四十
昼過ぎの陽光が斜めに陰り、江戸の街並みに長い影を落とし始めていた。もうじき刻限は夕刻を迎えようとしている。
深川の洲崎に近い、医者の竹村朴庵が所有する静かな別寮。潮風に揺れる竹林と池を臨む奥の座敷では、濃密な悪徳の空気が立ち込めていた。旗本や豪商といった江戸の政財界の歴々を顧客に持つ朴庵の財力は途方になかった。床の間を背にして座るのは、町奉行所同心の堀本伊三郎と、喜左衛門の財力ですっかり役人の魂を亡くしている与力の笠原兵馬。そして二人の前で、渡来物の葡萄酒に舌鼓を打ちながら卑屈な笑みを浮かべている朴庵の姿がある。
「そうですか・・・、奉行所へ直接飛び込んできたのですか。」
朴庵が怯えたように目の玉をギョロつかせると、兵馬が鼻で笑いながら杯を干した。
「ああ。泥まみれで喚いておったが、万吉に押さえつけさせ、そのまま叩き出しておいた。あのような前科者の戯言、誰が耳を貸すものか。心配はいらぬ。」
伊三郎もまた、満足げに薄汚い顎髭を撫でた。
「左様でございますか・・・いやはや、御役人様のおかげさまで、全ては万事うまくいき申した。」
「儂も町方を見限り、危ない橋を渡ったのだ。タダではあるまいな?」
「無論、これは預かり物・・・少々色を付けておきました。」
朴庵は安堵の息を漏らすと、傍らに置いてあった重厚な漆塗りの小箱を引き寄せた。蓋を開けると、中にはぎっしりと詰め込まれた小判の山が、夕日に鈍く光り輝いていた。
「ふむ・・・手回しが良いな。私の幕閣入りの働き掛けも、良しなにな。」
兵馬が満足げに小判の山に手を伸ばしたその時、伊三郎がふと苦々しい表情を浮かべ、深くため息をついた。
「しかし、先日の件。高麗屋の裏帳簿に私の名が事細かに記されていると知った際は、流石に肝を冷やしたぞ。万一公儀の目に入れば、我らの首など幾つあっても足りん・・・。」
伊三郎の愚痴に兵馬が鋭い眼光を向け、冷酷に言い放った。
「お前の強欲が招いたのだ。高麗屋から分け前を強請る際、証文紛いの筆跡を残したのだろうが。以後、身の程を弁えて気を付けい。」
「くッ・・・、申し訳ありません。」
上役の兵馬に面と向かって窘められ、伊三郎は一瞬シュンとなって言葉を詰まらせた。腹の虫が納まらぬ様子で懐に手を差し入れると、先刻手に入れておいた例の裏帳簿を取り出した。
「此奴のせいで、余計な気を使う羽目になったわ。」
「その様な代物、はよう無に返さねば。」
「ふん、言われずともこのような物、今すぐこの場で灰にしてくれるわ。」
伊三郎は長火鉢の炭火に帳簿をくべようとした。だが、指先に伝わる和紙の感触にかすかな違和感 を覚える。角に黄ばみなどの年季の跡が無く、見るからに新しい。そしてあまりにも軽く、厚みがない。屋敷から持ってきた際は焦りで気づかなかったが、こうしてみると何かがおかしい。
「何だ、これは・・・?」
不審に思った伊三郎が帳簿を開いた瞬間、その顔面からサーッと血の気が引いた。
「な・・・、なにィ!?」
精密に十手持ちや役人への賄賂の金額が記されていたはずの帳簿が、めくっても、めくっても、ただの真っ白な白紙と化していたのだ。
「どういうことだ!帳簿の文字が消えてる!?いや、最初から何も書いていない! 偽物だ!!」
「何を取り乱しておるのだ、伊三郎!」
「こ・・・これは・・・・。」
兵馬が立ち上がりかけた、その時であった。
カツン、と静かな足音が座敷の唐紙越しに響いた。
「何じゃ?誰かおるのか!?」
障子は左右に勢いよく開け放たれた。そこに立っていたのは、腕を組み、冷徹な眼光で悪党どもを見下ろす高柳凌庵の姿であった。その背後には毒饅頭事件を都に暴いた医師の慶斎、そして十手を握りしめた近藤新太郎、岡っ引きの仁吉、さらに無数の捕り方がずらりと押し寄せていた。
