三十四
東の空が仄暗い茜色から薄浅葱色の空へと移り変わる早朝。八丁堀の天竜堂は、まだ静寂の中に包まれているはずの時間であった。昨晩は居酒屋『鶴亀屋』で仲間と共に気の置けない一献を傾け、帰って来ると布団に潜り込んでそのまま眠ってしまった。賑やかな天竜堂の風景、そして段々と一人前になっていく英助を思うと、心地よい疲労感とともに深く眠れたような気がした。 しかし、その頭の片隅には常に「おしま殺し」の件が重く居座っていた。さらには、奉行所や茶屋の間で噂になっている「毒饅頭事件」のことだ。二つの不穏な事件が同時に起き、江戸の街はまさに蜂の巣をつついたような騒ぎとなっている。これ以上の凄惨な問題が起きないことを願っているうちに、ふと目が覚めた。
もっとも、こうした心休まらぬ日など医師にとっては日常茶飯事だ。慣れたくはないが、もう身体が勝手に慣れてしまっている。
ひとつ大きな欠伸をして体を起こすと、どこからか香ばしい味噌の香りが漂ってきた。早起きが苦手な英助にしては起き出すのが早い。
はて、近所のお豊が様子を見に来てくれたのだろうかと思いつつ診察所へ向かったが、どちらも違っていた。
そこにいたのは、おゆみであった。まだ完全に癒えていない頭部の包帯を白い手ぬぐいで隠すように「姐さん被り」にし、着物の袖をたすき掛けにしてしっかりと背中で結んでいる。手際よく叩き畳の上の埃を払うと、濡れ雑巾で膝をついて一心不乱に拭き上げていた。庭の薬草棚の埃はきれいに払われ、打ち水された井戸端には、診察で使う手拭いが幾枚も清潔に干されていた。
「お・・・おゆみさん?」
「なんだ、やっとおめざめかね? もう日が高いよ。」
「何をしているのだ?」
「見て解らないかい? 家事だよ。」
「家事・・・だと?」
凌庵が思いのほか大きな驚きの表情を見せたからだろうか。おゆみの身体がビクッと震え、雑巾を握りしめたまま振り返った。その顔には一瞬間、勝手な真似をして叱られるのではないかという怯えの色が走ったが、すぐに自分を奮い立たせるように胸を張った。
「勝手に泥棒みたいな真似してすまないね・・・。でもね、あたしはタダ飯を食わされるのが一番嫌いなんだ。小伝馬町の牢から出してもらって、こんな綺麗な部屋で温かい飯まで食わせてもらって・・・ただ転がっているだけなんて、性分に合わないんだよ。世話になりっぱなしじゃ寝覚めが悪いんだ。」
おゆみは手ぬぐいの端で額の汗を拭い、つっけんどんに言葉を続けた。
「あたしに天竜堂の手伝いをさせておくれ。これでも昔、質屋のおしまババアのところで地獄みたいにこき使われてたんだ。掃除洗濯、お茶くみから薪割りまで、下働きなら何だってこなしてみせるよ。」
そう会話を交わしているところへ英助が起きて来て、同時に彩乃もやってきた。二人は足を踏み入れるや、たすき掛けで働くおゆみの姿を見て、凌庵と同じように目を丸くした。
「せ・・・先生?これは一体・・・。」
「おゆみさん、頭の傷はまだ・・・どうされたのですか?」
凌庵は苦笑いを浮かべつつ、朝一番からのおゆみの立ち回りについて、かくかくしかじかと説明した。英助はおゆみの痛々しいほどに真面目な姿勢に胸を打たれつつも、心配そうに歩み寄った。
「おゆみ殿、お気持ちは大変ありがたいですが、貴女は頭に深い傷を負った身です。先生の仰る通り、今は養生に専念すべきです。気を使う必要などどこにもないのですよ。」
「そうだよ、おゆみさん。手伝ってくれるのは助かるが、身体を壊しては元も子もない。」
凌庵も優しく笑いながら制そうとしたが、おゆみは頑固に首を横に振った。
