四十六
たえに案内され、うねるような長屋の狭い小路を奥へと進むと、丸に「魚」の文字がかすれた障子戸の前に辿り着いた。勝吉の家だ。障子越しからも、中からゴーゴーと言うイビキが聞こえている。
「いるようだな。」
「ええ、今日は家で飲んでいるのでしょう。」
凌庵が障子戸の隙間から中を覗き込むと、六畳一間の狭い室内に万年床が敷きっぱなしになっていた。部屋中には爛れた酒臭い息が充満し、地響きのような大いびきが響いている。 勝吉は万年床の 上に転がり、すっかり空になった貧乏徳利を抱きかかえるようにして眠りこけていた。
「夜通し酒喰らって高いびき、いい御身分だな全く!!」
苦虫を食い潰した様な顔をしている幸兵衛、するとズカズカと前に出た彩乃。
バンッ!と激しい音を立てて表戸を開け放った。
「起きなさい!勝吉さん!起きなさいったら!」
彩乃が万年床の脇に仁王立ちになり、勝吉を怒鳴りつけた。
勝吉は「うーん」とうめき声をあげ、寝返りを打つ。寝息からも酒の匂いがプンプンと匂ってくる。その匂いが、彩乃の神経を更に逆なでする。
「起きろっ!!」
彩乃はゲジッと、勝吉の背中をけ飛ばす。勝吉は「ぐえっ」と鈍い声を上げ、鬱陶しそうに瞼を擦り、重い体をよじ登らせるように起こした。そして酒臭い息を「はぁーっ」と吐き出しながら、ボサ ボサの頭を掻き乱して彩乃を睨みつけた。
「・・・なんだぁ・・・?痛ってえしうるせえなァ、人の熟睡を邪魔しやがって・・・、あんたは確かぁ・・・。」
「藤村彩乃!医者です!」
「ああ・・・天竜堂の小娘か。それが何の用だ、俺は病気じゃねえぞ?」
「いいえ!あなたは重い病ですっ!!」
「何だと?」
雷の如き怒号が狭い長屋に響き渡り、彩乃は食ってかかるように言葉を重ねた。
「貴方、どうして私達が此処に来たか解りますか?」
「知らねえよ。」
「おたえさんが井戸端で倒れたんですよ!あなたが昼間から酒ばかり飲んで、奥さんに内職を押し付けて食べさせているからでしょう!夫として人間として、恥ずかしくないのですか!」
彩乃の鋭い一閃に対しても、勝吉は全く悪びれる様子を見せなかった。転がっていた貧乏徳利をゆさゆさと振り、中身が残っていないか確かめる。 そして面倒そうに鼻で笑うと、貧乏徳利をあおり、底に残った僅かな雫を直接口へと流し込み、「へへっ」と自棄的な笑いを浮かべた。
「けっ、おたえの奴め、大袈裟に騒ぎやがって。目ぇ回して倒れたくらいで死にやしねえよ。だいたいなぁ、御医者のお嬢ちゃんよォ。俺が酒を飲んでるのはな、暇だからじゃねえんだ。『世の為』なんだよ。」
「世の為ですって!?」
「ああ、俺みてえな腕の立つ魚屋が働かずに家で腐っていろってえのがお上のお命令なんだよ!鯛も鰺も鰯も、猫マタギって評判の鮪の切り身ですら贅沢品だ。だから俺は、その立派なお命令に従って大人しく寝ていてやってるのさぁ!」
酔った勢いで身振り手振りを交え、支離滅裂な言い訳を並べる勝吉。
だが、凌庵の目は誤魔化せなかった。勝吉が身振りを交える際にその指先が小刻みに、そして異常なほど細かく震えていることに。
勝吉の舐め腐った態度に、彩乃の怒りは頂点に達した。
「呆れた!働かない言い訳に世の中を使うなんて、どこまで心が腐っているんですか!」
「うるせえ長袖ぇ!竹藪にもならねえ筍娘が、偉そうに抜かすんじゃねえ!!」
勝吉は顔を真っ赤にして叫ぶと、手にしていた空の貧乏徳利を彩乃に向かって全力で投げつけた。
「危ないっ!」
凌庵が瞬時に彩乃の腕を引っ張り、己の背後へと庇う。 自棄糞で投げられた徳利は彩乃の頭上をかすめ、玄関の土間で「バリン!」と甲高い音を立てて木っ端微塵に砕け散った。
