三十八
高麗屋の別宅は、夜が深まるにつれて異様な静寂の中へと沈み込んでいった。
この界隈を彷徨う飢えた野良犬や野良猫の掠れた鳴き声、風に吹き飛ばされた古紙が湿った竹垣に擦れ合う乾いた音、そして庭木の枝葉が擦れ合うかすかな不気味な音が、暗闇の破片のように漂うばかりである。 その別宅はまさに、江戸八百八町の喧騒と人通りから完全に遮断された「静かなる館」であった。
おりからの激しい雷雨と、目と鼻の先を流れる川の荒々しい川鳴りが、外の世界のあらゆる音をかき消している。この館の中であれば、どれほど大きな悲鳴を張り上げようとも、あるいは人が血を流してのたうち回ろうとも、その声が壁を越えて外へ漏れ聞こえることは決してない。外界から完全に隔離された、暗黒の密室であった。
母屋の奥、十五畳の敷居が高き座敷。 床の間に掛けられた狩野派の古画の前、上座にどっかと重々しい腰を下ろしていたのは、公儀勘定奉行・土屋出雲守であった。 その顔立ちは、まるで研ぎ澄まされた能面の如く冷酷であり、深い皺の奥でギラギラと光る目には、絶対的な権力に酷着する男特有の獰猛な光が宿っている。
そのすぐ傍らには、西陣織の豪華な羽織を肩に羽織り、悠々と竹の煙管から紫煙をくゆらせている医者・竹村朴庵。そして対面には高麗屋喜左衛門と、その息子である喜太郎が、揉み手をしながら擦り寄るように平伏していた。
更にそこから少し離れた下座の隅には、松屋の大番頭である彦助が座している。この座敷に集う面々の着物とは比べるべくもない質素で泥のついた着物を着込み、汗ばんだ額を幾重にも畳の目へ擦り付けるようにして、息を殺していた。
「・・・ふむ。松屋忠兵衛は、八丁堀の『死骸医者』こと高柳凌庵の施した薬のせいで、一度は命を拾ったというわけか。」
出雲守が、重々しい低音で薄濁りの酒を満たした塗りの盃を傾け、冷ややかな視線を落とした。
「ははっ、出雲守様。されど、あのような街の町医者が扱う生薬など、所詮は一瞬の気休めに過ぎませぬ。とは言え・・・私の配慮が行き届かなかったせいで、無用な手間を増やしてしまいましたこ と、深謝いたします・・・。」
朴庵が薄汚い笑みを浮かべ、恭しく頭を下げて詫びて見せた。 出雲守が小さく鼻を鳴らしたのを見ると、朴庵は懐の深みから、深い紫色の絹巾着を取り出した。巾着の紐を静かに緩めると、中から 独特の酸っぱい異臭と湿り気を放つ、黒々とした丸薬が覗く。
「拙者が忠兵衛に『身体を温める秘薬』と称して飲ませ続けておりますこの丸薬・・・・これには、人体の臓腑を内側からじわじわと腐蝕させるヒ素――砒霜の粉末を極小量ずつ混ぜ込んでございます。凌庵がいかに柴胡や甘草といった解毒の生薬で一時的に腹の張りを抑えようと、この朴庵の薬を日常的に飲ませ続ければ、忠兵衛の肝の腑は一月と持たずに黒く腐り落ち、血を吐いて苦悶の末に果てること必定にございます。」
朴庵は煙管の吸い口で自らの唇を撫でながら、狂気に満ちた笑みを深めた。
「毒というものは、一気に盛れば足がつきます。同じ毒を微量ずつ、徐々に増やして体に馴染ませることで、病死と区別がつかぬよう相手を始末することができるのです。・・・ふふ、先に仕掛けたあの毒饅頭のおかげで、人間がどれほどの量で発作を起こさず弱っていくか、正しい分量を知ることができました。聞くところによれば、メリケンの方では『モルモット』という試し鼠を用いて毒の効き目を試すとか。これまであの饅頭を喰らって倒れた無知な町人どもは、いわばこの朴庵の大願のための試し鼠として、命を捧げてくれたのでございますよ。」
「くくく・・・、さすがは朴庵先生。医道の皮を被った毒殺の冴え、恐れ入りましたぞ。」
喜左衛門が手にしていた扇子でパンと膝を叩き、満足げに細い目をさらに線のように細めた。
