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三十九

 江戸の中心地、賑わう日本橋の喧騒から少し離れた路地の奥に、古い木々に包まれた静かな一角があった。

 うっそうと生い茂る木々の間に、小さな石造りの祠がぽつんとたたずんでいる。街道筋や旅路の途中にひっそりと佇むような、時の流れに取り残された場所であった。長雨の合間にのぞいた淡い日の光が、木漏れ日となって地面を斑に染めている。

 おゆみとおさよは、久しぶりに外へ遊びに出ていた。

 トントン、トントン——。

 人通りのない静寂の中に、心地よい音を立てて弾む手毬の音と、おゆみの澄んだ歌声が清流のように流れていく。

 「あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 船船……」

 「毬付き?」

 おゆみの膝の間で体を小さく丸めていたおさよが、不思議そうに問いかけた。おゆみは手毬を軽く受け止めると、優しく微笑んだ。

 「ええ。小さい頃にね、近所のお姉さんに教えてもらった遊びだよ。一人の時も、こうして歌を歌いながら毬を突いたの。」

 おゆみは再び手毬を地面に突いた。鮮やかな赤や黄の糸で細やかに彩られた毬が跳ねる。

 「それを木の葉で、ちょいと被せ。さ、おさよちゃんもやってみるかい?」

 おゆみが毬を優しくおさよの膝元へと転がすと、おさよは恐る恐る小さな手を伸ばし、その毬を ぎゅっと抱きしめた。手毬の感触を確かめるように掌で包み込み、ゆっくりとおゆみの顔をじっと見つめる。

 そして、おさよの細く震える唇から、ぽつりと言葉が零れ落ちた。

 「・・・暖かい。」

 「え?」

 「毬・・・暖かい。おゆみさんが、暖かいからだね」

 その言葉を聞いた瞬間、おゆみの胸の奥に熱いものが怒濤のように込み上げてきた。

 店を追われ、心も口も完全に閉ざしていた幼いおさよが、初めて己の意志で自分に向かって言葉を発してくれたのだ。おゆみには分かっていた。おさよが感じ取ったのは、手毬の温もりなどではない。自分に向けられた無償の愛と、命の温もりそのものなのだ。

 おゆみはおさよを抱き寄せ、その小さな頭を優しく撫でた。

 「おさよちゃん・・・。」

 溢れ出そうになる涙を、半纏の袖で慌ただしく拭う。二人の間に、血の繋がりを超えた確かな魂の絆が芽生えた瞬間であった。おゆみは溢れるような笑顔でおさよの顔を覗き込んだ。

 「次は何をする?」

 「・・・鬼ごっこ。」

 「よ〜し! あたしが鬼だよぉ〜!」

 無邪気にはしゃぐおさよの笑顔に、おゆみは束の間の安らぎを感じていた。己の左腕に鮮刻された 罪人の墨印——それを隠すように深めに羽織った半纏の袖を気にしながらも、目の前の幼子を守りたいという想いが、彼女の胸を温かく満たしていた。

 (自分を姉とも母とも慕ってくれる・・・この温かい時が、いつまでも続いてほしい)

 おゆみの胸中は、まるで春の陽だまりの中にいるようにポカポカと温かかった。

 「よぉ~し、捕まえたぁ。」

 「あーん、悔しい。」

 無邪気に遊んでいると、おさよは、「眠くなっちゃった」と瞼を重くし始めた。

 「よしよし、じゃあ少し休もうね。」

 おゆみは周囲を見渡した。祠の庇が一休みするのにちょうどよい陰を作っていた。おゆみは祠の脇に腰を下ろすと、自分の膝をぽんぽんと叩いた。おさよは嬉しそうなくすくすと笑いを漏らし、おゆみの膝の上に頭を乗せる。おゆみが優しく頭を撫でてやると、おさよはものの数分もしないうちに、すうすうと寝息を立て始めた。