「何をうろたえていやがるんだ。お探しの帳簿なら、ここにあるぜ!」
凌庵が懐から取り出したのは、古びた羊皮紙で装丁された本物の裏帳簿であった。
「な・・・何だと!?」
「お前たちが奉行所の門前でおゆみさんを叩き出し、ゴタゴタを起こしている隙にな。秘密裏に手 に入れたのさ。」
「ど・・・どうやって・・・。」
「蛇の道は蛇ってやつよ。しかし堀本さんよ、偽物を掴まされるとは無様な物だ。」
凌庵の冷ややかな言葉に、兵馬の顔が怒りで真っ赤に染まった。
「近藤っ!これはどういうことだ!!貴様、同じ奉行所の人間でありながら、我らをハメたという か!」
自分より年嵩の与力である兵馬の怒号に対し、新太郎は眉ひとつ動かさず、吐き捨てるように言った。
「喧しい!!欲に転んで職務を忘れ、無辜の民を虐げるテメエみたいな毒虫に、先輩面されたくは ねえんだよ!」
「言わせておけば!」
「堀本の旦那!」
仁吉が実戦向けの武骨な長十手を突き出した。
「あんたもこれでも町奉行所の同心なら、観念して潔くしねえか!」
さらに慶斎が、震え上がっている朴庵を指さした。
「竹村朴庵!人の命を救うべき医道の身でありながら、金のために毒を盛り、人を死に追いやるガ リガリ亡者め!三尺高え木の上に晒す前に、荒療治してやるぜ!」
「ええい、出会え出会え!こいつらを叩き殺せ!」
絶望と怒狂に駆られた朴庵が金切り声を上げると、別寮の影や庭手の竹林から、刀を抜き放った浪人風の用心棒たちが六、七人、雪崩のように座敷へ飛び出してきた。
「斬り捨てろ!証拠もろとも全員血祭りに上げろッ!」
兵馬と伊三郎もギラリと白刃を抜き放ち、静寂だった奥座敷は一瞬にして血煙の臭い立つ修羅場と化した。
「手緩い手加減は無用だ、一気に畳みかけるぞ!」
新太郎の一声とともに、捕り方たちが一斉に踏み込む。
襲い来る一番手の浪人が、上段から新太郎の頭上へ向けて刀を振り下ろした。新太郎は寸で身をかわすと、鞘の鯉口で男の落ちてくる手首を痛打。ガツンと鈍い音が響き、刀が畳に刺さる。すかさず新太郎は柄を返し、男の腰骨へ強烈な一撃を叩き込んだ。
「グハッ!?」
男がくの字に折れ曲がって倒れ込むのと同時に、左右から襲いかかる用心棒二人に対し、凌庵が長衣の裾を翻して間合いを詰めた。
「斬りはせぬが、医者の手技、骨の継ぎ目くらいは熟知しておる。」
凌庵は身を沈めると、突いてくる脇差の刀身を薬籠の紐で絡め取り、そのまま支点を利用して腕を捻り上げた。関節が外れる「ゴリッ」という嫌な音が座敷に響き、浪人が悲鳴を上げる。凌庵は背中を突き飛ばし、もう一人の用心棒と衝突させて同時に押し倒した。
「青二才が!!」
そ の混乱に乗じ、兵馬が真っ向から新太郎へ斬り込んできた。与力として鍛え直されたその剣筋は重く、鋭い。切先が新太郎の鼻先を掠め、唐紙を真っ二つに引き裂く。
「逃がさんぞ、近藤!」
「逃げる気など毛頭ねえよ!」
新太郎は十手を腰に差し、刀を抜き払った。そして刃を返し、峰で兵馬の剣劇を受ける。鋭い金属音が室内を激振させた。火花が散る中、兵馬はニヤリと下品な笑みを浮かべ、そのまま押し込もうとする。だが、新太郎の眼光は氷のように冷たかった。
「職務を忘れた剣など、軽すぎて話にならん!」
新太郎は一気に腕を突き出し、受け止めた刃を滑らせながら兵馬の懐へ踏み込んだ。柄頭で兵馬の 鳩尾を撃ち抜き、兵馬が「がはっ!」と息を詰まらせた瞬間、新太郎の刀が疾風のように旋回した。
「ぐわあッ!」
力任せに打ち下ろされた峰打ちが兵馬の右鎖骨を粉砕する。激痛に白目を剥いた兵馬は、手にしていた名刀を落とし、崩れ落ちるように畳へ転がった。
一方、逃げ道を確保しようと必死の伊三郎は、長刀をがむしゃらに振り回しながら縁側へ向かおうとしていた。
「どけ!どかんかッ!御用聞きの分際で!!」
