三十五
「今度産まれてくるときは、幸せになるんだよ・・・。親子手を取り合って、迷わず成仏しなよ・・・。」
凌庵は黙って、南無阿弥陀仏の紙片を死骸の傍らに置いた。
小石川養生所の奥深く、死者を検分するための冷暗な部屋「顕幽閣」の板敷きにて。 冷たくなり果てた納豆売りの少年の遺体を検分し終えた高柳凌庵は、胸の前でそっと両手を合わせ、深く長い祈りを捧げた。その傍らで、弟子の英助が唇を血がにじむほど強く噛み締め、震える手で少年の乱れた前髪を整えている。 凌庵は養生所の役人たちに手厚い供養の手配と、身元調査の徹底を頼み込むと、静かに立ち上がった。無念の内に命を散らした幼い霊が漂うような湿った死臭と陰気が満ちる顕幽閣をあとにし、四人は入り組んだ廊下を進んで薬煎室へと足を運んだ。
木枠の格子窓から薄光が差し込む薬煎室には、重厚な生薬の香気と、薬草を蒸かす苦い煙が立ち込めていた。 部屋の中央に置かれた堅牢な檜の作業台。そこには、ビードロ製のフラスコや幾重もの薬壺、陶製の乳鉢、そしてオランダ渡りの試薬瓶が整然と並べられていた。 待ち受けていたのは、凌庵の長年の親友であり、養生所屈指の蘭学医でもある松崎慶斎であった。そしてその横には、小石川養生所の肝煎を務める重鎮である稲垣蓬洲が、厳しい皺を刻んだ顔で腕を組み、仁王立ちで立会っている。
「おう、お出ましか。・・・仏の様子はどうだったね、凌庵殿?」
慶斎は手元に置いたオランダ製のピンセットから目を離さずに問いかけた。凌庵は重い吐息をひとつ漏らし、静かに首を振る。
「惨いものだったよ、慶斎殿。まだ七、八歳の、街でよく見かける納豆売りの子供だ・・・。これから何色にも染まるであろうはずの真っ白な糸が、無慈悲にブツリと切られちまった。」
静かな語り口調の中に、抑えきれない憎悪と強い憤怒が滲む。
「やはり・・・、毒かね?」
蓬洲の低い声が響く。凌庵は頷いた。
「うむ。口内の粘膜には烈しい腐蝕痕があり、消化管の上部からも血が吐き出されていた。念のために差し入れた銀簪は、触れた瞬間に漆黒に変色したよ。」
「・・・そうか、苦しかったろうなァ・・・。」
慶斎は顔を曇らせると、石の台の上に恭しく置かれた竹皮の包みに視線を落とした。そこには、あの少年が一口だけかじり、猛烈な苦悶の末に道端へ落とした「毒饅頭」の残骸があった。
「見たところ、どこにでもある市井の菓子屋が売る利休饅頭のようだが・・・手にとってみるとズシリと重い。中には黒々とした黒胡麻餡がぎっしりと詰まっている。空腹の子供ならずとも、目の前に出されればつい手が伸びる代物だ。」
慶斎は素焼きの小皿に、饅頭の皮と餡の一部を竹べらで注意深く削り落とした。そこに特定の試薬を数滴垂らし、アルコール灯の青い炎の上にかざす。じわじわと熱せられた試薬から、特有のツンと鼻を刺す嫌な匂いが煙とともに立ち昇り、小皿の表面に薄い白膜が不気味に析出した。
慶斎の眼差しが鋭く光る。
「・・・黒だ。間違いねえ、純度の極めて高い『ヒ素』の類だ。それも、ただ毒石を砕いて粉にしたような生半可な代物じゃねえぞ。粒子の角が完全に潰されるまで密に精製され、水や餡に素早く馴染むよう特殊な加工が施されている。」
「やはり、精製されたヒ素か・・・。」
固唾をのんで見守っていた新太郎と仁吉が顔を見合わせた。 沈黙を破ったのは、腕を組んでいた蓬洲であった。
「ヒ素にしても、これほどまでに精製された毒薬となれば・・・一般の町人やそこらのごくつぶしがおいそれと手にできる代物ではないわ。幕府の厳しい『薬種改め』の目をくぐり抜け、これだけの純度のものを用意し、加工するとなれば・・・。」