「あの忠兵衛さえ首尾よく病死の体で死んでくれれば、あとは恐れるに足りませぬ。あの男め、江戸市中の御用商人であることを後ろ盾に、同業の間でまるで肝煎のようにでかい顔をしてふるまっております……気に食わぬ。忠兵衛さえ消えれば、残されたのは病身の後添いであるおたかと、まだ乳臭い忠助、そして死んだ前妻の娘であるおさよばかり。・・・いや、おさよもまた、忠兵衛の巨額の遺産を巡る厄介な種。父親の追っかけとして、早々にあの世へ送らねばなりませぬな。」
その言葉を聞いた瞬間、下座に座る番頭の彦助の喉仏が、ゴクリと生唾を飲み込んで大きく動いた。
喜左衛門は扇子で自分の肩を叩きながら、彦助に粘りつくような視線を向けた。
「彦助さん・・・、お前様の方に手抜りはありませんかね?」
「は、ははっ!高麗屋さん、すべて手筈通りにございます・・・!」
彦助は額を畳にこすりつけたまま、喉を絞り出すような引きつった声で答えた。 畳に押し付けられたその顔には、縁戚でありながら番頭という使われる身に甘んじさせられてきた鬱屈した怒りと、下心に満ちた生々しい欲望が醜く蠢いていた。
「忠兵衛旦那と、あのおさよさえいなくなれば・・・残された後妻のおたか様は、産後の肥立ちの悪さと、幼い忠助様の夜泣きや乳吐きで、精神的にも完全に孤立いたします。なにしろ、私は忠兵衛とは遠縁の親戚にあたりますゆえ、松屋の家老格として店に入ることに血筋的な問題はございません。頼る者のない孤立無援の身となったおたか様に、私が優しく親身になって寄り添い、『後妻の身で、この大店・松屋を守り切れるわけがない』と絶望の淵に叩き落としてやれば、おたかも私を認め、私を新たな旦那と仰ぐなど造作もないことにございます!」
「ほう・・・。」
出雲守が酒杯を口元で止め、酷薄な笑みを浮かべた。
「亡き主人の美しい妻を奪い、松屋の暖簾と三万両の巨財をそっくりそのまま手に入れるか。番頭の身でありながら、肚の据わった悪党ではないか。恐ろしいのう・・・。」
「ふふ・・・、おたかさえ私の女にしてしまえば、あとは残された乳呑み子の忠助など、どうとでも料理できますゆえなぁ。くくく、事故に見せかけて肥溜めにでも叩き落とすか、風邪を拗らせたと偽って暗い押入れに閉じ込めておけば、数日のうちに勝手に冷たくなりましょう! 松屋の財産も、あの気高きおたか様の白い肌も、すべてこの彦助のものにございます!」
彦助は自らの妄想に身をよじらせ、口角から溢れる唾を飛ばしながら下品に笑った。 長年、忠兵衛の陰で「彦助、彦助」と顎で使われてきた屈辱。そして、忠兵衛が後添いとして迎えた若く気品あるおたかの、あのしなやかな襟足や細い腰つきに対する病的なまでの執着――。そのドロドロとした醜悪な嫉妬と性欲が、この男の正気を完全に狂わせているのであった。
彦助の醜悪な笑みを見下ろし、ふふっと冷ややかに笑ってみせた出雲守は、今度は喜左衛門に向き直った。
「さて、高麗屋。」
「は、はい!」
杯を置き、一瞬で場の空気を引き締めた出雲守の威圧感に、喜左衛門の背筋が思わずピンと伸びた。
「我が手元へ届く『利』についてだ。松屋を乗っ取り、傘下に収めた暁には・・・呉服町の一等地にある松屋の大店舗と大蔵、江戸中に通じる御用商人の鑑札、そして蔵に眠る三万両の資産・・・その半分が、この土屋出雲守の懐に入り、さらに高麗屋が江戸の呉服問屋の総元締めに納まる約束であったな?」
「ははっ!もちろんにございます、出雲守様!」
喜左衛門はさらに深く平伏しながら、両手をこすり合わせる速度を早めた。
「松屋の膨大な資産を用いれば、幕府上様への御献金はもちろん、公方様の側近や大奥への根回しも自由自在。・・・延いては、出雲守様を差し置いて勘定奉行の筆頭気取りで図に乗っておる、あの水野忠邦の弟――跡部良弼めを失脚させることなど、造作もないことにございます!」
出雲守の目が、ギラリと野心に光った。現在、定員四人で形成されている勘定奉行職の中でも、跡部良弼は公儀を取り仕切る老中首座・水野忠邦の実弟という巨大な威光を背景に、半ば筆頭格として横暴に振舞っていた。他の奉行の意見を聞かず、独断で公儀の財政方針を決めるなど諍いも多く、出雲守はそんな良弼を日頃から毛虫の様に嫌い、激しい憎悪を燃やしていたのである。
