三十二
「北町奉行、遠山左衛門尉様、御出座ァ――っ!」
張り詰めた声が、照りつける初夏の陽光を切り裂いた。北町奉行所の御白州には、容赦のない眩い光が降り注ぎ、敷き詰められた白砂が白熱した鏡のように光を跳ね返している。
その白い光のただ中に、痛々しく白木綿で頭部を巻かれたおゆみが、力無く膝を突いていた。 小伝馬町牢屋敷の女牢にて、頭部に負った深手から感染症を起こしかけていたおゆみであったが、高柳凌庵の執刀による見事な縫合と処置によって創口は綺麗に塞がり、命に別状こそなくなっていた。しかし、その顔色は土気色で、ひび割れた唇からは完全に血色が失われている。うつむいた丸い瞳の奥には、尚も生きる事そのものを拒絶し、すべてを諦めきった重い暗雲が漂っていた。
「さて、これより、深川蛤町質屋兼金貸し・おしま殺害の一件について吟味を致す。一同、面を上げい。」
お白洲の正面、重々しくも落ち着いた金四郎の声が響く。おざなりに平伏していたおゆみは、首を揺らしながらゆっくりと頭を上げ、不満と冷めきった猜疑心に満ちた顔を奉行へ向けた。
「おしまが営みし質屋において女中をしていたというおゆみ。其方は日々の人を人とも思わぬ扱いに憤慨し、おしまを絞め殺したとこの吟味調書にあるが・・・、左様相違ないか?」
「間違いございません・・・。」
こくりと小さく頷き、おゆみは否定しなかった。その声には何の感情も乗っていない。 白州の傍らに控える吟味方与力・笠原兵馬と、定町廻り同心・堀本伊三郎の二人は、己らの調査と吟味に一切の手抜かりはないと自信に満ちあふれた面持ちで胸を張っていた。兵馬は扇子を握り締め、伊三郎は手拭いで額の汗をぬぐいながら、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「しかし・・・おしまの遺体検死を請け負ったこれなる高柳凌庵によれば、この吟味調書には著しい『違和感』があるとのことだが……。」
金四郎が静かに問いかけると、おゆみは溜まらず吐き捨てるように声を荒らげた。
「何の違和感もございません!あの因業ババアを絞め殺したのは私です!さっさと首を跳ねればいいんだよ!さあ!!」
質問を繰り返し、おゆみの無実を探ろうとする奉行の態度に対し、しびれを切らした笠原兵馬が身乗り出して声を上げた。
「恐れながら御奉行!これなる街の町医者が何を申したかは存ぜぬが、我ら吟味方並びに町方各位の吟味に抜かりは一切ございませぬ!本件はすでに自明同然にございます! 下手人おゆみはおしまの家に忍び込み、その首を絞めて惨殺。現場に真っ先に駆けつけた堀本同心らにて現行犯で捕縛されたものであります!おゆみ自身も『私が殺した』と全面的に罪を認めており、自白は完結しております!」
「左様っ!」
同心の伊三郎も、待ってましたとばかりに追従した。
「我ら定町廻り、下手人と判らぬ者を捕縛するなどいたすはずがございませぬ! 町方の名にかけて、間違いなくこやつがおしまを殺害した真犯人にございます!」
一切自信を崩さず、威圧的に推し進めようとする兵馬と伊三郎の強談判。白州の空気を支配しかけたその強硬姿勢を制したのは、その場に重々しく臨席していた吟味方与力の神山平蔵であった。
「落ち着かれよ、両名とも・・・。」
「しかし神山殿!町医者の不確かな戯言に惑わされて吟味を滞らせるなど――」
「静まれ。白洲の場での見苦しい口論は許さん。」
奉行の低く冷徹な一言に、兵馬と伊三郎は苦虫を噛み潰したような顔で押し黙った。金四郎は視線を移し、静かに控える凌庵の方を見た。
「天竜堂主。高柳凌庵。お前は小伝馬町にてこの娘の治療を行い、更にはおしまの遺体の検死にも立ち会ったな。医者として、この吟味調書に記された『おゆみによる絞殺』という見立てに、何か不審な点はあるか?」
「ハッ。」
凌庵は静かに白砂へと歩み寄り、深く一礼した。その仕草には一切の迷いがなく、澄んだ真摯な眼差しがおゆみへ、そして奉行・遠山金四郎へと向けられた。
