三十七
江戸城の東、日本橋の南側に位置する呉服町は、その名の通り絹織物を扱う呉服屋や木綿を扱う太物屋、さらには江戸中の織元や京都の西陣から送られてくる錦や反物がひしめき合う、江戸一番の繊維の街であった。 朝の威勢の良い掛け声とともに、威勢のいい荷車や大八車が重厚な反物箱を運んでは行き交い、店の軒先には色鮮やかな染物が風に揺れている。日差しを受けてきらめく浅葱色や緋色、粋な江戸紫の染め布は、そのまま江戸の繁栄を象徴する絵巻物のようであった。
その呉服の街の中でも、老舗「松屋」は五本の指に数えられるほどの大店として名高かった。 重厚な黒漆喰の土蔵造りの構え、広い店先には番頭や手代、若い丁稚たちが整然と立ち働き、上客を迎えるための独特の凛とした緊張感と、よく躾けられた落ち着き、そして大店ならではの上品さが漂っている。のれんをくぐれば、極上の紬や縮緬の香りと、打ち水された石畳の清々しい匂いが鼻をくすぐる。
だが、この日の松屋はどこか浮き足立ち、戸惑いと困惑の空気に包まれていた。 主人である忠兵衛が、身元も確かでない若い女――おゆみを連れて帰ってきたからである。 それだけではない。普段は人見知りが激しく、母を亡くしてからというもの滅多に笑顔を見せなかった一人娘のおさよが、まるで実の姉に甘えるようにその手をぎゅっと握り締め、一時も離そうとしないのだ。
「おい、あの娘・・・一体どこから連れてきたんだ?」
「旦那様がお連れになったそうだが、どこか訳ありの風情じゃないか。」
「しっ、滅多なことを言うもんじゃない。だが・・・あのおさよ様が、あんなに嬉しそうに笑っておられるのを見るのは、前の奥様が活きている頃依頼だ・・・。」
店の者たちはどう反応してよいか解らぬまま、遠巻きにひそひそと噂を囁き合っていた。
表店の喧噪から離れた奥の間では、忠兵衛の後添いであるおたかが布団の上に浅く座っていた。 その胸の中では、生後まもない幼子である忠助が親指を咥えながら、クリクリとした大きな目で天井を見つめている。
後添いのおたかは三十路がらみの、凛とした気品を持つ女性であった。整った顔立ちをした美しい女であったが、産後の肥立ちが芳しくないためか、その頬は少し削げ、目元にはどこか神経質な陰が差している。
ちらちらとおゆみを見るおたかの目付きには、隠しきれない疑惑と戸惑いが込められていた。
「あなた・・・、このおゆみさんという方を、本当におさよちゃんの子守にお雇いになるのですか?」
おたかが不安と不満の混じった、かすかに震える声で忠兵衛に問いかける。
「うむ。おゆみさんにお願いすることにしたのだ。天竜堂の高柳凌庵先生にもご了解をいただき、こうして丁寧な紹介状まで書いていただいたのだよ。」
忠兵衛が懐から奉書紙にしためられた書状を取り出して見せるが、おたかは簡単には首を縦に振ろうとはしなかった。
「しかし旦那様・・・いくら名医の先生のご紹介とはいえ、どこでどのような暮らしをされていたかも解らぬお方を、いきなり大店の娘の子守として置くなど・・・世間の目もございますでしょ う。」
「お前の心配してくれる気持ちは、とてもありがたい。だが見てごらんなさい。おさよがこんなに懐いているのだ。これ以上の適任がいるとは思えぬよ。何より、お前も忠助の夜泣きや世話で手いっぱいで、おさよの面倒まで手が回らんだろう。だからこそ、凌庵先生に無理を言っておゆみさんに来ていただいたのだよ・・・。」
忠兵衛がおだやかな笑みを浮かべて答えると、おたかは抱いている忠助を抱き直しながら、ぐっと言葉を詰まらせた。
――決しておさよに愛情が無い訳ではない。しかし、満足に愛情を注げていないのも、また紛れもない事実であった。 自分自身、産後の血の道症で頭痛や眩暈に悩み、幼い忠助の夜泣きや乳吐きの世話に追われる日々。そして何より、亡くなった前妻への遠慮と「義理の母」という重圧が、常におたかの心を押し潰していた。義理の娘であるおさよに対して十分な愛情を注ぎたいと思いつつも、どう接してよいかわからず、おさよが自分に対して心を閉ざし、いつも遠巻きにこちらを見つめていることに、深い申し訳なさと焦りを感じていたのだ。
