四十一
天竜堂の奥深くにある治療室。
薄暗い室内には、行灯の油の匂いと、生臭い血の匂いが重く立ち込めていた。微かな夜風にゆらゆらと揺れる行灯の仄暗い灯りの中で、高柳凌庵は無言のまま、血で真っ赤に染まった己の手を桶の水で洗っていた。
白かった桶の水は、手を浸した瞬間にどす黒い朱色へと変色していく。凌庵が洗っても、洗っても、爪の間にこびりついた血は容易に落ちようとはしなかった。
おゆみの傷は、あまりにも酷すぎた。彦助の放った短刀は、ただ腹を刺し穿っただけではなかった。刺さった拍子に、逃がすまいとした彦助が刃先をさらに奥へとねじ込み、力任せに横へ押し開いたのだ。それによっておゆみの腹膜は破れ、肝臓は無惨に引き裂かれ、腹中はおびただしい出血で満たされていた。桑の糸を用いた縫合の手術は困難を極め、凌庵の卓越した神技をもってしても、破れた血管を縛り、溢れ出る血を止めるのが精一杯であった。
何とか縫合を終えたものの、凌庵の手はかすかに、しかし確実に震えていた。その額からは油汗が噴き出し、眉根は苦痛に引きつったまま酷く険しく寄せられている。
「先生!おゆみさんは・・・!?おゆみさんは助かるのですね!?」
枕元に詰めていた英助が、まるで畳に身を乗り出すようにして、縋り付く思いで尋ねた。英助の顔は蒼白で、目には溢れんばかりの涙が溜まっている。
凌庵は血の混じった桶の水を静かに見つめたまま、悲痛な面持ちで、重く、ゆっくりと首を横に振った。
「・・・刃が臓物まで深く引き裂いている。おまけに中で刃をねじ込まれた・・・。現代の外科の術をもってしても・・・・出血を止めるのが精一杯だった。俺にできる限りの手立ては、すべて尽くした・・・・。」
「助からないと言うのですか!ほんと位に助けられないのか!?そんなバカなことがあってたまるか!先生は名医じゃないか!どんな大怪我だって治してきたじゃないか!」
「医者は・・・神様ではない。後は・・・、本人の気力次第だ。」
「先生は冷酷だ!見捨てるのか!!」
「英助さん、落ち着いて。」
彩乃に窘められ、英助はようやく落ち着いた。
英助は糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
敷布団の上に横たわるおゆみは、なおも激しい傷の痛みに耐かねるように、「うう・・・。」と引きつった呼吸とともに小さくうわ言を漏らしていた。薄い胸が痛々しく上下し、今にも途切れそうな命の火が、幽かに揺らめいている。
その時、静寂を破って障子が行儀もなく勢いよく開かれた。
「おゆみさん!おゆみさんッ!!」
駆け込んできたのは、松屋忠兵衛であった。まだ病上がりの体でありながら、後妻のおたかに肩を支えられ、幼いおさよの手を引いて部屋へ雪崩れ込んできたのだ。
忠兵衛はおゆみの枕元へ膝から崩れ落ちると、畳に両手を突き、額を擦り付けて叫んだ。
「申し訳ない!私のために・・・私の・・・私の身代わりになるなんてっ!」
凌庵は静かに桶から手を上げ、手ぬぐいで拭いながら低く言った。
「おゆみさんは・・・、真から貴方たちを助けようと飛び出して行ったんだ。自分を信じてくれた忠兵衛さんを・・・、仲良しのおさよちゃんを、毒殺者の手から守るために・・・。」
凌庵のその言葉が耳に届いたのか、おゆみの長い睫毛がかすかに震えた。
「・・・んっ・・・せ・・・んせ・・え・・英助・・・さん・・・・。」
おゆみの瞳が、ゆっくりと、うっすらと開かれた。混濁した視界の中で、おゆみは心配そうに見下 ろす凌庵と、枕元で必死に自分の手をとっている英助の姿を捉えた。
