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三十三

 五月の風が八丁堀の町並みを吹き抜けていく。初夏の陽光は眩しく、天竜堂の小さな庭に植えられた薬草の青葉を鮮やかに照らし出していた。当帰や黄連の青々とした葉が風に揺れ、独特の苦く甘い香りを周囲に撒き散らしている。 しかし、その光の届かぬ天竜堂の待合からは、朝早くから湿った淀んだ空気が漂っていた。

 天竜堂が奉行所の命を受け、殺人容疑の掛かった罪人の身柄を預かったという噂は、伝伝虫が這うような速さで八丁堀界隈に広がっていた。世間の口さがない噂好きどもにとって、それは格好の格好の肴であった。

 「おい、聞いたか? 奥の小部屋に留め置かれているあの娘のことだよ。」

 「ああ、小伝馬町の牢屋敷から連れてこられたって噂の?質屋のおしまさんを絞め殺した下手人なんだろう?」

 「お白洲で無実になったとか言っているが、火のない所に煙は立たねぇ。腕に二本線の墨が彫ってあるって話じゃねぇか。シケで冤罪だったなんて言われても、お上のお仕置を受けたような女と一緒の屋根の下にいると思うと、恐ろしくて夜も眠れねえよ。」

 「毒でも盛られたり、寝首をかき切られたりしたら溜まったもんじゃない。天竜堂の先生は仁医だなんだと持て囃されているが、あんな物騒な女を預かるなんて、正気の沙汰じゃねえな。」

 「まあ、先生には先生成りの想いがあるのだろうが・・・」

 その噂は凌庵への直接的な誹りには至らず、今のところ日々の診療に決定的な支障を来してはいなかった。だが、天竜堂を訪れる患者たちの間では、おゆみの話題が持ちきりであった。ヒソヒソと交 わされる囁き声は、薄い障子一枚を隔てた奥の小部屋まで、針で刺すように克明に届いていた。

 敷布団の上に体育座りをし、膝を強く抱え込んでいるおゆみは、その声を聞きながら乾いた薄笑いを浮かべた。 右腕の袖を少し引き上げ、白肌に鮮やかに残る二本の黒い筋を見つめる。それは彼女が望んで彫ったものではなく、かつて冤罪によって刻まれた「悪人」の烙印であった。

 (・・・ほら見ろ。どこへ行ったって同じさ。あたしは『りゃんこのおすみ』、汚れ切った人間なんだ。奉行所のお偉いさんがいくら綺麗事を言ったって、世間の目は誤魔化せやしない。)

 頭部の傷は凌庵の手によって綺麗に縫合され、ずきずきとした激痛は和らいでいた。しかし、胸の奥にへばりついた冷たい絶望は一向に消え去る気配がなかった。自分など、あの暗く湿った女牢で病死するか、お白洲で首を跳ねられていた方がよほど楽だったのではないか。そんな自棄の思いがおゆみの頭を支配していた。

 「おゆみ様。朝餉の用意が整いましたよ。」

 静かな声とともに、障子が細く開いた。入ってきたのは、天竜堂の助手・彩乃であった。彩乃の手には、湯気を立てる麦飯と温かな味噌汁、小さく切られた塩鮭と漬物が綺麗に並べられたお膳があった。

 「・・・あたしは腹なんか減ってないよ。放っておいてくれ。」

 おゆみはプイと壁の方を向き、膝の中に顔を埋めた。しかし彩乃は気を悪くした様子もなく、手際よくお膳を畳の上に置いた。

 「怪我を治す第一の薬は、暖かい食事と十分な睡眠です。高柳先生もおっしゃっていました。一口でも結構ですから、召し上がってくださいな。」

そこへ、薬研で薬草を擂り潰していた英助がひょっこりと顔を出した。ゴリゴリという心地よい薬研の音が止まる。

 「おゆみ殿、彩乃さんの作る汁物は絶品ですよ。出汁がしっかり利いていて、身体の芯から暖まります。残すと彩乃さんが気落ちしますから、どうか温かいうちに。」

 「・・・けっ、おめでてえ連中だね。仕方ないから食うとするかい・・・。」

 おゆみは捨て台詞を吐きながらも、部屋の中に漂ってくる出汁の香ばしい匂いには勝てず、渋々お膳に向き直った。お椀を持ち上げ、一口、味噌汁を口に含む。鰹節と昆布の深い出汁、そして自家製の味噌の優しい甘みが、五臓六腑に染み渡っていく。思わず「くぅ」と喉が鳴った。久しく味わったことのない「まっとうな人の食事」の温もりが、冷え切った腹の底をゆっくりと解かしていくよう だった。

