四十五
朝六ツの鐘が、遠くの寺から江戸の町へ低く重々しく響き渡っていた。 八丁堀の「天竜堂」の低い軒端を、澄み切った初夏の朝の光が柔らかく撫でていく。 高柳凌庵は珍しく目が早く覚めたため、まどろむ頭と体を醒ますべく、まだ薄暗さの残る庭へと出で、木刀を軽く素振りしていた。
ビュッ、ビュッ――。
空を割る鋭い風切り音が、朝靄の残る静寂の中に数度響く。足の踏み込み、腰の捻り、腕の振り。一切の無駄を削ぎ落としたその一筋の軌跡には、かつて幾多の修羅場を潜り抜けてきた剣客としての切っ先が今なお鋭く潜んでいた。 額に浮いたかすかな汗を軽く手拭で拭うと、凌庵は木刀を縁側に置き、台所へと向かった。
腕捲りをして羽釜の太い薪に火を吐かせると、慣れた手つきで包丁を握る。竈に火を付け、手際よく鍋に水を張る。 まな板の上で太い白葱を大きめのぶつ切りにし、しなやかな鶏の肉とともに鍋へ放り込んだ。そこへ煎り胡麻の香ばしい油を数滴落とし、薄切りの油揚げを加える。 質素な一汁一菜の献立であっても、工夫ひとつで食卓は華やぐ。ただ腹を満たすためだけの食事ではなく、滋養と旨味を兼ね備えた温かい汁物を作る――これもまた、医者である凌庵なりの養生の教えであった。
続いて、台所の床下に備えられた糠床の蓋を開ける。ふわりと発酵した独自の甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐった。中から鮮やかな緑色のキュウリと小ナスを取り出し、手早く井戸水で洗い流して薄く切り分ける。 目黒の百姓地に住み着き、土とともに生きた亡き祖父は、界隈でも知られた漬物の名人であった。幼い頃に仕込まれた糠床の手入れや塩梅の取り方は、今も凌庵の手と身体にしっかりと染み付いている。 飯が炊き上がると、すぐさま火から下ろして飯櫃へとうつし、蓋との間に清潔な布巾を一枚挟み込んだ。余分な蒸気を吸わせ、米粒を立たせるためのちょっとした知恵だ。 羽釜の水加減から薪のくべ方、汁物の味付けに至るまで、その手つきには一切の無駄がない。長年の独り身暮らしと、生来の人任せを嫌う几帳面な性格が成せる業であった。
だが、現在の天竜堂は完全な独り暮らしというわけではない。凌庵には一人、宮永英助という住み込みの弟子がいた。 嘗ては御家人の嫡男であったが、その昔、悪党の陰謀により家は潰され、親兄妹をことごとく殺された過去を持つ。凌庵の刃と尽力によって無事に仇を討てたものの、身寄りもなければ戻るべき家もない。行き場のない英助は、半ば転がり込むようにして天竜堂で居候を決め込んでいるのだった。
「ふあぁ・・・、おはようございます・・・。」
障子が開き、目を擦りながら土間へ降りてきた英助が、寝ぼけ眼で頭を下げた。手で顔を擦り、どこか足元が覚束ない。
「よぅ、起きたか。昨日は随分と夜更かしをしていたようだな。」
「・・・申し訳ございません。昨日、先生に貸していただいた蘭学の医書を読み進めておりましたら、あまりに面白くて・・・、気がつくと丑三ツ刻を過ぎておりまして。」
「情熱があるのは結構だが、身体を壊しては元も子もないぞ。医者が養生を怠ってどうする。ほら、井戸端で冷たい水でもかぶって顔を洗ってこい。」
「・・・はい、ただいま。」
まだ半分夢の中にいるような英助の背中をポンと叩き、外の井戸端へ追い出す。 本来ならば、住み込みの弟子の役目は毎朝の掃除や食事の支度、薪割りといった雑用全般である。しかし凌庵は英助に対し、日頃からこう言い聞かせていた。