英助はおゆみの氷のように冷たくなった小さな手を、両手で包み込むようにして強く握りしめた。
「おゆみさん!ここにいます!私はここにいますよ!しっかりしてください!」
おゆみの蒼白な唇が、微かな笑みを形作った。顔色は紙のように白く、血の気が失われていたが、 その瞳だけは濁りが消え、まるで澄み渡った秋の空のように美しく輝いていた。
「・・・よかった・・・、旦那様も・・・、おさよちゃんも・・・、ご無事で・・・。」
「貴女のお陰です・・・!おゆみさん、貴女が命を張って教えてくださらなかったら、私は・・・、松屋は全滅していました!」
忠兵衛が哭いた。おゆみは弱々しく首を振った。
「これで・・・、身体を張ったかいがあったってもんよ・・・。いつ死んでも・・・、悔いはないねえ・・・。」
「バカなことを言うな!」
英助の目から、溜まっていた大粒の涙がこぼれ落ち、おゆみの甲の上にぽたりと落ちた。
「死んではいけません!あなたは・・・あなたはこれからもっと、幸せにならなきゃいけないんだ! 綺麗な着物を着て、美味しいものをたくさん食べて・・・幸せになる権利があるんだ!死んでいい理由なんて、どこにもないんだ!!」
英助の必死の叫びに、おゆみは愛おしそうに、慈しむような眼差しで英助の顔を見つめ返した。
「・・・英助さん・・・あたし・・・これで・・・まっとうな乙女になれたかな・・・?腕に墨を彫られ・・・人から蔑まれ・・・ずっと自分のことを、汚い人間だと思って生きてきた・・・。でも・・・そんな私でも・・・・誰かを守れた・・・。あたしも・・・真っ当な人間になれたかな・・・。」
英助は胸が鋭い刃物で引き裂かれるような激痛を覚え、頭を激しく横に振った。
「当たり前だ!乙女どころか、あなたは誰よりも尊く、美しい女性です!誰もあなたを罪人などと思っていない!当たり前じゃないか!!」
おゆみは嬉しそうに、くすくすと力なく笑った。その小さな笑い声すら、息が漏れるような儚さであった。
「・・・嬉しいな・・・。おさよちゃん・・・・。」
「お姉ちゃん!」
おさよがおゆみの胸元へすがりついた。おゆみは最後の力を振り絞るようにして左腕を持ち上げ、おさよの柔らかい髪を愛おしそうに撫でた。
「おさよちゃん・・・おたかさんはね・・・・とっても立派なおっ母さんだよ。だから・・・おた かさんと、忠助坊ちゃんと・・・仲良くね・・・。」
「うんっ・・・うん!だからお姉ちゃん、行かないで!また一緒に遊んでよ!!」
ニッコリと微笑むと、おゆみの視線はゆっくりと、再び英助へと戻った。その深みのある瞳には、 今まで固く胸の奥底に秘めていた、純粋で深い情愛の光が宿っていた。
「英助さん・・・あたしね・・・・あたしの事を庇ってくれたあの日から・・・ずっと・・・・英助さんの事が好きだった・・・・。」
「おゆみさん・・・!」
「もし・・・もし生まれ変わったら・・・英助さんのところへ行っていいかい・・・?墨印のない・・・綺麗な身体になって・・・あんたのお嫁さんになりに行ってもいいかい・・・?」
英助はおゆみの手を折れんばかりに強く抱きしめ、声を限りに叫んだ。
「いい・・、・・・いいやダメだ!生きてくれ!今のそのままでいい!生きて・・・元気になって 私のところに来てくれ!!生まれ変わりなんて待てるか!今、ここで幸せになってくれ!!」
英助の魂の叫びが、狭い治療室の中に虚しく響き渡った。
おゆみは、本当に幸せそうに、穏やかな目元で英助を見つめた。
「・・・せっかちだねぇ・・・。」
おゆみの細い指先が、英助の濡れた頬にそっと触れた。
