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四十七

 「先生っ、早く早く!!」

 彩乃に引っ張られるようにして、高柳凌庵と薬線の英助は連れてこられた。

 舞台は富岡八幡宮の麓、深川黒江町に構える寺院・崇元寺である。 折しも時代は、老中首座・水野越前守忠邦による「天保の改革」の真っ只中であった。風紀の紊乱や贅沢、庶民の娯楽は極端なまでに取り締まられ、かつては賑やかだった深川の寺町も、普段はどこか息を潜めたような重苦しい静けさに包まれている。

 しかし今日ばかりは違っていた。社寺の修復資金を集める名目で行われる「富突き」の解禁日とあって、境内の参道には所狭しと出店が立ち並び、寺から振る舞われる御神酒の樽からは甘酸っぱい酒香が漂っている。

久々の解放感に酔いしれる江戸っ子たちが押し寄せ、境内はまさに立錐の地もないほどの混雑ぶりであった。

 この富突き興行に関しても、一時は全面禁止の触書が出される寸前まで追い込まれていた経緯がある。しかし、かつて廃止撤去の危機に瀕した芝居小屋が、町奉行・遠山金四郎の尽力によって免れたのと同じように、寺社奉行を務める阿部伊勢守正弘あべいせのかみまさひろや、開明派で知られる老中の堀田備中守正睦ほったびっちゅうのかみまさよしらの影の働きかけがあった。

 金四郎や正睦らは、こう進言した。

 「社寺の修復費用まで取り締まるは、人道に反する行い。」

 「庶民の鬱散の機会を奪っては、再び反乱が起きる。」

 これらの実情を考慮し、幕閣内部で粘り強く立ち回ったのだ。結果、芝居小屋の一件同様に御上は庶民の暮らしに目を向け「興行回数の大幅な削減と厳重な管理」を条件に継続を命じ、首の皮一枚で禁止令を免れる事が出来たのである。

 「そう引っ張るな、彩乃先生。袖がちぎれてしまう。」

 「もう直に発表されますよ!急がないと良い場所が取れません!」

 「芝居でも見ようってのか・・・。」

 回数が減らされた分だけ、一度の興行に賭ける江戸っ子たちの熱気と執念は物凄まじい。境内を埋め尽くした群衆の熱気と熱気の間を押しぬう様にして、彩乃が弾んだ声を響かせた。

 幕府奥医師の家柄――つまりは金には困らない名家の令嬢でありながら、何故か富くじに滅法目がないという変わった癖を持つ彩乃は、両手でしっかりと「富札」を握りしめている。まあ、富くじ好きの一端は凌庵の商売っ気の無さが原因ではある。

 「よくもまあ、毎度富くじになると目の色が変わるなあ。普段のおしとやかな彩乃先生はどこへ行ったのやら。」

 「あのですね先生、富くじはそんじょそこらの品のない博打とは違うのです!神社の復興を助け、徳を積む・・・お布施ですよ、お布施!」

 「はいはい、解った解った。」

 彩乃の講釈を右から左へ受け流している凌庵の横で、英助が「まあまあ先生、彩乃さんは天竜堂の台所事情を心配してくださっているんですよ。十六文の貧窮診察ばかりじゃ、薬種代だって追いつきませんからねぇ。」と助け舟を出すものだから、彩乃はへっへっへと笑いながら「解ってるじゃないですか、英助さん。」と肩を叩く。

 どいつもこいつもと溜め息をつき、ごった返す民衆の中をさらに進むと、見覚えのある顔がこちらに気づき手を振ってきた。

 「よぅ、御二人さん。来てたのかい?」

 「お兄ちゃんに彩乃先生!みんなも来てたんだね。」

 声をかけてきたのは、凌庵の行きつけである料理茶屋「鶴亀屋」の女将であり、凌庵の乳兄妹でもあるおえんであった。その隣には、おえんの実弟で南町奉行所の御用聞きを務める江戸屋仁吉、そして鶴亀屋の船頭と花板を兼 ねる番頭格である吉兵衛が付き添っている。

 「珍しい所で会うが・・・、おえんちゃんまで買ったのかい?」

 「まあね。これもお布施よ、お布施!」

 悪びれずに富札をひらひらと振ってみせるおえんの言い草は、彩乃のそれと全く同じであった。凌庵は「やれやれ、言うことがそっくりだな」と肩をすくめた。

 その時、境内の奥、本堂の前に据え付けられた巨大な重厚な木箱――「富箱」の前に、住職である法仙(ほうせん)と共に威厳を正した役僧たちがズラリと立ち並んだ。がやがやと騒がしかった境内の民衆が一瞬にして静まり返る。一千数百枚の番号入り木札が納められた富箱の前で、役僧が三宝に乗せられた一本の長い鋼の錐を恭しく掲げ 持った。