「ふん、水野の威を借る良弼の鼻を明かし、奴を老中の威光もろとも失脚させて、この私が勘定方の頂点に立つ。その資金のためなら、江戸一番の大店一つを叩き潰すことなど、雑作もないわ。人を人とも思わぬ圧政と天保の改革を敷く水野一派を除くのは、まさに天下泰平のためなのだからな。だがなあ、高麗屋。一つだけ、不吉な懸念があるのだが。」
出雲守の刃物のような鋭い視線が、喜左衛門の隣で始終身を縮めて怯えていた息子の喜太郎に向けられた。
「女金貸し、おしまが殺された一件だ。・・・あの女の死体には検使医なる者の介入が入り、妙な噂が立ち始めておる。八丁堀の町方が嗅ぎ回り始めていると聞くぞ。まさか、お前たちの足がついたのではあるまいな?」
「さ、さあ・・・。私には何とも・・・・。」
視線を泳がせ、口ごもる喜太郎。その瞬間、喜左衛門の顔が怒りで苦々しく歪み、隣にいた喜太郎の頭を「このバカ者が!」と容赦なく張り飛ばした。
「痛っ・・・!勘弁しておくれよ、お父っつあん!」
「黙れ!隠し通そうと浅知恵を働かせたのが全ての元じゃ!たわけめ!」
喜左衛門は怒りに肩を猛烈に揺らしながら、出雲守に向かって深く頭を下げた。
「出雲守様、お恥ずかしい限りでございます・・・。実は、この愚息・喜太郎が深川の芸者を孕ませるという大バカをしでかしましてな。その示談金のために、私に無断で悪徳金貸しのおしまから百両もの金を借りおったのです!」
「ほお・・・、そう言った経緯があったのか。」
「しかも返済の期日が迫り、開き直ったおしまが『金を払わねば、高麗屋の老舗の暖簾に傷をつけてやる』と脅してきたため、焦ったこの愚息がおしまの喉笛を力任せに絞め殺してしまったのです・・・!無駄に体ばかりデカく育ちました故、首を絞め殺すのは造作もないことだったようです・・・。」
喜太郎は己の血塗られた両手を見つめながら、ガタガタと震えて畳に額をすり寄せた。
「ほ、ほんの弾みだったのです!あのおしまというババアが、父上や世間に言いふらすと脅すものだから・・・夢中で首を絞めたら、白目を剥いて舌を出して動かなくなって・・・!」
「黙れ! 愚か者が!」
喜左衛門は吐き捨てるように息子を怒鳴りつけると、出雲守へ向き直った。
「・・・だが出雲守様、怪我の功名とでも言いましょうか。喜太郎がおしまを殺してくれたおかげで、あのおしまが隠し持っていた『裏帳簿』の存在が浮かび上がって参りました。そして、その裏帳簿を検分したところ・・・なんと、かつて我が手先として動いていた悪徳同心・堀本伊三郎と、その手先である万吉の名が記されていたのです!」
「その同心二名は、おしまにも手を貸していたのか。」
「御用聞きや同心の威光を笠に着て、ゴタゴタを揉み消していたようですな。質草のお零れや賄賂を頂くことを条件に・・・。」
「ふむ・・・。だが、それだけではあるまい?」
出雲守は冷ややかな目を細めた。かつて自分が追い出した不忠の用人と、私刑を下して人生を狂わせた一人の娘――留蔵とおゆみの存在を思い出していたのである。
「何と・・・、残酷なことをしたものよな・・・・。」
「私刑を下したことが公になれば、奉行所も黙ってはおらぬでしょう。そうなれば、ずるずると我らの大きな目論みまで明るみに出ることに繋がりかねません。」
「そうか・・・。だが裏を返せば、町方の者を完全に仲間に引き入れる絶対的な弱みができたということだ。引き続きその同心たちには、我らの忠実な犬となって働いてもらおうか。」
「成程、左様でございますな・・・。」
喜左衛門が頷いたその時、襖の外の暗がりから「堀本様と万吉親分、参りました」という小者の声が聞こえた。
「お入り。」
喜左衛門が手を打つと、障子が静かに滑り開いた。 そこに立っていたのは、青ざめた顔をした二人の男――堀本伊三郎と、その配下である万吉であった。
部屋に入った途端、上座から鋭い目つきで見下ろす勘定奉行・土屋出雲守と目が合い、伊三郎はその場で全身を強張り出させた。
「ひっ・・・!こ、これは・・・勘定奉行の土屋様・・・・!」
