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三十一

 八丁堀から小伝馬町へと続く通りを、凌庵と英助は飛ぶような速さで駆け抜けていた。初夏の風が爽やかに吹き抜ける江戸の町並みから一転、小伝馬町牢屋敷の重厚な長屋門を潜ると、そこは陽光が完全に途絶えたかのような異界であった。湿り気を帯びた粘つく空気、肥溜めと汗、そして爛れた皮膚と腐臭が交じり合った特有の異臭が、鼻腔を強く刺す。

 「高柳先生!こちらです、お急ぎくだされ!」

 案内する牢屋見廻り同心の手導きで、二人は重厚な出格子で仕切られた「女牢」へと足を踏み入れた。

 牢内は普段の死んだような静けさを完全に失い、異様な熱気と野獣のような興奮に包まれていた。暗がりの畳敷きから、髪を振り乱した女囚たちが格子越しに身を乗り出し、飢えた獣のような眼光を凌庵たちに向けた。

 「何だ青二才!!アタシらへの御馳走かえ!?」

 「良い男の兄さん、こっちに来なよぉ!」

 「イイコトしてあげるよ!」

 男日照りの囚人たちが卑猥な言葉と嘲笑を浴びせかける。役人たちが竹束たけづかを構え、「静かにせい! 下がりおれ!」と怒号を飛ばして警戒に当たっているが、囚人たちの狂熱は収まらない。

 「どけ! 高柳凌庵先生のお通りだ!」

 同心の喝声に、女囚たちがチッ、と深々と舌打ちをしながら渋々道をあけた。牢の最奥、板間の上に横たえられていたのは、頭部からおびただしい血を流し、顔面の右半分を黒赤色の血で染めたおゆみであった。その傍らには、角帯を粋に締め、腕ぐみをしながら煙管の煙をゆったりとくゆらせている四十格好の貫禄ある女が立っていた。

 小伝馬町女牢を締め切る牢名主・おけいである。無法地帯と化す牢内を圧倒的な腕力と威厳で束ねる、言わば女牢の絶対的な支配者であった。

 「おや、噂に聞く天竜堂の凌庵先生かい。わざわざこんな肥溜めみたいな場所までご苦労なこった。」

 おけいは煙管の灰をコンコンと板間に叩き落すと、顎で転がっている血まみれの角材を示した。その横では、止血のために気休め程度の手拭いを頭に巻かれたおゆみが横たわっている。手拭いはすでに赤黒く染まり、呼吸は浅く、まさに虫の息であった。

 「牢に入ってきた早々、このすれっからしの目つきが気に入らねえってんで、先住の女どもに絡まれたのさ。普通なら平伏して『よろしく頼みます』と頭を下げるのがこの牢の掟なんだがねぇ・・・、この娘ったら、売られた喧嘩を速攻で買いやがった。命のツルも持って来ず、『かかってきやがれ!』って大暴れ、珍しい娘だよ。」

 「それで立ち回りになったのか。」

 凌庵は着物の裾を静かに折り込み、迷いなくおゆみの血だまりの傍らに膝をついた。すぐさま二本の指をおゆみの頸動脈に当てる。脈拍は速く、しかし糸のように細く途切れ途切れの状態だ。

 「ええ。まるで死に場所を探してる狂犬みたいに飛びかかってね。三人がかりで組み伏せたんだが、取り乱した一人がその辺の床板を強引に剥がして叩きつけちまったのさ。当たり所が悪くってね、頭を割られたってワケさ。」

 おけいは不機嫌そうに鼻を鳴らし、紫煙を吐き出した。

 「勘違いしないでくれよ先生。あたしらが寄ってたかって痛めつけたわけじゃない。この娘がハナから自分から死にたがってたんだ。『私はもう人間じゃない! 殺すなら殺せ!』って大声で叫び散らしながら、自分から木片に頭を叩きつけに行くような真似をしやがったんだからねえ」

 「『自分はもう人間ではない』だと・・・、ふざけるな。」

 凌庵はおゆみの青白い唇と、苦痛に歪んだ目元を見つめた。その瞳には、生きることへの執着が完全に潰絶した、深い闇が溜まっていた。凌庵はすぐさま背後の英助へ、低く澄んだ声で指示を出した。

 「英助! 薬篭箱を開けろ。創口の洗浄と縫合を行う。止血のための焼灼準備と、生姜と当帰の煎じ薬を立てる用意を!」

 「はいっ!!」

 英助は迷いなく重厚な薬篭箱を広げた。煮沸消毒された鋭利な外科針と絹糸、木綿の帯、そして止血の膏薬を手際よく凌庵の手元へ並べる。これが英助にとって、人の生き死にがかかった本格的な外科治療の初助手であった。武士としての血の匂いとは異なる、生命を繋ぎ止めるための独特の緊迫感に、自然と英助の額からたらりと汗が滲み落ちた。