「御奉行。医術を修める者の目から申し上げれば――この調書に記された『おゆみによる絞殺』という見立てには、重大な矛盾が三点ございます。」
「何ぃ!?」
兵馬の顔が怒りで大きく歪み、白州の役人たちの間にどよめきが走る。その中でも、吟味方の神山平蔵だけは、凌庵の観察力に深い期待の眼差しを送っていた。
「第一に、体格と筋力の著しい差にございます。」
凌庵は静かな、しかし白州の隅々にまで透き通るような声で言葉を紡いでいく。
「被害者のおしま殿は、割腹のよい丸々と太ったお方。一方、おゆみは長年の貧困と虐待により、 著しく体力を消耗した華奢な少女に過ぎません。意識のある大人の女性が、このような細い指で首を絞められた場合、死に物狂いで抵抗するのが自然でございます。」
凌庵はおゆみの前にそっと膝をつき、怯えるその細い腕を指し示した。
「しかし、おゆみの両手あるいは首筋や顔面には、爪で引っかかれたような抵抗の痕が一切ございません。また、おしま殿の爪の間にもおゆみの皮膚や着物の繊維は残されておりませんでした。紐などの凶器を使った跡も無い。素手で足掻く相手を、この華奢な腕一本で無傷のまま抑え込み、息の根が止まるまで首を絞め続けることなど、医学的に絶対に不可能なのです。」
凌庵が論理的かつ淡々と医学的意見を述べていると、突然おゆみが半狂乱になって騒ぎ出した。
「馬鹿言うんじゃないよ藪医者ァ!あんな年老いたババア、絞め殺すなんて造作もないさ! あたしが殺したんだ!おしまの首を、この手で締めて殺したんだよ!あたしはな、根っからの悪党なんだ!前科者なんだ!殺すなり八つ裂きにするなり、早くしやがれ!」
「控えい!許可なく騒ぎ立てることは許さん!」
平蔵の喝が飛ぶが、おゆみは凌庵の優しさに憤慨するかのように、ぜいぜいと肩で息を切りながら、最後に白砂へ額を擦り付けて吐き捨てた。
「殺しとくれよ・・・、あたしなんざ生きてたって迷惑なのさ・・・。生まれ持っての罪人、これが『りゃんこのおすみ』の定めなんだ・・・。」
おゆみの態度は反省や誇りなど微塵もない、まさに自暴自棄の極みであった。己を傷つけ、蔑み、一刻も早くこの世から消し去りたがっている。 遠山金四郎は、その哀れな叫びを冷ややかな、しかし深い憐憫の情を込めた目で見つめていた。
おゆみの態度は、反省や誇りなど微塵もない、まさに自暴自棄の極みであった。己を傷つけ、蔑み、一刻も早くこの世から消し去りたがっている。 遠山金四郎は、その哀れな叫びを冷ややかな、しかし深い憐憫の情を込めた目で見つめていた。
しかし、兵馬と伊三郎は冷徹な面持ちを崩さず、凌庵の意見に対してせせら笑うように反論した。
「御奉行、確かにこの町医者の言う理屈も一理あるように聞こえましょう・・・。ですがこのおゆみは、過去にお上から刺青の刑を受けた重罪人! 腕にはくっきりと二本線の刺青。墨を彫られ解き放たれた者が、再び罪を犯すなど市井では珍しい事ではありませぬ! 根っからの悪党の言うこと、真に受ける必要などございません!」
兵馬の露骨な偏見に満ちた言葉を聞き、金四郎は凌庵の方を見て再び問いかけた。
「凌庵、一同こう言っておるが・・・、第二の不審点とは何だ?」
凌庵はおゆみの自棄的な叫びや兵馬の嘲笑に乱されることなく、毅然として続けた。
「第二の不審点は・・・おゆみさんの腕に刻まれた『刺青』、すなわち前科そのものにございます。」
「おゆみが、罪人ではないとでも申すのか!?」
兵馬が声を荒らげた瞬間、おゆみの身体がびくつと跳ね上がった。
「おゆみさんは腕の刺青をひけらかし、己を『前科者』と称していた。だからこそ惨殺を犯したと言い張っております。しかし・・・私は北町奉行所の書物庫にて、過去十年分の『御仕置裁許帳』をことごとく検分いたしました。」
凌庵は兵馬と伊三郎をまっすぐに見据えた。
「公方様の御定書において、二十歳以下の年若き女子に対して刺青刑が下された記録は、過去十年間、ただの一件も存在いたしません。」
「なに!?」