その一部始終を凝視していた凌庵は、勝吉の瞳の焦点を確かめ、確信を得た。
(・・・間違いない。酒毒だ。)
勝吉は確実に「酒毒」――現代でいうアルコール依存症を患っていた。
まともな会話をしている最中も酒瓶を手放せない執着、指先の小刻みな震え、突発的な癇癪と攻撃性。これらは全て、酒毒が脳と身体を蝕んでいる証拠であった。まだ引き返せる段階ではあるが、このまま酒に逃げ続ければ、遠からず命を落とすか狂気に陥る。
「この・・・!あなたって人は!!性根まで腐っているようですね!!」
「やんのかアマぁ!」と身構える勝吉に対し、負けじと前へ出ようとする彩乃。凌庵はその肩を優 しく、しかし確かな力で制した。
「彩乃殿、それくらいにしなさい。」
「ですが先生!」
「落ち着きなさい。」
静かに彩乃をなだめ、後ろに下がらせると、代わりに凌庵が前へ出た。凌庵はまっすぐに勝吉の目 を見つめる。
「おい、勝吉さんよ。」
「何だぁ・・・?今度は親玉の登場かい。医者の説教ならもうたくさんだ、酒がまずくな らぁ・・・。」
煽る様な勝吉の言葉に対し、凌庵は怒るでも呆れるでもなく、静かな声で語りかけた。
「お前さんの気持ちは、よく解る。」
「ケッ、金のあり余った医者に、俺の何が分かるってんだ・・・。」
勝吉はプイと横を向いたが、凌庵の眼差しには一切の侮蔑もなく、ただ深い哀悼と理解が込められていた。
「このご時世だ。お上が質素倹約を叫び、お前が誇りにしてきた『極上の江戸前』が売れなくなった無念さは、私にもよく分かる。お前が酒に逃げたくなる気持ちも・・・飲むなとは言わぬ。」
「フンッ、ならほっといてくれよ。」
「だがなぁ、勝吉さん。そのままじゃ、自分の命を削っているだけだぞ。」
「命だぁ・・・?」
「ああ・・・。お前さんの身体は、着々と酒毒に侵されている。指の震えも、その激しい癇癪も、全て酒が身体を蝕んでいる証拠だ。家に閉じこもって酒を喰らい、自分を苛み、女房を泣かせているだけでは、ただ心がくさくさし、底の無い酒の沼へと沈んでいくだけだ。・・・今すぐに酒を断てとは言わん。だが、少しは外の風に当たるようにしろ。外へ出れば、お前のその腕と目利きを待っている景色が、まだどこかにあるかもしれんぞ。」
凌庵の静かだが肚の底に響くような言葉は、勝吉の泥酔した頭の奥深くまで染み込んでいった。 勝吉は言葉を失い、ぐっと唇を一文字に結んだ。 凌庵の目が、自分の職人としての誇りを決して蔑んでいないこと、そして自分を「罪人」ではなく「病者」として救おうとしていることを悟ったからだ。職人としての根底にある心までは、まだ酒毒に侵され切ってはいない。
「・・・ちぇっ。医者の説教なんぞ、聞くもんじゃねえな・・・・!五月蠅くって敵わねえや!」
勝吉はバツの悪そうな顔をすると、万年床から起き上がり、水瓶から柄杓で水を汲むと頭からバシャリとかぶった。
冷たさに「冷てえなぁ畜生!」と叫びながら、手ぬぐいで顔をゴシゴシと拭う。
「わかったよ!外へ出りゃいいんだろ、外へ!魚河岸でもぶらついてくるわ!おいおたえ、仕入れの金を出しな!」
勝吉はおたえの細い手から仕入れの銭を引ったくるように受け取ると、乱暴に天秤棒と魚籠を肩に 担ぎ、逃げるように長屋を飛び出していった。
その背中を見送りながら、おたえは絞り出すような声で凌庵に漏らした。
「・・・先生、申し訳ありません。あの人も、昔はあんな人じゃなかったんです。親から受け継いだ稼業に誇りを持ち、全ては・・・このご時世が悪いのでしょうか・・・。」
