四十三
北町奉行所の大白洲は、照りつける陽光と白いお砂の反射によって、目が眩むほどの異様な熱気に包まれていた。 白砂の上に平伏させられているのは、いずれも江戸の市井を震撼させた一連の悪事に名を連ねる面々であった。
表向きは奉行所の身内でありながら裏で糸を引いていた与力の笠原兵馬。その配下として江戸市中の取り締まりに携わりながら、己の欲望に目を眩ませた同心の堀本伊三郎。 様々な顧客を持つ町医師でありながら裏の顔を持ち、自身でおしまを殺しておきながらその罪をおゆみに全て被せようと目論んでいた竹村朴庵。そして、闇の仕事に手を染めていた御用聞きの万吉と、すでに捕縛された松屋の番頭にして獅子身中の虫たる彦助。
彼らの顔には、己の犯した罪を悔いる色など微塵もない。
あるのは、長年笠着てきた地位や権勢への執着と、この裁きの場に対する不満、そして理不尽なまでの怒りであった。
「御奉行っ!しばらくお待ちを!!」
兵馬の濁った声が、白洲の静寂を破って高らかにこだました。兵馬は平伏した姿勢のまま頭を跳ね上げ、血走った鋭い眼光で金四郎を睨みつける。
「我らは町奉行所の直属、長年にわたり江戸の治安を預かってきた身内にございます! いかに上意とはいえ、この様な無頼の輩や町人どもと同列に白洲に座らされるなど、あまりに不服!即刻、お調べの撤回を願いたい!」
「左様でございます!」
同心の伊三郎もまた、兵馬に追従して声を張り上げた。
「我らが何ゆえ引き立てられねばならんのです! 高利貸しとの多少の付き合いや小遣い銭のやり取りなど、暗黙の了解! それを今更、このような白洲で晒し者にするとは、奉行所の威信に関わりますぞ!」
二人の騒ぎ立てに呼応するように、朴庵が十徳の袖を誇らしげに揺らしながら、甲高い声で割り込んだ。
「御奉行!私は幕閣の重臣方や諸大名家、更には由緒ある御家柄の御掛かりつけ医を務める身にございます!そのような高潔なるこの朴庵が、毒饅頭などという卑劣な事件に加担する道理がございましょうか!?何かの間違い、いや何者かの奸計に違いありませぬ! 速やかにこの身を解き放ち、嫌疑を晴らしていただきたい!」
悪党どもが一斉に自己の正当性を主張し、白洲は蜂の巣をつついたような騒然とした空気に包まれた。吟味方の与力や同心たちが思わず腰の十手へ手を伸ばすが、吟味の席に座す北町奉行・遠山金四郎は、微動だにせず彼らの見苦しい悪あがきを冷ややかな目で見下ろしていた。
金四郎はゆっくりと扇子を手に取ると、一拍置いて静かに裁き台を叩いた。
「其の方ら・・・言いたいことは、それだけか?」
金四郎の低く重みのある声が響いた瞬間、白洲のざわめきが打って変わり、ピタリと止んだ。白砂の反射が、金四郎の厳格な面持ちを白々と照らし出す。
「笠原兵馬、堀本伊三郎。ならびに医師、竹村朴庵。其方どもは身の清白を主張し、奉行所の面目や自らの地位を盾に取って裁きを免れようと狂奔しておるようだが・・・腹の底まで腐りきった言い逃れは、もはや通用せぬと知れ。」
金四郎の合図とともに、控えていた吟味方与力が一巻の書状を白洲の白砂の上へ静かに提示した。
「これは、高利貸しの隠れ蓑となっていた女商人・おしまが厳重に隠し持っていた帳簿である。」
金四郎の指先が、開かれた帳簿の墨跡を指し示す。
「ここには、其方ども堀本伊三郎と御用聞き万吉の名が、受け取った賂の金額、月日に至るまで克 明に記されておる。伊三郎、万吉。高利貸しの暴利を見逃し、甘い汁を吸っていたことは認めざるを得まい。」
伊三郎は額に脂汗をダラダラと浮かべ、喉を鳴らしながら言い返した。
「し、しかし御奉行!確かに金品のやり取りはございましたが……それは市中の情報を得るための必要悪! 賂を受け取り見逃した程度で、この大白洲へ引き立てられ、裁かれる理由は合点がいきま せぬ!」