部屋に充満する権力者たちの圧倒的な殺気と邪気に気押され、伊三郎は膝をガクガクと震わせた。 でっぷりと肥えた巨体を持つ万吉もまた、身体を丸めて畳に平伏した。
「よく来たな、堀本伊三郎。」
喜左衛門がせせら笑いながら、一枚の紙きれを突きつけた。おしまの宅から押収した裏帳簿の写しである。
「お前たちがおしまから受け取っていた多額の賄賂と、悪事の揉み消しの証拠だ。これを見てもまだ知らぬ存ぜぬを決め込むつもりか? 袖の下を得る役人は多いが、これはちと度が過ぎているようだな。」
「ひぇっ・・・!どうか、ご勘弁を!」
堀本は額を床に叩きつけた。かつて町方で無実の町人を痛めつけ、威張っていた威厳など欠片もなかった。
「それになぁ・・・、いくら金欲しさとは言え、随分と惨いことをしたものだ。のう、高麗屋よ。」
「な・・・何のことですか?高麗屋様、一体どういう……?」
喜左衛門は、かつて自分たちが私刑を下して罪をなすりつけた娘――『りゃんこのおすみ』ことおゆみについて冷ややかに語り始めた。
「な・・・!あの娘が、あの時の・・・・!?」
「そ・・・そいつぁ本当なんですかい!?」
「ええ、私もついこの間思い出したのです。微かな綻びが広がらぬうちにと、土屋の御前にお知らせをしたというわけです。」
「そ、そうですか・・・・。ですが、もう過ぎたこと・・・・。今はそれなりに真っ当に励んでおります、どうかお許しをっ!」
「許してほしくば、我らの指示に従ってもらう。」
出雲守の低い声に、堀本と万吉は顔を見合わせてさらに顔色を失った。
「我らの大謀のために、手を貸してもらおう。お前たちが台無しにしたおゆみという女が、松屋という大店に入り込んだ。そしてその後ろ盾には、高柳凌庵という医者が付いている。凌庵という者は、検使医として町方に深く介入しておるゆえ、下手に手出しが出来ぬ。邪魔者を除くために協力せよ。・・・・そのためには、今一人、町方に顔が利く頼りになる仲間が欲しいのだが。」
「仲間・・・、ですか?」
伊三郎は緊張で短く息を吐き出しながら、必死に頭を回転させた。そして即座に思い出したのは、 凌庵に恥をかかされ、激しい嫉妬を燃やしている与力・笠原兵馬の顔であった。
「一人・・・、心当たりがございます・・・!」
「ほお・・・。」
欲の皮が突っ張り、医者の説に耳を貸して己を軽んじた奉行に不満を抱く笠原兵馬。あの男ならば、金と権力を餌にすれば間違いなくこちら側に転ぶ――。
「高麗屋、こうなれば一蓮托生だ。そなたの金、存分に使わせろ。」
「ははっ・・・!」
頷く喜左衛門に、伊三郎は耳元で笠原兵馬の弱みと性格を密かに囁きかけた。
その談合のすべてを――。庭の暗がり、見事な枝振りの松の木の上に跨り、手入れ用の剪定鋏を手にした一人の庭師の男が、息を殺して耳を澄ませていた。
普段は市井に溶け込み、薬売りや錠剤屋として市中を歩き回る御庭番――梶野弥一郎である。
(・・・なるほど。おしま殺害の真犯人は高麗屋のバカ息子・喜太郎か。そして、勘定奉行・土屋出雲守の真の狙いは松屋の三万両と、老中首座の弟である跡部良弼の失脚。大番頭の彦助は後妻への激しい劣情と乗っ取り・・・。すべては権力と己の欲望が生み出した毒蛇の群れだな。)
弥一郎の涼やかな瞳が、激しい雨の暗闇の中で刃のように鋭く光る。 彼らが口にした「遠山金四郎を陥れるためのもう一人の男」
その全容と証拠を掴むため、弥一郎はさらに気配を消して闇の中に身を沈めたのだった。
あくる日の夜。降りしきる激しい大雨の中、隅田川の漆黒の波間に一隻の屋形船がひっそりと浮かんでいた。 川面に揺れる赤提灯の仄暗い灯りが、黒い水面をまるで血の海のように怪しく染めている。
船の奥座敷には、高麗屋喜左衛門と堀本伊三郎、そして二人によって密かに呼び出された男――南町奉行所の与力・笠原兵馬が対峙していた。
兵馬は冷酷な笑みを浮かべ、運ばれた酒を盃になみなみと注いで一気に煽った。
「其方がわざわざ屋形船を用意したというから何事かと思えば、上手い話があると?」