そして何より――今のおさよの顔には、この一年間一度も見せたことのないような、太陽のように明るく無邪気な笑顔が戻っていた。
(このおさよちゃんが、これほど人に心を許すなんて・・・)
おゆみの差し出す不器用な手のぬくもりに、おさよはまるで実の母か姉に抱きつくように甘えている。自分が与える事の出来なかった温もりを、このおゆみが与えることができるのなら・・・ならば、それで良いのではないか。おたかは胸の内で静かに溜息をついた。
しかし、おゆみの控えめすぎる立ち振る舞いと、どこか世間の冷たい陰を生きてきたような独特の暗い佇まいに、ぬぐい切れない違和感を覚えてもいた。だが、娘の無邪気な笑顔と夫の固い意志、そして今の自分の病身という立場を前には、あからさまに「反対だ」と突っぱねることもできなかったのである。
その時であった。松屋の奥廊下から、静寂を破る騒がしい足音が聞こえてきた。
「旦那様! 竹村朴庵先生がお越しになりました!」
松屋の大番頭である彦助が、顔を蒼白にして急ぎ足で部屋に飛び込んできた。その背後から、二人の 男がまるで土足で踏み込むような尊大な態度で部屋へと入ってくる。
先頭に立つのは、洒落た金の刺繍が施された絹の着物を粋に着こなした、見るからに羽振りの良さそうな五十格好の商人風の男。同業者であり、忠兵衛に朴庵を紹介したという高麗屋喜左衛門である。そしてその隣には、凌庵のような質素な着流しとは対極をなす、西陣織の絢爛豪華な羽織を羽織った男が立っていた。金糸で飾られた医者特有の薬箱を腰元に提げているが、その立ち姿は医者というよりは権勢を誇る貴人のごとき佇まい――幕府や旗本屋敷にも出入りしていると豪語する医者、竹村朴庵であった。
「松屋さん、お倒れになられたと聞き、驚いて駆けつけましたぞ!?」
喜左衛門が大げさに手を差し伸べながら、心にもない高い声を張り上げる。
「高麗屋さん・・・わざわざのお見舞い、痛み入りまする。ですが凌庵先生のお陰で、もうすっかり落ち着きましたので・・・・。」
忠兵衛が伏し目がちに平伏すると、喜左衛門はどこか毒気を抜かれたような、拍子抜けした顔を見せた。
「左様か・・・、それはまあ、良うございましたな」
だが、隣に立つ朴庵は部屋に入るやいなや、畳に座る凌庵を一瞥するなり苦々しい顔で睨みつけ、雷のような大声を張り上げた。
「ところで、これはいかなる事だ忠兵衛殿!私という主治医がありながら、どこぞの馬骨とも知れぬ街の藪医者を担ぎ込んだと聞き、聞き捨てならずやってきたぞ!この竹村朴庵の顔を潰す気か!」
喜左衛門もまた、苦笑いを浮かべながら朴庵の肩を宥める振りをしつつ、その言葉に巧みに同調してみせる。
「まあまあ朴庵先生、お落ち着かれませ。しかし忠兵衛殿、お気持ちは解りますがね、いくら朴庵先生が旗本屋敷のご診察でお忙しかったからといって、勝手に他の医者に体を診せるとは感心しませんな。朴庵先生特製の秘薬があれば、そのような発作などすぐに収まりましたものを・・・。」
朴庵は畳の上に静かに佇んでいる凌庵と、その傍らで緊張した面持ちで控える若い弟子・英助へと蔑むような視線を向けた。そして、鼻で嗤うように言い放つ。
「はあ、やはりそうだ・・・。忠兵衛殿、この高柳凌庵と言う医者の真の姿をご存じか? ここは八丁堀に程近い場所だ、ならばあなた方とて、この男の悪名くらいは耳にしているでしょう。この男はな、町方の命とあらば検分と称して死んだ人間の体に平気で刃を当て、死肉を刻むような不吉な男だ。世間で何と呼ばれているか知っているか?『死骸医者』だ! 命を救う神聖なる医道ではなく、死人を弄ぶ不浄の男なのだ。そのような不吉な人間を大店の主人が頼るなど、正気の沙汰とは思えん!」
「なんですと!? 朴庵先生、口が過ぎましょう!!」