『お前は医学を学ぶ弟子であって、天竜堂の使用人ではない。俺がやれと言わぬうちは、まずは医学の事だけを考えろ』
凌庵のその細やかな心遣いのおかげで、英助は比較的自由な心地で学問に打ち込むことができていた。もっとも英助自身が家事全般をからっきし苦手としており、包丁を持たせれば指を切りかけ、飯を炊かせれば黒焦げにするという不器用さゆえに、凌庵が自分でやった方が早いという裏の事情もあ るのだが。
「先生ぇ!随分と早起きですねえ!」
清々しい朝の空気を破って、土間に元気な声が響き渡った。威勢のいい足取りで入ってきたのは、天竜堂の掛け持ちである担ぎ魚屋の銀次であった。 首から手ぬぐいをかけ、天秤棒を肩に担いだ姿はいかにも江戸の職人らしい。背中の手桶からは、潮の甘い香りがふわりと立ち上っていた。銀次の明るい声に呼応するように、手桶の中の魚たちも水飛沫を上げて元気に跳ねている。
「やあ銀次、ちょうど良かった。今日の朝餉に誂え向きの魚はあるかい。」
「へい!今朝は河岸でとびきり上物の鰺が入ってまさぁ。小ぶりですが脂がしっかり乗っててね、 塩焼きにすりゃあ絶品です。」
「そうか、では三匹もらおうか。」
「へい、毎度!ついでですから、ここで開いて焼きましょうかね。」
「おお、それは助かる。済まねえな。」
銀次は手際よく手桶から鰺を取り出すと、自前のまな板と小出刃を出して、一瞬のうちに三匹の鰺を開いてみせた。そして天竜堂の竈から真っ赤に熾った手頃な木炭を十能ですくい取り、土間の七輪にくべて網の上に鰺を並べた。 ジュウと言う香ばしい脂の弾ける音が立ち上り、一気に旨そうな煙が土間に満ちていく。
和やかな会話と魚の焼ける良い匂いから始まった朝の一幕であったが、魚の焼き加減を見つめる銀次の横顔を注視していた凌庵は、彼の眉間に時折、深い皺が寄ることに気づいた。 いつもなら「先生、うちの鰺を食べたら他の魚なんか食えなくなりますよ」とか「あの家、近頃赤ん坊が生まれたようですぜ?」などと威勢のいい冗談を飛ばしたり世間話をする陽気な男が、どこか陰のある顔つきをしている。
(・・・これは、いつもの銀次ではないな。)
凌庵は包丁を置き、手ぬぐいで手を拭いながら声をかけた。
「銀次よ、何処か具合でも悪いのか?」
「へ?オイラですか?滅相もねえ、この通りピンピンしておりますぜ。」
銀次は苦笑いを浮かべて手を振ってみせたが、すぐにその笑顔は消え去り、胸の底から重苦しい溜め息をひとつ吐き出した。
「・・・それにしては、顔色に元気が見えんが。どうかしたか。」
「解りますかい?」
「医者に嘘はつけん。顔色や声の張りを見れば、腹の中に何を抱えているかくらいは察しがつく。 具合が悪いわけでないなら、話してみろ。」
凌庵の温かい眼差しに、銀次は「凌庵先生には嘘はつけねえや」と参ったように首をすくめた。七 輪の上の鰺を箸で裏返しながら、ポツリポツリと話し始める。
「実はねぇ先生、オイラのダチ公のことで悩んでいるんでさぁ。」
「友達というと?」
「ほら、竹島町の百軒長屋に住んでる勝吉ですよ。」
「ああ・・・、魚勝さんかい」
凌庵の脳裏に、あの腕の立つ頑固な魚屋の顔が浮かんだ。「竹島町の魚勝」といえば、河岸でも一 目置かれる存在であった。魚の目利きは抜群で、巧みな魚さばきと手際の良さから、河岸仲間から 「手妻使い」と称される銀次ですらも「あいつの仕入れと包丁には敵わねえ」と舌を巻くほどの商売 上手。それゆえに職人としての気位が高く、江戸前の極上の魚しか扱わないという強いこだわりを 持った男であった。