「嫌だよ!何もせずにじっとしていたら、あの暗い牢屋のことや世間の冷たいお白州のことを思い出して、頭がおかしくなりそうなんだ!身体を動かしている方がずっとマシなんだよ!お願いだから・・・、あたしを置物扱いしないでくれ・・・!」
その瞳に宿る切実な懇願を目にして、凌庵と英助は顔を見合わせた。凌庵はふっと表情を緩めると、穏やかに頷いた。
「わかった、そこまで言うなら手伝ってもらおう。ただし無理は禁物だ。めまいがしたり傷が痛んだら、すぐに休むこと。医者としてこれだけは譲れぬ条件だ。」
「・・・本当かい!?ありがとよ、先生!」
おゆみの顔に、ここへ来て初めて見せる年相応のパッと華やぐような笑みが浮かんだ。奥から出てきた彩乃も事情を知ると、「それなら頼もしい助手が増えましたわ」と微笑んで快く受け入れた。
いざ診察が始まると、おゆみの宣言がハッタリではないことがすぐに証明された。 長年、強欲な質屋で厳しい下働きを仕込まれていただけあって、おゆみの立ち回りは実に鮮やかであった。患者が来れば手際よく待合の敷物を整え、香ばしい番茶を淹れて差し出す。薬研の手入れや煎じ薬の火加減の看視など教えられたことは一度で覚え、次々と仕事を片付けていった。訪れた近所の患者たちも、昨日までの噂と目の前の甲斐甲斐しい姿のギャップに驚きを隠せない様子だった。
「先生が女の頑なな心を開いたんだねぇ。」
「このお嬢さん、本当はこんなに気立てのいい人だったのか。」
「天竜堂の先生も、お救いになって本当に有難いねぇ・・・。」
患者たちの温かい誉め言葉が聞こえてくるとおゆみは照れくさそうに、しかし嬉しそうに口元をほころばせた。ただ、仕事の合間におゆみの視線がたびたび向かう先があった。薬草を切り分け、患者に優しく言葉をかけながら薬包を包む英助の背中である。
「英助さん、薬草のざる、あっちの日の当たる場所へ移しておいたよ。」
「これは助かります、おゆみ殿。ですが量があったでしょう? 重かったのでは?」
「ふん、これくらいの重さなんともないよ。英助さんは手が塞がってるんだから、あたしを使えばいいんだ。」
不器用ながらも英助の世話を焼こうとし、英助から「ありがとうございます」と柔らかく微笑みかけられると、おゆみはパッと顔を赤らめてそっぽを向くのだった。 その様子を薬棚の陰から見ていた彩乃は、凌庵の隣でくすりと微笑んだ。
「先生、おゆみ様は英助さんに相当な信頼を寄せていらっしゃるようですわね。」
「ああ。英助のまっすぐな言葉が、彼女の頑なだった心を溶かしたのだろう。人は真に自分を理解 してくれる者に出会えたとき、ようやく前を向けるものだからな。」
昼過ぎ、天竜堂に日本橋の商人からの急な往診依頼が入った。 日頃であれば、凌庵には彩乃か英助のどちらか一人が薬篭持ちとして同行するのが常であった。しかし、往診の支度を整える凌庵の前に、おゆみが大きな手ぬぐい包みを抱えて立ちふさがった。
「先生、あたしもついて行くよ!」
「おゆみさん、往診は長歩きになる。天竜堂の留守を彩乃殿と守ってくれていた方が・・・・。」
「嫌だね、重い薬篭を持つくらいあたしにだってできる。それに、たまには外の空気を吸いたいんだよ。」
結局、おゆみの勢いに押し切られる形で、凌庵は英助とおゆみの二人を連れて天竜堂を出ることとなった。 初夏の風が吹き抜ける八丁堀の通りを、薬篭を肩にかけた凌庵が先頭を歩き、その両脇を英助とおゆみが並んで歩く。
「・・・なんだか、歩きにくいな。」
凌庵は前を見据えたまま、思わず苦笑いを漏らした。