英助の顔が一瞬で真っ赤に染まった。怒りで拳を強く握り締め、膝を突いて跳ね起きようとする。 凌庵が日々どれほど貧しい患者の命と真摯に向き合い、分け隔てなく薬を施しているか。そして、言葉を発せぬ死者の遺体に刃を当てるのも、ただひとえに死者の声なき無念の叫びを聞き届け、事件の真実を明らかにするためであることを、誰よりも知っているからこそ、その恩師を「死骸医者」と蔑まれたことが許せなかったのだ。
だが、凌庵は静かに手を伸ばし、英助の膝を軽く叩いて制した。 凌庵の表情には微塵の動揺もなく、まるで深く澄んだ井戸の水面のように穏やかであった。
「竹村先生。忠兵衛様はお渡りになられた先で急激な眩暈と右脇腹の張りを訴えられ、倒れ込まれたとの事にございます。脈は沈細で乱れがあり、肝の腑に著しい鬱滞が見られました。小生は柴胡と芍薬、甘草を合わせた煎じ薬を処方し、一時的に腹の張りを鎮めさせていただいたまでにございます。命に別状はございませんが、今しばらくは安静と解毒が必要かと存じます。」
凌庵が医者として至極淡々と病状を説明する。しかし朴庵は凌庵をあからさまに青二才と小馬鹿にし、「ふん!」と鼻で笑って豪華な袖を振った。
「青二才が何を小賢しい講釈を垂れておるか!肝の張りだと? 単なる冷えと胸やけに決まっておろうが。そのような安物の生薬など使わずとも、我の秘伝の丸薬を一粒飲ませれば一発で治るわ!」
朴庵の言動にかまわず、喜左衛門が忠兵衛の顔を覗き込んだ。
「忠兵衛殿、本当に具合は良いのですか?胸の苦しみは収まったのですか?」
「ええ・・・お陰様で、凌庵先生のお薬をいただいてから、腹の重苦しさが嘘のように引き、眩暈も治まりました。実にありがたいことです・・・・。」
忠兵衛が素直に感謝の言葉を口にした瞬間――喜左衛門の顔から柔和な笑みが消え、その瞳の奥が一瞬、恐ろしいほど不気味に陰った。喜左衛門は手にしていた扇子を握り締め、舌打ちしそうな顔を間一髪で押し殺したのだった。
喜左衛門の視線が部屋の中を巡り、忠兵衛の傍らに小さくなって座るおゆみの姿に留まった。喜左衛門は目を細め、おゆみの顔を舐めるようにじっと見つめる。おゆみもまた、その鋭く蛇のような視線に怯えるように、そっと顔を伏せた。
(・・・ん?この娘・・・どこかで見たような顔だな。どこだったか・・・。)
喜左衛門の脳裏に、江戸の闇社会を牛耳っていたあの悪徳金貸しのおしまが、肩で風を切って歩いている光景が過った。
(あの女だ・・・。)
喜左衛門はうっすらと嫌な笑みを浮かべ、何かを思い当たったように膝を打つと、これ見よがしに大きな声を張り上げた。
「ああ、思い出しましたぞ!おたか様、忠兵衛殿!この娘の顔に見覚えがあります!これは小伝馬町の牢から引き取られたという、あの悪名高き金貸しおしまの身近にいた娘ではありませんか!噂によれば、腕には恐ろしい刺青が彫られているとか・・・。」
喜左衛門の言葉に、奥の間の障子越しに様子を伺っていた手代や丁稚たちから、ひっと小さな悲鳴と動揺の声が漏れた。
「刺青・・・?」
「牢帰りの女か?」
「そんな恐ろしい者を子守に・・・?」
店内に大きな動揺が広がり、波のようにざわめいた。おたかは顔を蒼白にし、胸の中の忠助を押し潰さんばかりに強く抱きしめた。
「そんな・・・本当なのですか、あなた!?」
忠兵衛はゆっくりと頷いた。
喜左衛門は勝ち誇ったように扇子をパチンと広げ、凌庵とおゆみを交互に指さした。
「おたか様、松屋の暖簾を守るためにも考え直されよ!前科のある刺青持ちの娘を家に置き、その上、世間で『死骸医者』などと気味の悪い異名で呼ばれるような男が出入りしてみなされ。呉服町での松屋の評判はガタ落ち、暖簾に大きな瑕が付きますぞ!どのようなお方様が、そのような不吉な店から高級な反物を買おうとしましょうや!これでは、御用商人の鑑札も取り上げとなるのが必定ですぞ!」
「そうだ、そうだ!医道も解らん藪医者と、牢帰りの刺青娘など、今すぐ叩き出すべきだ!」
朴庵も調子に乗って声を荒らげる。
