四十四【終章】
北町奉行所の大白洲で下された裁きの余波は、八丁堀の白砂から江戸の町々へと、静かな波紋のように広がりつつあった。
照りつけていた秋の陽光はいつしか茜色へと傾き、奉行所の重厚な格子戸の影を、路上に長く引き伸ばしている。大白洲の張り詰めた緊張感、そして悪党どもに対峙していた殺伐とした空気からようやく解き放たれた高柳凌庵と弟子の英助の二人は、奉行所の門をあとにし、日本橋の方角へ向けて静かに足を進めていた。
夕暮れの秋風が吹き抜け、凌庵が纏う黒絹の十徳の裾を優しく揺らす。 通りを行き交う大八車のギシギシという車輪の音、道沿いの煮売り屋から漂う醤油と出汁の香ばしい匂い、遠くの寺から届く刻の鐘――そこには、暗躍する悪党どもの陰謀によって脅かされていたはずの江戸の市井の暮らしが、何事も無かったかの様に変わらず脈動していた。
「全て・・・終わりましたな、先生」
英助がぽつりと呟いた。
凌庵は歩みを緩めず、ふっと息を吐き出す。
「ああ。だが、裁きは奉行所が下すものだ。わしら医者の仕事は、その裁きの後に残された生者をどう救うか、それだけだよ。」
二人が向かっている先は、一連の陰謀の渦中に置かれていた松屋である。
聞けば松屋では、長年のかかりつけ医であった竹村朴庵と番頭の彦助が結託し、主人である忠兵衛を毒殺しようとしていた衝撃の事実が判明したことで、店中が蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているという。毒の恐怖から解き放たれた忠兵衛の容態を確かめること、そして何より、この痛ましい事件で傷ついた家族の心を看取ることが、凌庵たちの残された役目であった。
「・・・先生。」
道中、英助は何度か言葉を呑み込むように、凌庵の無口な側顔を盗み見ていた。その胸中には、刃で刻まれたような鋭い悔恨が渦巻いていた。やがて意を決したように英助は足を止め、人通りのある路上で深々と頭を下げた。
「先生・・・!私を・・・私をお許しください。本当に、申し訳ございませんでした!」
突如として道端で大声を上げ、腰を折り曲げて動かなくなった英助に対し、凌庵は足を止めてきょとんとした表情を浮かべた。
「なんだ急に。英助、お前また何かしでかしたのか? 天竜堂の薬箪笥の調合でも間違えて、貴重な人参やら鹿茸やらを湿気らせて駄目にしたか?」
「違います!・・・そうではありません。そんなことでは・・・・。」
「ならどうしたと言うのだ?」
英助は頭を上げたが、その瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「おゆみさんの・・・あのおゆみさんの最後の手術の後、私は弟子という立場も弁えず、先生に食って掛かりました・・・。あのような無礼を・・・・。」
英助の脳裏には、あの惨劇の夜の出来事が、血の匂いと共に鮮明に蘇っていた。 伝馬町牢屋敷の冷たい牢から引き取られ、天竜堂の診察台に横たえられた少女・おゆみの姿。 背中に刻まれた凄惨な刃の傷痕、激しい失血、そして急速に薄れていく意識。凌庵は手ぬぐいを血で真っ赤に染めながら、夜を徹して懸命な施術を続けた。
だが、無情にも脈は細くなり、「出来るだけの事はした」と言う歯切れの悪い物言いをした瞬間 ――英助は感情を抑えきれず、師である凌庵の胸倉に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ったのだ。
『本当に助けられないのか! 先生は医者だろう!』
『先生は冷酷だ! おゆみさんを見捨てる気か!』
あの一言一言が、今になって英助自身の胸を刃となって刺し続けていた。 おゆみを救えなかったのは凌庵の腕のせいなどではない。誰よりもその死を悼み、血反吐を吐く思いで命を繋ぎ止めようとしていた師の深い哀しみや苦悩を察することもできず、ただ己の無力さから来る激情をぶつけてしまった己の幼さと無礼。それがずっと、喉の奥につかえて離れなかったのだ。