 いよいよ、富突きが始まったのだ。

 箱の側面に開けられた小穴から錐が勢いよく突きたてられ、カツンッ、と木札を刺す甲高い硬い音が境内に渡る。引き抜かれた木札の番号を、役僧が大音声で読み上げていく。

 「鶴の~!二百五十六ぅ~!」

 途端に、人波のあちこちから「ああ~っ!」というハズレた者の深い溜息と、ほんの一握りの当たった者の歓喜の悲鳴が交錯した。番号は下位の賞である「千番富」や「百番富」から順番に読み上げられていく。

 凌庵たちの周りでは、誰も声を上げない。一人の当たりも出ていないのだ。

 「お兄ちゃん、いよいよだよ!当たらせたまえ~、当たらせたまえ~。」

 「先生、いよいよ天竜堂の命運がかかっていますよ!一番一番一番一番、千両千両千両うぅ・・・!」

 (なんて罰当たりな経だ・・・。)

 おえんと彩乃が大袈裟なまでに声を張り上げ、念仏を唱えるように一番富を願いながら、隣同士で富札を胸に抱 きしめて固まっている。 一番富の発表を前に、境内の空気は緊張で肌がピリピリと痺れるほどに張り詰めていた。

そんな緊迫した空気が凌庵たちの周りに流れるのとほぼ同じ頃。崇元寺の境内でも、本堂から少し離れた日陰の出店付近を、ふらふらとした足取りで歩く一人の男がいた。

魚屋の勝吉だ。

 昨夜の自棄酒の酔いがまだ半分残っているような青ざめた顔をし、身なりも乱れている。だが、富くじの発表日ともなれば境内はちょっとした祭り騒ぎだ。あちこちの出店が立ち並び、寺から振る舞われる御神酒をタダで配っている場所もある。勝吉はその振る舞い酒を何度も升におかわりし、早くもご機嫌な千鳥足になっていた。

勝吉がここにいる理由は、単に酒につられたからだけではない。昨夜、泥酔して長屋へ帰る途中の路地裏で拾い上げ、胸の懐へ雑に押し込んでおいたあの紙切れ――崇元寺の富札の「答え」を聞きに来たのだ。

 「けっ……どうせ当たるわけがねえんだ。だがまあ、タダ酒が飲めたんだから儲けものだぁ。酒の礼に、生臭坊主の講釈くらい聞いてやらぁ・・・。どうですかい?神様よぉ・・・。」

 勝吉が酔いどれた千鳥足で富箱の近くへ歩み寄ったちょうどその時、二番富の発表が終わり、境内の静寂が頂点に達していた。役僧が高らかに錐を構え、富箱の最奥へと突きたてる。ガツンと言う錐の音が、静まり返った寺の境内にこだまする。