「うるせえ!!」
立ちふさがったのは仁吉だった。伊三郎の振り下ろした刃を、仁吉は長十手の鉤で見事に受け止め、「テメエの剣法なんざ利かねえや!」と捻り上げた。刀が跳ね上がり、姿勢の崩れた伊三郎の右腕へ、仁吉のズッシリと重い鉄棒が唸りを上げて叩き込まれる。
「あぎゃあぁぁっ!」
右腕の骨を折られた伊三郎が刀を落とし、痛みに転げ回る。そこへすかさず捕り方三人があっとい う間に組み付き、腕を背中に回してガチガチにとり縄を打ち上げた。
残る用心棒たちも新太郎と凌庵、そして捕り方たちの連携の前にことごとく叩きのめされ、座敷には唸り声と血の匂いだけが残された。
そんな狂乱のさなか、ひとり小小さくなって裏口の戸を押し開け、庭へ逃げ出そうとする朴庵の姿があった。
「ひ、ひぃぃっ!助けてくれ、誰か!金ならいくらでもやる!」
着物の裾を脱ぎ捨てるようにして庭の飛び石を駆け出す朴庵。しかし、その目の前に、庭の植え込みの陰からひょいと人影が飛び出してきた。画工の慶斎である。
「どこへ行くんだい、藪医者殿?」
「ひ、ひいっ! どけい、邪魔だッ!」
着物を泥で汚した朴庵は、懐から取り出した短刀を死に光景で慶斎の胸元へ突き出した。だが、慶斎は「おっと」と軽やかに身を翻すと、その短刀の軌道を見切り、手首を下方から跳ね上げた。
短刀が宙を舞い、池の水面へと水飛沫を上げて落ちる。
「ひいっ!?」
「医者ともあろう者が、刃物の扱いまで藪とはねえ」
慶斎はニヤリと冷たい笑みを浮かべると、腰を低く落とし、全身の力を込めた重い拳を、朴庵の肥えた鼻柱へ真っ直ぐ叩き込んだ。
「ぶふっ!?」
顔面を粉砕されるような激痛と鼻血が噴き出し、朴庵は蛙のように手足をバタつかせて庭の芝生へひっくり返った。
「御用だ!動くな!」
すかさず駆けつけた仁吉と捕り方たちが飛びかかり、のたうち回る朴庵の身体を二重三重に組み伏せ、極太の縄で身動きが取れぬようガチガチに縛り上げた。
「終わりだ、朴庵。」
庭へ降り立ってきた凌庵が、冷ややかな視線で男を見下ろす。勝負は決した。悪党どもの野望は、こ の洲崎の別寮で完全に潰え去ったはずであった。
しかし——。
泥と鼻血にまみれ、縄目で身を捩りながら地面に転がされた朴庵は、引きつった顔のまま、唐突に 狂ったような下品な高笑いを上げ始めた。
「カハハハハハ!ハハハハハハッ! 捕まえたいなら捕まえるがいい! だが、もう遅い!忠兵衛は死ぬのだ!」
「何だと!?」
凌庵の細められた眼光に、緊迫した光が走る。新太郎も険しい顔で朴庵の胸元を締め上げた。
「何が言いたい、朴庵!」
「貴様らがここでどれほど手柄を立てようが、手遅れなのだよ!儂が特製でこさえた忠兵衛の好物の『山吹饅頭』が、今頃あやつのお腹の中に収まっている頃だ!」
「山吹饅頭・・・!?」
「ああ、忠兵衛の大好物だ。饅頭の餡は、ヒ素で満たされておる。一食で即死する特効の毒を、高麗屋の見舞いの品として仕込んでおいたのだ! 忠兵衛が喰らえばおしまいよ! 貴様らがここで勝と うが、松屋は潰れる! 忠兵衛は死ぬのだぁっ!ハハハハハッ!」
「何て奴だ・・・!」
新太郎が唇を噛み締め、怒りに拳を震わせる。
毒物は、既に放たれていた。
夕陽が深川の海を赤く染め上げていく。タイムリミットの刻限は、刻一刻と、そして無慈悲に迫っていたのである。
同じ頃、おゆみは彩乃とともに近所の買い物へと出かけていた。
呉服橋で受けた暴行の傷は深く、顔には青あざが残り、歩くたびに脇腹がズキズキと痛んだ。だが、英助や凌庵の温かい心に触れたおゆみの瞳には、諦めではない小さな希望の光が宿っていた。
「おゆみさん、無理をして歩いてはだめですよ。まだ傷が開きますから」
「いいえ、彩乃様。こうして歩いていた方が、気持ちが落ち着きますから・・・。英助さんや先生に、温かいお汁粉でも作って差し上げたくて。」