「ただでさえ彩乃殿か英助のどちらかがついてきてくれるだけで十分なのに、二人も従えて歩くとなると、まるでどこぞの大名屋敷の御典医にでもなったような気分だぜ。」
「ハハハ、先生、たまには賑やかで良いではありませんか。おゆみ殿も良い気分転換になりましょう。」
英助が朗らかに笑うと、おゆみも少し得意気に胸を張った。英助の隣を並んで歩けることが、おゆみにとってはたまらなく誇らしい様子であった。その微笑ましい様子をちらりと振り返った凌庵は、 「なんだか俺は邪魔者のようだな」と心の中で思い、ふふっと一人笑いを漏らした。
日本橋へ向かう途中、賑やかな町人の行き交う茶店の前を通りかかった時のことである。 突然、 キンキンとした甲高い女の怒鳴り声が通りに響き渡り、人だかりができていた。
「この泥棒っ! ぬけぬけと白を切るんじゃないよ!」
見れば、上等な絹の着物を着た高慢そうな商家の娘が、まだ十歳かそこらの幼い丁稚の胸ぐらを掴み、激しく揺さぶっていた。丁稚はツギハギだらけの貧しい着物を着て、泣きじゃくりながら必死に頭を下げている。
「ち、違います、お嬢様!私は何も盗んでおりません!本当です!」
「黙りお前!私の大事な銀細工の簪がないんだよ!今日この店で私の給仕をしたのはお前だけだ!金のない貧乏人が、目にとまって懐にくすねたに決まっている!白状しないと奉行所に突き出すよ!」
娘はヒステリックに叫ぶと、幼い丁稚の頬をバシッと叩き飛ばした。丁稚は泥の上に転がり、涙と鼻水まみれになりながら「違います、違います・・・。」と地面に額を擦り付けてひたすら謝罪と弁解をしていた。
「気の毒に・・・。」
「だが金目の物なら、あの手のガキが盗んだのかもしれんなぁ。」
集まった野次馬連中は、好き勝手な噂を言い合いながら冷ややかに眺めているだけだった。 その光景を目にした瞬間、おゆみの全身の血が逆流した。おゆみの瞳に、激しい怒りと、過去の忌まわしい記憶のフラッシュバックが宿る。
「あのバカ女・・・!英助さん、済まないがちょいと頼むよ。」
「おゆみ殿!?」
英助が止める間もなく、おゆみはつかつかと茶店の敷地へ踏み込んでいった。そして目ざとく周囲を観察すると、先ほど娘と丁稚が座っていた床床のすぐ脇、笹の生け垣の根元にキラリと光るものを見つけ出した。おゆみはそれをすばやく拾い上げると、大股で娘の前へと躍り出た。
「おいじゃじゃ馬っ!」
「何だいあんたは!?」
「何だいじゃない! 探しているのはこれのことかい!?」
おゆみが娘の目の前に突きつけたのは、紛れもない銀細工の簪であった。娘はあっけにとられて目を見開いた。
「あ・・・私の簪!なぜそれが!?」
「なぜもクソもあるかい! あんたが腰掛けから立ち上がった時に、笹の根元に引っかけて落としたんだよ!自分の不注意で落としたものを、ろくに探しも精査もしないで、子どもを泥棒扱いして叩き飛ばすたあどういう了見だい!頭ごなしに人を罪人扱いするんじゃないよ!」
おゆみの凄まじい迫力に押され、高慢な娘は後ずさりしてたじろいだ。野次馬たちからも「なんだ、落とし物か」「娘さんの思い違いじゃないか」と笹やき声が漏れ始めた。 バツが悪くなった娘は顔を真っ赤にし、恥ずかしさと憤怒で肩を震わせた。彼女はおゆみの手から簪を引ったくるように奪うと、八つ当たりに地面で平伏している丁稚のお腹をドカッと蹴り飛ばした。
「くっ・・・!」
腹を激しく蹴られ、丁稚は苦しそうに体を丸めて悶絶した。
「うるさいよ!たかが乞食同然のガキの肩を持ちやがって!おいガキ、お前は今日限りでクビだ!二度と店の敷居を跨ぐんじゃないよ!」