白州の役人たちから、今度こそ大きなざわめきが巻き起こった。
「女子への刺青は極めて重い刑罰であり、通常は様々な情状が考慮され、叩きや追放が適用されます。もし本当に刺青の刑に処されたのであれば、確実に裁許帳に判例として残るはず。それがない・・・では、おゆみの腕にあるこの二本線の墨は何なのか?」
凌庵は、嫌がるおゆみの着物の袖をそっと捲り上げた。痛々しい皮膚の上に、歪に引きつった黒い筋が浮かび上がっている。
「筋の太さは左右で不揃い、墨の入り方も浅い箇所と深すぎる箇所が交じり、皮膚が酷い蟹足腫となっております。これはお上の腕利き彫り師が施したお仕置などではない。何者かが・・・、素人の手で、針を力任せに突き刺して刻んだ『偽りの烙印』でございます!」
「偽りの刺青・・・!?」
静観していた金四郎もこの凌庵の鋭い指摘には目を見張り、驚きを隠せなかった。白洲の役人全員が青ざめ、息を呑む。
「おゆみさん。」
凌庵はおゆみの目をじっと覗き込んだ。その声には、包み込むような温かさと悲しみが宿っていた。
「俺は昵懇の者から、お前さんが常日頃おしまから『獅子身中の虫の子』、『罪人の胤』と誹られていたことを聞いた。その刺青、お前さんを罪人に仕立て上げたのは他の者ではないのか?誰かがお前さんにこの不完全な墨を彫りつけ、『お前は前科者だ』、『お前はもう人間ではない』と絶望を刷り込んだのではないのか? お前さんはその偽りの烙印によって人としての尊厳を奪われ、生きる希望を失い、自分がいかに抗おうと罪人にされる・・・ならばいっそ冤罪であろうと、犯してもいない罪を被って死のうとしている・・・、違うか!?」
「あ・・・あぁっ・・・・!」
おゆみの口から、言葉にならない嗚咽が漏れた。己を「悪党」と定義し、死を受け入れようとしていた唯一の拠り所。
――お墨付きの前科者。
偽りの鎧が、凌庵の鮮やかな解明によって木っ端微塵に打ち砕かれたのだ。おゆみは白砂に突伏し、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「見事な見立てだ、凌庵。」
遠山金四郎の声が、重々しく白州に響いた。
すると凌庵は立ち上がり、兵馬と伊三郎の方を毅然と見据えて、止めの一言を放った。
「笠原様、堀本様。相手の身の上や前科を鑑みて疑うのは、取り締まりの初歩としては至極尤も。なれど『お墨つきの女だから凶悪だ』と端から決めつけ、ろくに調べもせず伝馬町送りとした。まかり間違えば、無実の人間を極刑に仕掛けたのです。今一度、お上の職に就く者として、取り締まりの目を研ぎ直された方が良いと存ずるが?」
その言葉は至極穏やかであったが、剃刀のように鋭く二人の尊大なプライドを切り裂いた。しかし、威張り返ってきた兵馬が黙っているはずもない。兵馬は身分も顧みず、白州の真ん中で凌庵を指差し怒号を上げた。
「おのれぇ! 御上お抱えの検使医とは名ばかり!喰うに困った蘭医の分際で、お上の役人を誹謗するか!控えおろう!」
今にも剣に手をかけそうな勢いの兵馬に対し、平蔵が雷のような声を落とした。
「控えなされ、笠原殿っ!!」
平蔵の叫びに、兵馬はビクリと身体を硬直させた。平蔵は苦々しい表情で己の非を認めるように吐き捨てた。
「ろくに刺青の調べも裁許帳の照合も行わずに調書を作った……すべては我ら吟味方の手抜り!それには違いませぬ!街の医師に指摘されるまで気づけなんだこと、これは己が恥と知られよ!」
「ぐぬぬ・・・!」
兵馬は屈辱に顔を真っ赤に染めて黙り込み、伊三郎は生きた心地がせず、だらだらと滝のような汗をかきながらその場に座り込んでいた。
そこへ凌庵が、ちらりと伊三郎へ冷ややかな視線を向けた。
「堀本様。現場に真っ先に駆けつけた貴方にお伺いしたい。おしま殿ほどの質屋・金貸しであれば、誰にいくら貸したかを詳細に記録した『金貸し帳簿』が必ず存在するはず。あの家から、帳簿は見つかりましたでしょうか?」
「え・・・?あ、いや・・・!」