「はっはっは!なんだ、そんなことか!」
凌庵は拍子抜けしたように豪快に笑い飛ばすと、温かで、その上どこか寂しげな目で見つめ返した。
「あの折は致し方あるまい。お前がおゆみさんに寄せていた青く甘い想いは、俺も薄々感づいていた。それだけに、目の前で大切な者が命を落とそうとしておれば、冷静さを欠いて当然だ。医者である前に、お前も一人の血の通った若い男だからな。」
「先生・・・。」
英助が言葉を詰まらせて顔を上げると、凌庵はふっと笑みを収めた。その眼差しは、江戸随一の外科医としての凛とした真剣味を帯びていた。
「だがな英助、これだけは生涯、忘れずに覚えておけ。」
凌庵は立ち止まり、風が吹き抜ける街道の真ん中で、英助の目を真っ直ぐに見据えた。
「あの時も言ったが、我々医者は神様ではない。傷を縫い、薬を与えて『命を救う』手助けはできても、人間に『生きる命を与える』ことまではできんのだ。人にはそれぞれ、生まれた時から天によって定められた『天命』というものがある。中には短命で終わる、あまりに気の毒で理不尽な天命を科された者もいる。」
凌庵の声には、これまでに幾人もの患者の死を見送り、そのたびに己の無力さに打ちのめされてき た男だけが持つ、重く切ない慈愛が込められていた。
「医者とはその与えられた天命のつきるその日まで、少しでも無病息災に、苦しみなく暮らせるように寄り添うことしかできん。天命そのものに抗い、死者を生き返らせることは不可能なのだ。これからお前が修行を重ね、一人前の医者になるにつれ、こうした残酷な現実に幾度となく直面するだろう。傷つき、悩み、絶望し・・・それでも前に進むためにはな、英助、医者としての『割り切り方』を知ることも、時に必要なのだぞ。」
英助は両こぶしを強く握りしめた。爪が掌に食い込み、痛みが走る。凌庵の言葉が一字一句、自分の血肉となって染み込んでいくのを感じながら、深々と頷いた。
「はい・・・、肝に銘じます。ですが先生・・・、私は・・・・。」
英助は涙をぬぐい、師の目をまっすぐに見つめ返した。
「おゆみさんを救えなかったこの悔しさを絶対に忘れず・・・最後の瞬間まで、目の前の天命に足掻き、抗い続ける医者になります。割り切る術を知ったとしても、諦めることだけは絶対にいたしません。」
「うん・・・。」
凌庵は満足そうに口元をほころばせると、肩をぽん、と叩いた。
「それでいい。その悔しさを知る者だけが、次の土壇場で土俵際に踏みとどまり、次の命を救えるのだからな。さあ、行くぞ。忠兵衛さんの顔色を診に行ってやらねば・・・。」
凌庵はそう言うと、再びかるがるとした足取りで歩き出した。英助もその背中を追い、二人の長い影が茜色に染まる秋の往来へと伸びて行った。
「松屋」の前に着くと、店内の騒然とした混乱はひとまずの落ち着きを見せていた。 かつて偽薬師の朴庵や悪徳番頭の彦助の手によって陰謀の毒薬が運び込まれ、重苦しい死の気配が漂っていた暗い面影は失われ、打ち水された暖簾の先には、どこか清々しい秋の空気が漂っている。
「これは、凌庵先生!英助先生!」
店に入ると、番頭見習いや小僧たちが一斉に頭を下げた。
二人は奥の離れへと通される。離れでは、天竜堂による正しい治療と解毒の薬を処方された主人・ 忠兵衛が、布団の上に体を起こしていた。一時期の死人のような土気色は完全に消え去り、頬には うっすらと健康的な血色が戻っている。
庭の方からは、ポスポスという、毬を突く心地よい音が聞こえていた。 見れば、庭先で穏やかな表情を浮かべながら、色鮮やかな朱色の毬を突いて「あんたがたどこさ」と歌っているおさよの姿があった。
大好きな親友であったおゆみが目の前で惨劇に巻き込まれて命を落とし、一時は心身のショックから深く塞ぎ込んでいたおさよだったが、後妻のおたかの献身的な抱擁と接し方によって、なんとか心の傷を持ちこたえた様子であった。
凌庵たちの訪問に気がついた忠兵衛は、慌てて布団から出ようと膝を折った。