 無我夢中で飯をかき込みながら、おゆみはチラリと天竜堂の内部を見回した。 小部屋の隙間から見える庭の陽光、薬草の匂い、そして患者たちを診察する凌庵の丁寧で穏やかな声。待合の患者はひっきりなしに訪れ、畳の敷かれた診察台は常に埋まりきっている。

 「なあ、気になったんだが。」

 椀を置いたおゆみは、口元を袖で拭いながら、つっけんどんに切り出した。

 「ここ、これだけひっきりなしに客・・いや、患者が押しかけていて、しかも奉行所の仕事まで請け負っているんだろう? その割には・・・・、ちっとも儲かっているように見えないね。畳は擦り切れているし、先生の着物だって紬の質素なもんだ。どこぞの強欲な質屋のおしまババアなら、これだけの客がいれば蔵が建つところだぜ。」

 その言葉に、空になったお膳を下げようとしていた彩乃が、ふっと柔らかく微笑んだ。

 「おゆみ様、驚かれるのも無理はありませんわ。この天竜堂では、どのような患者様であっても、一回の診察と薬代を合わせて『十六文』しかいただいていないのです。」

 「・・・はぁ!?」

 おゆみは思わず残りの汁を吹き出しそうになり、素で素頓狂な声を上げた。

 「じゅ、十六文!? 蕎麦一杯分じゃないか!」

 「ええ、だからうちの先生は町の人たちから二八先生って呼ばれてます。それすら払うのが難しい生活の方には、幾らでも払いを待ってしまうんですのよ。」

 「薬代だって、本草の良い薬なら相当な値段するんだろ!? 十六文なんて、赤字どころの騒ぎ じゃないよ! 奉行所からの手当金だって高が知れているはずだ!」

 「ええ。ですから、天竜堂の台所事情はいつだって火の車ですのよ。困ってしまいます。」

 彩乃は呆れたように苦笑しながらも、澄んだ瞳にはどこか誇らしげな光を宿していた。

 「ですが、それが先生の信念なのです。『医は仁術であり、貧富の差によって命の価値が変わって はならない』と。お金のない長屋の民も、路頭に迷う者も、等しく十六文で救う。それが先生の貫く 『天竜堂の掟』なのです。」

 「・・・お人好しもいいところだね。お人好しを通り越して、ただの馬鹿だよ」

 「馬鹿・・・・、かもしれませんね」

 おゆみは呆れ果てたように吐き捨てた。世の中は金がすべてだ。金がない者は虐げられ、踏みつけられ、汚い泥の中をのたうち回って死んでいく。幼い頃から質屋のおしまの元で、金の亡者たちの惨烈な業を見てきたおゆみにとって、凌庵の存在は理解の範疇を超えた「愚か者」にしか見えなかった。

 「ふふ、馬鹿で悪かったな。」

 「あっ、先生。」

 様子を見に次の間に入ってきた凌庵は、おゆみの顔色を見て、傷が順調に快方に進んでいることを確認した。

 「傷のつき具合も悪くない。顔色も戻ってきたな。」

 「お陰様でね・・・。」

 「治るまでここにいるがいい。自分のうちだと思ってな。」

 (この男は、本当に何処を切っても馬鹿なんだなァ)

 おゆみは呆れながらも、思わず小さな笑みを浮かべた。しかし、その「馬鹿」のおかげで、自分はいま冷たい牢屋敷の畳で怯えるのではなく、温かい味噌汁を口にし、人として扱われている。おゆみの胸の奥で、固く閉ざされていた何かが小さく軋む音を立てた。