しかし、銀次は鰺にパッパと塩を振りながら頭を抱えて愚痴をこぼした。
「その勝公がねぇ、近頃メッキリ商いに出ねえんです……。例の質素倹約の触れが出でからというもの、お上から『贅沢は敵だ、尾頭付きの魚など控えるように』なんて野暮なお達しが出ちゃってでさぁ。威勢のいい高級魚なんて誰も買っちゃくれねえ。たちの悪い御町の旦那の中にゃあ、気の利いた魚を焼いていた長屋の奴が難癖をつけられ、『贅沢者めが!』って七輪を蹴っ飛ばされたって噂もあるくれえだ。そんなだから庶民もびくついて財布の紐を締め切っちまって、魚屋なんて干上がる寸前ですよ。」
「ふむ・・・お上の倹約令の影響が、そこまで市井の暮らしに響いているか。」
「ええ。それであのバカ野郎、あんなに腕がいい癖に『このご時世、まともに働くだけ無駄だ。大人しく寝ている方が世の為だ』なんて吐き捨てて、毎日日の高いうちから貧乏徳利を抱えて酒浸りでさぁ。仕事の情熱なんて欠片も残っちゃいねえ。オイラみてえに手頃な雑魚を売り歩きゃいいんですが、野郎は無駄に気位が高えもんだから、安魚を扱うくらいなら死んだ方がマシだと思ってやがるんです・・・。」
銀次の声には、親友を想うが故の強い悔しさと、どうにもできない情けなさが滲んでいた。 話の最中も、銀次は鰺を焦がさぬよう絶妙な火加減で裏返し、仕上げの塩を振る。その手際には一切の隙がない。これほど気の利いた商人が圧政によって商いを奪われ、肩を落とさせられる世の中――凌庵の胸の中に、深い痛みが広がった。
「おまけに、かかあのおたえさんとは毎日のように喧嘩が絶えず、子宝にも恵まれねえ……。家計は火の車で、朝から晩まで怒鳴り合いですよ。大家の幸兵衛さんも『うちの長屋の面汚しだ』って頭を抱えてて・・・まったく、世の中が悪いんですのかねえ。」
「・・・かもしれねえなァ。人が誠実に生きようとする足を引っ張るような世の中だ。」
「おっと、綺麗に焼けましたよ!ほら先生、焼きたてです。」
竹の皮に包まれた香ばしい鰺の塩焼きが、台所の板間に置かれた。銀次は手ぬぐいで額の汗を拭うと、天秤棒を担ぎ直した。
「それじゃあ先生、オイラはこれで。」
「おう、銀次。お前さんも腐らずに励めよ。」
「ええ! 商いは『飽きない』って言いますからねぇ!行ってきやす!」
威勢のいい軽口を残して、銀次は天竜堂を後にした。しかし、去っていくその背中、暖簾をくぐる肩の落としようには、江戸の世を重く覆う不況の影が色濃く差していた。
香ばしい味噌の匂いも、焼き立ての魚の芳醇な香りも、暗い世相の話の前にはどこか寂しげに思えた。凌庵は出来上がった羽釜の飯と汁物を膳に並べながら、さっきの銀次の溜め息がうつったかのように、はぁと深く溜め息を吐いた。
井戸端で顔を洗い、さっぱりとした顔で戻ってきた英助が、去っていく銀次の後ろ姿と凌庵の様子を見て「おや?」と首を傾げた。
「先生、銀次さんはどうされたのですか?なにか浮かないお顔をされていましたが。」 「ああ、何でも友達のことで悩みがあったようだ。」
「いつもあんなに明るい銀次さんが・・・、珍しいこともあるものですね。」
「そうだな。さあ英助、飯を並べるのを手伝ってくれ。」
「はい!」
手拭いで手を拭い終えた英助は、手際よく人数分の木具膳を次の間へと並べ始めた。
