三十
深川の凄惨な検死現場から一夜が明けた。八丁堀岡崎町に鎮座する町医院「天竜堂」の朝は、江戸の町の目覚めよりもはるかに早い。
朝靄がまだ路地に薄く残留し、朝焼けのやわらかな茜色が格子の間から差し込む頃には、凌庵と彩乃、そして弟子の宮永英助の三人は早々に質素な朝餉を済ませていた。麦飯に根菜の味噌汁、香の物という慎ましい食卓であったが、元武士の英助にとっては、命のやり取りに神経をすり減らしていた嘗ての屋敷での食事より、遥かに腹を満たし心に温かいものが染み渡る時間に思えた。
「ごちそうさまでした。お膳のお下げは私がいたします!」
箸を置くや否や、英助が大きな体を折り曲げるようにして素早く立ち上がる。
「あらあら英助さん、そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。お椀を洗うくらいは私が・・・。」
「いいえ! 彩乃先生、私はまだまだ医術も薬道も足元に及びませぬ。せめてこうした雑用くらいは、身を粉にして励まねば示しがつきませぬ!」
太い眉をキリリと下げ、大真面目な顔で腕捲りをする英助に、彩乃は思わずふっと吹き出した。
「もう、相変わらず真面目ですねえ。では、お言葉に甘えてお任せしますね。その代わり、お皿を割らないように気をつけてくださいね? 英助さんの力で握り締められたら、瀬戸物などひとたまりもありませんから。」
「うっ・・・、努力いたします!」
英助が慎重な手つきで膳を下げ、井戸端へと向かう。その背中を見送りながら、文机で診察の準備を整えていた高柳凌庵が、羽織の袖を整えながら温かな笑みを漏らした。
「ふふ、英助が入ってくれてからというもの、天竜堂も随分と賑やかになったな。」
「ええ。最初は元武士と伺って、どれほど堅苦しいお方かと身構えておりましたけれど、根がとても純粋で懸命な方ですね。私などにも素直に頭を下げてくださいますし。」
「うむ。剣を握っていた腕で薬匙を握るのだ、最初は戸惑いも大きかろう。だがあ奴の吸収の早さは大したものだ。根底に『人を救いたい』という強い想いがあるからこそだろうな。親子二代の因縁も果たし、吹っ切れた様だしな。」
「そうですね。」
凌庵がそう呟き終わるか終わらないかのうちに、天竜堂の格子戸の外から、ガタゴトと賑やかな足音と話し声が聞こえ始めた。
「凌庵先生!おはようさんでございます!」
「先生、今朝はうちの爺さんの膝を診てもらいたくってねぇ!」
待ちわびていた患者たちが、暖簾が上がるや否や怒涛のように押し寄せてきたのである。八丁堀の庶民にとって天竜堂は単なる医院ではなく、生活の苦しみを和らげ、温かな言葉をかけてもらえる安らぎの場所であった。
「おはようございます。どうぞ中へお入りください、順番に拝見しますからね。」
彩乃が穏やかな声をかけると、狭い待合の畳はあっという間に近所のおかみさんや老夫婦、大工の棟梁たちで埋め尽くされた。
「凌庵先生、また例の腰の痛みがでてきましてねぇ。夜もロクに寝られねえんだ。」
最初に診察台へ座ったのは、近所で表具屋を営む老爺であった。痛む腰を庇うようにして、顔を顰めている。
「どれ、拝見しようか。」
凌庵は老爺の背後に回り込み、しなやかで温かい指先で腰の骨に沿って丁寧に触診していった。
「ふぅむ、少し冷えが溜まっているな。昨晩は夜風に当たったかね?お灸をすえて、温めのお湯にゆっくり浸かりなさい。今朝は筋を解す膏薬を貼っておこう。」