「ふふ、おゆみさんはいい奥さんになるわ。」
二人が仲良く歩いていると、通り沿いにある老舗和菓子屋「明石堂」の店先から、客たちの話し声が聞こえてきた。
「おい、見たか?さっき高麗屋の番頭が、明石堂の一番高い『山吹饅頭』を箱ごと買っていった ぜ。」
「へえ、あの頑固な忠兵衛さんへのお見舞いだってな。高麗屋の旦那も、仲違いしていた昔馴染みを見捨てないとは、大したものじゃないか。」
「ああ、忠兵衛さんの大好物だって話だからなあ。きっと喜んで食べて、病気も吹き飛ぶだろうよ。」
買い物籠を抱えていたおゆみの手が、ぴたりと止まった。
(高麗屋が・・・商売敵の忠兵衛旦那様に、見舞いの山吹饅頭を・・・?)
脳裏に、あの竹村朴庵の不気味な笑い声と、彦助の冷酷な言葉が蘇る。
『ヒ素という毒を、少しずつ与えれば病死に見える』
高麗屋喜左衛門は、表向きは温厚な人格者として通っている。だがその裏で、彦助や朴庵と結託し、松屋を乗っ取ろうとしている悪党の首魁なのだ。そんな男が、なぜ忠兵衛の好物をわざわざ届けるのか。
(毒だ!あの饅頭には、毒が入っている!)
背中に冷たい汗が噴き出した。
「おゆみさん?どうしたのですか、顔色が真っ青ですよ?」
彩乃が心配そうに覗き込む。おゆみは買い物籠を彩乃の手に押し付けた。
「彩乃様!天竜堂へ戻って、英助さんに伝えてください! 『高麗屋が松屋に毒の饅頭を送った』って!」
「えっ・・・おゆみさん!?」
彩乃の制止の声を背に受けながら、おゆみは着物の裾を高く端おり走り出していた。
「おさよちゃん・・・旦那様・・・・!」
怪我の痛みが全身を駆け巡る。吐き気がするほどの激痛が脇腹を苛む。だが、おゆみは足を止めなかった。
(私は・・・腕に墨を彫られた、汚い女だ。でも、あの優しかった旦那様と、私を『暖かい』と言ってくれたおさよちゃんを・・・・悪党どもの好き勝手にさせてたまるか!!)
雨上がりの泥水を跳ね上げ、おゆみは脱兎のごとく浅草の路地を駆け抜けた。
通行人にぶつかり、転びそうになりながらも、ただ愚直に、まっすぐに松屋を目指して走り続けた。風がおゆみの頬を打ち、破れた袖から覗く左腕の「墨印」が、夕陽に赤く染まっていた。
その頃、松屋の居間。行灯に火が灯された静かな部屋で、病床の松屋忠兵衛が体を起こしていた。 その顔色は土色で、息も絶え絶えであったが、目の前に置かれた塗り箱を見て、微かに口元を緩めていた。
箱の中には、黄色く艶やかに蒸し上げられた一級品の「山吹饅頭」が並んでいる。
「高麗屋さんがわざわざ・・・・あいつとは商売のうえで長年張り合ってきたが・・・見舞いに好物を持ってきてくれるとはな・・・・。」
忠兵衛の傍らには、すっかり意気消沈したおさよと、それを優しく抱きしめるおたかの姿があった。おたかもまた、連日の忠兵衛の病状悪化に心を痛めて疲れ果てていた。
部屋の隅には、番頭の彦助が揉み手しながら控え目な笑みを浮かべて立っていた。
「ええ、旦那様。喜左衛門様は『昔の誼だ、遠慮なく食べて元気になってくれ』とおっしゃっておりました。ささ、旦那様、一つお召し上がりください。甘いものを口にすれば、お体も楽になりま しょう。」
彦助は丁寧に饅頭を一つ取り出し、忠兵衛の口元へと差し出した。
忠兵衛が弱々しい手を伸ばし、その饅頭を受け取ろうとした、まさにその時——。
「食べちゃ駄目ぇぇぇっっ!!!」
障子を破るような勢いで、おゆみが奥の間へ飛び込んできた。乱れた髪、泥と血に汚れた着物、荒い息。おゆみは躊躇することなく忠兵衛のもとへ躍り出ると、忠兵衛の手から饅頭を力任せに叩き落とした。
ぽろぽろと転がり、庭先の濡れた縁側へと落ちていく山吹饅頭。
「なっ・・・何をするんだ、おゆみ!!」
