三十六
八丁堀の朝は、地蔵橋を通る大八車の軋み音と、魚売りの威勢の良い掛け声とともに明ける。天竜堂の薬調合室には、朝一番の清々しい光が格子窓から差し込み、乾燥させた生薬の香ばしい匂いが立ち込めていた。
英助がテキパキと、往診用の薬篭箱の中に手際よく道具や薬品を詰めて準備をしている。
「英助、準備は出来たか?」
「はい、先生。いつでも出られます!」
明るい笑顔で英助が答えた。本日は英助の顔つなぎの意味も込め、往診に連れて行く手筈になっていた。昨夜の「小石川養生所での惨劇」や「毒饅頭の恐怖」という重苦しい出来事から気持ちを切り替え、目の前の患者に向き合おうとする真摯な決意が、その真っ直ぐな瞳に宿っている。
「先生、本日最初の往診は、隅田川沿いの船宿・喜船屋ですね。そのあと、茅場町の伊勢屋様のお内儀の薬をお届けすることになっております。」
薬篭箱の検品を終え、英助は往診の予定が記された手帳を確認した。
凌庵はそれぞれの患者が飲む薬を、あえて英助に調合させていた。無論、任せきりにしたわけではないが、英助の日頃の学習の成果を見るための、言わば実技試験であった。
「うむ、完璧だ。お前が認めた覚書を見たが、特に間違いはない。ただ茅場町の伊勢屋さんの薬には、先日の煎じ薬に少しばかり甘草を加えておいた。胃の腑を痛めやすい方だからな。赤字で印を書いておくなどして、持ち出す際に間違えないようにしなさい。」
「はい、承知いたしました!」
「では朝餉を取ってから往診に出る。出掛ける準備をしておけ。」
「はい!」
奥の台所からは、おゆみと彩乃の賑やかな声が聞こえてくる。
「彩乃さん、出来たよ。」
「うん、いいお味ですね。またさらに上手になりましたね。私には、こんなに上手に味噌汁は作れませんわ。羨ましい・・・。」
おゆみの作ったお味噌汁を一口味わい、彩乃が心から感心したように吐息をつく。
「何言ってるんだい、彩乃さんは女中でもなけりゃ板前さんでもないんだから、料理が苦手でも良いんだよ。何でも出来ちまう人なんて気持ちが悪いじゃないか。凌庵先生だって駄目な部分はあるんだろ?」
「ふふふ、確かに。あの先生ったらね・・・。」
まるで本当の姉妹のように笑い合っているところへ、往診の準備を終えた凌庵と英助が次の間に入ってきた。
「何か言ったかお前たち。どうにも鼻がむずむずするのだが?」
「いいえ、何も。」
陰で噂をされていた凌庵のじと目に対し、ホホホと上品に笑って誤魔化す彩乃とおゆみ。
おゆみは慎重な足取りで膳を運んできた。
かつて小伝馬町の牢から引き取られた直後の、死人のように蒼白で痩せこけていた影はもうない。髪は綺麗に結われ、彩乃から譲り受けた薄桃色の小紋に身を包んだその姿は、年相応の可憐さを取り戻しつつあった。
「凌庵先生、英助様、朝ごはんにいたしましょう。」
「おお、いつもすまないな。」
凌庵が温かな笑みを浮かべ、膳に手を伸ばそうとした――まさにその時である。
――バタバタバタッ!