「はい。今、おしまが遺した裏帳簿は出雲守様の手にあります。その帳簿を闇に葬り、余計な口出 しをした高柳凌庵や、おゆみを松屋から完全に遠ざけたいのです。」
笠原兵馬は低く笑い、盃を卓の上にトンと叩きつけた。
「もしもおゆみが無実となれば、当時、あの娘を罪人として裁いた奉行所の面目は丸潰れ。・・・ そればかりか、私や堀本たちの過去の裁きまで白日の下に晒されることになる。故に、おゆみを何が 何でも罪深き悪女として処断せねばならんというわけだな?」
「さすがは『剃刀』と言われた笠原様、お話が早くて助かります。」
「しかし、いくら私が与力であるとは言え、奉行所の裁きを覆すのは容易なことではない ぞ・・・・。」
喜左衛門は不気味な笑みを深めると、畳の上にズシリと重い桐の菓子箱を滑らせた。 箱の蓋をずらすと、中にはずっしりと重い百両包みの小判が、眩い光を放ってびっしりと敷き詰められていた。
「ただでご協力をお願いするわけではございません・・・。笠原様・・・・与力とは名ばかり、御目見え以下の御家人の身分から抜け出し、直参の旗本へと引き上がりたいとは思いませぬか?」
「思わぬわけがなかろう。」
「この金は、笠原様が幕閣へ根回りし、上位の身分を手に入れるための資金でございます。世の中は何をするにも金。足りなければ、高麗屋がいくらでも用立てますぞ。」
「地獄の沙汰も金次第と言うからのう・・・。実に美味い話だ。乗らぬ手はないな。・・・・それに、おゆみが悪女として処分されれば、あのような害のない娘を庇い立てしていた北町奉行・遠山金四郎の面目は丸潰れだ。お白洲での判断を誤ったとして、遠山を徹底的に追い詰められる。さすれば、奉行所内の邪魔者は一掃できるぞ。」
「ほほう! 遠山様を失脚に!?」
「そうだ。この事を、遠山の政敵である南町奉行・鳥居耀蔵様に密告してみろ。あの『妖怪』と恐れられる鳥居様は、政敵の遠山を陥れられると知れば狂喜乱舞し、今回の毒饅頭事件の捏造と揉み消しに全面協力してくださるはずだ。・・・くくく、政敵を潰し、懐も温まり、おゆみという邪魔者も消せる。まさに一石三鳥よ!」
「さすがは笠原様! 剃刀兵馬と言われた貴殿の切れ味、間違いではないようですな!」
「ふん、だが剃刀も使い方によっては己の手を傷つけてしまう。遠山金四郎は・・・剃刀の使い方を間違えたのだよ・・・・。」
「ほっほっほ! 我らが土屋様ならば、剃刀を上手く使いこなせることでしょうな!」
屋形船の中に、下品で不快な笑い声が満ち渡った。 水の上、自分たちの談合など誰も聞いているはずがないと高括り、好き放題に悪謀を語り合う一党。 権力と欲望に目が眩んだ毒蛇たちが、哀れな少女とお江戸一番の大店「松屋」を完全に呑み込もうと、恐ろしい密約を結んだ瞬間であった。
だが――彼らは全く気づいていなかった。
その屋形船の船首で、濡れた笠を深く被り、激しい雨に打たれながら竹竿を刺して、静かに気配を消している一人の船頭の存在に。
船頭に変装し、水音に紛れて息を殺していたその男の名は、吉兵衛。 普段は料理屋兼船宿「鶴亀屋」にて花板と船頭を生業としているが、嘗ては稀代の大泥棒・狐火の政五郎として名を馳せ、今では北町奉行所の密偵として暗躍する「草の者」であった。
吉兵衛は、濡れた笠の庇の向こうで、障子越しに漏れ聞こえる笠原兵馬と喜左衛門の会話を、一字一句漏らさずその脳裏に刻み込んでいた。
(・・・・土屋出雲守に高麗屋、笠原の旦那に『妖怪』鳥居耀蔵まで操ろうとしていやがるのか。まさに蛇の道は蛇、悪党どもが総出でおゆみちゃんと松屋を食い物にしようとしてやがる・・・・。)
吉兵衛の胸の中に、激しい怒りの炎が燃え上がった。
(今のうちにせいぜい笑っていやがれ・・・。この船が今に、テメエら悪党どもをまとめて地獄へ運ぶ、三途の川の渡し船になるんだからよ・・・・!)
吉兵衛は煙管の灰をトンと船べりに叩き落とすと、静かに竹竿を押し、船を夜の岸辺へと向けた。闇を切り裂く反撃の時が、刻一刻と近づいていたのである。