 風が止み、周囲に静寂が訪れる。おさよの寝息を感じると、おゆみの瞼も重くなっていく。自然と自分も夢心地になろうとしていた。

 その時だった。祠の裏手、古びた竹垣の向こうから、ヒソヒソと囁き合う二つの男の声が耳に飛び込んできた。

 「おいおい、大丈夫なんだろうねぇ? 彦さんや・・・。これが上手くいかなきゃ、あたしたちは破滅だよ?」

 一人の声には聞き覚えがないが、もう一人の声は嫌というほど耳に馴染んでいた。一人は高麗屋の 番頭・喜太郎、そしてもう一人は、松屋の番頭・彦助であった。

 おゆみは息を呑み、おさよの体にそっと手を添えて動きを止めた。

 「心配ございませんよ、喜太郎様。」

 応えたのは、あの忌々しい彦助の鼻にかかった声だった。その声には、冷酷な邪智が混じり合っている。

 「今頃は、竹村朴庵先生が再び松屋へ往診に出向いておられます。忠兵衛の奴に『身体の毒を出す薬だ』と騙して、さらに例の代物を飲ませている頃です。このまま『ヒ素』とかいう毒を少しずつ飲ませ続ければ、病死に見せかけて確実に死にます。疑う者は一人もいませぬ。」

 「ふふふ・・・そうなれば万々歳、栄耀栄華は思いのまま。忠兵衛がくたばれば、松屋の財産も暖簾もすべて我ら高麗屋のもの。おたかもおさよも、路頭に迷うことになるな。」

 「栄達を手にした後は、少しは懲りてくださいよ?」

 二人の不気味な忍び笑いが、静かな社の空気を汚すように響き渡った。

 おゆみの全身の血液が、一瞬で凍りついたようだった。

 高麗屋、竹村朴庵——凌庵が忠兵衛を診た時、怪訝な表情を見せたあの二人だ。名前は忘れもしない。あの時騒ぎ立てた者達が、忠兵衛の命を狙っている。図らずもとんでもない話を聞いてしまっ た。

 (忠兵衛旦那様が・・・毒を飲まされている!?あの朴庵という医者が、毒殺しようとしているの!?)

 膝の上で眠るおさよの幼い顔を見つめる。この子の父親が、今まさに毒殺されようとしているのだ。おゆみの胸の中に、己の恐怖を遥かに凌駕する激しい怒りと使命感が噴き出した。ただならぬ雰囲気を感じたのか、おさよが目を覚ました。「そろそろ帰ろう。」と促した。まだ眠そうなおさよをおんぶし、天竜堂へ戻る猶予すら惜しんで狂ったように松屋へと走った。

 「旦那様!忠兵衛旦那様!」

 松屋の店先に飛び込んだおゆみは、なりふり構わず大声を上げた。店内にいた手代や奉公人たちが不審な目でおゆみを見る。そこには既に、いかにも名医といった風情を装った竹村朴庵の姿があった。

 そして奥の間から、番頭の彦助が嫌悪感を露わにしながら姿を現した。

 「おゆみさん、おさよ様を連れ出してどこへ行ったかと思ったら・・・。」

 その時、おゆみの腕の中から跳び出したおさよが、病床の忠兵衛がまさに口に含もうとしていた丸薬を、小さな手でひったくるように取り上げた。

 「な、何をする!?」

 朴庵が素狂った声を上げる。

 「旦那様、この薬を飲めば命を縮めます!!」

 「それは・・・、どういうことだい・・・?」

 困惑する忠兵衛に対し、おゆみは彦助を指さして叫んだ。

 「彦助さん! あんたらが話しているのを聞いたんだよ!朴庵は藪医者だ、いや、悪人だ! 忠兵衛 旦那様に毒を盛っているんだろ!今すぐあの医者を追い出さなきゃ、旦那様が殺される!」

