめて払ってやる!!」と大ボラを吹いて叫び散らすその姿は、周囲の客から見ればただの酔っ払いの戯言に過ぎなかったが、その眼光は血走り、どこか正気を失っていた。
その姿を見た他の客も、ビタ銭一文にも困るジリ貧で腐っているはずの勝吉が、今日は打って変わって豪遊をしていることに首をかしげる。
「最近の魚勝、変じゃねえか?」
「まとめてツケ払ってやるだってよ。」
「金の当てでもあるのか?」
千両が当たったという事実は、隠さなければいけない。そのはずなのに態度が疑念を呼んでいる。そんな事は露とも知らず、勝吉は酒浸りの生活を送る。
亭主が堕落の一途をたどる中、おたえが狭い部屋で身をすくめて震えていた。
昼間、狂乱して部屋に飛び込んできた勝吉は心張木をかけ、障子の隙間を気にしながら「拾った富札が当たった」、「千両だ」と叫び散らした。そして「周りの奴らは全員泥棒だと思え」と言い残し、祝い酒だと称して再び街中へ繰り出してしまったのである。
「壊れた・・・、あの人は完全に壊れちゃった。」
商売人のプライドを失い、自棄酒に逃げていた夫が、身の丈に合わない大金を得たことで、人とし ての正常な感覚すら失おうとしている。千両という大金は、自分たち貧乏夫婦を救う光などではな い。二人を完全に破滅へ突き落とす恐ろしい魔物に違いない。
第一に、自分で買った物ではなく拾った物で大金を得た。落ち落ちの札で浮かれるなど、嘗ての勝吉なら絶対にしなかった。むしろ、そんな愚かな真似を嫌っていたはずだ。だが今は違う。欲望と大金に、すっかり骨抜きにされていた。
それを思い、置き去りにされた亭主の商売道具、天秤棒を見たおたえの目から涙が溢れた。暫く嗚咽すると、何か覚悟を決めたように外へ飛び出した。
行き先は長屋の取っつき、表通りの大黒屋。大家の幸兵衛の家だ。
「幸兵衛さん!助けてくださいな・・・!」
「なんだい、おたえさん。こんな夜更けに青い顔をして・・・、まあ察しは付くよ。勝吉の奴がまた暴れでもしたんだろう?」
「それならまだましだよ・・・。」
「どういう意味だい?」
幸兵衛はひどく狼狽するおたえを部屋へ上げ、温かい茶を差し出した。おたえはボロボロと涙をこぼしながら、勝吉が昨夜路地裏で富札を拾ったこと、それが崇元寺で一番富・千両を引き当てたこと、その金に目がくらんで勝吉が狂ってしまったことを包み隠さず打ち明けた。
話を聞き終えた幸兵衛は、煙管を咥えたまま渋い顔で唸った。
「千両だァ?拾った富札が、よりによって崇元寺の一番富かい・・・。本当だったらえらい事だが、勝吉の奴ァ本物の馬鹿だな。そんな大金、一介の魚屋がまともに抱えられるわけがねえ。十両盗めば首が飛ぶのが世の常、拾った富くじを金に換えるとは、盗人も同じだ。下手に手にすれば、間違いなく命を落とすか、狂い死にするのが落ちだ」
幸兵衛がもっともな事を言い、おたえがそれを涙目でうんうんと頷く。
「それでおたえさん、どうしたいんだい?」
「あのままじゃ、亭主が壊れちまいます。でも・・・、あんなに喜ぶあの人をがっかりさせたくも無い・・・。どうしたらいいんだろう・・・・。」
頭を抱えて悩む幸兵衛であったが、ふと一人の人物の顔が頭に浮かんだ。
「勝公は果報者だな・・・、おたえさん、こうなったらあの人しかいねえ。八丁堀の天龍堂だ。凌庵先生に相談しよう。あの先生なら、人間の心の病も、この難題も、きっと良い知恵を授けてくださるはずだ。善は急げだ、おいで。」
「はい。」
幸兵衛に連れられたおたえは、竹島町から岡崎町へ向かう。天龍堂も店仕舞いとし、丁度凌庵と英 助は夕餉を取ろうとしていた。
「先生、夜分申し訳ありません。大黒屋の幸兵衛です!」
「おぅ幸兵衛さんか、どうした?」
凌庵の声と共に中へ通された幸兵衛とおたえ。二人から事情を聴いた凌庵と同席した英助は、揃って事の大きさに言葉を失っていた。