忠兵衛が驚愕の声を上げ、おたかが「ひっ」と悲鳴を上げて小さなおさよを守ろうと抱きしめる。
彦助の顔から笑みが消え、蛇のような凶悪な眼光がおゆみを射抜いた。
「またお前か! どの面下げてここへ戻って来た!奉行所に叩き出された前科者の分際で、旦那様へのお見舞いの品を汚すとは何事だ!!」
彦助がおゆみの胸ぐらを掴もうと踏み出す。おゆみはおさよを背中に庇いながら、彦助を睨みつけた。
「しらじらしい事を言うんじゃないよ、彦助!その饅頭には毒が入っているんだろ! 朴庵と高麗屋がこさえた、忠兵衛旦那様を殺すための毒だ!!」
「戯言を!!」
彦助はおゆみを激しく突き飛ばした。畳に倒れ伏すおゆみ。だが、おゆみは血の混じった唾を吐きながら叫んだ。
「そこまで言うなら・・・、あんたが食べてみなよ!!」
「・・・何だと?」
「高麗屋さんのありがたいお見舞いなんだろ!? あんたが今、ここでその饅頭を全部食べてみせ なよ! そうしたら、あたしは首を括って詫びてやる!!」
おゆみの命を賭した気迫に、彦助が一瞬言葉を詰まらせ、じりじりと後退った。
「な、なぜアタシがそんなことを……旦那様へのお見舞いを食べるなど、使用人として滅相もない・・・。」
「食べられないんだろ!? 毒が入っているからだ!!」
「うるさい、静かにしろ!!」
その押し問答の最中であった。たたずむ庭先の縁側。叩き落された山吹饅頭の欠片を目がけて、庭の松の木から一羽の大きな黒烏が舞い降りてきた。烏は何の疑いもなく、落ちていた饅頭の黄身餡を啄ばんだ。
一つつき、二つついた次の瞬間。
「カァッ!?」
烏が突然、引きつけを起こしたように羽を激しくばたかみせた。口から吐血し、短い悲鳴を上げると、白目を剥いてその場にひっくり返り、ぴくりとも動かなくなったのである。
「・・・あ・・・あ・・・・。」
おたかが口を手で覆い、恐怖で腰を抜かした。忠兵衛も目を見開き、愕然として落ちた饅頭と死んだ烏を見つめた。
毒だ。即死するほどの劇薬が、あの美しい山吹饅頭の中に仕込まれていたのだ。
「ひ、彦助・・・お前、本当に・・・?」
忠兵衛の声が震える。彦助の顔から完全に血の気が引き、脂汗が滝のように流れ落ちた。
「ち、違う! アタシは知らない!高麗屋が・・・高麗屋がやったんだ!!」
「高麗屋さんが?」
黒幕の名を彦助がつぶやき、其れに忠兵衛が驚いた顔を見せた直後。
「御用だぁぁッ!動くな!!」
その時、表からなだれ込んできたのは町方同心・山村半兵衛と、おゆみを追って駆けつけた捕り方たちであった。
「山村様・・・!」
「しらばっくれるな彦助!貴様が毒饅頭事件に深く関わっている事は、養生所の鑑定、町方の調べで先刻承知。ぐうの音も出ぬ動かぬ証拠は、そのカラスの亡骸だ!主殺しの企て、神妙にいたせ!」
己の退路が完全に絶たれたことを悟った彦助は、目の前が真っ暗になった。
「うわああああっ! 触るな!近づくなぁ!!」
やけくそになった彦助は、傍らにいたおさよの腕を強引に引き寄せ、懐から抜き放った尖った匕首をおさよの細い首筋に突きつける。
「きゃあ!!」
「おさよちゃん!!」
おゆみが悲鳴を上げる。捕り方たちも軽々しく動けず、足を止めた。
「退けぇッ! 退かなければ、このガキの首を掻き切るぞ!!あたしは悪くない!身内であるアタ シを、店の為に尽くしたあたしを軽んじた忠兵衛が悪いんだ!!」
彦助の目は完全に狂気に染まり、刃先がおさよの皮膚を薄く傷つける。一筋の血が滴り落ちた。お さよは恐怖のあまり声も出せず、ただ体を震わせている。
その時——。
それまで震えて泣くだけだったおたかが、凄まじい様相で立ち上がった。
「彦助ぇぇッ!!」
「なっ!?」
おたかはなりふり構わず彦助にしがみつき、おさよを庇うようにその身を叩きつけた!