 牢内の薄暗い燭台の灯りの下、凌庵の執刀が始まった。おゆみの手拭いを慎重に外すと、前頭部から側頭部にかけて、ザックリと割れた三寸ほどの創口から、なおも新鮮な赤黒い血液が溢れ出していた。頭蓋骨の陥没や骨折がないかを、凌庵のしなやかな指先が正確に触診していく。

 「良かったと言うべきか・・・、幸い骨折はない。だが、膜の圧迫による内出血が激しい。放置すれば遠からず血の塊が脳を押し潰す。英助、木綿で創口を強く押さえろ。針に糸を通すぞ・・・・。」

 「はっ!」

 英助の太く力強い手が、おゆみの頭部をガッチリと固定する。凌庵の指先が神技のような速さで動いた。湾曲した外科針が皮膚を貫き、絹糸がキュッと締め上げられる。一針、二針・・・血が拭い去られるにつれ、おゆみの荒しかった呼吸が、次第に途切れ途切れながらも落ち着きを取り戻していった。

 縫合の最中、鋭い針が皮膚を縫い刺し通す強烈な痛みに、昏睡していたおゆみがうめき声を上げた。ゆっくりと薄開いたその瞳は、霞んだ光の中で目の前に座す凌庵の顔を捉えた。

 「・・・ん、・・・・あぁ・・・・。あんたは?」

 「動くなおゆみさん。頭の傷を縫っている、じっとしているんだ。」

 凌庵が静かに声をかけると、おゆみの血の気の引いた唇が、嘲るように微かに歪んだ。焦点の定まらない眼光に、どろりとした自棄と怨嗟の色が交じる。

 「藪が・・・、余計な真似を・・・・しやがって・・・・。」

 「何・・・?」

 「生きてたって・・・・碌なことがねえんだよ・・・。なんで助ける・・私はもう人間じゃないんだ・・・。死なせてくれりゃあ、それで良かったのに・・・!いくら金がねえからって、医者ぶってんじゃねえよ・・・!殺しとくれよ・・・。」

 震える声で毒づくおゆみの言葉には、命を惜しむ者ではなく、生き地獄から逃げ出したい者の切痛な絶望が漲っていた。凌庵は一瞬だけ手を止め、その言葉の重みを正面から受け止めながらも、瞳に揺るぎない意志を宿して静かに言い返した。

 「死にたければ、傷が癒えた後にいくらでも考えるがいい。だが・・・、我が眼前で失われようとする命を捨てるのを、医者として見過ごすわけにはいかん。」

 凌庵は一針一針、いっそう正確に糸を締め上げていった。やがておゆみは力尽き、再び深い意識の闇へと沈んでいった。

 創口の縫合をあらかた終え、凌庵が血に染まった手を白木綿で拭っていた、まさにその時である。激しい喧嘩で着物の袖が大きく破れ、露出していたおゆみの両腕と肩口が、凌庵の鋭い眼光に留まった。

 「・・・む?」

 凌庵の動きが完全に止まった。

 おゆみの痩せこけた体には、おしまから受けたと思われる無数の新しい打撲痕や擦過傷に混ざり、数年前のものと思われる古い「虐待の痕」がいくつも刻まれていた。竹篦で叩かれた筋痕、熱湯で灼かれたような広範囲の熱傷の痕――だが、凌庵の目を何より深く惹きつけたのは、両腕に彫られた二本線の刺青であった。

 江戸の罪人に彫られる刺青は、地方や奉行所によってその形状が厳密に定められている。八丁堀の町奉行所で彫られる場合、二本の黒い筋が一定の太さと間隔で、美しく精密に彫られるのが常であった。

 しかし――おゆみの腕にある墨は、あまりにもいびつで、凶暴であった。

 「凌庵先生・・・この刺青、何か変ではありませんか?」

 横から覗き込んだ英助も、違和感を覚えて太い眉をひそめた。

 「うむ・・・・。筋の太さが左右でまるで異なり、墨の入り方にも浅いところと深すぎるところが入り混じっている。針を深く突き刺しすぎたせいか、皮下の組織が不自然に潰れ、所々に蟹足腫に なった痕があるな。」