表の格子戸が荒々しく叩かれ、急体を告げる叫び声が八丁堀の朝の静寂を打ち破った。
「頼もう!許せよ!!凌庵先生はおられるか!急患だ、救ってくれ!」
「何だ? なにごとだ!?」
英助が跳ね起きるようにして表戸を開けると、汗だくになった町方の同心が一人、呼吸を荒らげて 立ち尽くしていた。その背後には、二人の若い担ぎ手が、戸板の上に横たわった中年男を担ぎ込もうとしている。そしてその足元には、精巧な和人形を抱きしめ、不安そうに大きな目を巡らせている小さな女の子がぽつんと立っていた。
「これは御町の旦那方、どうされたのかね?」
駆け寄った同心は、息を弾ませながら語った。
「おう、天竜堂の先生!巡回中にこのお人が茅場町角で突然激しい眩暈と腹痛を訴えて倒れ込みな さったんだ。見れば日本橋の老舗呉服商『松屋』の旦那・忠兵衛さんじゃねえか。かかりつけの医者の元へ運ぼうとしたが、生憎その先生にあちこちの旗本屋敷を出入りしていて不在が多い。手遅れになっちゃ大変だと、俺の独断で近くの天竜堂へ担ぎ込ませてもらったんだ!」
「よくぞ運んでくれた。おゆみさん、済まないが朝餉は後だ!急ぎ奥の診察室へ!」
凌庵の眼光が一瞬で「医者」のそれへと切り替わった。往診の手を止め、すぐさま戸板の男を診察台へと横たえさせた。
診察台に横たわった松屋忠兵衛は、五十を幾つか越えたばかりの立派な身なりの男であったが、その顔色は土気色に沈み、額には油汗がびっしりと浮いていた。時折、腹を抱えて痛みに耐えるように低い呻き声を漏らしている。
「忠兵衛様、聞こえますか?天竜堂の医師、高柳凌庵です。どこがどのように痛みますか?」
凌庵は静かに優しく、しかし通りやすい声で呼びかけながら、忠兵衛の手首に指を当てて脈を診た。
「朝早くから・・・、申し訳ございません。」
「気になさるな。息を深く吐いて・・・そう、落ち着いて」
脈は沈んで細く、時折、脈動が不規則に乱れる。続いて目蓋を押し上げ、瞳孔の収縮と結膜の変色を確認すると、着物の胸元を肌脱がせて腹部にそっと手を当てた。
「・・・右の肋骨の下、肝のあたりに著しい張りがあるな。忠兵衛様、ここを押すと響きますかな?」
「あ・・・つぅ、強い痛みというよりは、腹の奥がズシリと重く・・・胸がむかむかして吐き気が・・・。」
「左様か」
忠兵衛は苦しげに息を吐き出しながら、救いを求めるように凌庵を見上げた。
「先生・・・私は、どのような病なのでしょうか・・・。命に関わるような恐ろしい病では・・・?今、私は・・・病に倒れるわけにはいかないのです・・・・。」
不安に震える忠兵衛の問いに対し、凌庵は心身を落ち着かせる様に言った。
「大丈夫ですよ、忠兵衛様。脈に死兆は出ておりません。急劇な発熱もなく、内臓が破れているような兆候もない。・・・・ですが、念のために伺いたい。この眩暈と吐き気、腹の重苦しさを最初に感じたのは、いつ頃のことですか?」
忠兵衛は薄目を開け、記憶を辿るように天井を見つめた。
「・・・いつ頃、でしたかな。・・・確か、十日ほど前・・・茅場町の薬種屋へ赴いた帰り道から、どうも身体が重く、食欲が落ちてまいりました・・・・。」
「十日ほど前・・・。」
凌庵の手がピタリと止まった。
(十日前・・・だと?夜鷹や少年の命を奪った毒饅頭の一件・・・・医者たちの間で不気味な噂が囁かれ始めた時期と、ほぼ一致する・・・!)