「旦那様にとっても! 私にとっても! おさよは大事な娘なんだあッ!!」
かつて前妻の子であるおさよを冷遇し、身勝手だったおたかが、死を賭して見せた「真の母親」としての覚醒であった。おたかの体当たりを受け、バランスを崩した彦助はおさよの手を離し、壁際へと倒れ込んだ。
「おたかさん!おさよちゃん!」
おゆみが駆け寄り、おさよをおたかの腕の中へと押し戻す。
しかし、壁に叩きつけられた彦助は、狂乱のあまり失うものは何もない獣と化していた。へたり込む忠兵衛の姿が、その狂った視界に飛び込む。
「忠兵衛っ!」
彦助は落ちていた匕首を拾い直すと、床を蹴り、病床上のみすぼらしい忠兵衛の胸元を目がけて、一直線に刃を突き出した。
半兵衛が刀を抜こうとするが、間に合わない。
その刹那——。
「旦那様! 危ないっ!!」
一すじの影が、忠兵衛の前に躍り出た。おゆみであった。
肉を深く穿つ、ザクッと言う忌まわしい音が部屋中に響き渡った。
「が・・・ッ・・・・!?」
おゆみの小さな体が、激しい衝撃で跳ね上がった。彦助が全身の力を込めて繰り出した匕首は、忠兵衛の代わりに、おゆみの左の脇腹から深々と下腹部にかけて、柄頭まで刺さっていた。
「お・・・おゆみさん!?」
忠兵衛が絶叫する。おゆみの着物が、一瞬にして鮮血の赤で染まっていく。しかしおゆみは激痛も気にせず、なおも彦助の腕を両手で強く掴んで離さなかった。
「放せ阿婆擦れ!」
「放す・・・もんか・・・!!」
匕首から手を放そうとするが、おゆみは離さない。彦助がもがくたびに傷口がえぐられていく。
彦助の身動きが封じられた瞬間、半兵衛が踏み込み、刀の柄頭で彦助の頭部を思い切り叩きのめした。
「ぎゃあッ!」
倒れ込んだ彦助に捕り方たちが一斉に飛びかかり、その身体をガチガチに押さえつける。
しかしおゆみはそのまま、力なく畳の上へと倒れ込んでいった。
「おゆみさん! おゆみさんッ!!」
脇腹からおびただしい血を流して倒れ込む。その直後、朴庵の悪陣、洲崎の別寮から急行してきた凌庵、英助、慶斎たちが松屋の奥の間になだれ込んできた。
「おゆみさん!!」
英助が見たのは、血の海の中に横たわる、紙のように青ざめたおゆみの姿であった。
「凌庵先生!早く!早く手当てを!!」
凌庵はおゆみの脈を取り、傷口を検分した。その顔が、かつて見たことがないほど暗く沈んだ。
「息が浅い。刃が肝臓を深々と貫いている・・・!英助、天竜堂へ運ぶぞ!」
英助はおゆみの華奢な身体を抱き上げた。腕の中に伝わるおゆみの体重は驚くほど軽く、そして刻一刻と体温が失われていくのが分かった。
「おゆみさん! しっかりしてください! ゆみさん!!」
夕闇に包まれつつある江戸の町を、英助は戸板に乗せられたおゆみと共に必死で走る。
風前の灯火、今まさに悪の手で消されようとする命を救うべく一同はひた走る。
涙で視界が歪みながらも、ただただ彼女の命を乞うように駆け続けた。