 その時であった。 天竜堂の表の格子戸が、ガタガタと暴力的な音を立てて開いた。

 「凌庵先生はおられるか!!」

 威圧的なダミ声が天竜堂内に響き渡り、待合にいた患者たちが一斉に身を縮めた。 入ってきたのは立派な羽織を羽織り、丸々と太った腹を突き出した五十がらみの男であった。岡崎町の町名主・利兵衛(りへえ)である。その背後には、腕組みをした強面の手代風の男たちを二人従えている。

 八丁堀は主に与力・同心の武家屋敷が立ち並ぶ地であるが、拝領町屋敷も点在しており、町人の自治を取り仕切る町名主の権勢は極めて強かった。特に利兵衛はこのあたりの地主層とも深く繋がり、鼻持ちならない威張り散らしようで知られていた。

 奥の診察室から、患者の手当てを終えた凌庵が静かに出てきた。

 「これは町名主様、どのような御用でしょうか」

 「『どのような御用』!?しらじらしい事を! 凌庵先生、何時から天竜堂は牢屋になったのですか!」

 利兵衛は手にした高級な扇子で、バン!と音を立てて帳場を叩いた。

 「聞き捨てならぬ噂を耳にしましたぞ!北町奉行所の御裁きで、おしま殺しの凶悪な殺人容疑者であり、前科者の女をこの天竜堂で預かっていると!まさか真実ではありますまいな!?」

 凌庵は穏やかな眼差しを崩さず答えた。

 「おゆみさんの身柄はお白洲において無実の疑いが濃厚となり、遠山様のご裁許のもと、怪我の療 養のために天竜堂で引き取ったものです。何らやましいことはございませんぞ。」

 「屁理屈を言うな!」

 利兵衛は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。

 「いくら奉行所の指図とは言え、このような町中の診療所に殺人冤罪の女を置かれては困ります!  近隣の町民どもが恐れをなし、お参りも商いも出来んと悲鳴を上げています! この八丁堀の街が廃れてしまいます!」

 名主の威勢の良い言い分を聞いていた待合の患者たちも、ガヤガヤと同調し始めた。

 「そうだそうだ、名主様の言う通りだ・・・。」

 「前科者の女と一緒に病を診てもらうなんて、気味が悪いよ・・・。」

 「そら先生、皆の言う通りだ。牢屋敷には通いの医者もおられる。御奉行にお願いし、牢屋にうつされた方が・・・。」

 奥の部屋でそのやり取りを聞いていたおゆみは、ぎゅっと着物の裾を握りしめた。爪が手のひらに 食い込み、血が滲むようだった。

 (・・・ほらね。やっぱりこうなるんだ。あたしが存在するだけで、みんなに迷惑がかかる。あたしはどこへ行ったって邪魔者なんだよ。)

 おゆみは立ち上がり、小部屋から出て行こうとした。自分が天竜堂を出て行けば、この騒ぎは収ま る。またあの冷たい街角へ戻り、野良犬のように凍えて死ねばいいのだと、自棄の念が頭をよぎった。

 だが、おゆみが敷居を跨ぐより早く、雷のような怒号が天竜堂の天井を揺らした。

 「黙れっ!!!」

 その凄まじい声の圧力に、利兵衛も背後の手代も、患者たちも一瞬で言葉を失い、その場で凍りつ いた。

 声を上げたのは、いつも温厚で患者に対して丁寧に頭を下げていた助手の英助であった。 英助は抱えていた薬研をドスンと置き、大股で利兵衛の前へと立ち塞がった。その背筋は隙なく伸び、両肩の力は抜け、鋭い眼光が利兵衛を射抜いている。それは紛れもなく、修羅場を潜り抜けてきた「気高き武士」の、そして元同心としての圧倒的な威圧感であった。

 「な、なんだ其方は!名主の私に向かって・・・。」

 「人を軽んじる者に、名主も何もあるかぁ!!」

 英助は言葉を完全にかき消し、どりと一歩踏み込んだ。利兵衛と思わず後ずさりする。手代たちが助けに入ろうとしたが、英助の放つ鋭い気迫に圧され、動くことができない。

 「偏見に取りつかれ、事実も知らぬまま、病に苦しみ傷ついた患者を中傷するつもりならば・・・今すぐここを出て行け!!」

 「な・・・なにぃ!?」

 「ここ天竜堂は、命を救うための場である! 身分や生まれ、世間の心無い噂によって人を差別し、弱者を足蹴にするような者に、跨ぐ敷居など存在しない!他の患者たちも同じだ! 事実を確かめもせず、ただ恐怖と偏見で人を傷つける気があるのなら、もはや患者ではない!立ち去れぇ!」