 「あたしもそう思ってたんだよ。」

 紫煙をくゆらせながら、おけいが横から口を挟んだ。

 「あたしゃね、この牢で何十人という『お墨つき』の女を見てきた。お白洲で彫られる刺青ってのはね、お上の腕利き彫り師がやるもんだから、どんなに痛がろうが筋がピシッと通って綺麗に入るんだ。だが・・・この娘の墨はまるで、腕の悪い素人が力任せに、針で皮膚を滅茶苦茶に突っついたみたいじゃないか。」

 「素人の手による・・・、刺青だと。」

 凌庵はおゆみの細い腕をそっと持ち上げ、その荒れた皮膚の表面を指先で優しく撫でた。

 (これは刑罰として公に彫られたものではない……。誰かがおゆみを『前科者』に見せかけるために、あるいは人としての尊厳を完全に打ち砕き、社会から抹殺するために私的に彫りつけた烙印だとしたら・・・・?)

 凌庵の胸の中で、鐘が打ち鳴らされたかのような激しい衝撃が走った。おしまが吐き捨てていた 『盗人の子』『獅子身中の虫』という過酷な言葉。そしておゆみ自身の『自分はもう人間ではない』という絶望の叫び。すべての不審な線が、この不気味な「偽りの刺青」という一点へと収束していく感覚があった。

 「英助。おゆみさんの処置はこれで完了だ。薬の煎じ方を牢の番人に指示したら、お前は一度天竜堂へ戻りなさい。」

 「えっ? 先生はお戻りにならないのですか?」

 「ああ・・・・俺には、どうしても確かめなければならない場所がある。お前は一足先に帰り、彩乃殿を手伝ってやれ。難しい依頼は無理をするなよ。」

 「畏まりました、お気を付けて。」

 牢の外へと出た凌庵を待っていたのは、代々「石出帯刀いしでたてわき」の名を継ぎ、小伝馬町牢屋敷全域を統括する牢屋奉行その人であった。威風堂々たる着流し姿で立ち尽くす帯刀は、凌庵を見つけると重々しく頷き、歩み寄ってきた。

 「高柳先生。かたじけない、見事な手際であったと今報告を受けた。急な呼び出しにもかかわらず、牢内の暴動寸前の傷者をよくぞ救ってくれた。礼を言うぞ。」

 「石出様・・・。奉行自らのお出迎え、恐れ入ります。医術を修める者として当然の処置をしたまでにございます。」

 「いや、牢内の者どもは『死にたがり』が多くて困る。だが、伝馬町で無用な死人を出すことは、お上に対する預かり役としての不覚。先生の素早い見立てと縫合がなければ、あの娘は間違いなく白州に引き出される前に途中で果てていた。実に助かった。」

 帯刀は眼光を鋭くし、牢屋敷の重い格子を見つめながら低く呟いた。

 「しかし・・・あの娘、ただの殺し下手人とは思えぬ気配があるな。」

 「石出様もそうお感じになられますか。」

 「うむ。牢屋敷を守って長いが、己の命を投げ打つような目つきをする者はろくな事情を抱えておらん。何か裏に大きな渦があるならば、奉行所の手で解明されねばならんが……。先生、何かお気づきの点でも?」

 「・・・・実は、その確かめたいことがあり、これから北町奉行所へ向かうところでございます。」

 「そうか。ならば引き止めん。気をつけて行かれよ・・・。」

 石出帯刀の深く強い目送を受け、凌庵は足を急がせた。

 小伝馬町牢屋敷を後にした凌庵が向かったのは、八丁堀の北町奉行所であった。普段であれば一町医者が容易に立ち入れぬ行政の中枢であるが、将軍家奥医師の系譜を引き、奉行所からの検死や特殊な往診依頼を幾度も引き受けている凌庵には、特別に資料の閲覧が許可される立場にあった。

 「これは凌庵先生。伝馬町での治療、ご苦労様でございました」

 筆頭与力の配下である書物方の役人が、凌庵を静寂に包まれた文書庫へと案内した。薄暗い部屋には、過去数十年分のお白洲の判決や刑罰を詳細に記録した『御仕置裁許帳』が、巨大な書架に恭しく並べられている。

 「役人様、お手数ですが・・・『若い女性への刺青刑』の記録を調べさせていただきたい。」

 「若い女子への刺青刑ですかな? ふむ・・・少々お待ちを。」

 役人が重厚な和紙の帳面をめくり、指先で追っていく。一時、一時――文書庫の静寂の中で、ハタハタと紙のめくれる音だけが虚しく響いた。やがて、役人が困惑したように首をひねり、眼鏡のふちを持ち上げた。