 必死で訴えるおゆみの声に、奥から顔を出したおたかが驚きで目を見開いた。

 「何を言う、儂は御旗本の方々にも信頼される医師ぞ!」

 朴庵が顔を真っ赤にして口を極めて弁明する。しかし、彦助はふっと冷たい鼻笑いを漏らした。

 「ハハッ。悪事で頭に蛆でも湧いたのか。朴庵先生は名医と名高いお方だぞ。そこまで言うからには、証拠があるか?」

 あからさまに見下した顔で迫る彦助に、ぐうの音も出ないおゆみ。聞いたと言うだけでは、何の証拠にもならない。

 「何一つ証拠もないくせに、善良な医者を悪人扱いとはな・・・。」

 次の瞬間、彦助はおゆみの腕を掴むと、左腕の袖を折り折るほどの勢いで激しく捻り上げた。

 ビリリと袖が破れ、おゆみの白皙の肌に刻まれた禍々しい刺青)が白日の下に晒された。

 「あっ・・・!」

 それを見た店の奉公人や手代たちが、ひっと息を呑み、汚らわしいものを見る目で一斉に目を顰めた。一同がざわつき、おたかもまたその姿に面を喰らった様子だった。

 「やはり腕の刺青は伊達じゃないねぇ!!皆見なさい、この女は前科者なんだよ!因習癖をつけて 金でも揺すろうってのか、おさよ様を手懐けたのも悪事の下準備だろう!出ていけ、この罪人め!」

彦助はおゆみを激しく突き飛ばした。床に打ち付けられたおゆみの姿を見て、おさよが泣き叫びながら縋りつく。

 「お姉ちゃん! お姉ちゃんに何するの!」

 「いけませぬおさよ様!!離しなさい!!」

 彦助は使用人という体裁を守りつつ、強引におさよを引き剥がすと、投げ飛ばすように手代へと渡した。

 「叩き出せ!この女は獅子身中の虫だぁ!!誰か、おさよ様を守れえ!!」

 番頭の怒号に応じ、手代たちがおゆみの両腕を掴んで引きずっていく。おさよはもがきながら、お ゆみの名を呼び続けた。

 「お姉ちゃん!行かないで!!」

 「おさよちゃん!忠兵衛旦那様を・・・旦那様を守って!」

 これが今生の別れとなりかねぬと、最後に言葉を残したおゆみ。

 屈強な男衆に抱え上げられ、そのまま雨の降り始めた路地へと叩き落された。暖簾が乱暴に閉ざされ、おさよの泣き叫ぶ声が雨音の中へと遠ざかっていく。

 (奉行所だ・・・番屋へ行って、お上に訴えるしかない!)

 おゆみは降り出す大雨の中、着物を泥で濡らしながら呉服橋を渡り、北町奉行所の門前へと駆け込んだ。

 「頼みます!お調べに入ってください!」

 「根も葉もないことを言うな!」

 門番との激しい押し問答を聞きつけて、奉行所の中から数人の男たちが出てきた。

 笠原兵馬、堀本伊三郎、そして岡っ引きの万吉であった。

 「なんだ?貴様はおすみ・・・いや、おゆみだったか?」

 おゆみも二人を見知っている。かつてろくに吟味もせず、自分を白洲に引っ立てて罪人に仕立て上 げた張本人たちだからだ。だが、藁にも縋る思いでおゆみは彼らに向かって土下座した。