「これは凌庵先生、英助先生・・・!この度は店の大恩人であるお二人に対して、何とお礼を言えばよいか・・・。」
忠兵衛は畳に頭をこすり付けようとしたが、凌庵が素早く手を差し伸べて制した。
「忠兵衛さん、無理をして動いてはいけません。さあ、脈を診ましょう……ほう、脈拍もしっかりとしている。毒はすっかり抜け、気血の巡りも良くなっている。もう安心ですよ。」
「先生方のおかげです・・・、それに・・・・。」
安堵の息をつく忠兵衛は、おゆみの事を口にする。
「おゆみさんは、本当にいい人だった・・・。おゆみにとっても・・・、良き姉の様な存在でした・・・。ようやく、あの子も立ち直ったのですが・・・。何も御礼も出来ないままお別れをし、口惜しくて・・・。」
少し躊躇いがちな表情を浮かべると、意を決したように凌庵に切り出した。
「先生・・・、不躾なお願いがございます。亡くなったおゆみさんのことなのですが・・・、人伝に聞けば何でも、おゆみさんの実の父親である留蔵さんのご遺骨も身寄りが無いためにろくな弔いも出されず、投げ込み寺に送られたとか・・・。つきましては、松屋の菩提寺に、おゆみさんと留蔵さんのお骨を一緒に引き取り、父娘共々、松屋ゆかりの墓に入れて手厚く葬ってあげたいのです。これが・・・罪を犯した彦助に代わる、松屋としてのせめてもの罪滅ぼしでございます。」
その申し出を聞いた凌庵と英助は、深く胸を打たれた。 陰謀の道具として利用され、無残に命を奪われた哀しい父娘が、ついに永遠の安らぎを得られる場所を見つけたのだ。
「此奴は・・・、ありがたいお申し出だ。おゆみも、泉下の父親も、これでようやく報われます。よろしくお願いいたします、忠兵衛さん。」
「とんでもございません・・・。それくらいの事をさせて頂かねば、罰当たりと言う物です!」
凌庵が深々と頭を下げると、縁側から可憐で弾んだ声が響いた。
「あたし、毎日お姉ちゃんのお墓にお参りに行くよ!お花もいっぱい持って行くの!」
「おう、おさよちゃん。元気になったようだね」
凌庵が優しく声をかけると、おさよは毬を抱え直し、胸を張って言った。
「あたし、頑張るの!おゆみお姉ちゃんみたいに、優しくて頼もしいお姉ちゃんになるの!」
「おさよちゃんなら、きっといいお姉ちゃんになれるよ。」
英助が目を細めて微笑むと、おさよはニッコリと満面の笑みを浮かべ、再び庭先へと駆けて行った。
その庭の佇まいの中には、穏やかな笑みを浮かべた後妻のおたかが立っていた。その胸の腕の中では、幼い赤子の忠助がぷうぷうと気持ちよさそうに寝息を立てている。
「先生・・・あの通り、おさよもすっかり元気になりました。本当に先生のお陰でございます。」
「いいや、おたかさん。あんたの存在と、深い愛情があったからこそだよ。」
凌庵の言葉を聞いたおたかは、どこか照れくさそうに目線を泳がせると、静かに自身の過去を語り始めた。
「実は・・・私はこれまで、おさよに対して母親らしいことを何一つしてやれなかったのです。昔、旦那様の前の奥様が病で亡くなる直前、『幼いおさよと旦那様をお願いします』と遺言を残され、身の回りの世話を始めたのがきっかけで夫婦になりました・・・。ですがどこかで『自分は本当の母親ではない』『前妻様からお借りしている身だ』という遠慮があったのかもしれません。ですがあの日・・・彦助が凄まじい様相で包丁を振り上げ、おさよに飛びかかった時・・・私の体が勝手に動いて飛びついていました・・・。自分の危険などまったく頭になく・・・自分でもどうしてあんな真似ができたのか・・・。」
おたかが不器用そうに小さく笑うと、凌庵は温かな眼差しで言葉をかけた。
「おたかさん、理由など簡単ですよ。あんたが、おさよちゃんの『本当のおっ母さん』だからです。」
「私が・・・、母親?」
「これは孤児になった私を育ててくれた恩師の受け売りですがね、『血は水よりも濃い。しかし上手く交われば、水もいずれ同じ色に染まる』・・・・。血の繋がらない者同士であっても、共に時を過ごし、互いを思いやる絆を育めば、それは紛れもない家族となるのです。確かにこれまでは遠慮があったかもしれない。だが、あんたの命がけの愛情はおさよちゃんに届いていた。理屈や血の繋がりではない。命を賭けて子を守ろうとしたその心こそが、母親である何よりの証ですよ。」