「・・・・あんたが言ったんじゃないか・・・『果報は・・・・寝て待て』・・・って・・・。」
その言葉を最後に、おゆみの指先から、すっと一切の力が抜けた。
頬に触れていた手が、力なく畳の上へと滑り落ちる。くうっ、と深く求めた大きな息がひとつ吐き出され、二度と新しい息が吸い込まれることはなかった。
「おゆみさん・・・?おゆみさんっっ!!」
英助がおゆみの動かなくなった体を抱きしめ、獣のような声で慟哭した。
「お姉ちゃん? ねぇ、お姉ちゃん・・・?」
おさよがおゆみの顔を覗き込んだ。だが、おゆみはもう答えない。その綺麗な顔は、苦痛から解放され、まるで静かに深い眠りについたかのように穏やかであった。
「お父っつあん・・・おたかさん・・・お姉ちゃん、なんで口をきいてくれないの・・・・?」
忠兵衛もおたかも、ただ声を押し殺して涙を流すことしかできなかった。その大人たちの姿を見 て、幼いおさよもまた、おゆみに訪れた絶望的な「死」を理解した。
「嫌だあぁぁぁっ!お姉ちゃん、起きてよ!起きてよぉッ!!」
おさよはおゆみの動かない胸を小さな拳で叩きながら、狂ったように泣き叫んだ。
「また遊んでよ!また毬付き教えてよ!今度は鬼ごっこ負けないよ!!これからもまた・・・あたいのお姉ちゃんになってよぉ!!」
「おさよ・・・!」
おたかがおさよを後ろから強く抱きしめ、ともに身をよじるようにして涙に暮れた。忠兵衛は畳に 額を強く擦り付け、自らの無力さと甘さを呪いながら号泣した。おゆみの閉じられた目元からも、一筋の透き通った涙が、静かに伝い落ちて髪を濡らしていた。
部屋の隅では、控えめにおゆみの無事を祈っていた彩乃もまた、理不尽に散らされたあまりにも幼い命の最期を前に、手ぬぐいを口に当てて肩を震わせていた。
英助はおゆみの冷たくなっていく遺体を強く抱きかかえたまま、涙と鼻水でボロボロになった顔を凌庵へ向けた。
「先生・・・!確かにおゆみさんの親は罪を犯し、悪い人間に利用されたかもしれません・・・!しかし・・・、ここまでの罪なのですか!?腕に墨を彫られ、汚され、罵られ・・・・最後には殺されねばならない程、おゆみさんが一体何をしたというのですかぁぁッ!!」
英助の吐き出す言葉は、この不条理で冷酷な世の中に対する、血を吐くような悲痛な問いかけであった。
凌庵は、何も答えなかった。
答えるための言葉など、この世のどこにも存在しないことを知っていたからだ。
凌庵は静かにおゆみの枕元へ近づくと、彼女の目元に残っていた一筋の涙を指先でそっと拭い、その瞼を、慈しみに満ちた優しい手つきで深々と閉じてやった。
(おゆみさん・・・。お前さんの無念、そしてお前さんが命をかけて守ったこの絆……絶対に無駄にはしない。)
凌庵がゆっくりと立ち上がった時、その背中には、これまで見せたこともない静かな、しかしマグマのようにドロドロと渦巻く巨大な怒りの炎が宿っていた。
堀本伊三郎、笠原兵馬、竹村朴庵は捕らえた。だが、奴らは所詮、巨大な闇の先端についた蜥蜴の尾に過ぎない。この悲惨極まる惨劇を引き起こし、人の命を虫ケラのごとく弄んだ本当の黒幕——幕 閣の土屋出雲守、そしてすべてを金で狂わせた高麗屋喜左衛門。
「奴ら・・・絶対に許しておかねえ・・・。」
凌庵の冷徹な刃のような視線は、天竜堂の屋根を越え、闇の奥深くに潜む真の悪陣へと注がれていた。
呉服橋の惨劇、天竜堂での悲劇が嘘のように、神田駿河台に佇む勘定奉行・土屋出雲守の屋敷は、静まり返っていた。