その頃、藤村彩乃は早足で八丁堀の通りを天竜堂に向かって歩いていた。 彩乃もまた、与力である父のつてを頼り、凌庵の元に押し掛けるようにして弟子入りした娘であった。男所帯の天竜堂に若い女が同居するわけにもいかず、実家から毎日通っている。普段であれば早い時間に到着して掃除や洗濯といった家事を引き受けているはずであった。
しかし今朝は、天竜堂の薬箪笥の中の生薬……特に貧血や冷えに効く当帰や芍薬の在庫が底をつきかけていることに気づき、朝一番で贔屓にしている薬種問屋へ寄ってきたのだった。
「遅くなっちゃった・・・先生、もう朝餉を召し上がっているかしら。」
風呂敷包みを抱え直した彩乃は、地蔵橋通りを抜け、少しでも近道をしようと入り組んだ竹島町の路地へと足を踏み入れた。
この界隈には、「百軒長屋」と呼ばれる巨大な棟割長屋が存在する。実際に百軒あるかどうかは定かではないが、長い屋根がまるで波打つように何棟も密集していることからそう呼ばれていた。また、この長屋の大家である幸兵衛が長屋門の脇で「大黒屋」という荒物屋を営んでいることから、町内では「大黒長屋」とも親しまれている。
彩乃が長屋の井戸端の近くを通りかかった時、共同の井戸端で一人の女がタライを抱えたままフラ フラと足を覚束なくさせているのが目に入った。
「あ、危ない!」
彩乃が声を上げるのとほぼ同時に、女の膝がガクリと折れた。タライが地面に落ち、乾いた音を立てて転がる。駆け寄った彩乃が抱き起こすと、その女の顔は彩乃のよく知る人物であった。 魚屋の勝吉の女房、おたえであった。
「おたえさん!おたえさんじゃありませんか!?」
「え・・・? あ・・・彩乃先生。」
声をかけられた主を確認したのも束の間、おたえは完全に意識を失いかけるように、彩乃の腕の中 で崩れ落ちた。その顔色はまるで土のように青白く、唇はカサカサに乾き切り、抱きしめた身体は痛々しいほどに痩せ細っていた。
「大丈夫ですか!?おたえさん、しっかりしてください!」
「・・・ごめんなさい、なんだか急に立ちくらみがして・・・目が眩んで・・・・。」
「いけません、声を出さないで!すぐ目と鼻の先に天竜堂がありますから、行きましょう!」
彩乃はおたえの細い肩をしっかりと抱え、風呂敷包みを背中に回すと、引きずるようにして天竜堂の玄関をくぐった。
「先生!先生、大変です!」
ちょうど朝餉の準備を終え、英助とともに膳に就こうとしていた凌庵の目に、彩乃に担ぎ込まれた おたえの姿が飛び込んできた。遅くなった詫びもそこそこに、彩乃はおたえを診てほしいと懇願する。
「英助、残りの台所仕事を頼む!」
「はい!」
凌庵は即座に立ち上がると、急患であるおたえを診察室の畳の上へと寝かせた。凌庵はおたえの手首を取り、寸・関・尺の三部の脈を静かに診る。脈は細く、力がない。続いて瞼をそっと押し上げ、眼の裏の血色を検分した。
「うん、大事ない。急激な眩暈と、深刻な貧血だ。」
「左様でございますか・・・」
「良かった・・・あまりに青白い顔をされていたから、何か重い病かと思いました。」
凌庵の診察結果に、彩乃はホッと安堵の溜め息を漏らした。おたえは申し訳なさそうに着物の乱れを正し、畳に伏してペコリと頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました、凌庵先生・・・、彩乃先生・・・・。」