 「松屋の忠兵衛旦那様が、番頭の彦助と、竹村朴庵という医者に毒を盛られています! どうか、どうか松屋へお調べに入ってください!」

 泥まみれになって泥水に額をこすりつけるおゆみ。だが、兵馬は嫌悪感に満ちた目で彼女を見下ろ した。伊三郎は嘲笑を浮かべ、怪訝そうに溜め息をつく。

 「何を戯言を言いやがるんだ。神聖な町奉行所を汚しに来たか?」

 「御上の威光の届く町方で、名医と評判の朴庵先生を侮辱するか?」

 「嘘じゃありません! 私はこの目で、この耳で聞いたんです!」

這い進んで近づこうとするおゆみを、万吉が「近づくんじゃねえ!」と強引に押さえつけた。

 「おいキチガイアマ!いい加減にしねえとしょっ引くぞ!!」

 「放してよ!アタシは嘘をついてない!お役人様!本当なんです!」

  「黙れ、泥棒猫が!」

 万吉に羽交い締めにされながらも縋り付くおゆみの顔面に、兵馬の鉄拳が容赦なく叩き込まれた。

 バキッと言う重い音が響き、万吉の手から離れたおゆみは口元から血を流して路上に倒れ込む。 パッパッと服に付いたほこりを払う動作をし、兵馬はおゆみを見下す。

 「阿婆擦れに触られ、衣類が穢れたわ・・・。堀本、万吉、これなる物の後始末は頼むぞ?」

 「畏まりました、笠原様。いいか、テメエみてえな刺青物は人間じゃねえ、虫けらだ。ぶんぶんと 喧しく飛び回るんじゃねえよ!」

 雨の降りしきる路上へ放り投げられたおゆみに対し、伊三郎は冷たく言い放った。さらに伊三郎は 侮蔑の意を込めて、倒れるおゆみの顔面にぺっと唾を吐きかけた。

 その瞬間——おゆみの脳裏に、封印していた幼き頃の惨絶なトラウマが鮮烈に蘇った。

 痛みに泣き叫ぶ自分の腕に、嘲笑いながら刺青を彫り込んでいくヤクザ者。 その横で、冷酷な笑みを浮かべて眺めていた商人風の男と、威張り散らす侍。

 記憶の中の侍は伊三郎、ヤクザは万吉、そして商人は……先ほど喜太郎と話していたあの男と瓜二つであった。

 「あ・・・、あんた達・・・・。」

 「さあ行くぞ万吉、こんなゴミ放って置け。」

 「へーい。」

 おゆみの血を吐くような呟きなど耳に入らぬ様子で、ゴミ屑でも見るかのような目を向けると、三人は背を向けて奉行所の中へと戻っていった。

 遠くで激しい雷鳴が轟き、雨足がさらに強まる。冷たい雨が容赦なくおゆみの全身を叩きつけた。

 顔に付着した唾と血を泥水で拭いながら、おゆみは膝を抱えて路上に伏した。左腕の刺青が、ズキズキと頭痛のように痛む。

 (誰も・・・誰も信じてくれない。私は腕に墨を彫られた罪人だから。どれだけ真実を叫んでも、悪党の言葉の方が正しいことになってしまうんだ・・・・。)

 悔しさと、己の無力さ、そして忠兵衛を救えない焦躁感が、涙となって雨水とともに溢れ出た。全身が凍えるように震え、意識が遠のきかけたその時。頭上から雨が遮られた。

見上げると、一すじの油紙傘が差し伸べられていた。傘を掲げていたのは、凌庵の言い付けで、近所に用足しに出かけていた英助だった。

 「おゆみさん!こんなところで、一体どうしたんですか!」

 英助の温かい声を聞いた瞬間、おゆみの緊張の糸がぷつりと切れた。おゆみは英助の着物の裾に縋り付き、声を上げて泣きじゃくった。

 「英助さん! 誰も信じてくれない!このままじゃぁ、旦那様が殺されちゃう!私は・・・、誰も守れない!!」

 英助はおゆみの濡れた肩をしっかりと抱き寄せた。

 「大丈夫です、おゆみさん。話してください、私は信じます。天竜堂へ行きましょう。先生なら、きっとあなたの言葉を聞いてくださいます!」

 濡れたおゆみに羽織っていた十徳を着せて、英助はおゆみを天竜堂に連れて行った。


 天竜堂の中に入ったおゆみは、温かい茶を飲みながら事のあらましを話した。

 祠の陰で聞いた彦助と喜太郎の会話。「ヒ素」という毒の名。朴庵が往診のたびにそれを処方薬に混ぜ込んでいること。そして松屋を追放され、奉行所でで屈辱を受けたこと——。

 「辛かったわね・・・、おゆみさん・・・。」

 彩乃はまるで我が事の様に鳴きそうな顔を浮かべている。

話を聞き終えた高柳凌庵は、重々しく腕を組み、深いため息をついた。

 「忠兵衛殿に処方されていた物、やはりヒ素だったか・・・・。少量ずつ与えれば、緩慢な衰弱死を引き起こし、病死と区別がつかない。竹村朴庵・・・医師の仁術を悪行に使うとは、断じて許しがたい。」