「先生・・・。」
おたかが感極まって涙をこぼし、言葉を詰まらせた、その時だった。
庭から駆け戻ってきたおさよがそっと歩み寄り、おたかの着物の袖を、キュッと小さく引っ張った。
「ねえ・・・。」
「なあに?」
「毬付き・・・、一緒にやろうよ。お・・・おっ母さん!」
「えっ・・・!」
ぎこちない言い方ではあったが、生まれて初めて「おっ母さん」と呼ばれたおたかの目から、大粒の涙がポロポロと溢れ出した。
「ええ・・・ええ!やりましょう、おさよ!」
おたかは泣き笑いの表情で何度も頷くと、おさよの小さな手をギュッと握りしめた。
そして腕の中の忠助をそっと忠兵衛の布団へと預けると、おさよの手を引いて庭へと躍り出た。
その光景を縁側から見つめていた忠兵衛の目からも、溢れ出る一筋の涙が頬を伝った。
「今・・・あの子がおたかを・・・、おっ母さんと・・・!」
すると、布団の上で目を覚ました幼い忠助が、庭で遊ぶおたかとおさよの姿を見つめ、小さな手を可愛らしく伸ばした。
「かか・・・、ねね・・・・!」
「喋った・・・!忠助が・・・・忠助が喋ったぞぉーっ!」
忠兵衛は大歓声を上げ、我が子を抱き上げた。おたかとおさよが本当の母娘となり、これまで言葉 を発しなかった幼い忠助が言葉を覚える。まさに盆と正月が一緒に訪れたかのような幸福の光景に、忠兵衛は大粒の涙を流してはしゃぎ倒した。
その様子を、凌庵は腕を組みながら穏やかな笑顔で見つめていた。
「本当の・・・、親子になれたようだな」
立場や知識を超え、凌庵と英助も温かな笑みを交わし合った。
「もう・・・この家族は大丈夫ですね、先生」
「何を言っている。これから始まるんだよ、この家族は……」
英助の呟きに、凌庵は静かに頷いた。松屋を包んでいた暗い陰謀と毒殺の影は完全に消え去り、そこには新しく紡がれる家族の強い絆だけが、秋の陽光の中で眩しく輝いていた。
松屋での心温まる挨拶を済ませて外に出ると、周囲は段々と薄暗くなり、本格的な夕闇が江戸の街並みを包み込んでいた。
凌庵と英助は、八丁堀にある自分たちの城――「天竜堂」への帰路についていた。凌庵の右手には、一連の事件解決の礼として忠兵衛から贈られた、灘五郷の一級酒が入った重厚な角樽がぶら下がっている。
「これで無事に一件落着だ。さあ英助、天竜堂へ帰ったら、祝杯として一杯飲むか!」
「そうですね。彩乃さんに怒られない程度に……ほどほどにお願いしますよ。」
「なに、あの威勢のいい看板娘も、今日ばかりは目をつむるさ。」
そんな軽口を叩き合いながら、二人は天竜堂の門をくぐろうとした。
――その、瞬間である。
「きゃああああああああーーーっ!!」
「嫌ぁぁぁぁっ! 来ないで! あっち行ってぇぇっ!」
店の中から、彩乃と美咲の腹の底から絞り出したような、裂けるような悲鳴が響き渡った! 続いて、ガタガタゴトゴト! と家具や薬箪笥、焼き物の薬瓶が倒れる物凄い破壊音が聞こえてくる。
「何だ!?」
「何かあったのでしょうか!?」
「どうした!?喧嘩か!乗り込みか!?」
凌庵と英助は顔色を変え、勢いよく土間の引き戸を開け放ち、飛び込んだ。
しかし、二人が目にしたのは・・・およそ予想だにしない異様な光景であった。
着物の裾を膝の上まで豪快にまくり上げた彩乃が、顔を真っ赤にして息を荒げ、巨大な箒を剣豪のごとく振り回している。一方、美咲は腰を完全に抜かした様子で、部屋の太い大黒柱にしがみつき、ガクガクと震えていた。
「どうした彩乃殿!?」
「泥棒ですか!?」
凌庵が叫ぶと、彩乃は涙目になりながら叫び返した。
「違いますよ!!蜥蜴ですよ!!」
「と、蜥蜴ぇ?」
あまりに意外すぎる理由に、凌庵は素っ頓狂な声を上げた。
「何ですかその言い方は! 私、蜥蜴とか蛇とか蛙とか、あの気味が悪い生き物は大っ嫌いなんです!!」