「有難うございます・・・、それで済まないが先生。今月はちと商売が厳しくて、薬礼のほうが少し滞っちまうんだが・・・・。」
老爺の患者が申し訳なさそうに頭を下げかけると、凌庵はその肩を優しく叩いて言葉を遮った。
「皆まで言うな、薬礼の事は心配致さずとも良い。まずはその痛みを引き取ることが先決だ。体が動かなければ商売もできまい。銭など、商いが上手くいった時に払ってくれればそれで良いのだよ。」
「先生・・・!いつもいつも、本当にすみません・・・!」
手際よく患者の脈を診て、温かな言葉をかける凌庵。その卓越した医術もさることながら、相手の懐事情まで察して安心させる器の大きさに、周りの患者たちからも「さすがは凌庵先生だ」と感嘆の吐息が漏れる。
そのすぐ横の調剤場では、薬箪笥の前に立った英助が真剣な眼差しで薬匙を握り締めていた。そのお隣には、分厚い医学書を開いた彩乃が立ち、厳しい目とおだやかな声でおさらいをさせている。
「英助さん、甘草と桂皮の割合は覚味のとおりですね? 今回は喘息の薬ですから、煎じやすいよう当帰は刻みを細かくしてくださいね。」
「はいっ! 甘草が二匁、桂皮が一匁五分・・・当帰の刻み、承知いたしました!」
嘗ては手首に無駄な力が入り、薬研の鉄鉢を力任せに叩きつけては、貴重な黄連の粉をまき散らしていた英助だったが、この数日で目覚ましい上達を見せていた。武士特有の筋道の通った記憶力で薬草の効能を暗記し、今や手の力加減も覚え始めていた。滑らかに薬研の車輪をゴゴゴと転がし、均一に挽かれた薬粉を、寸分の狂いもなく薬紙へ手際よく包んでいく。
「ふふ、慣れてきましたね英助さん。もう私がお手伝いしなくても、基本的な調合は完璧ですね。」
包み終えた薬を手のひらに載せ、細かく検分した彩乃が心底嬉しそうに目を細めて微笑んだ。朝の光を受けて輝くその華やかな笑顔に、英助は少し照れくさそうに太い眉を下げ、大きな頭をぽりぽりと掻いた。
「いえいえ、彩乃先生の教え方がお上手なればこそです。私のような武骨者がこうして薬を扱えるようになったのも、全て彩乃先生のおかげで・・・。でもまだまだ、彩乃先生の教えが無ければ、私は途方に暮れてしまいます!」
「もう、英助さんったら・・・。」
彩乃はくすりと可憐に笑うと、ふと表情を引き締め、少し真顔になって英助の顔をまっすぐに見つめた。
「前々から申し上げようと思っていたのですけれど・・・その『彩乃先生』というのは、そろそろ止めていただけませんか?私も凌庵先生の弟子には違いありませんし、如何に私の方が先に此処へいるからと言って、先生呼びはくすぐったいです。」
「えっ・・・ですが、私にとっては医術の大先輩でありますし・・・。私の方が年も下ですし、元はただの素浪人。医道においては彩乃先生が師匠も同然でございます。」
「ならばなお更駄目です。これは先輩からの言いつけです。・・・これからは『彩乃さん』と呼んでくださいな。」
そう言って、彩乃は首をちょこんと傾げ悪戯っぽく微笑んで見せた。文机で次の患者のための処方箋をさらさらと認めていた凌庵が、筆の手をふっと止めて二人を振り返り、優しく目を細めた。
「ふふ、いいではないか英助。彩乃殿の言う通りだ。彩乃殿はお前にとって良い『姉弟子』であり、頼もしい弟分ができたということだな。」
「せ、先生まで・・・!私の様な半人前が弟分だなんて、私はそんな出しゃばった真似を・・・・。」