 「何より許せないのは、決死の覚悟で訴えたおゆみさんを叩き出した役人です!」

 英助の眼には、奉行所の前で受けたおゆみの屈辱が浮かんでいた様で、ギリギリと憤慨していた。

おゆみは俯き、血の滲む唇を噛み締めながら震える声で尋ねた。

 「先生・・・先生も、やっぱり私の言うことなんて・・・信じられませんか 私、腕にこんな傷があるから・・・。あの役人が言った通り、刺青物は人間じゃないんだねぇ・・・。」

 その言葉が終わらぬうちに、英助がおゆみの前に膝をつき、その手を力強く握りしめた。

 「何を言うんですか、おゆみさん!私は信じます! あなたが己の危険も顧みず、おさよちゃんや 忠兵衛旦那様のために走ったことを、私が信じないで誰が信じるんですか!おゆみさんは人間です・・・!まっさらな真人間です!!」

 英助の瞳には、一切の偽りも疑念もない純粋な光が宿っていた。その温かい言葉がおゆみの心に深 く染み渡る。胸の奥が熱くなり、おゆみの目から再び涙がこぼれ落ちた。

 (英助さん・・・・。こんな私を、そこまで信じてくれるなんて・・・・。)

 変わりつつあった英助への想いが、胸中で燃え上がるのを彼女は確かに感じていた。

 凌庵も何か覚悟を決め、静かに立ち上がった。

 「おゆみさん、よく知らせてくれた。俺もお前さんを信じる。お前さんの勇気は無駄にはしない。だが、相手は公儀の権力を背負った悪党だ。おゆみの証言だけでは『罪人の妄言』と一蹴される。朴庵がぐうの音も出ない証拠を立てねばならん・・・。」

 「先生、どうなさるおつもりですか?」

 英助の問いに、凌庵は冷徹な眼差しで応えた。

 「小石川養生所へ文を送る。あそこの設備と公認の検使の立会のもとで、毒性の再現実験を行う。 科学の力で、朴庵の薬が毒薬であることを証明するのだ。」

 「先生、私にも行かせてください!十手持ちの鼻を明かしてやりたいんです!」

 英助が意気込むと、おゆみは殴られた頬の痛みに耐えながら、先ほど思い出していた幼少期のトラウマと、伊三郎・万吉・喜太郎の関係について語り始めた。

 「・・・おゆみさんに死刑を下した張本人が堀本伊三郎と万吉、そしてお前さんの人生を踏み壊し た若い商人・・・、それはかつての高麗屋喜左衛門だろう。おゆみさんの無念、必ず晴らしてやるからな。」

 凌庵が静かに誓う。すると、傍らで聞いていた慶斎が、いたずらっぽく懐から小さな紙包みを取り出した。

 「それから先生、これ。阿婆擦れ暮らしで培った昔の悪い癖でねぇ。すったもんだの混乱の中、朴庵の丸薬をくすねておいたんだ。役に立てておくれ。」

 「ありがとうよ、お前さんの最初で最後の悪の技、役立たせてもらうぜ。」

おゆみが命からがら手に入れた疑惑の丸薬。それを手に、凌庵たちは「善は急げ」と小石川養生所へと向かうのだった。


 小石川養生所の最奥に位置する死骸検分の庵、顕幽閣。その奥の重厚な木扉を開けると、独特の生薬と鉱物の匂いが立ち込めていた。壁一面に並ぶその名も『黙示棚』には、幕府の厳重な管理下にある劇薬や毒物が密封された壺——いわゆる沈黙の証拠たちが整然と収められている。