突然指名された伊三郎は、狼狽を隠しきれずに口ごもった。
「そ、そのようなものは現場には見当たらなかった! おそらく下手人が証拠隠滅のために奪い去ったか、あるいは最初から無かったのでは!」
「いいえ。」
凌庵は静かに首を振った。
「ああいう強欲かつ用心深い人間は、最も重要な帳簿を人目に付く場所には置きません。畳の下、 あるいは壁の二重張り、神棚の奥など、秘密の隠し場所に必ず保管するものです。」
「おゆみが持ち去ったのでは!?」
兵馬がすかさず口を挟む。
凌庵はおゆみを見下ろし、問うた。
「おゆみさん文字の読み書きは?」
「・・・出来るわけないだろ、かなくぎ流を書くのがやっとさ。」
「ではもう一つ問う。其方は借金のためにあの家に売られたのか?」
「・・・拾われたんだよ。それがどうしたってんだい。」
必要な問いを終えた凌庵は、奉行・金四郎に向き直った。
「御奉行。実はこれが私の持つ『第三の違和感』・・・帳簿の行方でございます。手前も最初は、おゆみが持ち去ったものかと考えました。しかし、文字も満足に読めず、金貸しの借金もしていない者が、おしま殿を殺してわざわざ帳簿だけを持ち去るとは考えにくい。先ほどのおゆみの身体的特徴から見ても、彼女が下手人とは考えられません。急におしま殿の家を徹底的に再捜索し、その帳簿を見つけ出すことこそが、真犯人を突き止める唯一の道かと存じます。」
「うむ・・・!」
金四郎は深く頷いた。
「おしまの帳簿か。そこに名を連ねる借主の中に、おしまを殺害した真犯人がいるということだな。」
「左様にございます。」
凌庵の完璧な推論を聞いた金四郎は、一瞬の間を置いて、白州全体を揺るがす裁決を下した。
「これより判決を言い渡す!」
白州の全員が息を呑み、平伏した。
「下手人とお目されしおゆみ・・・本人の自白には著しい矛盾があり、かつ両腕の刺青も何者かによる偽刻と判明した!よって、おゆみの罪状は白紙とし、一旦釈放とする!理由におしま殺しには他の下手人があるという疑い、そして御法度である私事の刑罰によって尊厳を貶められし疑いがあると見ての裁決である!」
「えっ!?」
おゆみが信じられないという顔で、白砂から顔を上げた。自分を待ち受けているはずだった「死刑」が、目の前で消え去ったのだ。
「ただし!」
遠山は声を張った。
「本件の真相が完全に解明されるまでの間、おゆみの身柄は『身柄預かり』とする。預かり先に関してだが、おゆみは小伝馬町にて頭部に重傷を負っており、今なお療養が必要な体。よってその身柄は、高柳凌庵の『天竜堂』にて預からせるものとする!」
「な・・・、天竜堂で預かるだと!?」
衝撃を受けた兵馬は、メンツを完全に潰された焦りから、さらに慌てた様子で言葉を捲し立てた。
「本人が一度は罪を認めたのです!帳簿などという不確かなものを捜索するために吟味を引き延ばせば、事件解決が難航し、町方の威信は地に堕ちます!町医者の市井の診療所に、容疑者を預けるなど前代未聞にございます!」
「黙れっ!!」
金四郎の激越な一喝が、白州の空気を震わせた。兵馬はまるで顔面を殴られたかのように体をすくめた。尚も己のメンツと手柄ばかりを主張する配下の見苦しさに、金四郎はついに激怒した。
「偏見に取りつかれ、無実の人間を伝馬町送りにし、なおも沽券だ偏見だと言うのか!? 町方の役目とは何だ!正しき裁きで世を取り締まることであろうが!愚か者めが!!」
理不尽に刑場に送られかけた自分のような虫ケラ同然の存在の為に、天下の北町奉行が本気で怒っている。今まで自分のためにここまで怒り、かばってくれた者がいただろうか。おゆみは思わず、涙で視界を濡らしたまま固まった。
その時、神山平蔵が静かに口を開いた。
「笠原殿、異存はあるまい。」
平蔵は兵馬を冷ややかに見下ろした。
「天竜堂は筆頭与力・近藤清左衛門殿の屋敷の敷地内を間借りしておる。目と鼻の先には与力同心 の屋敷も所々にあり、役人の目も行き届いておる。何より、高柳先生の卓越した医術と仁徳の下で身柄を保護することこそ、傷ついた証人を守る最善の策。……当奉行所として、近藤清左衛門殿の威光の下、慎重に見守ることとしよう。」