英助の言葉は剃刀のように鋭く、鋭利に場を切り裂いた。元武士としての誇りと、内に秘めた激しい怒りが籠もった一言に、名主の利兵衛は唇をガクガクと震わせて言葉を失った。待合の患者たちも、 気圧されて下を向くしかなかった。

 「え、英助・・・。」

 奥の柱の陰で見ていたおゆみは、息を呑んだ。 自分のような虫ケラ同然の存在のために、なぜこの男はここまで激怒し、町の名主を相手に啖呵を切れるのか。胸の奥が熱く焦げ付くような衝撃を覚えた。

 「落ち着け、英助。」

 静かな、しかし確かな重みを持った声が響いた。師である凌庵だ。凌庵は英助の肩にそっと手を置き、柔らかく首を振った。

 「その気持ちは正しいが、簡単に感情を表に出すのはいかん。お前の正しさが、怒りによって濁ってしまう。」

 「・・・申し訳ございません、先生。あまりの不条理に、つい我忘れてしまいました。」

 英助は深く頭を下げ、すっと息を吐くと、元通りの温厚な助手の顔に戻った。 そこへ、表の格子戸が再び開き、凛とした二人の男が入ってきた。 筆頭与力・近藤清左衛門の跡取りとして、吟味与力の立場にある近藤新太郎と、定町廻り同心の仁吉であった。

 「やあ、何やら賑やかだな、利兵衛殿。」

 新太郎は爽やかな笑みを浮かべながらも、その鋭い眼光を名主へ向けた。

 「近藤様!?」

 利兵衛の顔色が瞬時に蒼白へと変わった。近藤家はこの八丁堀を統括する筆頭与力であり、町名主 など束になっても敵わない絶対的なお上である。

 「おゆみ殿の身柄預かりは、北町奉行である遠山様のご命令であり、我が近藤家が身元引き受人となっておる公的な処置だ。もし他に下手人がいた場合の護衛の為でもある。それに対し、町内が騒がしいだの格が落ちるだのと苦情を申し立てるということは・・・、其方は北町奉行所、並びに我が近藤家の差配に異議があるということかな?」

 「名主様、もしそうならお前さんは御上の御考えに異議ありって事なんだぜ?」

 仁吉がニヤリと嫌な笑みを浮かべ、十手をチラリと覗かせた。

 「い、滅相もございません! そのようなつもりでは・・・!」

 利兵衛は滝のような冷や汗を流し、膝をガクガクと震わせた。

 「何か問題が起きた際の責任は、すべて我が近藤家と天竜堂が負う。名主殿の心配は一切無用だ。お引き取り願おうか?」

 「オメエさん達も、御上の考えに軽々しく口を出す物じゃねえよ?」

 新太郎が冷ややかに手を差し示すと、利兵衛と手代たちは「失礼いたしました!」と悲鳴のような 声を上げ、脱兎のごとく天竜堂を逃げ出していった。騒ぎは収まり、待合の患者たちも気まずそうに静まり返っていた。

 昼下がり。朝の喧騒は静まり、診療の合間の静けさが天竜堂を包んでいた。 患者たちが去り、静かになった庭の縁側に、英助が腰掛けて薬草をざるに広げ、丁寧に干していた。

おゆみは躊躇しながらも、ゆっくりと英助の背中に近づいた。

 「・・・あのさぁ。」

 英助が振り向く。おゆみは視線を泳がせながら、不器用に口を開いた。

 「・・・さっきは、助けてくれて・・・ありがとうよ。」

 その言葉に、英助は優しく目を細めた。

 「礼には及びませんよ、おゆみ殿。私は当然のことをしたまでです」

 「・・・納得いかないんだよ。」

 おゆみは縁側の端に腰を下ろし、膝を抱えた。

 「あたしはあんたにとって、ただの通りすがりの客・・・いや、厄介者だ。なんであんたは、あの 名主相手にあそこまで怒ったんだい? あんた、普段はあんなに腰が低くて優しいのに・・・さっきの怒りようは、まるで自分自身が傷つけられたみたいだったぜ。」