「ええ。」
蓬洲が言いかけた言葉を、凌庵が重々しく引き継いだ。
「必ずこの計画の裏には、医者なり、幕府御用の薬種商なり、薬の理に通じた玄人が深く関わっているに違いありません。それも、公には出せぬ裏の流通網と、絶大な権力を背景に持った者が・・・。」
「医術とは、傷つき病む人の命を救うために天から授かった術はずだ!」
蓬洲は作業台を強く叩いた。激しい音が薬煎室に響く。
「それを事もあろうに、毒薬の効き目を試すために人命を奪う道具に使うなど・・・、断じて許せん!医道を汚す不道徳の極みだ!」
江戸の医学界を支えてきた老医の言葉には、吐き気をもよおすような憤りと、絶対の矜持が込められていた。
しかし、試薬の小皿を見つめていた慶斎が、ふと顎に手を当てて首をひねった。
「だが・・・、それほどの上物の毒薬を手に入れられる黒幕がいるのだとしたら、益々わからねえな。無差別に人を殺して街を混乱させたいのなら、井戸に毒を放ち込むか、賑わっている大衆旅ごたえの鍋にでも放り込めば済む話だ。なぜ、わざわざ手間暇かけて饅頭一つひとつに毒を仕込む必要がある? それに毒薬の種類だってピンキリだ。何も和薬改所の目が一番厳しいヒ素なんていう大物を使わなくても、トリカブトやら腐敗した魚毒やら、足のつきにくい毒は他にいくらでもあるはずだ。」
慶斎の抱いた疑問は、捜査の核心を突いていた。 部屋の中にふたたび重苦しい思考の間が流れる。 凌庵は静かに目を閉じ、脳内で事件のピースを繋ぎ合わせた。
「・・・慶斎殿。犯人の狙いは『無差別な殺戮』そのものではないとしたらどうだ?」
「何・・・?」
「確実に人間を死に至らしめる『正確な致死量』と『発症までの刻限』、そして『胃の中での毒の混ざり具合による効き目の変化』を計測したかったのだとしたら・・・。」
凌庵の目があいた。その瞳は冷たく冴え渡っている。
「井戸や鍋では、被害者がどれだけの量の毒を口にしたかが分からなくなる。だが、饅頭ならば違う。一口かじらせることで、正確な量を摂取させることができる。しかも、皮と甘い餡の中に微小な精製ヒ素を均一に混ぜ込むことで、胃の中でどのように消化され、どれほどの時間で神経を麻痺させるかを克明に観察できるのだ。」
「な・・・、なんて奴だ・・・・!」
慶斎は絶句した。
「つまり・・・被害者たちは怨恨で殺されたのではない。下手人は、完成させた毒薬をいずれ『本命の誰か』に盛るために、街の弱者や子供を・・・言わば『試し鼠』にして実験を繰り返していたというのか!?」
「試し鼠だと・・・!人の命を何だと思ってやがるんだ!」
新太郎が激怒のあまり、帯びた刀の柄を固く握りしめた。
「そんな狂気じみた野郎が、この大江戸のどこかに潜んでいるってえのか!」
仁吉もまた、顔を真っ赤にして拳を震わせる。
二人の若い同心と岡っ引きの激昂をよそに、英助はじっと自分の両手を見つめていた。その手は悔しさと恐怖で小刻みに震えている。
「・・・まるで人を、実験用の鼠や金魚のように扱っている……。先生のおっしゃる通りです!こんな恐ろしい毒薬が市井にばら撒かれているなど、絶対に許されてよいはずがありません!」
薬の正体が白日の下に晒されたことで、薬煎室の空気はさらに緊張を増した。ここに集まった者はみな、捜査や医術の第一線に立つ者たちである。だからこそ、口には出さずとも全員が同じ「次なる重大な懸念」へと行き着いていた。
重苦しい沈黙を破ろうとしたのか、もともと道楽者で洒脱な性格として知られる慶斎が、ひょいと肩をすくめて凌庵に視線を向けた。
「・・・ところで凌庵殿。オメエさん所じゃあ、最近随分と可愛らしいおてんば娘を迎え入れたそうじゃねえか?」