売れない魚、差し押さえられつつある内職、冷え切った長屋の暮らし。 凌庵は腕を組み、薄暗い部屋の中で深く溜め息を吐いた。
(このままでは、あの夫婦の心が折れてしまう・・・。何か、生きる希望となるような『きっかけ』があれば良いのだが・・・・。)
佇む凌庵に、彩乃が心配そうに声をかけた。
「先生・・・あのお金、またお酒に消えてしまうのではないでしょうか・・・。」
「まあ、まずは賭けてみるしかないさ。あいつの根底に残っている、職人としての良心にな。」
「良心・・・、あの酔っ払いにあるでしょうか。」
「医者なら、患者の生命力を信じてやらねばな。」
そう言われた彩乃も、長屋の小路へと視線を向けた。飛び出していった勝吉の後ろ姿を、誰よりも心配そうに、そして祈るような目で見つめ続けていたのは、ほかでもないおたえであった。
「あーあ、ちきしょうめえ・・・。」
夜通しの酒に酔いしれ、ぐっすり寝ていた所を叩き出された勝吉は、両肩に食い込む天秤棒の重みに耐えながら、千鳥足に近い足取りで方々の路地を歩き回っていた。ふと天を仰ぐと、すっかり日が落ちて夕暮れ空も段々と黒みを帯びるようになっていた。 その頃には酔いがようやく抜け始めたと同時に、岩でも乗せられたかのように頭がずっしりと重くなり、時折強い吐き気すら催していた。
「はあ・・・、帰りてえ・・・・。」
天秤棒の両脇に吊るした四角い竹籠の中には、いつものからっぽの静けさとは異なる魚の気配がある。凌庵に叩き出された後、夕河岸で奇跡的に手に入った「それなりのもの」――今朝揚げの鯖に、艶のある鰺や鰯、そして小ぶりながら身の引き締まった帆立がいくつか入っていた。かつての「竹島 町の魚勝」であれば、見向きもしなかったような雑魚である。かつての勝吉は、極上の鯛や鮃、初鰹 といった江戸前でも指折りの上物しか扱わないのが自慢であった。河岸仲間からも「あいつの仕入れと包丁には敵わねえ」と羨望を込め、天秤棒の桶が必ず空になって帰ってくることから「空天秤の魚勝」と称えられたほどの商売上手さと意地を持っていた男だ。
だが、背に腹は代えられない。おたえの内職も底をつき、米櫃の底が見えた今、勝吉なりに泥を啜る思いでプライドを捨て、雑魚を仕入れて街へと飛び出したのだった。
「へい!威勢のいい鯖に鰯だよ!刺身でも塩焼きでも手際よく開いて渡すよ!」
朝から煽った安酒の所為で、頭の芯は重く痺れ、足元は時折覚束なく千鳥足を踏む。しかし、長年身体に染み付いた職人の業というものは恐ろしい。呼び声を張る声の通り、天秤棒の揺れを逃す腰の落とし方、立ち止まって魚を改める手さばきには、一切の卒がなかった。酒が入っていようと、勝吉の身体はしっかりと「腕の立つ魚屋」の動作を覚えていたのだ。
売れて当然――そう思っていたのだが、世間の風は勝吉が想像していた以上に冷たく、そして頑なであった。
「いらないよ、魚勝さん。お上のお達しを知らないのかい? 尾頭付きなんて買ってるのが見つかったら、どんな難癖をつけられるか分かったもんじゃない」
「こんなご時世だ、お米と味噌さえあれば十分さ。贅沢な魚なんて買えるかい」
格子戸越しに返ってくるのは、冷ややかな拒絶の言葉ばかりであった。庶民の財布の紐は、お上の 「寛政の改革」以来・・・いや、それ以上に極端な質素倹約の触れによって、ガチガチに固く結び直されていた。贅沢を取り締まる御町の役人の目を恐れ、人々は魚を買うことすら躊躇っているのだ。
(ちくしょう・・・! なぜ売れねえ! 俺の包丁の腕が落ちたわけじゃねえ・・・・! なのに何で、一匹も売れねえんだ・・・・!)