「本当に、勝吉さんが千両を・・・?」
英助が目を丸くする。おたえは手ぬぐいで目元を拭いながら、絞り出すような声で言った。
「は・・・。口では当たったことを隠すと言っておきながら、飲みたい、遊び暮らしたいという浅ましい欲望が前に出てしまって・・・。あんなに優しかったお前さんが、金の亡者のようになっていくのが恐ろしいのです。」
「なるほどな・・・、それでおたえさん。お前さんはどうしたいのだ? 大金を得て、左団扇で暮 らしたいか?」
「いいえ!あんな金、いりません。あたしは昔みたいに、貧しくても二人で支え合って暮らしたいんです・・・!」
凌庵は腕を組み、静かに目をつむった。
「大金というのは、貧しい人間にとって劇薬どころか猛毒だ。己の器量以上の金を持てば、人間は己の欲望と恐怖に食い殺されてしまう。酒が酒毒、色事が色毒と言うなら、金はまさに金毒・・・、勝吉は金毒にかかった状態だな。」
それを聞いた英助が、思わずつぶやいた。
「金に惑わされて豪遊、まるで勝吉さんは悪い夢の中にいるようですね。」
その言葉を聞いた瞬間、凌庵の目が怪しく光った。
「・・・夢か。英助、良いことを言ったな!」
「へ? 私、何か変なこと言いましたか?」
「いや、まさにそれだ。勝吉の金毒を抜くには、一度その夢を思い切り見させた上で、夢から醒まさせるしかない。」
凌庵はおたえに向き直り、静かながら力強い声で切り出した。
「おたえさん。幕府の厳しい管理下にある富くじにおいて、千両という巨額の現金が一度に支払わ れることは絶対にない。最寄りの両替商を通して手形や分割で支払われるのが通例だ。そこを利用する。」
「利用・・・、とおっしゃいますと?」
「まず、両替商から半金を借り受けてそれを渡す。勝吉には『両替商にお願いして、まずは先に五百両だけ富札から現金に換えてきた』と嘘をつくのだ。そしてその金で、暫くの間、勝吉に思い切り豪遊させてやる。」
「えっ!? 豪遊させるのですか!?」
おたえと幸兵衛が驚いて声を上げた。凌庵は頷く。
「そうだ。欲の向くままに金を遣わせ、大金を持つ恐怖と虚しさを骨の髄まで味わわせる。金ってのは砂糖の様な物だ、自ずとご相伴に預かろうと虫が湧く物だ。そして然るべき日・・・、勝吉が金の重みに耐えかねて潰れそうになったその時にお前さんが言うのだ。『あんた、何を寝ぼけているんだい。富くじなんてハズレだったじゃないか。富くじなんか拾って、あんまりあんたが大ぼらを吹くから、男の顔を立てるためにあたしが大家さんや先生から金を借りて、大芝居を打ってやったんだよ』とな。」
まるで芝居の出し物の様な計画に、おたえは息をのんだ。
「夢・・・だったと、納得させるのですか?」
「そうだ。千両の富札はお前さんが拾った『夢』であり、目の前にある豪遊の金は『身に余る借金』だったと思い知らせる。性根が完全に腐りきっていなければ、己の浅はかさと恐ろしさに気づき、間違いなく目が醒めるはずだ。勝吉は嘗て、名を打った商売人だったのだ。悪夢で懲りれば、眠っていた商売根性が目を覚ますはずだ。」
おたえは不安そうに胸の手ぬぐいを握りしめたが、凌庵の確信に満ちた瞳を見て、深く頷いた。
「解りました。凌庵先生、先生のお知恵に賭けてみます」 「では、富札は俺が預かろう。」
おたえは懐から、あのくしゃくしゃになった「松の五百九十六」の富札を取り出し、恭しく凌庵へ預けた。 そして凌庵は、明日の朝迎えに行くから金を取りに行こうと約束し、夜は別れた。
早朝、まだ薄暗い江戸の町を凌庵とおたえは急ぎ足で歩いていた。向かったのは、江戸屈指の政商として知られる「福寿堂」の広大な屋敷である。福寿堂の当主・富永善右衛門は、薬種問屋から両替商、札差、さらには廻船業まで手広く事業を展開し、苗字帯刀を許された大商人である。彩乃の実家である幕府奥医師・藤村家とも深い懇意があり、藤村家に身を寄せていた凌庵にとっても、気心の知れた良き友人であった。