高い土塀に囲まれた敷地内には幾重もの重厚な門が構えられ、夜陰に乗じて忍び込もうとする者など一切寄せ付けぬ堅固な構えを見せている。しかし、その奥深く、豪奢な紫壇の柱と眩い蒔絵の調度品で飾られた上段の間には、権力と金銭に酔いしれる悪党どもの頽廃した空気が澱んでいた。
床の間を背にして座るのは、幕府勘定奉行の座を狙う旗本・土屋出雲守。その向かいには高麗屋喜左衛門。そして喜左衛門の隣には、どこか甘やかされた若旦那風を残しながらも、目に残忍な光を宿した息子の喜太郎が座している。
部屋の中央には、豪華な酒肴とともに、黄金色の蒔絵が施された漆塗りの重箱が置かれていた。
出雲守は細い煙管から紫煙をくゆらせ、満足げに目を細めた。
「ふっふっふ・・・今頃は松屋忠兵衛め。床の中で腹を抱え、のたうち回っている事でしょうなあ・・・。」
喜左衛門が手揉みをしながら、卑屈極まりない追従の笑みを浮かべる。
「毒入りの山吹饅頭が、最後の馳走とは・・・。あの頑固者には、まことにお気の毒な事でございます。」
その言葉を受け、喜太郎が手にした蒔絵の猪口を揺らし、クスクスと肩を揺らして軽口を叩いた。
「山吹色の小判を稼いだ豪商の最後の馳走が、山吹色のまんじゅうとはねぇ・・・。いやはや、洒落にもならないよ。」
「口が過ぎるぞ喜太郎・・・・。」
父と権力者の凶悪な会話に追従し、自分もまたその「強者」の側に立っている気取りで、喜太郎は浅薄な笑いを浮かべていた。出雲守は満足げにうなずき、煙管の灰を火鉢の縁でトントンと叩き落とした。
「まあ良い、これで障害は全て取り除かれた。跡部良弼を追い落とし、この儂が勘定奉行の筆頭としての地位を盤石なものとする日も近い。金蔵の金は使い放題、江戸の商人達を生かすも殺すも、我が掌の上で思いのままと執り行える・・・・。」
喜左衛門の目が、強欲な光でぎらりと輝いた。
「ご苦労御察し申し上げます。これで高麗屋の天下も揺るぎないものとなりますな。」
「そう簡単な事では無い。中々に気苦労が多いのだ。金を自由に操れるのは、相応の重責と対価を支払っているからこそなのだ。ようやくここまで来た。」
「ははっ、重々承知いたしております。誠におめでとうございます」
出雲守は酒を一口含み、その顔に冷酷で深い野心の陰を走らせた。
「祝いの言葉はまだ早い。儂が狙っているのは、単なる跡部良弼の追い落としなどという小事では ない。己が息の掛かった者どもで周りを固め、首座の地位にふんぞり返っておる水野に目に物を見せる事にあるのだ。」
出雲守の声が、低く鋭い憎悪に満ちていく。
「あの両名・・・、かの大飢饉においても、またあの大塩の乱においても、ろくな働きもせず事態を悪化させておきながら、今なお幕府中枢の甘い汁を吸い、居座り続けておる。儂はそれがどうにも気に食わぬのだ。儂の行う手立ては、いわばこの爛れ切った幕閣の膿を綺麗に絞り出すための、義挙なのだよ・・・・。」
喜左衛門が深く頷き、我が意を得たりとばかりに手を打った。
「なるほど・・・つまり、あの松屋忠兵衛や、これまで毒饅頭を喰らって死んでいった愚者どもは、幕府の腐敗を防ぎ、出雲守様が新たな秩序を打ち立てるための人柱、いや生贄という訳でございますな。」
「まあ、大した生贄ではないがな・・・。ハハハ。世の礎石となれたのだ、奴らも本望であろう。」
出雲守は冷笑を漏らすと、ふと思い出したように喜左衛門へ視線を移した。
「それはそうと・・・喜左衛門。其方の周りをうろついていた、あの鬱陶しい女はどうなった? 奉行所に駆け込もうとしていたとかいう、前科者の女だ・・・。」
その問いに、喜左衛門は面倒そうに手を振ってみせた。