 英助は干していた薬草の手を止め、遠くの青空を見つめた。その瞳には、深い哀愁と過去の傷痕が宿っていた。

 「おゆみ殿の今の御立場・・・、私に似ているのです」

 「似ている?」

 「・・・私はかつて、武士でした。」

 「え・・・?あんたが、お侍様・・・・?」

 「ええ。我が家は奉行所に仕える同心でした。私も見習いですが、同心として勤めていました。ですが我が家は・・・・、突然の悲劇に見舞われ改易となり、御家断断絶となったのです。」

 英助の声は静かだったが、その裏には消えぬ痛みが潜んでいた。

 「幕府高官と御典医が結託した黒い陰謀により、我が父は濡れ衣を着せられたのです。『妾と心中した』という、身も蓋もない恥辱の烙印を押されてね。父は無実を訴えながら獄中で非運の死を遂げ、遺された私は『逆賊の子』、『心中した不義の息子の生き残り』として、世間から追われました。」

 おゆみは息を呑んだ。

 「どこへ行っても、後ろ指をさされました。『あいつの親は汚い死に方をした』、『不義の血が流れている』と・・・。私がどれほど『父は冤罪だ』と叫んでも、誰も耳を貸さなかった。世間というものは一度『悪』の烙印を押した者に対し、どこまでも苛烈で冷酷なのです。」

 英助はおゆみをまっすぐに見つめた。

 「おゆみ殿。白州でお前の姿を見た時、私は昔の自分を見ているようだった。世間の偏見と『偽りの刺青』によって罪人にされ、生きる望みを失い、自暴自棄になっているお前の姿が・・・。だからこそ、あの名主が偏見で苛むのを見た時、どうしても許せなかったのです」

 「英助さん・・・。」

 「私を地獄から救い出してくれたのが、先生でした。」

 英助の表情に、強い感謝と敬愛の色が差した。

 「先生は私の父の冤罪を晴らす為に奔走し、陰謀を暴いて無念を晴らしてくださいました。私に新たな生き場所と、『医術』という人を救う道をくださった。私は高柳先生の仁徳と生き様に心底惚れ込み、武士を捨て、弟子としてこの天竜堂に骨を埋める覚悟を決めたのです。」

 英助の語る過去は、おゆみの胸を激しく揺さぶった。自分と同じように、世間の理不尽な偏見によって踏みにじられ、全てを失った人間がここにはいたのだ。そして、その人間を救い上げたのが、あの「十六文の馬鹿医者」こと高柳凌庵だった。

 (あたしだけじゃなかったんだ・・・・。この人たちも、みんな痛みを抱えて生きているんだ・・・・。)

 その様子を陰で見守っていた凌庵も、ゆっくりと間に入ってきた。

 「その通りだよ。俺だってあんたと同じ経験をしているんだ。助手の彩乃殿だって、様々な過去を抱えている。だから、お前さんの気持ちはよく解るんだよ。」

 凌庵の温かい手がおゆみの頭にそっと置かれた。 この言葉を聞いたおゆみの顔から、すれっからしの不良と呼ばれた頃の険しい面持ちが、氷が解けるように少しずつ消えていくのが解った。


 ――夜。八丁堀の静かな路地に灯る赤提灯。 凌庵たちの行きつけである居酒屋『鶴亀屋』の暖簾を、凌庵、彩乃、英助の三人がくぐった。

 「いらっしゃい! 今日は三人でお出ましかい?」

 「ああ、たまにはな。」

 威勢のいい声で迎えたのは、女将のおえんであった。いつもの奥の座敷には先客として、仕事を終えた近藤新太郎と定町廻り同心の仁吉が、酒盃を交わしていた。

 「おや、新太郎様に仁吉様も。奇遇ですね。」

 「おお先生!さっきぶりだな、こっちへ座れよ!」

 新太郎が笑顔で手招きし、一同は畳の座敷へと腰を下ろした。 おえんが手際よく名物の煮込みの鉢と、湯気を立てる徳利を運んでくる。

 「噂は聞いているよ、お兄ちゃん。」

 「何がね?」

 おえんは杯に酒を注ぎながら、感心したように頷いた。

 「白洲で偽りの刺青を暴いて、おゆみちゃんって娘の無実を晴らしたんだってねぇ。弟の仁吉から聞いて、あたいもしびれたよ。やっぱりお兄ちゃんは素晴らしい見立てをするねぇ。」