凌庵の脳裏に、不気味な暗雲が立ち込めた。もちろん忠兵衛の症状は、毒饅頭を食した被害者のように即死に至るような激痛や口内の腐蝕痕はない。しかし、微量の不純物や慢性の毒性が、時間をかけて体内に少しずつ蓄積しているような、えも言われぬ不快な気配が感じられたのだ。
「忠兵衛様。お体の調子を崩されてから、どのような治療を受けられましたか?かかりつけの医師がおられるとお聞きしましたが・・・。」
「はい・・・。私ども松屋は、兼ねてより親しくしている同業の高麗屋喜左衛門殿からご紹介いただいた、竹村朴庵先生にお世話になっております・・・。」
「竹村朴庵・・・。」
凌庵はその名を聞いて、密かに眉をひそめた。竹村朴庵――江戸の医者仲間の間でも、その名は知れ渡っていた。幕府の旗本や御家人、さらには大店の豪商の屋敷へ出入りし、見事な口八丁と華やかな処方で名医ともてはやされている男だ。 しかし、その裏の評判は決して芳しいものではなかった。
『病治しよりも金儲けに熱心で、裏では高利貸しを営み、借り手を脅し上げている』
『幾人もの妾を囲い、夜な夜な怪しげな酒宴に興じて屋敷を不在にすることが多い』
『手仕込みの怪しげな秘薬を高額で売りつけている』
医道よりも欲望に生きる男――それが、竹村朴庵の噂であった。とかく富と名声を手にした者の中には、こうして欲に取り憑かれた悪しき者がいる。凌庵の恩師で彩乃の父である玄瑞や、小石川養生所の蓬洲、慶斎といった真の医術を志す者もいれば、人を癒すことよりも己を肥やすことに熱心な医者もいる。 信じたくはないが、これが現実であった。
「朴庵先生は大変お忙しい方で・・・一向にお屋敷におられず、この十日間、満足な診察を受けられずにいたのです・・・・。」
忠兵衛の言葉に、凌庵は静かに頷いた。
「左様でしたか。・・・忠兵衛様、ご安心なさい。お腹の張りを取り、吐き気を鎮める処方を施します。まずはこの天竜堂で二刻ほど横になり、薬を飲んでお休みになられよ。」
「畏まりました・・・、お騒がせいたしまして申し訳ございませぬ・・・・。」
「礼には及びませぬ。病にこちらの事情は関係ございませぬ。もしもまだ具合が悪いようなら、いつでも来てください。お望みならば、往診にも赴きます。」
「ありがとうございます・・・・。」
凌庵は調合室へ向かい、柴胡や芍薬、甘草を配合した和漢の解毒と鎮痛の煎じ薬を素早く仕込み始めた。
忠兵衛が奥の寝床で薬を飲み、安らかな寝息を立て始めた頃。 天竜堂の広い縁側には、小さな影がぽつんと座り込んでいた。
忠兵衛のひとり娘、おさよである。今年で八歳になるというおさよは、友禅の綺麗な振袖を着せてもらっていたが、その小さな肩を丸め、両膝を抱え込むようにして、大切そうに抱いた和人形に触れたり、庭の飛び石をじっと見つめたりしていた。大人の顔色を窺うような、あまりにも寂しげで陰のある瞳。
近所の子供たちが路地で遊ぶ賑やかな歓声が遠くから聞こえてくるが、おさよはピクリとも反応しない。
その姿を、台所の片付けを終えたおゆみが遠くからそっと見つめていた。
(・・・あんなに小さなお嬢様なのに、どうしてあんなに悲しそうな目をなさっているのだろう・・・)
おゆみの胸がキュッと締め付けられた。かつて自分自身が身寄りを無くし、闇の中に置き去りにされていた頃の孤独と、目の前の少女の姿が重なって見えたのだ。
おゆみは盆にお茶と千菓子を載せて、足音を立てないように縁側へ歩み寄った。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
「・・・うん。」
「あの先生に任せておけば大丈夫だから、心配しないでね。」