「ああ、あのおゆみという女ですか。それについてはご心配には及びません。堀本の旦那や笠原の御役人様が、今頃は良しなに片付けてくれている事でございましょう・・・。まったく・・・こんな事になるなら、遊び半分に刺青を彫らせるだなんて、余計な事をするんじゃなかった。ただ黙って頭から冷水でも浴びせ、路地裏へ叩き出せばよかったのだ。」
すると、横で酒を飲んでいた喜太郎が口を挟んだ。
「刺青を彫らせるだなんてさぁ・・・お父っつあんもひどい事をするじゃないか。それに比べりゃ、あたしなんざ可愛いものだ・・・・。」
「黙れ馬鹿者!」
喜左衛門の雷が落ちた。
「もう二度とあのような馬鹿な真似をするんじゃないぞ!高麗屋の暖簾から叩き出されたくなければな!」
「ちぇっ、お父っつあんたら、いつまでも小言を言わないでおくれよぉ・・・。」
喜太郎が不満そうに口を尖らせると、その様子を見ていた出雲守が、珍しく楽しそうに細い目を破顔させた。
「これこれ、親子仲良くせい。これから我らが手にする巨万の富を前にして、争うものではない。」
「ははっ、これは出雲守様の前で失礼をいたしました。さあ、出雲守様、祝杯の酒をもう一杯・・・。」
喜左衛門が酒瓶を手に立ち上がろうとした、その時であった。
「——仲良く冥途へ旅立つか?」
天井の闇から落ちてきたのは、凍てつく氷のように冷たく、そして地獄の底から響くような地鳴りのごとき声であった。
「何奴!?」
出雲守が跳ね起きるように叫び、懐から合図の鈴を取り出そうとした。
その瞬間、バリンッ!と言う激しい音とともに白い障子が豪快に破られ、外から大きな何かが室内へ叩き込まれた。
「ひぃっ!?」
喜太郎が情けない悲鳴を上げて腰を抜かす。
畳の上に叩きつけられたのは、口にきつく猿轡を噛まされ、極太の縄で亀の甲縛りにされた高麗屋の手下・万吉であった。万吉は白目を剥き、恐怖に体を痙攣させてのたうち回っている。
「な・・・万吉!?なぜお前がこのようなところに!」
喜左衛門が絶句する中、頭上の天井から一筋の影が風のように舞い降りた。
着地は静まり返り、足音一つ立たない。
降り立ったその者は、夜風に白ためく一領の白頭巾を深く被り、濃紺の着流しに身を包んでいた。着物の袖からは、鍛え上げられた前腕と、身の毛もよだつほどの圧倒的な殺気が溢れ出している。
白頭巾の剣士——葵幻之介である。
「き・・・貴様、何者だ!!」
出雲守が腰の刀の柄に手をかけ、怒号を飛ばした。密室の空気は一瞬にして急冷し、燭台の炎が激しく揺らめく。
凄まじい威圧感を放ちながら、一歩、また一歩と悪党どもへ歩み寄った。
「勘定奉行、土屋出雲守。そして高麗屋喜左衛門・・・。」
幻之介の声は、密室の壁を震わせるほど重く、低かった。
「公儀の職権を悪用し、幕府の金を貪り、己の野望のために罪なき市井の民を毒殺せしめた罪。さらには、己の過去の罪悪を隠蔽せんがため、高麗屋の裏帳簿を巡って数々の暗闘を繰り広げ、人を人とも思わぬ所業を重ねてきた罪・・・万死に値する!」
「ぬう・・・知った風な口を!顔を見せい!」
出雲守が凄むと、幻之介は静かに立ち止まった。
そして、ゆっくりと熟練の仕草で頭上の白頭巾を脱ぎ捨てた。
そこに現れたのは、鋭い眼光を爛々と輝かせた高柳凌庵の顔であった。その目には、深紅の怒りの炎と、抑えきれぬ慟哭の情が渦巻いている。
「お前は!?天竜堂のおろく医者!?」
喜左衛門が叫び、見開いた目を剥き出しにした。
「なぜお前がここにいる!堀本や笠原はどうした! 朴庵はどうしたのだ!?」
「奴らなら、全員奉行所の縄目にかかったよ。」