汗と油にまみれ、魚籠を担ぎ直す勝吉の胸の中に、ドロリとした黒い憤りが渦巻く。 安魚を売るという職人の意地を捨てた屈辱。それすらも受け入れられないという世の中の不条理。追い打ちをかけるように、通りかかった長屋の路地で、鼻を摘まんだ女房衆から心ない言葉が飛んだ。
「ちょっと、あの魚屋・・・酒臭い息を撒き散らして歩いてるよ。」
「嫌だねぇ、あんな酒臭い息で吐息を吹きかけられた魚なんて、汚くて食べられたもんじゃないわ。」
「あいつぁ、粕漬けでも売ってるのかぇ?」
すれ違う庶民の全てが、好き勝手な言葉を投げかける。
カッと頭に血が上りかけたその時、通りの向こうから黒羽織を着流した二人の男が歩いてきた。南町奉行所の同心と、その配下の岡っ引きである。今や町中の贅沢と「風紀の乱れ」を血眼になって取り締まっている、改革派の役人どもであった。
「おい、止まれぇ!」
役人は勝吉を呼び止め、周りを心底汚らわしいものを見るような目つきで上から下まで舐めるように見回した。
「臭っせえなあ・・・ただでさえ生臭えってのに、真昼間から酒臭え息をまき散らしやがって。まともな商売もできねえで、浮浪同然の面をしておるわ」
「ハハッ、旦那。これじゃあ魚が売れるわけもございませんな。酒の臭いが魚に移っちまいますよ。」
「おい魚屋ぁ、臭え者巻き散らかすのも大概にしろよ? さもねえとしょっ引くぞ!」
脅し半分からかい半分、勝吉に言葉を投げかけるとわざと肩をぶち当ててすれ違う。勝吉の千鳥足は縺れ、その場に激しく転んだ。役人だけではなかった。中には取り締まりに同調して、「悪しき商いの不届きもの」とヤジを飛ばす者まであった。
勝吉は爪が手のひらに食い込むほど拳を強く握り締め、血の出るほど唇を噛み締めた。役人の誹りもあるが、一番は一匹も魚が売れないという事実だ。倹約令が騒がれ、不貞腐れるように酒に溺れた間のブランクの結果がこれだ。自分の無力さが許せなかった。
(俺が・・・あの『空天秤の魚勝』とまで呼ばれた俺が・・・、袖の下三昧の木ッ葉役人にさえ見下されなきゃならねえのか・・・!)
胸の中でブツンと何かが弾け飛ぶ音がした。職人としての最後の意地も、わずかに残っていた情熱も、すべてがガラガラと音を立てて崩れ去っていった。
夜空の下――もはや魚を売る気力など一片も残っていなかった。勝吉は天秤棒を放り出すように路地裏の居酒屋の縄暖簾をくぐり、湿った畳の上にへたり込んだ。
「酒だ!ジャンジャン持って来い!」
「魚勝さん、またツケかい?」
「払えるうちは払う! 早くしろ!!」
おたえが内職で稼いだ貴重な銭も、今日奇跡的に手に入ったわずかな仕入れの残金も、すべて机の上にぶちまけた。徳利が運ばれてくると、盃など使わず、そのまま口をつけて一気に煽る。喉を焼く安酒の刺激が、傷ついた自尊心を麻痺させていく。
「けっ・・・、まともに働くだけ無駄なんだよ・・・。お上は『贅沢するな』、世間は『安魚もいらねえ』だ・・・・!だったら俺はどうすりゃいいんだ・・・!?家で寝ているのが、一番『世の為』じゃねえか! 聞いてるか藪医者ぁ!!」
店の隅で、勝吉はへどろのような泥酔の渦に沈みながら、ぶつぶつと世の中への怨嗟を吐き出し続けた。店主や他の客たちも、関わり合いになるのを恐れて誰も声をかけない。やがて手元の銭をすべて呑み尽くし、完全に泥酔した勝吉は、店主の手によって追い出されるようにして路地へと放り出された。
「何が悪いってんだぁ・・・、俺が悪いってのかぁ!悪いのはあれもいけねえ、これもいけねえと定めたお上じゃねえか!!」
すっかり夜の闇が降りていた。月明かりだけが、静まり返った八丁堀の街並みを冷たく照らし出している。 勝吉は空になった貧乏徳利を抱え、千鳥足でどたばたと足をもつれさせながら歩いていた。頭はぐにゃぐにゃに揺れ、天地の区別すらつかない。