娘は捨てるように捨て台詞を吐くと、着物の裾をひるがえして逃げるように去っていった。残された丁稚は、腹を押さえてうずくまり、声を殺して泣きじゃくっていた。
凌庵と英助がすぐに駆け寄り、凌庵は丁稚の体に怪我がないか手際よく脈と腹部を診た。
「大丈夫かい? 骨には異状はないようだが・・・・。」
「先生、お水です。」
英助が手ぬぐいに水を含ませ、泥だらけの少年の顔を優しく拭いてやった。少年は正太と名乗った。気丈に立ち上がった正太は「ありがとうございます・・・。」と消え入るような声で礼を言うと、悲しげに俯いたまま去っていった。
「あの坊主の新しい奉公先が、まともだと良いがな・・・。」
凌庵が正太の後姿を見送りながら呟くと、ふとおゆみが拳を固く握りしめたまま、じっとたたずんでいることに気づいた。その肩は激しく震えていた。
「あの丁稚は・・・、昔の私と同じだ」
ぽつりと漏れ出たおゆみの声は、深い悲しみと怒りでかすれていた。
往診を終えた帰り道、凌庵たちは大川の河原に近い、静かな地蔵堂の陰で足を止めた。初夏の風が川面を渡り、波の音が優しく響いている。
「おゆみさん、差支えなければ・・・胸の内を話してはくれないか?」
「話せば、少しは楽になりますよ。」
凌庵と英助が静かな声で問いかけると、おゆみは地蔵堂の濡れ縁に腰を下ろし、膝を強く抱え込んだ。そして、今まで誰にも語ることのなかった自らの過去という「開かずの扉」を、ゆっくりと開き始めた。
「あたしは昔・・・父親と二人きりの暮らしだった。名前は留蔵っていった。おっ母さんはあたしが幼い頃に死んじまってねぇ・・・。」
おゆみの瞳は、遠い過去の闇を見つめていた。
「お父っつあんはある大きな商家に手代として奉公に出ていた。貧しかったけれど、それでもあたしを可愛がってくれてね……真面目で、優しく、虫も殺せないような良い人だったんだ。幸せだった。だが・・・あたしが十の時、流行り病にかかって死にかけた。医者に見せる金も、高い薬を買う金も、うちには一文もなかった。」
話が進むにつれて、おゆみの声が震え始める。
「追い詰められたお父っつあんは・・・奉公先の店の金に手を付けたんだ。奪ったのは、あたしの薬代に必要な分だけだった。後で命にかえても働いて返すつもりだったんだ。だが・・・、店主はそれを許さなかった・・・・。」
英助が息を呑む音が聞こえた。
「三分だぜ?あたしを救うための、たった三分の金だよ・・・。だが商家は大袈裟に騒ぎ立て、お白洲に引き立てることもせず、裏で出入りの悪徳同心や御用聞きを買収したんだ。そして・・・店の蔵の中で、あたしと父さんを縄で縛り上げた。」
おゆみは右腕の袖を激しく引き捲くった。そこには、二本の黒い墨の筋――「刺青」が、生々しく刻まれている。
「奉行所の判決なんかじゃない!あいつらは自分たちの見せしめのために、あたしと父さんを百叩きにしたんだ!そして泣き叫ぶあたしの腕を大男どもが力づくで押さえつけ、針で突いて、無理やりこの刺青を彫りつけたんだよ!『盗人の子供は一生盗人だ』って笑いながらね!大人共は嘲笑うかひそひそ言うだけ、誰も庇わない。笑う大人共の中には・・・、常日頃袖の下でも受け取っていたのか、同心や配下の十手持ちもいたんだよ・・・・。父さんはあたしを庇って必死に頭を下げ続けたが、そのまま棒で殴られすぎて・・・数日後に血を吐いて死んだ!」
「な・・・なんということを・・・・!」
英助が激昂し、立ち上がった。その拳は白くなるほど強く握りしめられ、全身が激しい怒りで打ち震えていた。
「奉行所の裁きを経ず、個人的な私刑で子供に刺青を彫り、死に至らしめるなど・・・! それは人の道に外れた鬼畜の所業だ! 同心の面汚しめ!!」