おゆみは優しく声をかけ、おさよの隣にそっと腰を下ろした。
おさよはビクッと身体を揺らしたが、おゆみの温かな目線と柔らかな笑みに毒気を抜かれたのか、小さく「はい・・・」とつぶやいた。
おゆみはお茶を注ぎながら、話しかけた。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「おさよ・・・です。」
「おさよちゃん。とてもいい名前じゃないか・・・。」
おゆみが菓子を差し出すと、おさよは細い指先でそれを受け取り、小さくかじった。甘さが口の中に広がったのか、ほんの少しだけ緊張がほぐれたように見えた。
「おさよちゃん、何か悲しいことでもあったのかい?話すと楽になるよ?」
おゆみのどこまでも優しい問いかけに、おさよの瞳から溢れんばかりの涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「私・・・、お家の中で独りぼっちなの・・・・。」
「独りぼっち?おっ母さんは?」
「おっ母さん、知らないの・・・。私が赤ん坊の時に、死んじゃったんだって・・・。」
おさよは詰まりながら、小さな声で胸の内を吐露し始めた。母親の顔を知らずに育ったおさよは、父親である忠兵衛の手ひとつで、何不自由なく大切に育てられてきた。 しかし去年あたり、忠兵衛は「おさよには母親が必要だ」と考え、おたかという若い後添いを松屋に迎え入れたのだという。
「おたかさんは・・・確かにお綺麗な人だけど、私とどう話して良いか解らないみたいで・・・い つも少し離れたところにいるの。それにね、この間弟が産まれたの・・・。」
おさよは小さな手で着物の袖を固く握りしめた。
「お店の人たちも、お父様も、みんな赤ちゃんのお話ばかり・・・。私もお姉ちゃんだから、赤ちゃんをあやそうとしたら怒られて・・・松屋にいても誰も私を見てくれないの。・・・私、おうちの中に居場所がなくなっちゃうのかなあ・・・・。」
ポロポロと涙をこぼすおさよの頭を、おゆみは愛おしそうにそっと撫で下ろした。そして優しく、おさよの肩に手を置く。
「そんなことはないよ、おさよちゃん。」
おゆみの声には、自らのどん底の経験から溢れ出る、深みのある温もりが籠もっていた。
「お父っつあんは、おさよちゃんのことが大好きだからこそ、倒れるまで一生懸命にお仕事やお家を守って来たんじゃないか。居場所が無くなるなんて、絶対にないよ。おさよちゃんは、世界でたった一人のお父様の大切な宝物なのだから。」
おゆみは自らの細い腕をさすった。着物の下には、忘れることのできない不当な私刑の刺青が隠されている。しかし、今の彼女には、その痛みを乗り越えて得た「優しさ」があった。
「私もね・・・ずっとひとりぼっちで、どこにも居場所がないと思って生きてきたんだ。」
「お姉ちゃんも?」
「うん、あたしも小さいうちにおっ母さんを亡くしてね、大変な目にあって、後ろ指を指されながら生きてきたんだ。でもね、天竜堂の先生や彩乃さん、英助さんが・・・『お前はここにいていいんだよ』って、温かい手を差し伸べてくれたんだ。だからおさよ様も、決してひとりじゃあないんだよ。」
おゆみの温かい手のぬくもりと優しい言葉が、おさよの凍てついた心をすっと溶かしていった。おさよはおゆみの胸に顔を埋めて泣きじゃくり、やがて涙を拭うと、今までの暗い顔が嘘のように、おゆみに向かって「にこっ」と無邪気な満面の笑顔を見せた。
「お姉ちゃん、だったらあたしのお友達になってよ!」
「ああ、いいよ。おさよちゃんを独りぼっちにはしないから、安心して。」
「じゃあ、指切りっ!」
そう明るい声で指切りをするおゆみとおさよの姿を、診察室から出てきた松屋忠兵衛は、感極まった様子で立ち尽くして見つめていた。