「あーそういえば以前、イモリの黒焼きの生薬を見ただけで悲鳴を上げて逃げ出していたと、先生が言っていたような。」
英助が思い出したように手を打った。
「分かっているなら何とかしてください!!」
彩乃が半狂乱になって箒の先で指さした先の壁を見上げると、そこには三寸(十センチ)程の小さな生き物が、ペタリと可愛らしく貼りついていた。大きなつぶらな瞳と、広く大きな手足。
「なんだぁ・・・、ヤモリじゃないか」
凌庵は拍子抜けして腕を組んだ。
「蜥蜴とは似て非なる物だぞ?」
「同じような物ですっ!!」
「まあまあ、彩乃さん。ヤモリは漢字で『家守』と書きますからね。家の中にいる害虫を食べて、 家を守ってくれる大変に縁起の良い生き物なんですよ。」
英助が苦笑しながらフォローを入れる。すると彩乃は箒をビシッと構え直して二人に怒鳴り散らした。
「そんな呑気な事言ってる場合ですか!!縁起が良いとかどうでもいいです!早く何とかしてください!!」
「先生!凌庵様!これは大変な事件です!天竜堂への押し込みです!!」
美咲が大真面目に悲壮感を漂わせながら叫ぶ。
「押し込みって・・・、強盗じゃねえんだから」
凌庵が呆れ顔で深いため息をつくと、横から英助がふと真面目な顔になって発言した。
「先生・・・、そういえばヤモリって、捕まえて干して粉にすれば漢方でいう蛤蚧という貴重な生薬になりませんか?」
珍しく冗談を言った英助に対し、凌庵もニヤリと意地悪な笑みを浮かべて乗っかった。
「おお、そうだな!喘息や強壮剤、皮膚の薬になる。よし英助、あいつを捕まえて天日干しにして みるか?」
「英助さんッ!!先生ぇぇっ!!恨みますよーーーっ!!」
今にも此方を引っ叩こうと、彩乃が鬼の形相で箒を構えている。
「わかったわかった、冗談だ!」
彩乃が絶叫した、まさにその時であった。
――カサカサッ!
壁の隙間から、なんともう一匹の大きなヤモリが姿を現した! さらに、そのヤモリに追われるよ うにして、手のひらほどもある大型の女郎蜘蛛までが天井の梁から這い出てきた。女郎蜘蛛はヤモリの追撃から逃れようと、ツーッと腹から糸を出して彩乃の頭上へと垂れ下がってきた。
「嫌あああああっ!!もう一匹いたあああッ!!!」
「ぎゃああああ!! 蜘蛛まで来たぁぁぁぁっ!! 助けてーーーっ!! であえであえぇ!!曲者ォ!!」
彩乃達のパニックは頂点に達した。彩乃はなりふり構わず箒を振り回しながら英助の背中に隠れ、美咲は凌庵の十徳の裾にしがみついて悲鳴を上げる。診察室の丸椅子が転がり、薬袋が舞い散り、天竜堂の中は大混乱の大騒ぎとなった。
「毒饅頭の陰謀が終わったと思えば、今度は家の中のヤモリ騒ぎか・・・。」
「英助さん!黙ってないで手伝いなさい!!」
「は、はい!!」
凌庵は天を仰ぎ、どこか楽しそうに「やれやれ」と深いため息をついた。英助もまた、困り果てた不器用な笑顔を見せながら、ヤモリと蜘蛛を捕まえようと腕捲りを始める。
その時――。
表の引き戸が静かに開き、夕闇の差し込む口から、戸惑いがちな客の声が響いた。
「あのう・・・すみません。急に腹が痛くなっちまって、診ていただけませんか?」
「あっ・・・。」
一瞬で静まり返る院内。
続いて、その客の後に「私も・・・」、「先生、いらっしゃいますか」と、二、三人の市井の患者が暖簾をくぐってきた。
大騒ぎをしていた彩乃も美咲もピタリと悲鳴を止め、乱れた着物を慌てて整える。凌庵と英助は顔を見合わせた。
凌庵はすっと表情を柔らかく整えると、酒の角樽を静かに置き、いつもの温かな町医者の声で優しく呼びかけた。
「おお、それはお辛かったでしょう。どうぞ、お入りなさい。天竜堂は、いつでも開いていますよ。」
暖かな行灯の光に照らされた天竜堂の敷居を、患者達が安堵の表情で踏み越えてくる。
江戸の街に訪れる平穏と、そこに生きる人々の命と暮らしを救うための凌庵たちの営みは、明日も、明後日も、そしてこれからも変わらず続いていくのだった。