おゆみはポロポロと涙を溢れさせながら、膝に顔をうずめた。
「あの時の地獄のような痛みと、周りの大人たちのあざ笑う顔が、今でも夢に出てくるんだ・・・。だからあたしは、世の中の人間を誰も信用できなくなった。金のない弱者は、いくら真面目に生きていたって、強者に踏みつけられて殺されるんだってね・・・・。」
おゆみの頬を涙が一筋つたったのを見ると、英助はたまらず歩み寄りおゆみの肩をしっかりと抱きしめた。英助の目からも、ボロボロと大粒の涙が流れていた。かつて不忠者の子として蔑まれ、どぶを啜るような悲惨な浪人暮らしを経験した英助だからこそ流せる、深い共感と同情の抱擁であった。
「な・・・何だよ英助さん・・・あんたが泣くことないじゃないか・・・・。」
「す・・・すみません、ですが・・・・。」
必死で慰めの言葉を掛けようとして涙をぬぐう英助と、予期せぬ温もりに驚きを隠せないおゆみを、凌庵はまっすぐに見つめた。
「おゆみさん・・・もしよければ、このまま天竜堂にいるがいい。怪我の治療が終わっても、天竜堂をお前さんの家だと思えばいい。もし奉行所の件が完全に解決して、外の世界でやり直したくなったときは、俺に言ってくれ。商売柄、俺は心の温かい本物の商人を何人も知っている。お前さんが安心して働ける奉公先を、俺が責任を持って世話するよ。」
「先生・・・。」
おゆみは泣きじゃくりながら、首を横に振った。
「あたしみたいな・・・腕に刺青のある汚れものに、そんな幸せなんて来るもんかねぇ・・・・。どうせあたしは、日陰でしか生きられないんだ・・・・。」
そこへ、英助がおゆみの前にひざまずいた。その瞳には、かつて己も地獄を見た者だけが持つ、深い慈愛と確信が宿っていた。
「おゆみ殿。『果報は寝て待て』ということわざがあります。私もかつて、父を無実の罪で失い、お家断絶となり、世間から追われ、一時は自ら命を絶とうとまで考えました。己の運命を呪い、未来などどこにもないと思っていたのです。しかし・・・辛抱強く人生を歩み、先生と出会ったことで、私は天竜堂というかけがえのない居場所と、誇りを取り戻すことができました。」
「英助さん・・・。」
英助はおゆみの冷え切った両手を、自分の手で強く握りしめた。
「貴女の過去は変えられません。ですが、これからの未来は変えられます。焦る必要はありません。天竜堂で少しずつ温かい飯を食べ、温かい人々に囲まれながら、時が満ちるのを待ちましょう。必ず・・・貴女にも陽の当たる場所が訪れます。私が保証します」
英助の偽りのない言葉は、おゆみの胸の奥深くに長年留まっていた氷の塊を、跡形もなく溶かしていった。 おゆみは声を上げて泣いた。それは過去の悲しみや恐怖の涙ではなく、途絶えていた「生きる希望」をようやく取り戻した者の、救いの涙であった。
夕刻。八丁堀の街並みが茜色の夕暮れに染まり、天竜堂に温かな灯りがともる頃。おゆみはすっかり涙を拭い、晴れやかな表情で彩乃とともに夕食の支度に取りかかっていた。
「彩乃さん、大根の皮剥き、あたしにやらせておくれよ。薄く剥くのは得意なんだ。」
「まあ、頼もしいですわ。おゆみ様、本当に顔色が良くなりましたわね。」
「へへ・・・、先生にあんまり心配かけられないからね。それに・・・。」
テキパキと薬棚を整理する英助の後ろ姿を見つめ、おゆみはふっと笑みを浮かべた。凌庵はその視線の意味を察したようだが、野暮なことはあえて口にはしなかった。 天竜堂に、穏やかで幸福な時間が流れていた。
だが、その平穏は唐突かつ暴力的に打ち破られることとなる。
ーーガタガタガタッ!!