「・・・笑っている。おさよが、笑っている・・・・。」
「どうされました?」
凌庵が後ろから声をかけると、忠兵衛は振り返り、目頭を熱くさせながら訴えた。
「凌庵先生・・・ご覧くださいまし。あの子が・・・あんな風に心から笑った顔を見たのは、一体いつ以来でしょうか・・・・。」
忠兵衛の目からぼろぼろと涙が溢れ出る。
「お恥ずかしい話ですが、後添いを迎えて以来、おさよは芝居を見せに連れて行っても、寄席へ連れて行っても、ずっと暗い顔で押し黙ったままでした。後添いを迎え、母親が出来れば明るくなってくれると思ったのですが、すべて空回り。私が良かれと思ってしたことが、かえってあの子を追い詰めていたのかと、悔やんでも悔やみきれず・・・。」
忠兵衛の話を聞き、おさよの弾むような笑顔を見た凌庵も、何かを察したように穏やかな表情を見せる。ある意味、おゆみも独りぼっちで不条理な世の中を渡ってきた。だからこそ、家庭内で居場所を失いかけていたおさよの痛みが、誰よりも痛切に理解できたのだろう。
喜怒哀楽の『喜』と『楽』の二文字が欠落していた少女が、失われた二文字を取り戻したかのように笑っている。 その姿を目に焼き付けた忠兵衛は、意を決したように畳に両手をつき、頭を深く下げた。
「凌庵先生!不躾なお願いとは重々承知しておりますが・・・どうか、あのおゆみさんを我が松屋にお貸しいただけないでしょうか!」
「おゆみさんを、松屋へ?」
当然の驚きとともに、凌庵が問い返す。
「はい!あの子の母親は、あの子が物心つく前に亡くなってしまいました。後添いを貰い、そのおたかが玉のような男の子を生みました。あの子にとっては腹違いの弟に当たります。その子はまだ幼く手が書かりますし、おたかも子を産んで間もない身で油断が出来ませぬ。それゆえに、おさよの面倒を満足に見ることができません。おゆみさんにおさよの子守役として松屋に入っていただければ、おさよの心も救われます。もちろん、手当ては十分にお支払いいたします!」
突然の申し出に、傍らで聞いていた英助がハッとして前に出た。
「忠兵衛様!お気持ちはありがたいのですが・・・おゆみ殿には、色々とお話できない複雑な事情がございます。天竜堂を離れて外へ出るのは、時期尚早では・・・・。」
英助の脳裏には、悪徳金貸しのおしまの身近にいたというだけで命を狙われかねない、現在の危険な情勢があった。おゆみを天竜堂の庇護の外へ出すことは、彼女を再び暗雲の中へ晒すことになりかねないという強い焦燥感があったのだ。
その時、忠兵衛の大声を聞きつけたおゆみが、静かな足取りで部屋へ戻ってきた。
「忠兵衛様・・・私は、松屋様で働かせていただけるような、綺麗な身の上の人間ではございません。」
おゆみは意を決し、自らの言葉で語り始めた。自分をすべてさらけ出すように、着物の左袖をゆっくりと捲り上げ、痛々しい刺青を露わにしてみせた。
「私は少し前まで、小伝馬町の牢におりました。濡れ衣は晴れましたが、幼い頃に恐ろしい大人たちから私刑を受け、この腕には消えない刺青が刻まれております。・・・このような私が松屋様にお邪魔すれば、お店の評判に傷がつくかもしれません。」
おゆみは深く頭を下げた。自分を守ってくれた天竜堂や、温かい忠兵衛親子に決して迷惑をかけたくないという、純粋な誠意からの告白であった。
だが忠兵衛の反応は、おゆみや凌庵の予想を遥かに超えるものであった。 忠兵衛はおゆみの手をとると、力強く頷いた。
「おゆみさん・・・。人は誰しも、人には言えぬ傷や深い問題を抱えて生きているものです。過去に何があったとしても、今のおゆみさんの温かい心と優しさが、現に私の一人娘を救ってくれた。私にとって重要なのは、それだけです!」