 「凌庵先生・・・・妙ですね。過去五年どころか、過去十年間を遡っても、二十歳以下の若い娘に刺青の判決が下された記録は『一件も』存在いたしません。」

 「・・・・一件も、ですか?」

 「はい。そもそも我が公方様の御定書において、女子への刺青刑は極めて稀でございます。窃盗や盗人の片棒を担いだ者であっても、女の場合は叩きや江戸払い、あるいは野州への追放が一般的。若い娘の肌に傷を残すような過酷な判決は、よほどの凶悪犯でない限り、お上も慈悲をもって避けるのが通例にございます。」

 凌庵の目の前が、スーッと冷えていく感覚があった。

 「では・・・、あのおゆみという娘に彫られた刺青は……。」

 「奉行所の裁きによって彫られたものではない、ということになりますな。」

 「素人の手でも、出来る物ですか?」

 「見よう見まねならば、出来ない事ではありませぬ。」

 役人の言葉が、暗い文書庫の中に重く冷たく響き渡った。

 「お手数をおかけした、本日御奉行は御在宅か?」

 「はっきりとは解りかねぬが、声を掛けてみたらどうですかな?」

 「左様か、ではお言葉に甘えて。」

 書庫を後にした凌庵は、奉行所の渡り廊下を難しい顔で歩いていた。

 (やはりな・・・、私の睨んだ通りであったか)

 素人の所業で彫られた可能性がある、偽りの「刺青の刑」。もしそれで一人の女の人生が狂わされたとしたら。もしそれをやらかした人間が、この江戸の市井にのうのうと隠れているのだとしたら――。それを考えると凌庵は、胸の奥底から己の腸が段々と煮えくり返るような、激しい憤怒が湧き起こるのを感じた。

 廊下を歩く凌庵は、そのまま奉行所の奥深くへつながる渡り廊下を渡る。

 内寄合部屋の中で待っていたのは、北町奉行所の頭脳と称され、数々の難事件を裏で取り仕切る内与力の蒲生武太夫であった。

 「おう凌庵殿、珍しいのう。御奉行に用か?」

 「いいえ、蒲生様に用がな。」

 「儂にか?」

 厳格な面持ちで文机に向かっていた蒲生は、凌庵から牢屋敷での凄惨な現場の様子、偽りの刺青の鑑識結果、そして『裁許帳』における記録の不在を聞き、深くうなずいた。

 「凌庵先生。そのおゆみという娘、最初から『刺青のある前科者』として江戸の市井に放り込まれていたと言う事になる。誰が、何の目的でそのような恐ろしい仕打ちをしたのか・・・・。」

 「蒲生様。奉行所のお裁きでないとすれば、これは私刑・・・あるいは、何者かがおゆみを社会から完全に抹殺するための『工作』だ。」

 「私刑? 私事の裁きが、罷り通っていると?」

 「その疑惑があるかと。」

 凌庵が鋭く指摘したその時――ふすまが静かに滑り開き、一人の男が部屋へと入ってきた。羽織を肩に羽織り、眼光紙背を穿つような鋭くも温かな眼差しを持った男。

 ――北町奉行・遠山金四郎その人であった。

 「凌庵か。伝馬町での怪我人の治療、大儀であったな。石出殿がくれぐれもと礼を言っておったぞ。」

 「お奉行!」

 凌庵と蒲生が素早く床に平伏する。遠山は手でそれを制すると、煙管を咥えながら空いた椅子へとどっかりと腰を下ろした。

 「話は廊下で聞いていたぞ。・・・・若い娘に偽りの刺青を彫りつけ、世間の目を偽って罪人に仕立て上げるだと? フン、胸糞の悪くなるような陰湿な仕業だな・・・・。」

 「左様、もしかしたら過去におゆみが罪を犯したものかと思い・・・。」

 凌庵が言葉を添えると、遠山は深く煙を吐き出し、苦々しい表情で続けた。

 「凌庵、この金四郎がそんな不人情な判決を下すわけがなかろう。万が一、南町や他の遠国奉行が万に一つの間違いでそのような過酷な裁きを下したとすれば、老中たちの耳にも入り、場内で大激論が巻き起こっておるはずだ。頭でっかちの老中どもであっても、年若の娘に無用な傷を刻むような裁定は認めんよ。」

 「・・・・左様でございますね。奉行様のお裁きに疑いを挟んだわけではございません。ただ、あまりにもおゆみさんの背負わされた運命が不憫で・・・・。」

 「解っている。」

 遠山景元の目が、ギラリと奉行としての鋭い光を放った。

 「その『おゆみ』という娘、おしま殺しの下手人として吟味方の笠原兵馬が即決で伝馬町送りに入れたと聞く。拷問もなしに本人が自白したからと高を括っておるようだが・・・、どうやらその自白の裏には底知れぬ深い闇が隠れているようだな。」