 「いや、俺はただ医学的な事実を述べたまでに過ぎん。」

 凌庵が照れくさそうに酒を煽ると、おえんはふうと溜め息をついた。

 「それにしてもさぁ、例の『毒饅頭事件』の黒幕も未だに捕まっていないってのに、今度は質屋殺しに隠し帳簿の謎だろ? 八丁堀も物騒になったもんだねぇ。先生も巻き込まれないように気をつけなよ。」

 「おえんさん、ご心配なく。俺たちがいるから。」

 「仁吉じゃあ、頼りないねえ・・・。」

 「それが実の弟に言う事か!!」

 仁吉の情けない叫びに一同が大笑いし、話の輪は自然と和やかな物へと変わっていった。

 「英助さんも、昼間は立派だったのですよ?偏見に取りつかれた人たちを叱り飛ばして。」

 「彩乃さん・・・、止してください。」

 「何だか・・・、昔の私を見ている様でしたわ・・・。」

 その中で、新太郎がふと彩乃へと視線を向けた。

 「そう言えば、彩乃殿。ずっと気になっていたのだが・・・彩乃殿は御典医・藤村玄瑞先生の令嬢 でありながら、なぜ屋敷を出て町医者の元で助手をされているのだ? どのような経緯があったのか、以前から興味があってな。」

 「まあ、新太郎様までそんなことを・・・。」

 彩乃は少し頬を赤らめ、困ったように微笑んだ。凌庵もまた、バツが悪そうに目をそらした。すると彩乃が、懐かしそうに語り始めた。

 「別に隠すようなことでもございませんわ。……私の不養生と、先生への『意地』が始まりなのですから。」

 「意地?」

 「ええ。あの時の私は、天竜堂に来た患者さんなんて比にならない程に、偏った考えを持ったひよっこでした。」

 彩乃は盃を傾け、遠い目をして語り始めた。


 数年前――、御典医・藤村玄瑞の娘として生まれた彩乃は、裕福かつ厳格な家庭環境の中で育てられた。しかし、当時から勝気で筋の通った性格だった彩乃は、ただ然るべき名家に嫁ぐための「花嫁修業」に強く反発していた。

 「私は家柄や男の装飾品になるために生まれてきたのではない。自分の手で人を救う『医者』になりたい。」

 そう決意した彩乃は父に直訴し、父の友人である名医・稲垣蓬洲が仕切る養生所で修行を積むこととなった。 その養生所に頻繁に出入りしていたのが、若き日の高柳凌庵だった。

 凌庵は、幼い頃に玄瑞が弟子として我が子同然に育て上げた男であった。そして凌庵の祖父である高柳道庵は、玄瑞にとって医術の師であるだけでなく、かつて長年の想い人であった千鶴との間を取り持ってくれた終生の大恩人でもあった。道庵の過酷な死後、進んで玄瑞が幼い凌庵を引き取って育てたという経緯があった。

 だが当時の彩乃にとって、凌庵はどこかいけ好かない男であった。確かな外科医術を持っていることは認めつつも、常に冷身で謹厳、世間の名声や富に一切の興味を示さない凌庵の態度が、プライドの高い彩乃には鼻についたのだ。

 そんなある大雨の夜、養生所に血まみれの男が担ぎ込まれた。 男の名は猫又(ねこまた)粂蔵(くめぞう)。江戸を荒らし回る凶賊・蟒蛇(うわばみ)丹右衛門(たんえもん)の小頭であった。

 粂蔵は、あまりに血生臭く残忍な盗みを繰り返す頭の丹右衛門と袂を分かち、御上に悪事を密告しようと目論んでいた。だがそれが露呈し、仲間の手に掛かって難波橋の袂で滅多刺しにされたのだ。