「黙れッ!」
金四郎の雷のような喝が飛んだ。白砂がびくりと震え、伊三郎の肩が跳ね上がる。
「其方どもの罪は、単なる汚職にとどまらぬわ! すでに捕縛された御用聞き万吉は、厳しい吟味 の末に一切の悪事を白状した。喜左衛門の賄賂に目が眩み、罪なき娘・おゆみに及んだ残虐極まりない私刑! 更には笠原兵馬を仲間に引き入れ、陰謀に全面的に加担した事実をな!」
金四郎の手によって、次の一品が提示された。それは重厚な箱から取り出された、一通の血生臭い気配を纏う証文であった。
「これは、喜左衛門が厳重に保管していた証文である。笠原兵馬、其方の鮮明な爪印が捺されておるな。喜左衛門の不法な商いを奉行所の権力で揉み消す代わりに、巨額の利権を貪る約束を交わした誓約状だ。これでも身に覚えがないと言い張るか!」
兵馬の顔から一瞬にして血の気が引いた。爪印入りの証文という動かぬ汚職の証拠を突きつけられ、ぐうの音も出ない様子で白砂に突っ伏し、全身を激しく震わせる。
だが、裁きはそれだけでは終わらない。
白洲の脇、十徳を纏った医者の身分として静かに着座していた男がゆっくりと立ち上がった。凌庵だ。その穏やかだったはずの顔には、隠しきれぬ激怒の色が宿っていた。
「お前らの罪はそれだけでは無いぞ!人の道に外れた外道共!」
「何!? 医者の分際で言葉が過ぎよう!」
兵馬が顔を上げて叫び返すが、金四郎は手を挙げて「構わぬ」と兵馬を諫めた。
凌庵は金四郎に向き直り、静かに問いかけた。
「御奉行、これからお見せする物は貴殿の配下の落ち度を晒す事になるが、よろしいか?」
「許す。」
金四郎は微動だにせず、真っ直ぐに凌庵を見つめてうなずいた。
凌庵の手には、一巻の分厚い書状が握られていた。 静か、且つ氷のように冷たい歩調で前へ進み 出ると、その書状を伊三郎と万吉の目の前の白砂へ容赦なく叩きつけた。
バシッという鋭い音が白洲に響き、重苦しい沈黙が落ちる。
「おゆみが伝馬町牢屋敷で重傷を負い、牢医と共に体の傷跡を備に調べ記した物。そして、公儀の 定めに従って彫られる正当な罪人の刺青と、彼女の体に刻まれていた墨印を比較した物だ。よく見ろ。貴様も同心ならばわかるだろう。」
凌庵の静寂な、しかし怒りを秘めた声が悪党共の胸を刺す。
「私はこの記録を携え、牢医及び小石川養生所の医師たちと綿密な確認と検証を重ねた。結論は明白だ。おゆみやおしまの体に刻まれていた墨印は、公定の刺青役の手によるものでは断じてない。素人が刃物を叩きつけ、皮膚を抉り、粗雑な墨を流し込んだ、ただの残虐な痛ぶりに過ぎん。これを見せると、万吉は潔く吐いた! その場に堀本伊三郎、お前がいたと言う事もな!」
凌庵の鋭い眼光が、万吉と伊三郎を根こそぎ射抜く。
「幼いおゆみがどれほどの激痛に耐え、どれほど血を流し、身も心も引き裂かれたか・・・。この傷の深さ、肉の抉れ具合を見れば、医者の目には全てが見える。其方どもがやったのはお裁きなどではない。権力を悪用した、ただの惨酷な私刑だ! そして笠原兵馬、貴様はろくに判例を調べず、ただ刺青の身を見て先入観で伝馬町送りにした。墨を彫られ伝馬町送りにされ、おゆみがどれだけの苦痛を味わったか解るか!!」
「ひっ・・・!」
伊三郎が悲鳴を上げ、後ずさろうとしたが、逃げ場がないと知るや、その場に手を付いて深々と頭を下げた。兵馬もまた、何も言い返せずに沈黙を貫いた。その蒼白な沈黙こそが、自らの身勝手な不覚と不当な落ち度を認めた証しであった。
凌庵の魂の言葉は、命を落としたおゆみの無念と激痛を、そのまま大白洲の真ん中に鮮烈に再現してみせたのだった。
金四郎の顔もまた、まるで自分が直接叱責されているかのような痛恨の表情となり、重く深く頷いた。そして、すかさず裁きの言葉を重ねた。