凌庵の言葉は、氷の突起となって喜左衛門の胸を突き刺した。
「高麗屋喜左衛門・・・!自分勝手な私利私欲のために、どれだけの命を弄べば気が済むんだ。過去の傷を癒やし、ようやく・・・ようやく前へ進もうとしていたおゆみは・・・・!」
凌庵の拳が、爪が皮膚に食い込むほど強く握りしめられた。
「テメエらの身勝手な都合のために死んだんだよ!!踏みにじられた命の無念の叫びを・・・テメエら、ただの一度でも聴いたことがあるのか!!」
凌庵の咆哮が密室に轟き、金屏風がバリバリと振動した。
「そして土屋出雲守! 改革だの膿を出すだのと、最もらしい屁理屈を並べ立て、その実、金と地位を我がものにしようとした汚い本性……もう御上の耳に達しているんだぜ!?」
「何だと!?どういう事だ!」
出雲守の顔面から、サーッと血の気が引いていく。
「それほど欲に目がくらんじゃ、この紋所も翳むだろうよ。」
凌庵は懐から、一振りの脇差を見せる。鞘に燦然と輝く「三つ葉葵」の紋章が刻まれた、気品ある 脇差を静かに取り出し、悪党どもの目の前へ突きつけた。
「葵の御紋ちらしの脇差・・・、まさか!?」
「上様名代、松平源七郎斉勝・・・。天下万民に成り代わり、貴様らを成敗する!!」
「くっ・・・、ぬうううっ!」
追いつめられた出雲守は、もはや逃げ場がないことを悟り、顔を鬼のように真っ赤に怒らせて絶叫した。
「戯言を言うなァッ!藪医者の分際で上様御舎弟を語るとは笑止!出あえ!出あえッ! この曲者 を細切れにして捨て置けぇぇッ!!」
密室の左右の唐紙が一斉に破れ渡り、奥の部屋や廊下から、白刃を抜き放った土屋家の屋敷用心棒 たちが雪崩のように飛び込んできた!
その数、十五、六人。いずれも目録を得た、血生臭い強者たちである。
「叩き斬れぇぇっ!」
「斬り捨てろッ!」
飛び込んできた一番手の用心棒が、上段から凌庵の脳天目がけて刀を振り下ろした。空を切る鋭い切先。凌庵は、間一髪で体を紙一枚分沈めると、鞘に収まったままの太刀の柄頭で、男の鳩尾を正確無比に撃ち抜いた。
「グハッ!?」
男が悶絶して崩れ落ちるのと同時に、左右から襲いかかる二人に対し、凌庵は一気に太刀を抜き放った。
一閃された銀光が、暗闇を鮮やかに切り裂く。
「ぎゃあああっ!」
二人の腕から血飛沫が噴き出し、刀が畳の上にからからと転がった。
「ええい、怯むな!囲んで殺せ!」
残る用心棒たちが一斉に刀を構え、じりじりと間合いを詰めてくる。凌庵の周囲は完全に白刃の檻と化していた。
だがその時、密室の障子が外側から破裂するように弾け飛んだ。
「助太刀いたす!」
鋭い叫びとともに躍り込んできたのは、漆黒の忍び装束に身を包んだ御庭番・梶野弥一郎。 その手には、反りの少ない武骨な「忍び刀」が逆手に握られている。
さらに、もう一人の影が旋風のごとく室内に飛び込んできた。北町の密偵、吉兵衛だ。吉兵衛の手 には、両端にずっしりと重い鋼鉄の鎖分銅が取り付けられた、右手には三尺ほどの特殊な手槍が握ら れていた。
「凌庵殿!助太刀致す。」
「遅いぞ、二人とも!」
「申し訳ございません、その分お役立ちいたしやす!」
吉兵衛が不敵に笑うと、手槍を旋回させた。猛烈な風切り音とともに繰り出された鎖分銅が、襲いかかってきた用心棒の顔面を真っ直ぐに捉えた。
「ぐえっ!?」
鼻柱を粉砕された用心棒が翻るように倒れる。吉兵衛は手槍の柄を返すと、鋭い突きで別の用心棒の膝皿を打ち砕いた。
一方、弥一郎の動きはまさに神速であった。
忍び刀の特性を活かした短い間合いの刺突が、次々と用心棒たちの急所を穿つ。
「ぐわっ!」