英助が狼狽えて顔を赤くすると、彩乃は「ほらご覧なさい」と言わんばかりに身を乗り出した。
「いいえ、凌庵先生の仰る通りです!ほらほら、英助さん、言ってみてくださいな。『彩乃さん』と。」
目の前まで近づいてきた彩乃の可憐な瞳に射抜かれ、英助は顔を耳の根まで真っ赤に染め上げ、視線を泳がせながら蚊の鳴くような声で呟いた。
「は、はい・・・あ、彩乃・・・さん。」
「はい、大変よくできました!」
満足そうにパッと表情を華やがせ、胸を張る彩乃。その微笑ましいやり取りに、調剤場のみならず、待合で診察を待っていた患者たちからも温かな笑いがこぼれ出し、天竜堂は一瞬にして和やかな空気に包まれたのだった。
そんな和気藹々とした空気の中、定期的な診察を終えた近所の長屋の大家・幸兵衛と、その妻のお豊が調剤場の前で足を止めた。お豊が幸兵衛の薬を受け取り、お灸の跡を摩りながら、声をひそめて凌庵たちに語りかけてくる。
「それにしても凌庵先生、聞きましたかい? あの深川の悪婆・おしまが殺されたって話。」
「ああ、検死は俺が引き受けたからな。」
凌庵が静かに頷くと、お豊は「やっぱり!」と手を叩いた。
「やっぱりねぇ!いやさ、長屋じゅうでもうその話でもちきりですよ。あんな酷い取り立てをしてたんだ、バチが当たったんだよ。病人の布団は剥ぎ取るわ、子供の可愛がってる猫を叩き売るわ・・・あんな悪党、死んで当然だってね。・・・ただねぇ、下手人として捕まったのが、あのおゆみちゃんだって聞いて、あたしゃ胸が痛くてねぇ。」
お豊が深々と溜め息をつき、着物の裾で目元を拭う仕草をした。英助が調剤の手を止め、思わず身を乗り出した。
「お豊さん、おゆみ殿のことをご存じなのですか?」
「ああ、知ってるともさ。一、二年程前かいねぇ、あの娘さん着るものもボロボロで、飢え死に寸前で八丁堀の街頭に倒れてたんだよ。それをおしまのババアが拾っていったんだ。最初は『あのおしまが、珍しく情け深いこともあるもんだ』なんて感心したんだが・・・何のことはない、タダ働きの下女としてこき使うためだったのさ。」
幸兵衛も苦い顔でキセルを咥え直し、吐き出した煙の向こうから言葉を足す。
「おしまのやつ、おゆみちゃんを人間扱いしてなかったからな。『おい、盗人の子!』だの『この獅子身中の虫の子め!』だの、ひどい罵詈雑言を日常茶飯事に浴びせてやがった。おゆみちゃんも最初は大人しく耐えてたんだが・・・、とうとう溜まりに溜まった不満が爆発したんだな。」
「『盗人の子』・・・、『獅子身中の虫の子』とな?」
凌庵の瞳の奥が、鋭い光を帯びた。昨日、小伝馬町の番屋でおゆみが放っていた自暴自棄な言葉、 そしてあの腕に刻まれた不自然な刺青――それが脳裏をよぎる。
「幸兵衛殿。おゆみさんはおしまに拾われる前、どこで何をしていた娘なのか、何かご知存ではありませんか?」
「いやあ・・・そこまでは解らねえんだよ、先生。どこから流れてきたのかも、親が誰なのかも一切喋らねえ娘でね。ただ・・・・『お墨つき』の刺青があったろう? だから余計に誰も深入りしなかったんだ。」
「そうでしたか・・・・。」
凌庵は静かにうなずいたが、胸の中の疑問は膨らむ一方であった。
(ただの下女に対して『獅子身中の虫』という言葉を使うか? 獅子身中の虫とは、内部にいながら組織や身内を滅ぼす者のこと。おしまは単におゆみを蔑んでいたのではなく・・・・おゆみの『正体』や『親の素性』を知った上で、手元に置いて監視していたのではないか・・・・?)