表の格子戸が激しく叩かれ、悲鳴のような叫び声が外に響き渡った。
「高柳先生!高柳凌庵先生はおられるか!!」
凌庵がすばやく診察室から出て格子戸を開けると、そこに立っていたのは息を荒らげ、汗だくになった小石川養生所の使いの者であった。
「どうした、落ち着きなさい。」
「せ、先生!大変です! 再び『毒饅頭』の被害者が出ました!」
「なに・・・!?」
凌庵と英助の顔色が瞬時に変わった。
「養生所の元医師からの緊急連絡です! 遺体はすでに小石川養生所の検死室『顕幽閣』へ運ばれました! 先生に直ちに検死と見立てをお願いしたいとのことにございます!」
「分かった、すぐ行く!」
凌庵は即座に往診包みを手に取った。英助が素早く草履を履き、凌庵の隣に立つ。
「先生、私も参ります!」
「よし、来い!彩乃殿、おゆみさん、留守を頼むぞ!」
「先生、英助様、どうかお気をつけて・・・!」
不安そうな表情を浮かべる彩乃とおゆみを残し、凌庵と英助は夕闇が迫る八丁堀の街へと飛び出していった。
小石川養生所の敷地の最奥、鬱蒼とした木々に囲まれた一角に、冷たい石造りの建物――「顕幽閣」は存在していた。ここは生と死の境界であり、不審死や事件性の高い遺体が運び込まれる検死室であった。
重々しい木戸を開けて中に入ると、冷気とともに薬品と生臭い死の匂いが立ち込めていた。燭台の揺らめく光の下、部屋の中央にある冷たい石の台の上には二体の遺体が横たわり、白い布がかけられていた。そこにはすでに、知らせを受けた近藤新太郎と仁吉が苦々しい表情でたたずんでいた。その傍では南町の伝助と権蔵が立っていた。本来ならば招かれざる客だが、今回ばかりは新太郎と言い合う事もせず同じ様に顔を顰めている。
「近藤様、仁吉殿。」
「おお、先生、英助さん・・・来てくれたか。」
新太郎の声は重く、凄まじい怒りを孕んでいた。
「先生・・・覚悟して見てくれ。今度の仏は・・・酷すぎる。」
「許せねぇよ、こんなの・・・・!」
仁吉も悔しそうに吐き捨てた。 凌庵は静かに頷くと石の台へ歩み寄り、遺体にかぶせられた白布に手をかけた。そして、ゆっくりと布をめくった。
「――っ!?」
後ろから覗き込んだ英助が、絶句して息を呑んだ。凌庵の目も鋭く見開かれる。
そこに横たわっていたのは、年端も行かぬ幼い少年と三十路がらみの女であった。子供の年齢は七歳か八歳といったところだろう。着ている着物はツギハギだらけで薄く、手足は骨が浮き出るほどにやせこけている。泥に汚れた小さな首からは、使い古された木箱が下げられていた。木箱の中には、売り物の納豆が数包、空しく残されていた。 納豆売りをして、必死に今日の糧を得ていた貧しい子供だったのだ。
少年の顔は苦悶に歪み、唇は紫色に変色していた。口元からは吐き出した泡と嘔吐物の痕跡が残り、爪は苦しさのあまり地面をかきむしったのか、割れて血が滲んでいた。 そして、少年の小さな手のすぐ脇には、一口だけかじられた、黒ずんだ饅頭の残骸が転がっていた。
「この親子はねぇ、明神下の裏長屋で親一人子一人で暮らしていたんだよ。母親は病がちでね、坊主が納豆売りをして稼いでいたんだ。坊主が路地裏で納豆を売り歩いている最中、不自然に落ちていた・・・いや、誰かに与えられたこの饅頭を持って帰り、訳あって食べたようだ。」