おたかの顔は不安と恐怖で引きつり、おゆみは小さく肩を震わせて頭を下げた。 心ならずも女金貸しの配下となっていた昔の自分なら、売り言葉に買い言葉で激しく言い返していたところだろう。しかし、今の自分は違った。凌庵や英助たちの献身的な治療と温かい言葉により、角が取れ、人らしい穏やかな心を取り戻しつつあったのだ。
(やはり身を引くべきだ・・・。私がここにいれば、旦那様にも先生方にも迷惑が掛かる・・・・。)
自分が去りさえすれば、松屋にも天竜堂にも迷惑はかからない――。そう思っておゆみが静かに立ち上がろうとし、大番頭の彦助が「さあ、こちらへ」とおゆみを外へ引き離そうと手を伸ばした、その時であった。
「お姉ちゃんを苛めるなーーーーっ!!!」
空気を劈くような幼い叫び声が、奥の間中に響き渡った。おさよであった。おさよはおゆみの腰に必死にしがみつき、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、喜左衛門と朴庵をギロリと強い眼差しで睨み つけた。
「お姉ちゃんは、優しいお姉ちゃんだもん!私にお友達になってくれるって、指切りしてくれたんだもん!おじさんたちみたいに、意地悪なこと言わないもん!」
「お、おさよちゃん・・・。」
おゆみの目から、堪えきれずにポロポロと大きな涙の粒が溢れ出た。 忠兵衛もまた、静かに、しかし断固とした態度で膝を正した。畳にしっかりと腰を据え、喜左衛門と朴庵を正面から見据える。その瞳には、大店の主人としての揺るぎない気骨が宿っていた。
「高麗屋殿、朴庵先生。お言葉ですが・・・おゆみさんの過去も、身の上のことも、私はすべて凌 庵先生から伺った上で承知しております。おゆみさんの腕の傷は、被害者として不当な私刑を受けた痕。心優しきこのおゆみさんが、命懸けで私の一人娘の心を開いてくれたのです。過去がどうあれ、いま目の前にいるこの人の真実を信じるのが、人の道というものではございませんか・・・。」
忠兵衛の声は穏やかであったが、一言一言が深く部屋に響いた。
「もし、このことで松屋の暖簾に瑕が付き、世間から責められるようなことがあれば、すべての責任は店主である私が負います。おゆみさんを身内として迎える決断に、一切の悔いはございません。」
忠兵衛の強い言葉に、喜左衛門は苛立ちを隠せない様子で不快そうに顔を歪ませた。
「・・・左様ですか。そこまで言われるのなら、好きにされるがよろしかろう。朴庵先生、行きましょう。これ以上、この店に付き合っても時間の無駄だ。」
「フン!忠兵衛殿、後悔しても知らんぞ!」
朴庵は荒々しく袖を振ると、吐き捨てるように言い放ち、喜左衛門とともに大股で部屋を去っていった。
「あ、お客様をお送りいたします・・・。」
それまで黙って控えていた大番頭の彦助が、ペコペコと頭を下げながら二人の後を追った。しかし、居間を出る直前、彦助が一瞬だけ足を止め、複雑な、どこか恐れを含んだ視線で凌庵と忠兵衛の 背中を振り返った。その視線には、単なる番頭としての困惑以上の、不穏な陰影が宿っていた。
ドスドスと足音を立てて渡り廊下を渡り、松屋の門を出た喜左衛門は、ずっと難しそうな顔で腕を組んでいた。
「喜左衛門殿、どうなされた?」
駕籠に乗り込もうとする朴庵が、不機嫌そうに問いかける。
「いや・・・、あの娘のことでございます・・・・。」
「金貸しの下僕だった、あの阿婆擦れですか?」
「ええ・・・金貸しのおしまが連れているのを見た。だが・・・それ以前にも、あの顔に見覚えが ある気がしてならないのです。どこだ、どこで見た・・・・。」
「もう良いではありませんか、あんな素性知れぬ娘にかまっているほど、我らは暇ではありますまい。」
そう話し合いながら、喜左衛門と朴庵はそれぞれの駕籠に乗り込み、松屋を後にした。 だが、揺れる駕籠の中で、喜左衛門の頭からおゆみの面影が離れなかった。脳裏を覆っていた記憶の霧が、薄皮を剥ぐように少しずつ晴れていく。
(・・・待てよ。おしまの店に入るより、もっと昔だ。十五、六年も前のことだ・・・。あの立ち姿、あの鼻筋・・・。まさか・・・・!)