唐突な話題の転換に、新太郎と仁吉が一瞬ハッとした表情を浮かべる。凌庵は苦笑いを浮かべると、慶斎の悪戯っぽい眼差しに応じた。
「ほほう・・・慶斎殿は、そのお転婆に興味がおありかね?」
「ハハハ!おいおい勘弁してくれよ。家付きの女房殿の頭に角が生えちまう。今更部屋住みの極潰しに戻りたくはねえからな。だがなぁ、医者同士の情報網ってのは光の速さより速く広まるものだ。小伝馬町の牢から出た娘の手当をして、天竜堂で面倒を見ているって噂は、もうこの小石川養生所じゅうの連中が知ってるぜ。」
凌庵は少し視線を巡らせ、蓬洲を見た。
「とすると・・・、蓬洲先生の御耳にも?」
「ああ、入っておるよ。」
蓬洲は眉間の皺を緩めずに頷いた。
「当然、奉行所の遠山玄瑞殿の耳にも届いておる。あちらは『凌庵のすることだ。助平心などで女子を囲うはずもあるまい』と笑っておられたが……儂は心配でおらんのだ。一体どういう訳ありの女子なのだ?」
おゆみの件について、養生所の面々も大枠は耳にしているようだった。凌庵は差支えのない範囲で、おゆみの細い腕に刻まれた痛々しい「私刑の刺青」のこと、そして彼女がこれまで歩んできた凄惨な生い立ちについて簡潔に語って聴かせた。 語り終えると、先ほどまで軽い口調だった慶斎は完全に笑顔を消し、胸の底から不快感を吐き出すように深く溜息をついた。
「何と・・・、世の中にそれほど残酷なことがまかり通っていたとはな・・・。」
「稀に見る酷い話と言いたいところだが・・・、そういう耳を覆いたくなるような胸糞悪い話ってのは、この大江戸の闇じゃ尽きねえものだな。反吐が出そうぜ。」
慶斎は心底眉をひそめた。凌庵も静かに深く頷く。
「理不尽な私刑に、欲に目が眩んだ役人が絡んでいた。俺たちが人命を救うために日夜磨いている医学や知識が、そんな下種どもの身を守り、闇を隠すために使われていると思うと、やり切れん思いだよ。」
傍らに立つ英助は、雨の日に天竜堂へおゆみを抱きかかえて連れ帰ったときの、あの折れそうなほど細く冷たかった身体の感触を思い出していた。唇を噛み締め、じっと足元を見つめる。
話が「役人の腐敗」に及ぶと、同心の近藤新太郎と岡っ引きの仁吉の顔つきが一変した。 今回の 「おしま殺し」の取調べにおいて、北町奉行所の内部で見せた二人の役人の不可解な動き――。新太郎の口から、その二人の評判が吐き捨てるように語られた。
「一人は、与力の笠原兵馬だ。出世欲と身内への偏見の塊のくせに、面倒な厄介事を極端に嫌う事なかれ主義の男だ。そしてもう一人は・・・同心の堀本伊三郎。金と女に異常な執着を見せ、裏でいくらでも汚い金を吸い上げているという噂の、悪名高き男さ。」
新太郎は顎に手をやり、思考を巡らせる。
「兵馬の行動はまだ解せる。あいつは面倒な殺傷事件をさっさと処理して己の手柄にしたいだけだ。おゆみを犯人に仕立て上げて片付けたかったが、凌庵先生や遠山様の手が伸びて厄介だと見るや、すぐに足を洗った。・・・だがな、腑に落ちねえのは堀本伊三郎の方だ。」
凌庵の脳裏に、あのお白洲での取調べの際、堀本が浮かべていた「不自然な冷や汗」と、焦燥に満ちた濁った目が鮮明に蘇っていた。
「ええ・・・あの堀本の狼狽ぶりは、単に『取調べの手落ちを突かれた』という理由だけでは説明がつきません。何か・・・おしまの死や、現場から消えた二重帳簿について、絶対に他人に知られたくない致命的な事実を隠している顔でした。」
すると仁吉が、身を乗り出して口を開いた。
「凌庵先生、俺が裏から調べ上げてきたことを話させてくだせえ。」
「仁吉殿、何か掴んだのか?」