くしゃり――。
足元で、乾いた紙を踏みつける低い音が響いた。
「あ・・・?なんだあ?」
誰かが捨てた瓦版か紙屑でも踏んだかと思い、勝吉は鬱陶しそうに足元を見下ろした。 月明かりと、街頭に灯るささやかな行灯の光を頼りに、その紙きれを拾い上げる。四つ折りに畳まれた固い紙は、どこかの寺の境内で配られた刷り物であった。そこに書かれた太い墨文字を目にした瞬間、勝吉の泥酔した頭の中に、かすかな記憶が蘇った。
「崇元寺の・・・、富くじかぁ。」
江戸で公認されている数少ない富くじの一つ、崇元寺の富札であった。紙の真ん中には、豪快な墨書で印字されている。
――松之五百九十六。
勝吉は「松之五百九十六」という文字をしばらくぽかんと見つめていたが、やがて自嘲気味に鼻で笑った。
「ケッ・・・富くじだぁ?どうせ当たるわけがねえ・・・。世の中に、そんな上手い話が転がってるもんかよ・・・。第一、贅沢はいけねえって言っているくせに富くじなんか売りやがるのか、生臭坊主が・・・・。」
くしゃくしゃに丸めて捨てようとした勝吉だったが、ふと手を止めた。金もない、魚も売れなかった、身も心もボロボロの自分。 手ぶらで帰れば、またおたえの泣き顔を見ることになる。
「・・・フン。手土産代わりに、懐に入れておくか。いい夢見れますように・・・・ってか?」
勝吉はその丸めた富札を、着物の懐の奥底へと雑に押し込んだ。
静まり返った路地に、勝吉の足もつれな足音が響き渡り、やがて障子戸がガタガタと乱暴に開け放たれた。 酒と汗、そして男の自暴自棄な体臭が混ざり合ったヘドロのような悪臭が、六畳一間の狭い部屋の中に充満する。
「ただいま・・・、だぁ!」
畳の上で、貧血の身体を丸めてじっと耐えていたおたえが、弾かれたように顔を上げた。そこにあったのは、空の徳利を抱え、服を乱した無惨な夫の姿であった。
「あなた・・・!またそんなに飲んで・・・・!魚は? 魚はどうしたんだい!?」
「見ての通りだ!」
天秤棒の桶の中では、勝吉同様にすっかり鮮度と輝きを失った魚が残されたままであった。
「何だいこれは!売れてないじゃないか!!」
「うるせえ!魚なんて売れるかよ!どいつもこいつも『贅沢だ』『酒臭い』って俺をバカにしやがって・・・!」
「そんな・・・!あのお金は?なけなしの仕入れの金まで使ったのかい! 明日食べるお米もないよ!?」
涙と悲鳴を混ぜあわせたおたえの叫びが、薄い壁を透かして長屋中に響き渡る。だが、泥酔した 勝吉にはおたえの絶望など届かない。むしろ自分の屈辱を責め立てられているように感じ、激高し た。
「うるせえ!俺たちみてえな貧乏人は、黙って泥でも食ってろって事だ!オメエもこんな亭主を選んだのが運の付きだ!」
勝吉は抱えていた空の貧乏徳利を、おたえの足元へ向かって投げつけた。
――バリンッ!
乾いた音を立てて徳利が砕け散り、鋭い陶器の破片がおたえの着物の裾をかすめる。
「きゃっ!」
「働くだけ無駄なんだ!俺をバカにする世の中が悪いんだ!オメエも俺を馬鹿にするってえなら、何処へでも出て行きやがれ!!」
暴言を吐き散らかすと、勝吉は万年床の上に倒れ込むようにして横になった。おたえがどれほど泣き叫ぼうと、髪を振り乱して胸を叩こうと、勝吉は手ぬぐいも取らず、着替えもせず、そのまま泥のように不貞寝を決め込んでしまった。
数秒後には、家を揺らすような地響きのごとき大いびきが部屋に満ちる。
散らばった徳利の破片と、鮮度を失った無惨な魚。そして万年床の上の夫の背中を前に、おたえは畳に伏して声を忍ばせて泣き続けた。
やがて、ぽつり、ぽつりと屋根を叩く雨音が聞こえ始めた。しとしとと長屋の軒端を濡らす夜雨は、理不尽な世の中に押し潰され、絶望に暮れる夫婦の悲痛な涙を静かに覆い隠すかの様であった。