「竹村朴庵!其方についても言い逃れは休題だ。其方の邸宅を徹底捜査した結果、毒饅頭事件に使用されたヒ素の分量と調合手順が克明に記された密書が押収された。さらに、一足早く捕まっていた彦助が、其方から直接毒薬を受け取り、指示を受けた旨を詳細に供述しておる!」
朴庵はもはや言葉を発することもできず、池の鯉のように口をパクパクと開閉させて固まった。
「そんな・・・、馬鹿なぁ・・・・。あんな・・・チンピラ女の為に・・・・。」
汚職、私刑、そして毒殺計画。すべての悪事の網目が完全に塞がり、悪党どもは白砂の上でぐうの音も出ず打ちひしがれた。
「吟味は尽くした。これより判決を言い渡す・・・。」
金四郎が裁きの決断を下そうとした、まさにその瞬間であった。
「ふふっ・・、ふふふ・・・ははははははッ!」
白洲に突如として異様な高笑いが響き渡った。笑い声をあげた主は、高麗屋の倅・喜太郎である。喜太郎は振り乱した髪の間から血走った目を覗かせ、凌庵を指さしながら、狂ったように叫び出した。
「沈まれ!」
「五月蠅い!!御奉行っ、御一同っ、騙されるなぁ!!あたしは見たのだ、そこにいる凌庵の正体 を!! こいつは医者などではない!夜の闇で刃を振るう鬼だ!騙り者だ! 三つ葉葵の名を騙る天一 坊だッ!!」
白洲が一瞬、激しくざわめいた。「葵の紋」や「天一坊」という禁忌の言葉が飛び出したことに、列席していた同心や与力たちが互いに顔を見合わせる。
しかし、金四郎は慌てる素振りすら見せなかった。金四郎は裁きの大判を力任せに机に叩きつけ、朗々と白洲を威圧した。
「静まれッ!」
一瞬で静まり返る白洲。喜太郎はしてやったりと言う顔を浮かべたていた。最後に一矢報いたと、 喜太郎は言葉を続ける。
「御奉行っ!この場を借りて進言いたす!高柳凌庵、こ奴は畏れ多くも上様御血筋を語り盗み人殺しをしでかす悪人でございますっ!私は確かに人を殺めましたが、あの婆も血も涙もない下衆。この世から悪党が消えただけの事・・・、そこを考慮し御採決を!!」
雲上人の名を騙る大罪人の目撃情報を提供する代わりに、刑を軽くしろと言う喜太郎の言葉。買ったも同然、喜太郎は思った。
しかし金四郎は冷ややか且つ、蔑むような目を喜太郎に向けた。
「兼ねてより伺っていたが・・・其方にはキチガイの気質があったようだな。罪の重さと恐怖のあまり、ついに正気を失い、無関係の医者を捉えて破廉恥な戯言を抜かすか。」
「ち、違う! あたしは狂ってなどいない! この目で見たのだ! こいつの裏の顔を、葵の威光を見たんだ!調べろ!こいつを調べろッ!この世はひっくり返るぞ!あたしは徳川様の偽物を暴いた英雄だっ!」
喜太郎は必死に叫び暴れ回ったが、金四郎の一喝を受けた捕方たちによって一瞬で地面に組み伏せられ、口を塞がれた。
「畏れ多くも葵の紋所や徳川様の名を軽々しく口にするとは・・・正しく乱心者、キチガイの所業じゃ。」
金四郎は一切の乱れもなく、厳粛に判決を読み上げた。
「判決を下す!笠原兵馬、堀本伊三郎。町方の任にありながら悪徳と結託し、奉行所の面目を著しく汚した罪、断じて許し難し。両名は即刻役職の任を解き、評定所より切腹の沙汰があるものと覚悟いたせ!」
兵馬と伊三郎の体に激震が走る。武士としての死を与えられたとはいえ、それは名誉ある討ち死にではなく、身内の不祥事の末の屈辱的な処刑に他ならなかった。
「御用聞き万吉は、私刑および汚職加担の罪により『終生遠島』!竹村朴庵、彦助、ならびに高麗屋倅、喜太郎!毒殺計画および無体な悪逆の数々、その罪断じて許し難し、よって市中引き回しの上『打首獄門』に処す!」
極刑の言渡しに、白洲の空気が完全に凍りついた。