 「一番富ぃ~~!松のぉ~!五百九十六ぅ~~!!」

 朗々たる声が境内に響き渡った瞬間、一拍の空白を置いて、耳を聾するような地鳴りのごとき声が巻き起こった。

 「当たらなかった~~っ!」

 「ちくしょう、神も仏もねえや!」

 「またダメだ! これで三回連続全滅だ!」

 ハズレた者たちの血吐くような怨嗟と嘆きが、方々から上がる。

 「うがああああ、外れだあああああ!!」

 その民衆の中で、彩乃は富札をくしゃくしゃに丸め、人一倍顔を真っ赤にして悔しがっていた。普段の冷静沈着、品行方正を絵に描いた様な彩乃らしからぬリアクションだ。

 「んもう~~っ!!お金は天下の回り物って言いますけど、貧乏神でも憑いているのか、天竜堂の上はどうしてか素通りされていきますねぇ・・・!」

 「やっぱり当たらねえか。」

 強制的に買わされたかすりもしない富札を破きながら、納得した様な顔の浮かべる凌庵をジト目で睨みつける彩乃。凌庵はその突き刺さる様な目線を感じ、溜め息をつく。

 「まるで俺が貧乏神であるかの様に見るな。」

 「それとも天竜堂の看板の上に、シジュウカラが巣を作ってるのかしら!」

 「・・・シジュウカラ、四十空・・・。プッ、駄洒落か・・・。」

 「英助さん、笑いました今!?」

 「いえっ、滅相もございません!」

 不毛な八つ当たりをする彩乃の肩をポンと叩き、おえんもすっかり夢も希望もなさそうな、乾いた顔で吐息をつ いた。

 「彩乃先生、うちも全滅だよ・・・。どうも当たらないねぇ・・・。」

 「そちらもですか・・・。

 「真面目に働くしかありませんねぇ、女将さん。」

 「姉ちゃんが悪いんだよ、だから言ったじゃねえか。こんなの当たるわけねえって。全く、高っけえお布施だ。」

 不貞腐れたように吐き捨てる仁吉の頭を、おえんがすかさずペシッと力任せに叩く。

 「うっさい!!あんたの信心が足りないのよ!!」

 「痛っ!俺に当たんなよ!!」

 「まあまあ二人とも、悪銭身につかずだ。過ぎたる金を手にするとろくな事にならねえものだ。地道に汗を流して真面目に働くに越したことはない。」

 凌庵がなだめると、彩乃がすかさず言った。

 「そうですね。先生、明日からはあくせく働いてくださいよ? 患者様からは御足(診察料)もきちんとお取りになって!」

 「はいはい。」

 「『はい』は一回ですっ!」

 そんな軽妙なやり取りを天竜堂と鶴亀屋の面々が交わしていた、目と鼻の先の場所での事である。

勝吉は、その場に棒立ちになったまま、がくがくと全身を震わせていた。

 (松の・・・五百九十六・・・・?)

 震える手で懐から取り出した、くしゃくしゃの富札。そこに太い墨文字で書かれているのは、紛れもなく『松之五百九十六』の七文字であった。 勝吉の目が、本堂脇に掲出された「富番付」の高札へと吸い寄せられる。

 『一番富・松之五百九十六 千両』

 (せ・・・千両だと!?)

 ――千両、公儀が定めた富突きに置ける当選金の最上額、蕎麦一杯十六文の御時世、一両は約十万、それが千両となれば一億円以上に相当する大金だ。勝吉のような一介の魚屋が、一生汗水を流して働いたところで逆立ちしても拝めない金額である。一両小判が千枚・・・、まさに抱えきれぬ程の金の山が頭の中を駆け巡る。

 勝吉の頭の中から、酒の酔いが一瞬にして吹き飛んだ。一瞬「当たったぞ!」と叫びそうになったが、その声は咽喉の奥で引っ込んだ。

 歓喜よりも先に、胸を刺したのは生々しい「恐怖」と「動悸」であった。千両の紙切れが、いま自分の懐にある。もしここで「当たった」と声を上げれば、この熱狂し殺気立った群衆になだれ込まれ、身ぐるみを剥がされた挙句、路地裏で殺されて奪われるのではないか――そんな本能的な戦慄が全身の毛穴から嫌な汗となって吹き出した。

 勝吉は声を押し殺し、歯をガチガチと鳴らしながら、速やかに富札を着物の奥深くへと隠した。そして、周囲を伺うように血走った目を走らせると逃げるような足取りで境内を走り去っていった。

その異様な後ろ姿を、偶然にも彩乃と吉兵衛が目にとめていた。

 「あれ? 大黒長屋の魚勝じゃねえか?」

 声をかける間もなく駆け出していく勝吉の背中に、吉兵衛がはてなと首をひねる。

 「どうしたんでしょう、あの魚勝さん。顔色を真っ青にしてそそくさと、何か怯えているようでしたけれど。」

 「顔が真っ青だったねぇ・・・。」

 医者としての職業柄、勝吉の尋常ならざる蒼白な顔色が気になった彩乃であったが、勝吉の姿はあっという間に深川の雑踏の中へと消えていってしまったのだった。


 ドンドンドンドンッ――!

 「おたえっ!!開けろ!早く開けねえか!!」

 「な、何だい、そんなに大きな声を出して・・・近所迷惑じゃないか・・・。」

 勝吉は慣れた足取りで、入り組んだ長屋の道を一目散に走り抜けて自分の家に着くや乱暴に障子を叩く。

 部屋の中で昨夜散らばった徳利の破片を片付け、青白い顔で久々の内職仕事をしていたおたえが、驚いて戸を開 けた。

 (祝い酒に悪酔いしたか・・・、つけ払いの取り立てから逃げたのかねえ)

 呆れたおたえが、ため息をつきながら戸に手を掛けた。

がらりと戸が開くや否や、一目散に部屋の中へ飛び込んできた勝吉はおたえを押しのける様に中へ入り、自ら戸を バンッと閉めた。

 「閉めろっ!!心張もちゃんと掛けろ!!隙間から覗かせるな!」

 ぜいぜいと肩で息を荒らげ、全身から脂汗を噴き出させている勝吉の姿は、ただ事ではない。おたえは針を置き、怯えたように夫に話しかけた。すっかり酒の酔いは抜け、シラフ同然になって顔を極度に強張らせている勝吉の様子におたえが首を傾げる。