「へえ。音羽の万吉・・・俺たちの間じゃあ『毒万』と呼ばれている札付きの十手持ちがありやす。」
「音羽の万吉・・・・。」
蓬洲が思い当たる節があるように呟いた。
「うむ、儂も噂には聞いておる。岡っ引きの看板を笠に着て、揺すりタカリは日常茶飯事。吉原の裏組織や怪しげな無許可の薬種問屋、果ては抜け荷を行う暗黒街の連中と深く繋がっているという・・・。強請り取れる相手を探して毒虫のように蠢くことからその名がついた男だ。よく御用手札を取り上げられずに済んでいると感心していたのだが・・・。」
「その毒万に御用手札を渡している親方ってのが・・・何を隠そう、同心の堀本伊三郎なんでさぁ!」
仁吉の言葉に、薬煎室の全員が息を呑んだ。
「ごろつきだった万吉を『鼻が利く』ってんで雇い入れたのが伊三郎だ。そう言えば、万吉を飼い始めてからというもの、伊三郎の懐具合は格段に良くなったと、山村のオヤジさんも睨んでやした。」
「なるほどな・・・。」
慶斎が冷ややかな笑いを漏らす。
「飼い犬の毒万が、どこからか骨を拾ってきたわけだ。・・・金貸しのおしまは、無理な取り立て で町方に目を付けられぬよう、伊三郎や万吉に袖の下を渡して目溢しをさせていた。だが、おしまのような因業ババアが、ただ金を払うだけで役人を信用するはずがねえ。自分が裏切られたときのために、伊三郎たちの悪事をすべて記した『裏帳簿』を隠し持っていたんだ。」
辻褄が、一筋の糸のように綺麗に繋がっていく。
「堀本が浮かべていた冷や汗の理由はそれか!」
新太郎が声を張り上げた。
「おゆみが無罪放免となり、さらに自分たちのあくどい私刑や袖の下の件まで暴かれそうになったことで、奴らは今、完全に窮地に立たされているのだ!」
「そうなると・・・マズいな。」
慶斎の表情が鋭く引き締まった。
「奴らは追いつめられれば何をするかわからねえ。自分たちのドジと悪事を揉み消すため、おゆみさんを口封じに連れ去るか、あるいは消しにかかるかもしれん・・・!」
「何だと・・・!」
英助が思わず大声を上げた。
「おゆみ殿は何も知りません!あの地獄のような場所から、命からがら逃げ出してきただけなのです!これ以上、あの方を脅かすような真似は絶対に許せません!」
「落ち着きなさい、英助。」
凌庵は静かに英助の肩を叩き、激しい動揺を宥めると、新太郎と仁吉に向き直った。
「近藤様、仁吉殿。毒饅頭の件、そしておしま殺しの件・・・どうやら根底にある黒い根っこは同じようです。毒薬を精製して『試し鼠』で実験を繰り返している黒幕。そしてその裏で甘い汁を吸い、証拠を揉み消そうと躍起になる奉行所の毒虫たち。・・・これらは一市井の医師や同心だけで捌ききれる規模ではありません。」
「ああ、同感だ。」
新太郎は力強く頷いた。
「奉行所の上層部を動かさねばならん。俺のような若造が騒いだところで限界はあるが・・・どんな手を使ってでも、おゆみ殿と天竜堂は守ってみせる。安心しろ。」
薬煎室での重苦しい議論を終え、無念の死を遂げた幼い少年の仇を撃つことを固く誓い合った一行は、小石川養生所の門へと向かった。外へ出ると、茜色に染まっていた夕焼け空は完全に落ち、墨を流したような濃紺の夜空が広がっていた。 まだ遺体の再調べが残っている新太郎と仁吉を養生所に残し、凌庵と英助の二人は帰路についた。
養生所の大きな門をくぐり、数歩歩いたときである。前方の闇の中から、行商用の竹箱を肩に担いだ一人の錠剤売りが、気さくな足取りで歩み寄ってきた。
一見すると、江戸の町を股に掛けるどこにでもいる薬売りである。しかし、その足音は驚くほど殺気がなく、夜の闇と同化するような無駄のない洗練された身こなしであった。