凌庵は白湯を入れた湯飲みをおたえの手元に差し出し、静かな、しかし眼差しには鋭い光を宿した声で問いかけた。
「おたえさん。医者に隠し事は禁物だ。正直に言いなさい……、最後にまともな飯を食べたのはいつだい?」
おたえは視線を泳がせ、胸の前で骨張った細い手指を折り曲げた。
「・・・一昨日の朝にお粥を少し、啜ったのが最後でございます・・・。」
「何? 一昨日の朝だと?」
そばで聞いていた彩乃が驚愕の声を上げた。二日間、ろくに食べ物を口にしていないということになる。
「ええ・・・お米櫃の底が、もう見えてしまいまして・・・。あとは井戸水を飲んで、無理やりお腹を膨らませている状態で・・・・。」
「それでは倒れて当然ですよ。」
「・・・・御亭主の勝吉さんはどうした。腕のいい魚屋だ、魚を売って稼いでいるはずだろう?」
勝吉の名を聞いた瞬間、おたえの瞳から大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って着物の衿元を濡らした。
「おたえさん?」
「・・・あんな人、もうあたしの亭主じゃございません・・・・!」
おたえは押し殺した声で、胸の内に溜まった毒を吐き出すように語り始めた。
「ここ数日、まともな仕事もせず・・・逆さまにあたしが養っている有様ですよ。昼間から家の中で大いびきをかいて寝ているか、酒をあおって暴れるかです。あたしが夜遅くまで針仕事の内職をして、古着屋の仕立て直しや洗い張りを大黒屋さんから回してもらった仕立ての仕事でなんとか繋いでいたんですが・・・近頃じゃその内職まで『倹約の世の中に着物を新調するとは何事だ』とお上に目を付けられ、仕事が激減してしまいました。逆さまに亭主を食わせるどころか、二人揃って野干死にするしかございません・・・・。」
苦しげに胸を詰まらせ、涙にむせぶおたえの姿に、彩乃の目には激しい怒りと悲しみの色が交互に浮かんだ。その時、凌庵はおたえの目元のうっすらと紫ばんでいる皮膚に目を留めた。ただの疲れやクマではない。打撲の痕だ。
「・・・おたえさん。その後、亭主に殴られたな?」
凌庵の言葉に、彩乃は息を呑んだ。
「おたえさん・・・、本当なのですか!?」
「・・・ええ。亭主の酒の量が増えると共に喧嘩も増えて……言葉だけじゃなくて、お茶碗を投げつけたり手を上げることも増えました。昔から気が短い人でしたが、酒が入らないと一層怒りっぽくなって・・・。」
おたえの絞り出すような告白から、凌庵には勝吉が今どのような状態にあるかが手に取るように分かった。
「・・・あたしらは、もう終わりでしょうねえ。きっと、生まれついて不幸になるようにできているんです・・・。」
絶望に打ちひしがれるおたえに対し、凌庵は薬箪笥から当帰や芍薬、地黄を合わせた煎じ薬の包みを取り出し、おたえの手の中に握らせた。
「おたえさん、まずはこの薬を飲みなさい。血を補い、気を巡らせる薬だ。それと、少しでも気が向いたら、滋養のつくものを口にしなさい。身体を壊してしまっては、元も子もない。」
「・・・ありがとうございます、先生・・・・。」
薬を大切そうに抱え、深々と頭を下げるおたえを見送りながら、彩乃は両拳を白くなるほど強く握 りしめていた。その身体が激しい怒りで震えている。
「先生!私、勝吉さんのところへ行ってきます!あんな身勝手な振る舞い、絶対に許せません!口で 言って分からぬのなら、荒療治も必要です!」