「しかしまた、変わった治療ですなあ先生。」
奥応接の間で事情を聞いた善右衛門は、豪快に膝をたたいて笑った。
「こんな事、滅多な相手には頼めねえ。そこで、お前さんの顔が浮かんだ。」
「頼って頂き、光栄でございます!なあに、五百両の用立てなど、我が福寿堂にとってみれば朝飯 前でございます。それで一人の男の魂が救われ、夫婦の破滅が防げるというのであれば、喜んで一口乗りましょう。これも江戸の粋というものです。」
普段から「必要ならば幾らでも持って行ってください、この金蔵は先生の金蔵の様な物だ」と嘯く 善右衛門は二つ返事で引き受けてくれた。
善右衛門はすぐさま手代に命じ、五百両包みを用意させた。特定を避けるため、箱は大八車に載せられ、その上から古びた筵が厳重に被せられた。福寿堂の口の堅い男衆二人が大八車を引き、凌庵と おたえと共に八丁堀の大黒長屋へと向かった。
長屋へ着くと、酔いつぶれていた勝吉が騒がしい音に目を覚ました。
「何だぁ?騒がしいと思ったら・・・、こいつぁ一体!?」
「富札を交換に行ったら、額が額だからと両替商を紹介されて、まずは一番富の手形から『五百 両』だけ現金を工面して届けて下さったんだよ。これで方々の付けやらなんやらを返してさ、後は手元に置いたらいいよ。」
「ああ・・・、それもそうか・・・。兎に角、御苦労さん。」
おたえの言葉に、勝吉の目が限界まで見開かれた。筵がめくられ、重々しい箱の姿が現れると、勝 吉は「ひいっ!」と歓喜と恐怖の混ざった悲鳴を上げた。
「五百両だァ・・・、本物の小判が五百枚だァ・・・!」
泡食った様子の勝吉に、凌庵は冷静に指示を出した。
「勝吉、これほどの金目を部屋の中に置いておけば、すぐに泥棒や家知らずに嗅ぎつけられる。長屋の床下に深く溝を掘り、この箱を埋めて隠すのだ。」
「名案だ!そうだ、床下だ!おいそこの二人、手伝ってくれ!」
勝吉は福寿堂の男衆に頼み込み、六畳一間の畳を剥がして大急ぎで土を掘り返させた。深く掘られた穴に箱がすっぽりと収まり、その上から土と畳が被せられる。
「ふう・・・、これで表からは解らねえ。・・・しかし、心配だなあ。」
「勝吉、心配ならば竹の棒でも持っておくがいい。夜、不安になったら床下の隙間から竹の棒を突き立ててみろ。カツンと硬い音がすれば、金は確かにあるということだ。」
凌庵の言葉に、勝吉は「なるほど! そいつはいい!」と手を打った。そして興奮のあまり、切り 餅を契って取り出した小判を男衆と凌庵の手に握らせた。
「おい、手伝ってくれた礼と口止め料だ!取っておけ!俺はもう大金持ちなんだからな!遠慮はい らねえぞぉ!!」
早速御大尽気分で金を振舞う勝吉。凌庵は勝吉が、段々と哀れに思えて来た。その思いは、おたえも同じであった。その浮かない顔に、勝吉はきょとんとした。
「なんだおたえ、こんな大金を前に言葉も出ねえってか? もっと喜べ! これで俺達は、一生左団扇だぜ!?オメエにも簪でも着物でも、好きな物買ってやれるぜ。お前に今まで苦労ばかりかけて、喧嘩ばっかりだったからなァ。それもこれも金が無かったからだ、これからは仲良く暮らせるぜ?」
にっこりと無邪気な笑顔を向け、言葉を掛ける勝吉。喧嘩ばかりしても、どこかでおたえを思っている。その心は、紛れもなく本心だった。
「う・・・、うん。」
ポロリと出た本心を耳にして、おたえは思わず涙を浮かべた。その姿を見た凌庵は、長屋を後にした。「ご苦労!」と言う陽気な勝吉の声を背中に浴び、長屋を出た凌庵。大八車を引き揚げていく男衆を見送った凌庵は、段々と遠ざかる長屋を見つめながら静かに呟いた。
「さてと・・・、しばらく金色の夢でも見るが良い。」
その時、後ろから馬の蹄の音と共に、聞き覚えのある凛とした声が掛かった。