「弥太さん。」
そう呼ばれるこの男の本体は、幕府お庭番の密偵・梶野弥一郎である。
「おや、天竜堂の先生。」
「錠剤の売れ行きはどうだね、弥太さん?」
「ええ、ぼちぼちってところですかねぇ。まあ、福寿堂さんみたいな大手に聞かれたら怒られやすが・・・わっちや先生みたいな商売は、あまり儲からねえ方が世のため人のためなのかもしれませんねえ。」
「かもしれんな。蓬洲先生ならまだ奥におられるから、話に行ったらどうだね?」
「へえ、そうしやす。」
他愛のない挨拶を交わしながら、凌庵は足を止めることなく、すれ違いざまに弥太郎だけに聞こえる極めて低い蚊の鳴くような声で囁いた。弥太郎の足が、ほんの一瞬だけピタリと止まる。 凌庵は前を見据えたまま、言葉を重ねた。
「・・・弥一郎。毒饅頭の毒は、高度に精製された『ヒ素』だ。下手人は幕閣や要人を確実に仕留めるため、街の弱者を『試し鼠』にして致死量の実験を繰り返している。その鍵を、おしまが握っていた節がある。そして同心の堀本伊三郎は、その秘密が露見するのを恐れている・・・・。おゆみに危険が迫っているのは明白だ。町奉行・遠山金四郎様と直接ツナギを取りたい。・・・できるか?」
弥太郎は顔を上げることもなく、ただ静かに耳を傾けていた。傍らにいる英助は、師匠が近所の知り合いと挨拶を交わしている程度にしか思っておらず、疑う様子もない。 弥太郎は言葉を発することなく、闇の中で一度だけ小さく頷いた。
「それじゃ先生、御用の折はまた・・・。」
「おう。」
御庭番から即座に錠剤屋へと顔を変えた弥太郎は、軽やかな足取りで養生所の門の中へと消えていった。
弥太郎を見送ると、夜の冷気がふっと二人の頬を撫でた。凌庵と英助は、提灯の頼りない黄色い明かりを足元に落としながら、静まり返った音羽の通りから神田を抜け、八丁堀を目指して歩みを進めた。
英助は往診用の薬篭箱の持ち手をグッと握りしめたまま、終始無言であった。その横顔には、普段の温厚で柔和な面影は影を潜め、激しい憤りと切迫した焦燥が入り混じっている。取っ手を握る指の関節が、白く浮き上がっていた。
「・・・おい、英助。」
凌庵が静かに声をかけると、英助はハッと顔を上げた。自分を取り戻すように、深く息を吐き出す。
「あ・・・申し訳ございません、先生。・・・考え事をしておりました。」
「あの死んだ母子のことか? それとも、おゆみさんのことか?」
英助の眉間に深いシワが寄り、胸の奥から絞り出すように声を漏らした。
「・・・両方です。あの納豆売りの男の子・・・・まだ七歳か八歳だと言いました。毎日、家族のために一生懸命働き、貧しいながらも真っ当に生きていたはずです。それを・・・毒試しの鼠扱いにして毒饅頭を食わせ、苦しんで死んでいく様をどこかで見物していた奴がいる。人間が、どうしてそれほどまでに残酷になれるのでしょうか。許せません・・・絶対に許せません!」
英助の声は震え、抑えきれない怒りと悔し涙が混じっていた。 かつて英助のたった一人の妹も、唐天竺にまつわる悍ましい製薬の犠牲となって命を奪われた。真っ当に生きていた父は濡れ衣を着せられて殺され、残された英助自身も野良犬以下のどん底を這いずり回った過去がある。 どん底の痛みを誰よりも知る英助だからこそ、理不尽に命を弄ばれた少年の無念と、追い詰められるおゆみの恐怖が、我がことのように胸を刺すのだ。
「俺だって腸が煮えくり返る思いだよ。人の命を救うべき医術を、人を弄ぶ道具に使ったことは万死に値する。・・・だが英助、お前さんの拳が震えているのは、怒りだけではあるまい。」
凌庵の言葉に、英助は足をとめた。