喜左衛門の背中に、冷たい汗がひやりと伝った。
――手代の留蔵。かつて高麗屋で働いていた、あの生真面目だが邪魔だった男。
幾分年嵩だったことを鼻にかけて、道楽と欲に塗れた自分に何かと五月蠅い説教をしたあの留蔵である。ある時、留蔵が金に困って二束三文の金をくすねた。隠居した自分の父親も「大袈裟に騒ぐな」と言っていた。しかし、喜左衛門は日頃の鬱憤を晴らすため、事をわざと大事にして留蔵を蔵に叩き込み、家にいた幼い娘まで引っ立ててこさせたのだ。 『親が憎けりゃ子まで憎い』――喜左衛門は盗人の娘という烙印を捺すため、金で懐柔していた悪徳役人を操り、少女の腕に容赦なく刺青を彫らせた。抗う留蔵を御用聞きに叩きのめさせ、身ぐるみ剥いで叩き出したのだ。すべては隠居の耳に入らぬよう内々に処理した悪行であった。
(あの留蔵の目に瓜二つ・・・!まさか、あの留蔵の娘か・・・!なぜ生きて松屋などにいる!?しかも、忠兵衛の病が良くなっているだと・・・・?このままではまずい、御前の耳に入れておかねば・・・・。)
駕籠の中で、喜左衛門の顔が般若のように醜く歪んでいた。
嵐のような二人の去り際の後、松屋の奥居間には重苦しい静寂が残されていた。
一度でもおゆみの事を色眼鏡で見たおたかは、忠兵衛の固い決意とおさよの必死な姿、そして去っていった喜左衛門たちの不自然な態度に、かすかな疑念と反省を抱いたようだった。
「・・・旦那様がお決めになったことでしたら。私からこれ以上は何も申しません。おゆみさん、どうかおさよをお願いしますね。」
おたかは深々と溜息をつき、おゆみを引き受けることを承諾した。
「ありがとうございます、奥様・・・!一生懸命にお仕えいたします!」
おゆみは何度も畳に頭を擦り付けた。
「おゆみさん、仲良くしてくださいよ。何か困ったことがあったら、いつでも天竜堂に駆け込んでくるのですからね。」
英助がおゆみを励ますように、温かい笑みを送る。
「はい、英助さんもしくじって先生に叱られないようにしなよ?」
「まったく、相変わらず一言多いな・・・。」
軽口を叩き合う二人の姿に、ようやく部屋の空気が和らいだ。
だが、傍らに佇む凌庵の表情は硬いままであった。 凌庵の視線は、喜左衛門たちが走り去って いった渡り廊下の闇と、立ち去り際に大番頭の彦助が見せたあの怯えたような目線に向けられていた。
(喜左衛門・・・忠兵衛殿の体調が良くなったと知った瞬間の、あの不気味な瞳の陰り。そして番頭のあの怯え・・・。あの者たちは、忠兵衛殿が『治ってもらっては困る』理由でもあるというのか・・・?)
昨夜判明した「毒饅頭に含まれた精製ヒ素」と「悪徳金貸しおしまの二重帳簿」。 そして、忠兵衛を襲う慢性の毒気と、怪しげな丸薬を売りつけようとする朴庵――。 すべての点と点が、この呉服町の大店「松屋」を中心に、一本の恐ろしい太い糸となって繋がりつつあるのを、凌庵は確信していた。
「先生?」
英助が心配そうに覗き込む。
「うん? どうした?」
「いや、先生が珍しく浮かない顔をされていたので・・・。」
「ああ、忠兵衛殿の経過が気になってな。まあ、俺も気にかけておくが、あまり他処の領域を荒らしてはいかんからな。」
「あの朴庵とか言う失礼な医者ですか? 本当に頼りになるのですかねえ・・・。あれは薬の臭いに顔を顰め、金の臭いを好む藪医者ですよ。」
「英助、他人を無闇に誹るのは良くない。己の品格を下げるぞ。」
「・・・気を付けます。」
素直に頷きながらも、英助はちらちらとおゆみの様子を気にしていた。
「英助、これからも松屋への往診の時にはついて来い。そうすれば、おゆみも心強いだろう。」
「はい!」
(――お前自身も嬉しいようだな。)
どうやら英助とおゆみは、凌庵が及びもつかないような特別な絆で結ばれようとしている様だ。英助の晴れやかな顔を見ると、凌庵の顔にも自然と穏やかな笑顔が戻ってきた。
だが、表向きの平穏とは裏腹に、暗雲は刻一刻と呉服町を覆い尽くそうとしていた。 喜左衛門とおしま、そして朴庵らが結託した陰謀の罠は、着々と松屋を飲み込もうと張り巡らされている。
八丁堀住まいの町医者・高柳凌庵と、江戸の闇に潜む悪の企み――松屋を舞台とした新たな闘いの火蓋が、いま静かに切って落とされたのである。