「あぎゃあっ!」
刃を交える間もなく、二人、三人の用心棒が血の海の中に沈んでいく。弥一郎は刃についた血を静かに払い、冷徹な眼光で敵を威圧した。
「将軍家御庭番・・・土屋出雲守、お前の悪事、すでに公儀の知るところなり。潔く刃を収めよ!」
「黙れ、黙れぇッ!叩き殺せ!」
密室は一瞬にして血煙と鉄の臭いが立ち込める、恐ろしい修羅場と化した。
吉兵衛の手槍が唸りを上げて敵の刀を弾き飛ばし、弥一郎の忍び刀が闇を切り裂く。そして中心に立つ凌庵の太刀は、まさに圧巻の一言であった。
向かってくる用心棒の攻撃を、最小限の動きで受け流し、あるいは峰打ちで骨を打ち砕き、あるい は肉を削いで無力化していく。その動きには一切の迷いがなく、神がかった精度で敵を圧倒していっ た。
「ひぃぃぃっ!」
部屋の隅で、喜太郎がおたかのように頭を抱えて震えていた。喜左衛門もまた、自分の用心棒たちが次々と惨殺されていく光景に、腰を抜かして退路を探していた。
「なんなのだ、この強さは!」
出雲守は恐怖に顔を歪めながら、床の間に飾られていた刀を引き抜き振り回した。
「近寄るな! 儂は勘定奉行だぞ! 天下を動かす男だぞッ!」
「出雲守・・・お前の天下など、どこにもない!」
立ち塞がったのは、血煙の中から歩み出てきた凌庵であった。
「ぬうああぁぁっ!」
出雲守が意を決し、狂乱の太刀筋で凌庵の首筋を目がけて刀を振り下ろした。
キィィィンッ!!とけたたましい金属音が室内を満たした。
凌庵は出雲守の渾身の一撃を、太刀の峰で見事に受け止めていた。ビシビシと火花が散り、出雲守の手首が激しく痺れる。
「な・・・なにィ!?」
「人の命を愚弄し、権力に酔い痴れたそのツケ……今すぐ払ってもらうぞ!」
凌庵は刀を支点にして一気に突き出し、出雲守の腕を捻り上げた。
「あぐっ!?」
手から刀がこぼれ落ちる。出雲守が体勢を崩したその瞬間、凌庵の太刀が疾風のごとく旋回し、刃が出雲守の胸元を深く穿った。
「がっ・・。」
出雲守の目が見開かれ、口から大量の血が溢れ出た。凌庵は冷ややかな目で見下ろしたまま、ゆっくりと刃を引き抜いた。
「儂の・・・儂の天下が・・・・。」
土屋出雲守は、金屏風に重々しい血の尾を引いて倒れ込み、二度と動かなくなった。
「ひいいいぃぃっ! 金ならやる!! 誰か、誰か来てくれぇっ!」
それまで用心棒の陰に隠れていた喜左衛門は、出雲守の凄惨な死体を見るや、正気を失ったように金切り声を上げた。
喜左衛門は半狂乱になりながら、転がるように庭側の縁側へと走り出した。庭へ飛び降り、泥まみ れになりながら暗闇の中を必死で逃げようとする。
だが、その目の前に、闇の中からすっと一筋の影が立ち塞がった。
凌庵である。
血に濡れた太刀を手に、月光を背に受けて立つその姿は地獄の鬼のようであった。
「どこへ行く、喜左衛門。」
「か、金ならある! 千両でも、万両でもやる! 命だけは……命だけは助けてくれぇっ!」
喜左衛門は地面に額を擦り付け、必死で命乞いをした。だが、凌庵の目に宿る氷の炎は、少しも揺らぐことはなかった。
「金で命が買えると思っているのか。お前が殺した無数の人々も・・・おゆみも金では決して戻ら ないのだ。」
「う・・・うわああああっ!」
追い詰めた喜左衛門は、やけくそになって落ちていた用心棒の刀を拾い上げると、両手でがむしゃらに振り回しながら凌庵へ躍りかかった。
「死ねぇ!」
見苦しく振り下ろされる刃。だが、凌庵は体をわずかにかわしただけで、その攻撃を難なく回避し た。喜左衛門の刃は空を切り、空しく夜気を引き裂くだけであった。