筆頭与力である清左衛門という完璧な後ろ盾の名が出されたことで、兵馬はもはやぐうの音も出なかった。
「高柳凌庵、預かれるか?」
金四郎の問いに、凌庵は深く一礼した。
「ハッ。医者として、一人の人間として、おゆみの傷と心を必ずや癒やしてみせます。慎んで、お預かりいたします。」
「うむ。頼んだぞ。」
遠山は深く頷き、煙管を持ち直した。
「これにて、本日の吟味を終える! 堀本! すぐさま配下を集め、蛤町のおしまの家を再捜索せよ! 隠し壁、床下、あらゆる場所を破ってでも『金貸し帳簿』を探し出すのだ! よいな!」
「は、ハッ・・・!知いたしました・・・・!」
「それから後々、おゆみにも話を聞かねばならぬ。あの刺青、私刑によって掘られたものだったのだとしたら、儂は絶対に許さぬ・・・。それを行った者、手を科した者、只では済まさぬ!!」
稀に見る金四郎の憤慨ぶり。伊三郎は生気を失った顔で、力なく平伏した。こうしてお白洲は終了した。
吟味が終わり、緊張の糸が切れた奉行所の渡り廊下。
「くそっ!くそくそくそっ!!遠山様も藪医者に肩入れしおって! 奉行所の威信に関わっても知らぬぞ!」
兵馬は廊下の柱を拳で叩きつけ、怒りを撒き散らしながら大股で去っていく。 大白洲という晴れの場で、町医者一人の口八丁によって己の吟味を「手抜り」と断じられ、奉行から怒号を浴びせられ た。兵馬のプライドはズタズタに引き裂かれていた。
(許さん・・・!高柳凌庵、ただの町医者と高く括っていたが、断じて許さんぞ!おゆみの身柄を天竜堂に預けたことが運の尽きだ。もしあのアバズレが逃亡するか、あるいは何か不審な動きを見せれば・・・速攻で天竜堂へ踏み込み、おゆみもろともあの藪医者を罪人に引きずり降ろしてやる・・・!)
兵馬の胸中には、凌庵に対する粘着質な憎悪と執念が黒々と渦巻いていた。
一方、その背中を追おうとした堀本伊三郎の足取りは、鉛のように重く、その額からは冷や汗が吹き出していた。
(帳簿・・・隠し帳簿だと・・・・!?しくじった、しくじったぞ・・・!もしもそんなものが見つかれば・・・、今まであのババアを金づるにして来た一件が・・・!)
伊三郎の頭の中を、恐ろしい光景が駆け巡る。伊三郎自身、おしまから多額の賄賂を受け取り、彼女の怪しげな質屋の営業や違法な金貸しを「老い先短い年寄の生業」とこじつけ見逃していたのだった。挙句、その恩恵にあずかると言った失態をしていた。
(もしあの帳簿が奉行所の手に渡れば、俺は身ぐるみ剥がされて罷免だ!笠原殿どころの騒ぎではない・・・!奉行所の本格的な捜索が入るのは明日・・・。今夜だ。今夜、俺が先回りしておしまの家に忍び込み、あの隠し帳簿を盗み出すか・・・いっそのこと、おしまの家ごと火を放って燃やし尽くさねば・・・どうする、どうする!・・・それからあのおゆみ、どこかで見た事がある・・・。)
自己保身に狂った伊三郎の目が、焦燥と狂気じみた光を帯び始めた。伊三郎は兵馬の背中を無視し、脇道へと逸れると、陰謀を巡らせながら疾風のごとく奉行所を飛び出していった。
凌庵と英助は、おゆみの細い肩を優しく支えながら歩いていた。おゆみの足取りはまだ覚束ないが、その瞳からは先ほどまでの「自責の闇」が消え、どこか茫然とした戸惑いが漂っていた。
「凌庵先生。」
声をかけてきたのは、道中の監視という名目で付けられた半兵衛だった。
「見事な白州での一破でございましたな。おゆみ殿の刺青が偽りであったとは・・・、お見事というほかございません。どうじに、儂たち同心は謝らねばならないな・・・。」
「いや半兵衛殿、事実が他にあっただけの事です。貴方だけのせいではありませぬ。」
町方の落ち度を、まるで我が事の様に表情を暗くする半兵衛を凌庵が慰める。そして、おゆみを支える英助に声を掛けた。