八丁堀の街明かりが遠くにぽつりと見え始める角の影で、英助は凌庵に向き直った。
「先生・・・私は、恐ろしいのです。」
英助の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。
「おゆみ殿が・・・ようやく天竜堂で笑顔を見せ、温かいご飯を食べられるようになったばかりだというのに。なぜ、真面目に生きようとする弱者ばかりが、このような毒虫どもの都合で脅かされねばならないのですか。堀本や毒万という奴らが、自分たちの悪事を隠すために再びおゆみ殿を連れ去り、あの暗い牢へ突き落とそうとしている・・・。そう思うと、胸が押し潰されそうになるのです。」
英助は己の胸を強く叩いた。
「私の身体に流れる武家の血……かつて『仏の同心』と呼ばれた父の血が叫ぶのです。『守れ』と! 世の不条理からあの人を守るためなら、私は捨てたはずの刀を再び差します!」
英助の強い誓いと、その裏にある切実な恐怖。それは、かつて凌庵に救われたからこそ、今度は自分が大切な人を守り抜きたいという、一人の男としての純粋な決意であった。
凌庵はふっと表情を和らげると、力が入った英助の右腕に温かく力強い手を置いた。
「英助。お前さんがおゆみさんを案じる気持ちは本物だ。・・・だが、忘れてはならん。おゆみさんを守るのは、お前さん一人ではないぞ。」
「先生・・・。」
「この俺がおり、彩乃殿がおり、近太郎様や仁吉殿がいる。そして・・・影となりて動き出してくれた金四郎様もおられる。間違っても、一人で暴走しようなどと思うなよ?」
凌庵の言葉は、どこまでも澄み切り、何ものにも揺るがない絶対の安心感を備えていた。
「いいか? 天竜堂は、ただ病を治すためだけの場所ではない。理不尽な憂き目に遭い、居場所を失った者が羽を休める温床なのだ。お前さんやおゆみさんには及ばねえが、俺もこの世の不条理を嫌というほど見てきた。だからこそ、苦しむ人を救うためにあの天竜堂を建てたのだ。どのような毒虫が這い寄ろうと、俺たちの家を、おゆみさんの居場所を踏みにじらせはせんよ。」
凌庵の力強い言葉に、英助の目からすっと憑き物が落ちた。握りしめていた拳の力が緩やかに抜け、深く頭を下げる。
「はい・・・!申し訳ありません、取り乱しました。私としたことが、先生の前で情けない姿を・・・。」
「なぁに、情けないものか。誰かを守りたいと強く願う心は、医者にとっても、人にとっても一番尊い力だよ。さあ、急ごう。遅くなると彩乃殿とおゆみさんが心配する。・・・今日の出来事は、余計な伏せ事はせず、二人にも正しく伝えて警戒を高めねばならんからな。」
「はい!」
「明日にでも、お前には往診に同行してもらう。顔を合わせておきたい」 「かしこまりました。」
「まあ、またおゆみさんが引っ付いて来て賑やかになるだろうな。ハハハ。」
笑い合いながら、二人は再び歩みを進めた。 八丁堀の地蔵橋通りに差し掛かると、天竜堂の表口から、ぽっと温かな番頭提灯の明かりが夜道を照らしているのが見えた。
格子戸の向こうから、夕食の支度をする彩乃とおゆみの小気味よい包丁の音と、かすかな笑い声が漏れ聞こえてくる。
「彩乃さん、もう少し出汁を足すかい?」
「そうね、凌庵様は少し濃いめがお好きだから、鰹節をもう一摘み入れましょうか?」
その穏やかで温かい日常の風景を目にした瞬間、凌庵と英助の顔には、自然と決意に満ちた穏やかな笑みが浮かんだ。この温かな日常に静かに忍び寄る「毒饅頭」の恐怖と、腐敗した同心たちの陰謀――。
二人は静かに格子戸に手をかけ、温かな光が満ちる天竜堂の敷居を跨ぐのであった。