思索にふける凌庵の横で、幸兵衛がお憐れみ半分に呟く。
「しかし、御上もひどい事をするよ・・・。あんな年若の娘に墨を彫るなんてなぁ・・・。いくら罪を犯したとはいえ、嫁入り前の娘だ。少しは御慈悲があっても良いだろうに。」
「まあ、南の蝮とその配下ならやりかねねえだろうさ。」
お豊が忌々しそうに吐き捨てる。「南の蝮」とは、南町奉行所で酷使と過苛な取り調べで恐れられている鳥居耀蔵と、その配下である吟味方役人の俗称であった。
「それにしてもさぁ先生、世の中おそろしい事件ばかりで嫌になっちまうよ。深川の殺しもそうだが・・・・例の『毒饅頭』の件だって、まだ解決したわけじゃねえんだろう?」
お豊が思い出したように首をすくめ、声をさらに一段低くした。幸兵衛も顔を曇らせ、周囲を気にするように視線を泳がせる。
「ああ、あの富岡八幡の門前で評判だった和菓子屋の件かい・・・。辻売りで配られた饅頭を食べた一家が、揃って血を吐いて倒れたっていうあの大騒動な。」
「そうそう!深川でもあったよ、貧乏長屋の住人に『お初もののお裾分けだ』なんて言って配って回ったってんだからタチが悪い。幸い命に別条はなかったって聞くが、噂じゃあ、何でも御偉方が絡んでいるらしく、お上がお裁きをうやむやに揉み消そうとしてるって話じゃないか。毒を盛った黒幕にはどこぞの旗本だか大名だかの影がついていて、南のお奉行様が手出しさせないように突っぱねたとか何とか・・・・。」
その言葉を聞いた瞬間、英助の眉間にしわが寄った。薬研を回す手がぴたりと止まる。
「・・・・毒饅頭の事件。噂には聞いておりましたが、被害が出たにもかかわらず、裏で不審なもみ消し工作がなされているというのは誠ですか。」
「おや、英助さん知らなかったかい? 八丁堀じゃあもう隠しようもない噂さ。南町の吟味方が早々に『悪質な悪戯』として処理しようとして、事件の詮索を打ち切っちまったのよ。あそこは昔から、大名旗本の不祥事には妙に腰が引けるかと思えば、市井の貧乏人には容赦なく罪をかぶせるからねぇ。」
お豊が憤りを隠さずに吐き捨てると、凌庵は静かに目を閉じ、深く息を吐き出した。
毒饅頭事件は、この八丁堀界隈や本所深川にまで噂が響き渡っていた。数日前、深川から八丁堀にかけての庶民を震撼させた無差別な毒殺未遂騒動が起こったばかりだった。
何者かが名ある和菓子屋の印を騙った饅頭に、微量の砒霜を仕込み、路地裏の長屋筋へ言葉巧みに配り歩いたのだ。幸いにも凌庵ら町医の迅速な吐毒処置により死者は出なかったが、事件の背景には明確な悪意と、何か大きな権力の介入が透けて見えていた。
(富岡八幡門前の毒饅頭と、深川の強欲な金貸し・おしまの刺殺・・・一見すると何の関わりもない二つの事件。だが、南町奉行所の不可解な動き、鳥居耀蔵の影、そして『お墨』を彫られた謎多き娘おゆみ・・・。江戸の闇の底で、何かが蠢いている・・・・。)
凌庵の胸中に、重い嫌な予感がじわりと広がっていく。
「兎に角、墨を彫られてあれだけ悪名が立ったら、普通の暮らしは送れねえだろうなァ。世間は冷たいもんさ。先生も毒にはお気をつけておくれよ。」
そう言い残し、幸兵衛夫婦は薬を大切に懐へ収めると、重い足取りで天竜堂を後にした。
幸兵衛夫婦が立ち去り、凌庵が深い思索の海に沈もうとしたまさにその時――。
「ごめんあそばせーっ!!凌庵先生ー!!」
まるで暴風でも吹き込んできたかのように、勢いよく格子戸が開け放たれた。薄桃色の小紋に鮮やかな紅色の帯を締め、髪を粋な町娘風に結い上げた若い女性が、パタパタと高下駄の音を響かせて飛び込んできた。天竜堂が借りているこの敷地と建物の大家・近藤家の妻女である美咲であった。