新太郎が吐き捨てるように言った。その拳は固く握りしめられ、微かに震えていた。
続いて珍しく、伝助が声を荒げた。
「大の大人の命を奪うだけでも許しがたい暴挙だというのに・・・こんな、今日を生きるのに必死な幼い子供まで手にかけやがった・・・・!下手人は人間じゃねえ、悪魔だ!」
何時もは職務怠慢を絵に描いたような伝助だが、この凄惨な現場には我慢ならない様だ。
英助は石の台の脇に膝をつき、少年の冷たくなった小さな手を両手で包み込んだ。
「なぜだ・・・なぜこんな理不尽が許される・・・・!この子が、この親子が一体どんな悪いことをしたというのだ!必死に働いて、お腹を空かせて、目の前にあった饅頭を食べただけではないか・・・・!」
英助の目から悔し涙がぽろぽろとこぼれ落ち、少年の痩せた腕を湿らせた。
凌庵は無言のまま、静かに少年の瞼を閉じさせた。そして、手慣れた手つきで少年の口内を調べ、瞳孔を開き、胸部や腹部の死斑を念入りに観察していった。 さらに凌庵は往診包みから一本の「銀の簪」を取り出すと、少年の口奥へと深く差し入れた。暫くの間、静寂の中で時を待ち、抜き取ってみせる。
――銀の先端が、漆黒のように禍々しく変色していた。
「やはり・・・毒殺に間違いないようだ。それも極めて強い砒素の類だな。」
凌庵の手つきは極めて冷徹で精密であったが、その澄んだ瞳の奥には、静かに燃え盛る業火のような「怒り」が宿っていた。
「・・・毒の回りが非常に早い。前回の被害者たちの症状と比べても、毒性がさらに強められているか・・・・あるいは、この子の体が小さく、栄養が行き渡っていなかったために一瞬で全身に毒が回ったのか・・・・。」
凌庵は立ち上がり、静かに往診包みを閉じた。
「新さん。これは単なる無差別な怨恨や狂気の沙汰ではない。毒の調合が以前よりも進化している。犯人は、人間を試し鼠の様に扱い、毒の効力を確かめている可能性がある。」
「試し鼠だと!?」
仁吉が恐怖に顔を引きつらせた。
「ええ。そして、このような毒薬を手に入れ、改良できる人物や背景は限られている。恐らくは・・・並大抵の人間ではありません。」
凌庵の声は、氷のように冷たく、そして鋭かった。
「毒饅頭事件の背後にある闇、そしておしま殺しの消えた隠し帳簿・・・すべては根底で繋がっているはずです。一刻も早く、陰で糸を引く者を突き止めなければなりません。」
凌庵は石の台の上の少年に向かって深々と頭を下げ、静かに誓った。
「この幼い命の無念・・・絶対に無駄にはしない。医術の名において、そして人としての道において・・・・必ず真実を暴いてみせる。」
「おい凌庵、今回ばかりは南も北もねえ。何か解ったら俺にも教えろ、手柄欲しさじゃねえ。子供まで巻き込むこの事件、我慢ならねえんだ!」
肩をポンと叩き、凌庵の顔を見る伝助。その顔はギリギリと悔しそうな顔だった。この時ばかりは、正義のために働く同心さながらだった。
「解った、共に当たろう。」
小石川養生所の「顕幽閣」に、冷たい夜風が吹き抜ける。
おゆみが手に入れた小さな希望の光と、忍び寄る「毒饅頭事件」の巨大な闇。天竜堂の面々を巻き込む壮絶な戦いの渦が、今まさに大きく動き出そうとしていた。