声を荒げてすくっと立ち上がる彩乃。いまにも勝吉の長屋へ乗り込み、その頬をひったたきかねな い勢いであった。 だが、凌庵は静かに手を上げて彩乃を制した。
「待ちなさい、彩乃殿。俺も行こう。」
「先生も・・・、ですか?」
「ああ。まずは根本から病の元を断たねばならねえ。」
凌庵は羽織を引っかけると、まだ温かい朝餉に手をつけることもなく、彩乃と共におたえの待つ竹島町・百軒長屋へと向かった。
岡崎町から竹島町は殆ど距離が無く、文字通り目と鼻の先にある。 長屋門を抜けた表通りの取っつきには、大家の幸兵衛が営む荒物屋、「大黒屋」がある。店先には竹ザルや箒、タライなどが所狭しと並べられていた。 凌庵も大黒屋の幸兵衛の事はよく知っている。以前、治療を通じて親しくなり、幸兵衛の女房であるお喜代がたまに天竜堂へ世話を焼きに来てくれるほどに気心の知れた間柄であった。
まずは勝吉の乱行を解決すべく、凌庵は店先に立つ幸兵衛に声を掛ける事にした。
「幸兵衛さん、おはよう。」
「おや、凌庵先生!今日はまた何か・・・?」
そう言いかけた幸兵衛だったが、凌庵の後ろで小さくなっているおたえの蒼白な顔色を見て、察しがついたようにそれ以上は言葉を飲んだ。
「・・・おたえさん、また何かあったようだね。」
「は・・・、はい。井戸端で具合が悪くなった所を、彩乃先生に助けていただいたのです・・・。」
「そうかい・・・、全く勝公の野郎め。」
幸兵衛は頭を抱え、深いため息を吐き出した。荒物屋の手入れをしていた手を止め、苦々しい顔で店 先に出てくる。
「話を聞けば、捨て置く事も出来なくてな・・・。」
そう凌庵が言いかけると、もの凄い剣幕で彩乃がずいと前に出た。
「幸兵衛さん! 勝吉さんはおられますか!? あの人に一言言わなければ、私の気が済まないのです!!」
猪の様な勢いで息巻く彩乃を、凌庵が手を差しのべて「落ち着け」と止めに入る。
「いやあ、彩乃先生のお怒りもごもっともだ。うちの長屋の店店からも、連日の怒鳴り声に苦情が殺到しててねえ・・・。先生方にまでご迷惑をかけちゃあ、大家として顔向けができねえ。さあどう ぞ、ご案内いたします。」
幸兵衛は奥にいる女房のお喜代に「店を頼むぞ」と声をかけると、凌庵たちを案内して広大な百軒長屋の路地へと入って行った。
長屋門をくぐり、百軒長屋の路地に足を踏み入れると、そこには活気あふれる朝の日常風景が広がっていた。共同の井戸端では女たちが威勢よく洗濯板を叩き、小さな子供たちが水たまりを跳ねて駆け回っている。 凌庵はこの百軒長屋へ往診に来る機会も多いため、大抵の住人は凌庵の顔をよく知っていた。
「おや、凌庵先生!この間はうちの倅がお世話になりやして!」
「先生のおかげで、すっかり腰の痛みが良くなりましたよ!」
天竜堂からほど近い場所にあるこの長屋には、凌庵の患者が多く暮らしていた。行き交う人々が口々に凌庵へ明るく挨拶を交わす。 こうしてささやかながらも、平穏な暮らしを送っている者もいれば、お上の圧政によって商いが上手くいかず、酒に逃げて自らと家族を苦しめようとする者もいる。 世の中が悪いのか、自分自身が悪いのか――。
兎に角、凌庵たちは勝吉の自暴自棄な生活を改めさせたいと考えていた。 医者として患者の病んだ体を治すのは勿論だが、患者が心身ともに健やかに暮らせるよう、その置かれた環境や生活の根本を整えることこそが真の「医の道」である。常に凌庵はそう考えているのだった。