父の近藤清左衛門は北町奉行所の筆頭与力、兄の新太郎もまた与力として多数の同心を指揮する立場にあるという、八丁堀でも屈指の名家の出である。しかし本人はといえば、お堅い武家屋敷の暮らしなどそっちのけで、「江戸一番の瓦版屋になりたい」と本気で夢見ている、とんでもないお転婆で好奇心の塊のようなお嬢様であった。
「聞きましたわよぉ!深川のおしま殺しの件! 先生が検死に行かれたのでしょう!? 一体どんな死に様でしたの!? 下手人の『りゃんこのおすみ』という娘は、本当に噂通りの恐ろしい悪女なんですの!?」
一息にまくし立て、目を爛々と輝かせて凌庵の文机へ身を乗り出す美咲。 その瞬間、横からすっと影が差し込み、彩乃が間一髪のところで美咲の前に立ちはだかった。
「美咲様!お静かに願います!ここは病人が集まる医院ですのですよ。それに、与力のお嬢様ともあろうお方が、そのような不体裁な野次馬根性で差し出口を挟むのはお控えください!」
彩乃が腕組みをし、凛とした声で注意する。だが美咲もさるもの、負けじと胸を張り、唇を尖らせて言い返した。
「まあ!不体裁とは何ですの、彩乃さん!私はこう見えても天竜堂の『大家』の娘ですのよ?大家と言えば親も同然!店子の周りで起きた事件を気にかけるのは、大家として当然の務めではありませんか!」
「お言葉ですが美咲様、大家の権限をそのような瓦版のネタ探しに乱用なさらないでください!それに大家大家と言いますが、美咲様自身は大家ではなく、大家の若奥様でしょう!?」
「まあ、何と言う言い方!決して乱用ではありませんわ!これは江戸の治安を守る為です! 延いては父上や兄上の為になるのです!」
バチバチバチ!と目に見えるような火花が二人の間で弾け飛ぶ。 奥医師の令嬢として気品と規律を重んじる彩乃と、与力の娘でありながら自由奔放を絵に描いたような美咲。同世代で共に譲らぬ芯の強さを持つ二人は、顔を合わせれば必ずこうして軽快かつ激烈な口喧嘩を始めてしまうのだ。
その猛烈な火花の真ん中に挟まれた英助は、目を白黒させながらオロオロと大きな手を右往左往させていた。
「あ、あの、お二人とも・・・患者様が見ておられますから・・・・もう少しお声を落とされた方が・・・・。」
必死に仲裁に入ろうとした英助に対し、彩乃と美咲はピタリと息を合わせて振り向くと、「おだまりっ!!」と同時に怒鳴り声をあげた。
「ぐはっ!?」
二人の見事すぎる一斉射撃を喰らい、英助はまるで目潰しでも喰らったかのようにガクリと首を垂れ、ぐっと押し黙ってしまった。哀れな弟子に助け船を出すべく、凌庵が静かに筆を置き、二人に向かって穏やかだが威厳のある声をかけた。
「二人共、近所迷惑だぞ。静かにしなさい。」
師匠である凌庵に直接諭され、ぐぬぬと言い澄ました美咲は、頬っぺたをぷくーっと丸く膨らませると、ぷいと顔を背けて凌庵を睨みつけた。
「凌庵先生! 先生も将来、奥様をお選びになるときは、こういうキーキーおさるみたいにうるさい女子を選んだら大変なことになりますわよ!?」
「なっ!美咲様、それはどういう意味ですの!?」
「あらぁ? 貴女の事じゃなくってよ?」
顔を真っ赤にして抗議する彩乃と、扇子で口元を隠して勝ち誇った顔をする美咲。 片方は将軍家奥医師の令嬢、片方は北町筆頭与力の娘。どちらも引くことを知らぬ良家のお嬢様方に、凌庵は苦笑いを浮かべ、「困ったお嬢さん方だ」と肩をすくめるばかりであった。
「いい加減にしなさい、久栄様に怒られますよ?」
凌庵がさらりと美咲の母親の名を口にした瞬間、美咲の顔色が瞬時に青ざめた。美咲の母・久栄は厳格な伝統を重んじる人物であり、美咲が瓦版屋ごっこをして町を連れ回っていることがバレれば、 どんなひどい目に合わされるか解らない。