「嫌だぁー!!あたしは死にたくない!助けてくれ!死にたくないぃー!!」
喜太郎は往生際悪く悲鳴を上げ、泥と砂にまみれながら、捕方たちによってズルズルと引き立てられて行った。竹村朴庵も膝の力が抜け、失禁せんばかりの様子で引きずられるように姿を消す。
悪党どもが去り、白洲にはただ照りつける陽光と、寂涼とした秋風だけが吹き抜けていた。吟味が終わり、事件の全てが終わりを告げたのだった。
白洲の喧騒が嘘のように静まり返った北町奉行所の奥書院。 格子戸越しに差し込む西日が斜めの光条を描き、室内に重々しい長い影を落としている。
凌庵と金四郎の二人は、そこに静かに対峙していた。 金四郎は身に着けていた町奉行としての威儀をそっと解き、一人の男として、深く凌庵に向かって頭を下げた。
「申し訳ない、凌庵・・・・。」
金四郎の声には、深い痛恨の色が滲んでいた。
「何故俺に謝る?」
凌庵は穏やかな目で見つめ返す。
「私の不手際だ。配下の与力と同心が腐敗し、高利貸しと結託していたことを見抜けなかった。そ のために・・・おゆみ殿という一人の尊い女の人生が台無しとなり、その儚い命が散ってしまった。奉行として、あまりに面目ない・・・。」
その謝罪は、単に天竜堂の町医者である凌庵に対する者に謝っているだけではなかった。 金四郎 は知っているのだ。凌庵の胸の中に眠る、もう一つの決して表に出してはならぬ身分――市井に身を 隠して生きる将軍の異母弟、松平源七郎としての存在。その姿なき雲上人に、自分の不甲斐無さを詫 びているのだ。
町方の不祥事が引き起こした悲劇について、金四郎は徳川の血を引く男に対しても、心からの悔悟を捧げていたのである。
凌庵は静かに首を振った。その表情には怒りも憎しみもなく、ただ深い虚無感と悲哀が漂っていた。
「頭を上げてくれ金さん、天下の町奉行が一介の町医者に頭を下げるなんてあってはならねえ。」
そう促された金四郎は、ゆっくりと頭を上げる。
「御上が何も言わぬのなら、俺も何も言わない。俺は金さん、あんたに雇われている身だ。奉行所のなさり様に口を出す気も無い。町奉行は御用繁多、全てに目を向けろと言ってもそれは無理な話だ。」
「だが・・・俺は情けない・・・。目が行き届かなかった為に、一人の女の人生をめちゃくちゃにしてしまった・・・・。これは奉行としてあってはならない事だ。」
町奉行職は、江戸幕府の官職の中でも類を見ないほど御用繫多であった。
江戸市中の行政・司法・警察・消防・土木・物価統制などを一手に担う要職であり、現代で言えば「東京都知事」、「警視総監」、「地方裁判所長官」、「消防総監」をたった一人で兼ねているような過酷を極めるポジションである。歴代の町奉行の中には、過労によって在職中に倒れ、命を落とした例すらあった。
しかし、金四郎はそれを理由に職務を疎かにするつもりもなかったし、今までも決して手抜きなどしてこなかった。だが、いくら尽力しようとも目が回り切らない限界があるのも紛れもない事実であった。
だからこそ、闇に隠れた悪を追う凌庵のような存在が、この江戸には必要なのだ。
「過ぎた事はもう良い、あまり悩んでは体に毒だ。おゆみ自身、自分の為にあんたが追い込まれるのは望んでいない。これからも頼ってくれ、天下万民の為に力を貸す。これは俺に課せられた、宿命だ・・・。」
凌庵の声は穏やかだったが、それだけに言葉の重みがずしりと響いた。 どれほど悪党を裁き、極刑に処したところで、失われたおゆみの笑顔と刻まれた傷痕が元に戻るわけではないのだ。
「凌庵・・・、若様・・・・。」
金四郎は思わず「若様」と口にした。凌庵のうちに眠る真の身分への、無言の詫びと敬意であった。
「喜太郎は最後にな、凌庵殿・・・其方の正体を白洲で叫んだ。あの場ではキチガイとしておいたが、中には疑いを持っている者もいるはず。」