 「凶賊の小頭だと!?」

 「関わったら蟒蛇の一味に命を狙われるぞ!」

 養生所の医師や若い弟子たちは、恐怖と関わりたくない一心で全員が物術(物怖じ)し、背を向けた。 当時、正義感の塊であり、同時に強い偏見を抱いていた若き彩乃もまた、冷酷に吐き捨てたのだ。

 「助ける必要などありません!今まで罪もない人々を殺し、奪ってきた悪党です!仲間に刺されたのも自業自得!どうせ息を吹き返したところで死罪になる男です!なぜそのような悪人のために、私たちが命を危険に晒さねばならないのですか!」

 命を乞う血まみれの粂蔵を見下ろし、当然の正論として言い放った彩乃。養生所の若い者たちは、彩乃の言葉に同調していた。

 次の瞬間――。

 バシィッ!!!

 激しい乾いた音が養生所に響き渡った。彩乃の視界が大きく揺れ、頬に熱い激痛が走った。凌庵が、彩乃の頬を平手打ちで叩き飛ばしたのだ。

 「きゃあっ!?」

 床に倒れ込んだ彩乃は、信じられない思いで頬を押さえ、凌庵を見上げた。普段の穏やかで静かな凌庵の姿はそこになかった。その瞳には、業火のような荒々しい怒りが燃え盛っていた。

 「馬鹿野郎っ!!」

 凌庵の声は、養生所の天井を震わせるほどに凄まじかった。

 「本当の医者なら・・・身分や身の上に拘らず、助かりたいと願う人間を助けるのが務めだ!! 大切なのは相手が善人か悪人かじゃねえ! 助かりたい』、『生きたい』というその思いだ!!善だ悪だと、人の命をくだらねえ天秤にかけるつもりなら・・・、今すぐ医者なんざやめちまえ!!!」

 その怒号は、彩乃の魂を直接殴りつけるような衝撃であった。凌庵は怯える弟子たちを退け、一人で粂蔵の手術に当たった。血を洗い流し、傷口を縫い合わせる徹夜の執刀と治療により、粂蔵は奇跡的に一命を取り留めた。

 一命を取り留めた粂蔵は、そのまま奉行所に自首した。粂蔵は仲間の手に掛かって犬死にするのではなく、御上の正しい裁きを受け、自分の犯した罪の償いとして死にたかったのだ。連行される間際、粂蔵は彩乃に向かって深々と頭を下げた。

 「凌庵という先生に、伝えておくんなせぇ。『命を救ってくれて、人間として死なせてくれて、ありがとう』とな・・・。」

 あの場に居合わせた若い医者は、凌庵の行動と類まれなる腕前に脱帽するばかりであった。 しかし、平手打ちされた彩乃の怒りと不条理感は収まらなかった。実家に飛び帰った彩乃は、父である藤村玄瑞に向かって涙ながらに訴えた。

 「お父様!凌庵が私を打ちました!あのような悪党を助け、私を傷つけたのです! 凌庵を叱り飛ばし、処分してください!」

 だが玄瑞は娘を甘やかすどころか、恐ろしいほどの厳父の顔で一喝したのだ。

 「お前が悪い、彩乃っ!!」

 「え・・・、お父様・・・・?」

 険しい面持ちのまま玄瑞は深々と溜め息をつき、凌庵の過去を、そして高柳道庵の死の真相を語って聞かせた。

 「彩乃・・・、凌庵の祖父である道庵先生は、流行り病が蔓延した際に貧しい者たちを無償で救い続けたお方だ。正しい対策の方法も教えて回った。だが世間は・・・、『悪病を撒き散らしたのはあの医者だ』と罪人に仕立て上げ、暴徒となり道庵先生を殺害したのだ。」

 彩乃は息を呑んだ。

 「凌庵はその悲劇を胸に刻み、死に物狂いで医術を修めた。故人の遺志である『どんな罪人であれ、傷ついた命を差別せず助ける』という絶対の掟を、己の命をかけて守り続けているのだ。それを・・・お前は己の浅はかな正義感で踏みにじった。打たれて当然だ! それが解らぬうちは、立派な医者にはなれぬ。」