「うっ・・、意地悪な先生・・・・。折角先生が知りたいだろう話を持って来てあげたのに。もう教えてあげません!」
不貞腐れてそっぽを向く美咲。凌庵はくすりと笑いながら尋ねた。
「何だ? 何かあったのか?」
焦らされた美咲は、待ってましたと言わんばかりにふっふっふと鼻を鳴らし、再び勝ち誇った顔を浮かべて話し始めた。
「あのおゆみと言う娘さん、伝馬町送りとなったそうですよ。拷問にかけるまでも無く、自分の口から素直に人殺しを認めるから、トントン拍子で決まったと吟味方の神山様が仰っていましたわ。」
「そうか・・・。殺しがもしも事実ならば、正しき処置だな」
凌庵が静かに答えると、美咲は目ざとくその言葉の裏を感じ取り、目をキラキラと輝かせて再び凌庵に迫った。
「『事実ならば』と言うと・・・何か疑わしい事があるのですか、先生!? それに、あの毒饅頭の事件だって、お父様方の北町奉行所と南町奉行所で取調べの主導権争いが起きているんでしょう?おしまの件と毒饅頭の件、何か裏で繋がっているんじゃありませんの!?」
美咲の鋭い勘に、凌庵は驚きを隠しつつも言葉を濁した。美咲の好奇心が爆発し、再び天竜堂の空気が混沌に包まれようとしたまさにその時――。
「頼もう!!高柳凌庵先生はおられるか!」
ドタバタという激しい足音とともに、奉行所の役人に付き添われた伝馬町牢屋敷の同心が、額に汗を滝のように浮かべて天竜堂へ駆け込んできた。
「これは、牢屋敷の役人様。いかがされました?」
凌庵が素早く表情を引き締め、立ち上がって応対する。同心は息を切らし、膝に手を当てながら緊迫した面持ちで告げた。
「急ぎ往診を頼みたい!昨日収監されたあのおゆみという女囚だが……牢内で他の女囚どもと大立ち回りの喧嘩を起こし、頭部に大怪我を負って意識不明となった!」
「何だと・・・・!?」
「それは誠ですか!?」
英助と凌庵が同時に息をのむ。
「左様、これからお白洲で本格的な取調べを行わねばならんというのに、今死なれては奉行所の面目が潰れる! 凌庵先生、至急伝馬町まで来てあの女の命を繋ぎ止めてくれ!」
「・・・承知いたしました。」
凌庵は一瞬の躊躇もなく深くうなずくと、文机の横にあった重厚な薬篭箱を引き寄せた。
「英助!道具を持て、伝馬町へ走るぞ!」
「はいっ!!」
英助は素早く薬篭箱を背負い、凌庵の後を追って脱兎のごとく走り出そうとした。 その時、待っていましたと言わんばかりに、美咲もその後を追おうと身を乗り出す。
「まあ!伝馬町牢屋敷ですって!? では私も一緒に行きますわ!」
目を輝かせた美咲が、着物の裾を豪快にまくり上げて躍り出た。 だが、その襟首を、彩乃が間一髪のところでガシッと掴み取る。
「行かせるわけがありませんでしょう!!美咲様はここでおとなしくお留守番です!」
「きゃっ!?ちょっと彩乃さん、離しなさいなー!大家の権限で命令しますわー!」
「駄目なものは駄目ですっ!!足手まといになるだけです!! 大家と言うなら、天竜堂の手伝いをしてくださいッ!」
「手伝いですって!?私は大家であって、お給仕ではありませんわー!」
きゃーきゃーと暴れ回る美咲を、彩乃が必死の形相で羽交い絞めにして引き留める。
「診療所の事は頼んだぞ、彩乃殿!」
「はいっ!お気をつけて、先生!英助さん!」
「よろしく頼みます!!」
そんな天竜堂の賑やかすぎる大騒ぎと押し問答を背に受けながら、凌庵と英助は格子戸を飛び出した。朝の澄んだ空気を切り裂き、二人は陰謀と血の匂いが重く渦巻く小伝馬町牢屋敷を目指し、江戸の街並みを疾風のごとく駆け抜けていくのであった。