 「どうしたんだい?崇元寺に行ってくるって言ってたのに・・・振る舞い酒にありつけたんじゃなかったの?」

 「そんなくだらねえ事言ってる場合じゃねえ!これを見ろ!!」

 勝吉が着物の懐から引っ張り出し、畳の上に叩きつけるように差し出したのは、くしゃくしゃに丸まったあの一枚の紙片であった。

 「これ・・・昨日あんたが酔っ払って路地裏で拾ってきたっていう崇元寺の富札じゃないか。」

 「今、寺で見てきたんだ・・・!当たりだ!!」

 「へえ・・・、そりゃ運が良かったねぇ。拾った富札ってのはちょいと引っ掛かるけどさ、いくら当たったんだい?一両かい?・・・まさか、十両かい?」

 からかい半分に言うおたえ。切迫した米代の足しにでもなれば、とおたえが淡い期待を寄せて尋ねると、勝吉は血走った目で一喝した。

 「馬っ鹿野郎!!桁がちげえ・・・!!一番富だ・・・、千両だぁ!!」

 千両――。

 その言葉を聞いた瞬間、おたえは耳を疑った。やはりこの亭主は酔っている、酒に酔って頭がおかしくなったのだと思った。

 しかし、もう一度じっと見た勝吉の顔からはすっかり酒気が抜け落ちており、その目は歓喜と同時に恐ろしいほどの狂気を孕んで爛々と輝いている。絵空事でも冗談でもない事を、おたえは直感的に悟ってしまった。

 「本当なのかい・・・、おまえさん・・・。」

 「ああ本当だ、俺はこの耳で聞いたし番付も見て来たんだ!間違いねえ!!」

 「信じられないねえ・・・、これが千両・・・。」

 「おたえ!運が向いてきたんだよ!!俺たちに天が味方したんだ!!!」

 勝吉はハッハッハと狂ったように笑い出し、おたえの肩を強く揺さぶった。しかしおたえは、至極冷静だった。

 「でもお前さん、これは拾った物なんだから、御上に届けるべきなんじゃないのかい?」

 「馬鹿かオメエは!こんな紙きれなんざ、いちいち覚えちゃいねえよ。名前が書いてあるわけでもなし、何の気兼ねもねえよ!!」

 「でも・・・。」

 「考えてもみろよおたえ!正直者が馬鹿を見る世の中だ!此奴は神様の思し召しだぜ!有難うよ神様ぁ!!もうこれで一生左団扇で暮らせる!!魚屋なんざ辞めてやらあ!あんな腐りかけた天秤棒も包丁も、そこらのドブ川にでも捨てちまえ!!そうだお前、周りの奴が怪しまねえように、こっそりとこの富札を金に換えてくるんだ!金を持ち帰ったら畳の下でも、天井裏でも軒下でも、仏壇の奥にでも隠せ!これからは大家だろうが長屋の奴だろうが、全員泥棒だと思え!!」

 「あ・・・、うん・・・・。」

 今までに見た事が無い亭主の代わり様に、おたえは思わずたじろいだ。

 大金を手に入れたという事実は、職人の意地を折られて絶望していた勝吉の自尊心を歪んだ形で肥大化させ、同時に猛烈な人間不信へと叩き落としていた。

 「お前も内職なんざ今すぐ辞めちまえ!!ハッハッハ!!!おいおたえ、祝い酒だぁ!店に行って一番高い酒を買ってこい!!ああそうだ!博打でも大勝ちした時は周りに少しは振舞わねえと運が尽きるって言うからな、少し位恵んでやろう!酒盛りだ!祝い酒だあ!!」

 大金を得た混乱と興奮で、思考も言動も支離滅裂になっていく勝吉。酒の酔いとはまた違う、狂気じみた錯乱ぶりだ。

 「御上めえ、ざまあみろ!見たかぁ、小言ばっかりのしみったれ大家ァ!!俺を見下した役人どもも、魚を買わなかった長屋の奴らも、みんな俺の足元にひれ伏せてやる!これで俺は、紀文もびっくりの大金持ちだぁ! 遊んで暮らすぞぉ!!」

 錯乱し大声で叫び散らす夫の姿を前に、おたえの顔は全く浮き上がらなかった。それどころか、血の気が引き、冷ややかな絶望の色がその瞳を覆っていく。

 (お前さん・・・金で壊れてしまったみたい。)

 職人としての誇りを失い、酒に逃げていた夫。それが今度は「身の丈に合わない大金」を手に入れたことで、人としての誇りも優しさも、正常な感覚すらも完全に失おうとしている。千両と言う大金は、自分たち貧乏夫婦を救う光などではなく、二人を完全に引き裂き破滅させる恐ろしい魔物ではないのか。

外では、昼間だというのにどんよりとした暗雲が空を覆い始めていた。狭い六畳一間で、高笑いを上げ続ける勝吉と、畳に突っぷして絶望に震えるおたえ。歪み切った夫婦の部屋に、静かに暗い影が落ちて行くのであった。

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