 凌庵、英助、そして観察役として同行した画工の慶斎。さらに養生所廻りの責任者である与力、天野伴内(あまのばんない)が立ち会っていた。

 卓上には、おゆみが命懸けで手にした、忠兵衛が飲まんとしていた丸薬、そして納豆売りの少年家族をの命を奪った毒饅頭の残りがあった。

 「さあ、凌庵殿。準備は整った」

 伴内の促しに、凌庵は静かに頷いた。慶斎がかごの中から、丸々と太った二匹のドブネズミを取り出し、それぞれの小さな木枠へと移した。

 凌庵は一匹目の鼠の前に、丸薬を砕き液状化した物を含ませた餌を置いた。もう一匹の鼠には、毒饅頭の欠片を置いた。

 「済まぬな鼠よ。人の命を救うためだ、役立てよ」

 慶斎と凌庵が静かに呟く。

 二匹の鼠は、それぞれ与えられたものを疑いもなく口にした。

 数十秒の静寂——。

 突然、一匹目の鼠が甲高い鳴き声を上げ、体を激しく折り曲げて痙攣を起こした。口から泡を吹き、もがき苦しんだ末に動かなくなる。

 ほぼ同時に、二匹目の鼠も全く同じ軌跡をたどり、激しい腹痛に悶絶した末に息絶えた。

 「よし、ここからだ・・・・。」

 凌庵は小さなメスを手にした。天野伴内が見守る中、凌庵と慶斎は手際よく二匹の鼠の腹部を切開し、内臓の様子を観察する。同じ毒物かどうか、確認する為だ。

 「見てみな。胃および腸の粘膜が激しく糜爛し、点状の出血が見られる。これはヒ素中毒特有の解剖所見だ。・・・・やはり、朴庵がと称して忠兵衛に処方していた薬には、微量のヒ素が意図的に混ぜられていたと言う事だ。」

 凌庵は記録用紙に、詳細な観察結果と解剖図を描き足していった。

 「なるほど・・・、以前市中で起きた毒饅頭事件は、単なるキチガイの仕業じゃねえ。松屋忠兵衛を病死に見せかけて確実殺害するための『毒試し』だったのだ。」

 慶斎が深く頷きながら感嘆の声を漏らした。

 凌庵は筆を置き、落款を押した鑑定書を天野伴内に手渡した。

 「この記録と養生所の公印があれば、朴庵はぐうの音も出まい。おゆみ、お前さんは嘘をついていなかったぞ。お前さんの目撃と直感は、完全に正しかった。」

 実験を確認していた英助が、意気込んで前に出た。

 「先生! 私にその写しをお貸しください!この写しを、天竜堂の大家である近藤清左衛門殿にお渡しします!清左衛門殿の手を経て、確実に北町奉行・遠山金四郎様のお手元へ届くようにいたします!事は隠密裏に進めねばなりません。奉行所の御用部屋には、笠原兵馬のような毒虫が湧いていますから!」

 「よし、頼んだぞ英助。おゆみの勇気が無駄ではなかったことを、公儀の場で証明してやってくれ。」

 「はい! おゆみさんが命がけでつないでくれた真実、私が絶対に届けてみせます!」

 「私が堂々いたしましょう。念のために護衛として同行する。」

 「お願い致します。」

 責任感の強い天野伴内が申し出た。天野と英助は、鑑定書の写しを大事に懐に抱え込むと、脱兎のごとき勢いで小石川養生所を飛び出していった。

 疾走していく英助と伴内の後姿を、養生所の廊下から見送っていた慶斎が、ふっと笑みをこぼした。

 「ふふ・・・英助さん、おゆみさんにすっかり惚れているみたいだねぇ」

 その言葉に、凌庵は静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。

 「英助だけではない・・・。おゆみもまた、英助に救われ、心を寄せている。二人が夫婦になった時は、仲人を頼むぜ?」

 「いいとも。」

 本来ならば、若き男女の微笑ましい恋心として祝うべき場面であった。しかし、凌庵の表情は固く、暗い影が差し込んでいた。

 敵は、江戸の闇に深く根を張る土屋出雲守、奉行所に沸いた毒虫達、そして高麗屋喜左衛門。一度牙を剥けば、どんな惨劇が巻き起こるか分からない。

 「だが今は、色恋にうつつを抜かしている場合ではない。悪の巣窟を崩す手立ては揃った。・・・行くぞ、慶斎。我らも天竜堂へ戻り、最後の仕掛けを打つ・・・・。」

 「ああ、分かっているよ、凌庵殿。」

 二人は静かに頷き合い、決戦の地となる江戸の町へと足を進めた。

 遠くの空には大嵐の訪れを告げるかのように、再び黒い暗雲が広がり始めていた。

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