 父の言葉に、彩乃は己の未熟さと偏見の愚かさを思い知り、激しい羞恥と涙に暮れた。

しかし、それで折れる彩乃ではなかった。己の非を認めた上で、彩乃の勝気な情熱は別の方向へと昇華したのだ。

 「・・・ならば、私はあの男を超える医者になってみせる。あの男の鼻を明かし、真の仁医になってみせるわ!」

 数日後、彩乃は大荷物を抱えて八丁堀の天竜堂へと突撃した。突然押しかけてきた彩乃に、凌庵は開いた口が塞がらない様子で困惑した。

 「あ、彩乃殿・・・?一体どうされた?」

 「私を傷物にした責任を取ってもらいます!」

 彩乃は胸を張って言い放った。

 「傷物っ!? 私は手など・・・。」

 「出しました!あの平手打ちで、私の心と頬には一生消えない傷がつきました!責任を取って、私を天竜堂の弟子兼助手として手元に置き、一人前の医者に育て上げてください!」

 無茶苦茶な理屈に頭を抱える凌庵であったが、彩乃が差し出した手紙を見て諦めた。それは玄瑞からの直筆の手紙であった。

 『このじゃじゃ馬を育てるも叩き出すも、如何様に扱っても構わぬ。良しなに頼む』

こうして、藤村彩乃は天竜堂の助手となり、現在に至るのであった。


 「――とまあ、そのような昔話がございましたのよ。」

 語り終えた彩乃は、照れ隠しに盃の酒を飲み干した。座敷内は大爆笑と感嘆の声に包まれていた。 凌庵はまるでバツが悪いかのように、頬をポリポリとかいた。

 「ハハハ! いやあ素晴らしい!流石は奥医師の娘御だ!」

 凌庵たちの過去を聞き、新太郎は腹を抱えて笑った。

 「しっかし兄貴、傷物とは上手いこと言われたなあ。それが今じゃ、頭が上がらないんだもんなァ、ハッハッハ。」

 「笑うな馬鹿っ、昔の事だ」

 凌庵は苦笑いを浮かべながら、手元の盃を見つめた。

 「彩乃殿の時は、手加減が利かず申し訳なかった。俺もどうかしていたよ。」

 「いいえ、先生。」

 彩乃は柔らかく首を振った。

 「あの平手打ちがなければ、私は今も『正義』という名の偏見にとらわれた、嫌みな女のままでした。先生のおかげで、私は命の本当の重さを知ることができたのですから。あの時から私は・・・・。」

 そう言いかけた彩乃の顔は、茹でた蛸のようになっていた。

 「彩乃さん、顔が赤いですが?大丈夫ですか?」

 「い、いえ!?」

 急に口をつぐんだ彩乃。その話を聞いたおえんは目を細め、うんうんと静かに頷いた。

 「英助さんも、彩乃さんも、そしておゆみちゃんも・・・みんな先生のその頑固な『仁徳』に救われて、ここに集まっているんだねぇ」

 夜の静寂が、鶴亀屋の店内に満ちていく。 凌庵は深々と息を吐き出し、静かに思考を巡らせた。

 ――同心を捨てた英助の過去・・・一介の町医者になる事を夢見た彩乃殿の決意……そして、おゆ みの抱える傷。

 天竜堂に集う者たちは、誰もが世間の偏見や陰謀、理不尽な暴力によって傷つけられた経験を持っていた。だからこそ、今回のおゆみのような悲劇を、決して他人事として見捨てることができないのだ。

 毒饅頭事件の不穏な影、そしておしま殺しの背後にちらつく『消えた隠し帳簿』。保身のために闇へと走る堀本同心や、己のメンツのために執念を燃やす笠原与力。奴らの手がおゆみや天竜堂に伸びる前に、必ずや真実を暴かなければならない。

 「先生、顔色が冴えませんね。また難しいことを考えていらっしゃるのでしょう」

 彩乃が心配そうに覗き込んできた。凌庵は優しく微笑み、首を振った。

 「いや・・・ただ、明日からの仕事に向けて、気持ちを締め直していただけだ。さあ、今夜は呑もう。明日もまた、十六文の患者たちが待っている。」

 「はい!」

 八丁堀の夜は深々と更けていく。

 迫りくる闇の陰謀と、真犯人の影を予感しながらも、天竜堂の面々の絆は、確かな温もりとなって夜の静寂を照らし続けていた。

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