凌庵は静かに太刀を上段へと構え直した。
夜風が吹き抜け、月光がその刃を白銀に輝かせる。
「喜左衛門・・・テメエは腫物だ。この世を蝕む病の元だ・・・泰平の世が腐らぬよう、叩っ斬ってやる!!」
凌庵の声が、夜の庭園に静かに響き渡る。
「天誅ッ!!」
雷鳴のごとき叫びとともに、凌庵の太刀が真っ直ぐに振り下ろされた。
鋭い肉裂き音が響き渡り、白銀の閃光が喜左衛門の身体を頭頂から一刀両断に切り裂いた。喜左衛門の動きがピタリと止まる。目を見開いたまま、手にしていた刀が手から滑り落ちた。次の瞬間、その身体は左右に割れ残るようにして、庭の泥水の中へどさりと倒れ込んだ。溢れ出す大量の血が、泥水を濃密な黒赤色に染めていく。
両替商・高麗屋喜左衛門。私利私欲と貪欲に塗れたその生涯は、ここに惨らしく潰え去ったのであ る。
庭先に静寂が戻ってきた。
凌庵は懐から懐紙を取り出すと、血に塗れた太刀の刃を静かに拭い、カチリと音を立てて鞘へと収 めた。
その時、密室の奥から惨めな泣き声が聞こえてきた。
「ひぐっ・・・助けてくれっ!」
立ちすくんでいた弥一郎と吉兵衛が、奥の部屋から引きずり出してきたのは、恐怖で失禁し、ガタガタと全身を震わせている若旦那・喜太郎であった。
喜太郎は畳の上にへたり込み、地面に頭を擦り付けながら狂ったように叫んだ。
「私はなにもしていない!全部お父っつあんが・・・喜左衛門がやったんだ!」
「黙らぬか、見苦しい!」
弥一郎が一刀のもとに斬り捨てようと刀を構えたが、喜太郎はなおも命乞いを続けた。
「あたしは悪くない!あの女・・・あのおゆみとかいうババアは、この世の厄介者だったんだ!厄介者をあたしは殺しただけだ!それに墨印のついた前科者なんて、死んだって誰も困らないだろ!?」
「・・・・何だと?」
喜太郎のその言葉を聞いた瞬間、吉兵衛の目が怒りで吊り上がった。
「この腐れ餓鬼が・・・!!」
吉兵衛が手槍を振り上げようとしたその時、凌庵が静かに手を出してそれを制した。
「待て、吉兵衛。」
凌庵はゆっくりと喜太郎のもとへ歩み寄った。その瞳には、もはや怒りすら超越した、深い冷淡さと蔑みが宿っていた。
「な・・・なんだよ!斬るのか!?あたしを斬るつもりか!?」
喜太郎が怯えて後ずさりする。
凌庵は返事をせず、腰の太刀を滑らかに抜き放つと、その刃をひらりと返した。
「ぶぎゃあッ!?」
凄まじい音とともに、太刀の峰が喜太郎の伸び切った鼻柱と顎を強烈に打ち砕いた!
喜太郎は鼻血と歯を撒き散らしながらのたうち回り、白目を剥いて気絶した。
「・・・ふん、一思いに斬って捨てる価値もない下衆が・・・。」
吉兵衛が吐き捨てるように言った。
弥一郎が懐から縄を取り出し、気絶した喜太郎の手足を極太の縄で容赦なくガチガチに縛り上げていく。
凌庵は、静かに夜空を見上げた。
屋敷の屋根の隙間から、澄み渡った満月が青白い光を投げかけている。その光は、まるで江戸の町を静かに見守る、おゆみの清らかな魂のようでもあった。
「世直しは終わった・・・。」
凌庵は脱ぎ捨てていた白頭巾を再び手に取ると、静かに腰の太刀を確かめた。
「四の五の抜かすこの腐りきったガキを裁くのは、町奉行の役目だ。」
「ははっ。すぐに南奉行所へ引き渡す手配を整えます」
弥一郎が深く頭を下げた。
「頼むぞ、悪党共の末路、見定めに行こう。」
三人の影は、血と硝煙の匂いが立ち込める土屋邸を後にし、夜の闇の中へと静かに消えていった。
夜空に浮かぶ月は変わらず蒼く輝き、やがて訪れる新しい朝の光が、腐敗した江戸の町を洗おうとしていた。