「時に英助よ、これからが大変だ。おゆみは身体の傷以上に、心を深く病んでいる。本道や外科の処置とはまるで違う、長い手当てが必要になる。」
「私も医者になったからは、どのような患者も診る所存です。それにしても、これで天竜堂はますます賑やかになりますね。一つ屋根の下で女を預かる、彩乃さんが何と言うか。」
「お前こそ、患者が若い女性だからと言って妙な気を起こすなよ?」
「先生っ!」
「冗談だ。」
凌庵がおゆみを連れて天竜堂の格子戸をくぐると、真っ先に黄色い声を上げて出迎えてきたのは姐さん被りではたきを持った美咲だった。
「ちょっと先生!すごいですわ!偽りの刺青に、消えた金貸し帳簿の謎!これ、絶対に江戸中がひっくり返る大ネタになりますわ!さっそくおゆみさんにお話を!」
「美咲様!!」
奥の台所から走ってきたお彩が、美咲の首根っこをキュッと引っ張った。
「おゆみ様はまだお怪我を負われているのですよ!瓦版の面白おかしいネタにしようだなんて、あまりに不躾です!」
「痛たた!お彩さん、固いこと言わないでくださいなァ〜!今時代を動かすのは筆ですわよ!?」
「ダメなものはダメです!」
ぷっと頬を膨らませて美咲を諫めるお彩。そのやり取りを見て、英助も「やれやれ」と苦笑いを浮かべた。
「おゆみさん。天竜堂には賑やかな仲間がたくさんいます。まずは温かいお粥でも食べて、ゆっく り休みましょう。」
凌庵が優しく語りかけ、手を差し伸べた。しかしおゆみはその手を冷たく跳ね除けた。
「・・・御厄介になるよ。」
おゆみはつっけんどんな物言いをして凌庵の差し出した手を拒むと、誰とも目を合わせようとせず、そそくさと奥の小部屋へ向かい、そのまま畳の上にくるりと背を向けて寝転がってしまった。
白州で無実が証明され、命を救われたとはいえ、長年「前科者」「人間以下の存在」として痛めつけられてきたおゆみの心が、そう簡単に開くはずもなかった。「優しくしておいて、どうせ後で利用するのだろう」、「身柄預かりなどと言って、結局は別の牢に入れられただけだ」という深い猜疑心が、彼女の心を頑なに閉ざしているのだ。
「おゆみさん・・・。」
お彩が心配そうに見つめ、何か言いたげに声を掛ける。
「よいのだ、彩乃さん。」
凌庵は静かに首を振った。
「無理に心を開かせる必要はない。今はただ、雨風を凌げる場所と、暖かい食事があればいい。心 の傷は、身体の傷よりも治るのに時間がかかるものだ。」
初夏の風が、八丁堀の町並みを爽やかに吹き抜けていく。
凌庵は天竜堂の庭に出て、青々とした木々を見上げた。 色眼鏡に取りつかれ、権力を笠に着た役人によって無実の者が罪人扱いにされるという世の不条理。
凌庵の脳裏に、苦い過去の記憶が蘇っていた。
幼き日、凌庵の祖父であり、貧しい人々を無償で診続けた仁医・高柳道庵。道庵は流行り病が江戸 を襲った際、絶望と偏見によって暴徒化した患者や町人たちから「悪病を撒き散らした悪人」だと不当に疑われ、暴行を受けて命を落とした。 その理不尽な悲劇ゆえに、凌庵は物心ついて間もなく孤児となり、藤村家の世話になって育ったのだ。
(権力や偏見に目を眩ませ、弱者を踏みにじる者たち・・・。)
だからこそ、凌庵は笠原兵馬や堀本伊三郎のような人間を許すことができなかった。今回のお白洲で、権力を笠に着る悪しき役人たちの鼻を明かし、その溜飲を下げさせたことに、凌庵はある種の確かな手応えを感じていた。
しかし――手放しで喜んでばかりもいられない。
(堀本伊三郎殿のあの狼狽ぶり……。ただの手抜りを叱られた者の顔ではなかった。あの男、おしまの『隠し帳簿』に何か自らの致命的な弱みが握られているのではないか?)
自己保身のために闇へと走り出そうとする伊三郎の愚行。 メンツを潰され、執拗な監視の目を天竜堂へ向ける兵馬の執念。 そして、未だ頑なに心を閉ざす傷だらけの少女のおゆみ。おゆみを白州から救い出したことで、事件はただの殺人吟味を越え、闇の帳簿を巡るさらなる混迷と緊迫の局面へと突入しようとしていた。