金四郎が静かに話題を変えた。
「天一坊か・・・、そうかもしれねえな。」
凌庵は自嘲気味に呟く。
「本来ならば江戸城にある本丸にあるべき身が、故合って市井にある。本来ならば俺のような存在はあってはならぬ・・・。俺を知った身からすれば、語り者以外の何物でもないだろうな。」
「『三つ葉葵の名を騙る天一坊だ』・・・。だが、案ずることはない。所詮は死にゆく罪人の最後の戯言だ。確固たる証拠もないのに、将軍家を相手に不審を抱き、調べるような命知らずは江戸中を探してもおらんよ。」
「解っている、今のところは心配はしておらぬ。だが、安心は出来ぬ・・・。」
「と言うと?」
金四郎の問いを聞いた凌庵は煙管を取り出し、紫煙をふうっと吐き出しながら、凌庵は神妙な顔を浮かべた。
「今に俺の身辺を疑い、秘密裏に調べる物が出てくるだろう。喜太郎の様な物が仕置されたとしても、俺の体に流れる血のせいで再び災いを呼ぶだろう・・・。」
「凌庵・・・。」
「俺とて、大人しくしていなければいけない身だが、世の中が乱れたのならそれを治すのも医者の務め。それが出来ぬ。」
「解っている」
「今に来るだろう。俺に疑いを持つ者、徳川に仇なす者、俺のうちに秘める威光、血を暴き出そう とする者は、形を変えていずれまた現れる。そう思えば、おちおち枕を高くして眠ることも出来ぬ な。徳川の血等・・・御落胤である事等・・・私にとっては迷惑極まりない代物よ。」
ふふっと寂しげな笑顔を浮かべる凌庵だったが、その瞳の奥には「普通に産まれたかった」という声にならない切ない嘆きが込められていた。
権力者の血を引いただけで権力者となるこの時代。徳川家という途方もない血を引いた凌庵は、生まれついて雲上人の身分を得ると引き換えに、権力者が抱える陰惨な宿命をも同時に背負わねばならないのだ。 凌庵の言う「迷惑極まりない」という言葉は、そうした残酷な武家の事情に対する、最大の拒絶と悲哀の表現であった。
その声に出さない凌庵の嘆きを感じ取り、金四郎はそれ以上言葉をかけることができなかった。金四郎もまた、徳川の家臣として、そして凌庵の理解者として、その苦労と孤独が痛いほど理解できたからである。
すると凌庵は煙草入れに煙管をしまい、十徳の袖を翻してすっと立ち上がった。
「では金さん、俺はこれで失礼する。罪人たちには然るべき仕置をな・・・それから高麗屋に仕える店の者の身の上も・・・。」
「承知した。態々済まなかったな。」
「また何かあれば、何時でも御用命を・・・。」
そう言われた金四郎は頭を下げ、直ぐに「凌庵殿」と再び呼びかけたが、凌庵は振り返ることなく、すっと背を向けたまま奉行所の奥書院を去って行った。
奉行所の重厚な門を潜り抜けると、すっかり茜色に染まった夕暮れの秋風が、凌庵の十徳の裾を優しく揺らした。
八丁堀の街並みには、今日という一日を終えた市井の人々の営みが溢れている。豆腐売りの客寄せの声、夕飯の薪をくべる匂い、無邪気に駆け寄る子供たちの笑い声・・・。
凌庵は一人、その雑踏の中へと静かに歩みを進める。 その背中はどこまでも孤独であり、同時に何ものにも屈しない固い決意に満ちていた。
おゆみの命を奪った悪徳の根は絶たれた。これでおゆみは浮かばれる事だろう。
しかし、凌庵の前に広がるのは、己の血と宿命が織りなす無限の影であった。天竜堂の薬箪笥には、明日もまた病に苦しむ町人たちがやってくる。医者として命を救い、影の刺客として悪を斬る。その二つの生き様こそが、松平源七郎ではなく「凌庵」として生きる男の選んだ道であった。
凌庵は十徳の襟を少しだけ正すと、茜色から群青へと変わりゆく江戸の影の深みへと、迷いなく消えて行った。