 「あまり同輩を貶したくはありませぬが、笠原兵馬は中々に気難しく、いい評判は聞きませぬ。」

 ここで遠山は煙管をコンと灰吹きに叩き落とし、さらに表情を険しくさせた。

 「・・・凌庵よ。それからもう一つ、気になる件がある。例の富岡八幡門前で起きた『毒饅頭事件』の件だ。」

 「毒饅頭・・・・。今朝も天竜堂で長屋の幸兵衛夫婦から話を伺いました。貧乏長屋筋に辻売りで配られた饅頭に毒が仕込まれていたという・・・・。」

 「そうだ。幸いにもお前たち町医の素早い吐毒処置で死者は出なかったが、あれは単なる悪質な悪戯などではない。用いられたのは微量の砒霜……明らかに殺意をもって仕込まれたものだ。だが妙なのはその後の動きよ。我が北町が主導して毒の入手先を洗おうとした矢先、南町奉行所――いや、鳥居耀蔵の配下が割り込んできてな。『市井の妄動を煽る無用な混乱を避けるため』などと宣い、手入れを突っぱねて詮索を打ち切ろうとしておるのだ。」

 「南町が・・・事件をもみ消そうとしているのですか?」

 蒲生が眉をひそめて身を乗り出した。遠山は不快そうに鼻を鳴らす。

 「背後にどこぞの権貴か、あるいは鳥居の息がかかった大名旗本の影が見え隠れしておる。鳥居の奴め、己の権勢を強めるために上層部の不祥事を庇い立てし、貸しを作ろうという肚だろう。・・・だが凌庵、お前は医者としてどう見る? あの毒饅頭と、おしまの高札・・・一見まるで無関係に見えるこの二つの出来事だが、本当にそうか?」

 凌庵は静かに目をつむり、今朝からの出来事を頭の中で手繰り寄せた。おしまの家から漂っていた異様な薬の匂い、おゆみの腕に刻まれた偽りの刺青、そして南町奉行所の不審な介入。

 「・・・おしまは強欲な金貸しであると同時に、裏では怪しげな薬物や盗品の密売に関わっていたという噂がございます。もしも・・・その毒饅頭に使われた砒霜の流出元がおしまの周辺であったとしたら。あるいは、おゆみの背後に潜む巨大な『影』と、毒饅頭をもみ消そうとする南町の『影』が、同じ根から生えた毒花であったとしたら・・・・。」

 「ほう・・・。」

 遠山はニヤリと口元を歪めたが、その瞳は冷たく冴え渡っていた。

 「なるほど、お前もそこに行き着いたか。おしまを殺した犯人は、単に金の貸し借りで揉めたおゆみではないのかもしれん。口封じのために毒の流出元であるおしまが消され、その罪を、扱いやすい『お墨つき』のおゆみに着せようとした・・・そう考えれば、南町が手際よくおゆみを下手人として処理したがっている理由も辻褄が合う。」

 「奉行・・・、それならば!」

 蒲生が叫ぶように言葉を継いだ。

 「南の思惑通りにお白洲を開かせるわけにはまいりません!南町に事件を揉み消され、おゆみが濡れ衣で仕置されてしまえば、毒饅頭の突破口もろとも闇に葬り去られてしまいます!」

 「判っている。」

 遠山景元はゆっくりと立ち上がり、羽織の背に躍る遠山家の家紋を正した。その全身から、悪を絶対に許さぬ北町奉行としての圧倒的な威厳が溢れ出す。

 「笠原達にはそのままお白洲の準備を進めさせろ。だが、この金四郎が直接お白洲に出る。おゆみという娘の口から、そして毒饅頭の裏に隠れた曲者どもから、本当の『悲鳴』を引き出してやろうではないか。凌庵、お前はそれまでにその娘の傷を癒やし、白州でハッキリと証言ができるように喋れる体にしておけ。」

 「ハッ!謹んで、拝命いたします!」

 「うむ、頼んだぞ?もし虐げられた者がいるならば、その無念を晴らさねばならぬ。毒饅頭の闇も、おゆみの偽りの刺青も、全てお白洲の白日の下に晒してやる。尽力、よろしく頼んだぞ。」

 「お任せを・・・。」

 凌庵は深く頭を下げた。

 偽りの烙印を押され、人としての尊厳を奪われた少女・おゆみ。そして庶民の命を脅かし、権力の陰 に隠れようとする毒饅頭事件の黒幕。二つの事件が深く交錯する江戸の闇を暴くため、凌庵達の戦いは、小伝馬町の重い扉を開けることから再び始まろうとしていた。

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