「先生、朝早くから往診か?」
振り返ると、そこには近藤新太郎が立っていた。
「新さんか。いや、これでちょうど帰る所だが・・・どうかしたか?」
新太郎の顔には、尋常ではない緊張感が漂っていた。
「済まねえがこのまま、小石川養生所まで来てくれねえか。朝早くで苦労をかけるから、途中で駕 籠を拾おう。」
凌庵は眉をひそめた。
「人死にか?」
「ああ・・・、検死を頼みたい。ただの害死じゃねえんだ。」
「解った、道具を取りに行きたいから先ずは天龍堂へ向かおう。」
「勿論だ。」
挨拶も早々に、手配された駕籠に飛び乗った二人は、一旦天龍堂で検死用の道具箱を取った後、小石川養生所へと向かった。
養生所の奥深く――死体安置所である「不帰ノ蔵」。その中枢に位置する検死室「顕幽閣」に入ると、石の台の上に一枚の白布がかけられた遺体が横たわっていた。静謐な室内には、冷気と線香の匂い、そして微かな血生臭さが立ち込めている。白布が払われると、三十路がらみの男の死骸が現れた。何でもその死骸は、入船町の橋の欄干に引っ掛かる様にして転がっていたという。
凌庵はすぐさま死骸の観察に入った。男の手の甲、特に親指と人差し指の付け根、爪の間に黒々とした墨がこびりついているのを見逃さなかった。
「爪の間が汚れているな、此奴は墨か?」
「ああ、道具が無いから絵師ではないだろうし・・・、染物屋では色が違う・・・。墨と言えば・・・。」
顎をかき少しばかり考えると、一つの生業が浮かんだ。
「版木屋だ、版木屋ならば墨を使うはず。」
「流石だな先生、間違いはねえはずだ。商いが解れば、何処の誰かは解るはずだ。」
新太郎が苦い顔で頷く。
「恐らくは、入船町界隈の者だろう。」
しかし、凌庵の視線は男の胸から腹にかけて斜めに走る凄惨な傷口に注がれていた。男は斬り殺されていた。ヤクザやごろつきの振るう長脇差の類ではない。きちんとした太刀による一刀両断――。着物ごと皮肉を断ち切り、骨を砕いて胸から肩口へ抜ける壮絶な斬り傷。
「筋繊維の断裂痕、骨の切断面の滑らかさ・・・、明らかに腕に覚えのある侍の仕業に違いない。」
「しかし一介の版木屋が、なぜ侍に切られる?」
「そいつは解らねえが、少なくともこの版木屋が侍と関わる何かをしていたと言う事だ。」
新太郎の疑問に答えぬまま、凌庵は指先で傷口の角度と刃の入り方を慎重に辿った。
「斜め下から、一気に斜め上へと突き上げる斬り上げ・・・。これは『無外流』の斬り上げだ。」
「無外流か・・・!あの実践的な刀法で知られる流派か?確かに無外流なら、殺傷力の強い技が幾 つも存在する。」
「そうだ。無外流は踏み込みが深く、初手の一撃で相手の息の根を止める剣法。だが、それもピンからキリ・・・、齧った程度ならこれ程の芸当は出来ぬ。この太刀筋、刃筋の狂いのなさ・・・、相当な手だれ・・・、皆伝者の仕業だな。」
新太郎は重い溜息をついた。
「無外流を修めた剣士など、江戸市中には五万と居る。刺客の特定には時間がかかるだろうな・・・。」
「そこはお前さんの力量だ・・・、俺が手を貸せるのは検死の相談のみだ。まあ、何かあったら直ぐに伝えな。出来る限りの事はさせてもらう。」
「うん、有難え。」
凌庵は静かに検死記録の紙に墨で細かな情報をしたためながら、思索を巡らせた。
「では詳しい事は認めておいた、もう直に患者が来るゆえにこれでな」 「ああ、呼び止めて済まなかった。」
新太郎を養生所へ残し、帰りの駕籠に揺られる凌庵。死骸の商いは版木屋、一介の町人であるはずの版木屋を殺めた無外流の達人。今回の殺しは、単なる痴情のもつれではない。何か大きなものが関わっている。凌庵はそう思ってならない。
金と酒で狂った勝吉の身辺、それが解決せぬうちにこの殺人事件。暫くは忙しくなると、凌庵はふうと溜め息をついた。