忠兵衛の言葉には、大店の主人としての確かな見識と骨があった。
「周りが何と言おうと、世間がどう噂しようと、この松屋忠兵衛がすべて責任を負います。ですからどうか、おさよのために松屋に来てはいただけませんか?」
忠兵衛の真摯な熱意に、一同は息を呑んだ。 凌庵はおゆみの顔をまっすぐに見つめた。
「おゆみさん。天竜堂はいつでもお前さんの家だ。だがな、こうして必要とされ、世の中に出ていくことも、お前さん自身の傷を癒やし、前へ進むための大切な薬になる。・・・・どうだ?行ってみ るかい?無理にとは言わねえ。辛くなったら、いつでもここへ戻ってくればいいのだから。」
おゆみは胸を熱くし、凌庵、そして心配そうに見つめる英助と彩乃を見つめ返した。そして、自分の手を握りしめるおさよの温かな感触を感じ取り、力強く頷いた。
「はい・・・!凌庵先生、私、松屋様へまいります!おさよ様のお力になりたいです!」
「ありがとう!ありがとう!!」
おゆみの手をグッと握り、忠兵衛は何度も礼を言った。
決まりとなれば、話は早かった。
「では忠兵衛様、おゆみさんは病後の療養と心の回復を兼ねて松屋様へお預けする、という形で紹 介状にしたためておきましょう。私からも松屋様へ赴き、お店の皆様におゆみさんの治療上の留意点としてご説明申し上げます。」
凌庵は速やかに筆を走らせ、一通の丁寧な紹介状を認めた。
「先生、私もお供いたします!」
英助が即座に申し出た。おゆみの新たな門出を祝い、その成長を誇らしく思う一方で、彼女の安全 を自分の目で見届けたいという強い想いが英助を突き動かしていた。
「ああ、英助。お前さんも一緒に行くぞ。彩乃殿、天竜堂の留守を頼むよ。」
「ええ、いってらっしゃいませ。おゆみちゃん、体に気をつけてね。たまには顔を見せるのよ。」
彩乃が包み込むような笑顔でおゆみの背中を押した。
天竜堂の格子戸を開けると、眩しい昼下がりの日光が八丁堀の通りを照らしていた。 おさよはお ゆみの手をしっかりと握りしめ、一度も離そうとしない。 その顔には、先ほどまでの陰りは微塵もなく、弾むような足取りで歩いている。
松屋へと向かう道中、凌庵と英助は一歩後ろを歩きながら、静かに言葉を交わした。
「英助。お前さん、おゆみさんが遠くへ行ってしまうようで、少し寂しそうだな。」
凌庵のからかい交じりの問いに、英助は照れたように俯いた。
「い、いえっ!寂しくなどありません・・・!ただ、おゆみ殿がこうして自らの足で歩み出し、誰かの救いになっている姿を見て、胸が熱くなったのです。・・・ですが先生。」
英助の表情が引き締まる。
「忠兵衛様の体調不良・・・、どうにも嫌な胸騒ぎがいたします。」
「うむ・・・。」
凌庵の目もまた、鋭さを増していた。
「高利貸しの朴庵、そして朴庵を忠兵衛様に紹介したという高麗屋・・・。昨夜判明した『毒饅頭のヒ素』と『おしまの二重帳簿』の件と無関係とは思えん。おゆみさんが松屋に入ることで、図らずも我々は敵の懐近くに拠点を置くことになるやもしれんな・・・。」
凌庵は空を見上げた。穏やかな昼下がりの光の向こうに、江戸の闇に渦巻く陰謀の影が、確実に広がりつつあるのを皮膚で感じていた。
「だがな英助。どのような暗雲が立ち込めようと、あの幼いおさよちゃんの笑顔と、おゆみさんの踏み出した一歩を、俺たちの手で断ち切らせはせんよ。」
「はい、先生!」
四人と一人の賑やかな足取りは、日本橋の賑わいの中へと向かって進んでいく。
おゆみの新たな生活の始まりと、天竜堂の前に立ちはだかる新たな謎。
――物語は、さらなる波乱の渦へと向かって動き出すのであった。




