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二十九

 「冷えるねぇ・・・。」

 一人の夜鷹が、冷たい夜風が吹きすさぶ江戸の闇道を歩いていた。 五月の末。初夏の湿気を含んだ夜気が漂う本所・吉原土手の溜まり場近く。表通りの華やかさとは裏腹に、一歩河岸通りへ足を踏み入れれば、ぬらりと湿った漆黒の闇が支配している。行灯の灯りも届かぬ暗がりの稲荷祠の前に、その「死神の贈り物」は無造作に置かれていた。

 竹の皮に包まれた、一見するとどこにでもある白皮の腰高饅頭。 皮はほんのり甘く香ばしく蒸し上げられ、竹皮を開いた者の食欲をそそる豊かな香りを漂わせている。

 「おや・・・こんな所に、饅頭が落ちてるじゃないか。」

 がさがさとした着物を纏い、塗りの剥げた笠を深々とかぶった夜鷹のおかねは、力なく足を止めた。今日はお客がつかず、昼から水一杯しか口にしていない。腹を空かせ、背中にくっつくような激痛に耐えていたおかねにとって、暗がりに転がる竹皮の包みは、まるで神仏が与えてくれた恵みのように見えた。

 「ありがたいねえ・・・、お天道様のお恵みだ。」

 おかねは汚れた手でかき抱くように饅頭を拾い上げると、ろくに泥を払うこともせず、むさぼるように大きくかじりついた。 口いっぱいに広がる餡の甘み。久しく味わっていなかった上等の甘味に、おかねの頬がふっと緩んだ――まさに、その一瞬後のこと。

 「ッ・・・!?ぐっ・・・あ、あぁぁッ!?」

 突然、腹の底を真っ赤に熾した鉄棒で抉り刺されたかのような、苛烈な激痛が直撃した。 手から残りの饅頭がぼろりとこぼれ落ちる。喉の奥からヒューヒューと悲鳴にならない掠れ声が漏れ、おかねは両手で己の喉と腹を掻きむしりながら、湿ったドブ板の上に転がり倒れた。

 「ガハッ・・・!か、体が・・・・熱い・・・助け・・・・ッ!」

 全身の血液が沸騰したかのような激痛に、体は海老のように大きく反り返る。目の裏が真っ赤に染まり、口からはダラダラと泡立つ黒赤色の血が吐き出された。粘膜が焼け焦げる苦痛の中、爪が剥がれ落ちるほど激しく地面の土を掻きむしる。

 やがて白目を剥いたおかねの瞳から光が失われ、痙攣していた足がピクンと大きく一度跳ね上がると、そのままピタリと動きを止めた。

 稲荷の鳥居にもたれかかるようにして、息絶えた夜鷹。舌を突き出し、顔面を土気色に変色させた異様な死体が、薄暗い辻の真ん中にぽつんと取り残されていた。

 「足元を照らせ。もっと近くへ寄せい。」

 松明の火をかざさせて屍の顔を覗き込んだのは、北町奉行所臨時廻り同心の山村半兵衛であった。半兵衛は苦々しい表情で鼻を覆い、傍らに控える定廻り同心の堀本伊三郎(ほりもといさぶろう)を見やった。堀本は不快そうに眉をひそめ、懐紙で口元を覆いながら扇子で異臭を煽ぎ払う。

 「山村さん、これは間違いございませんな。」

 「うむ。ここ数日、市中で噂されていた『毒饅頭』だ。最初は辻の野良犬や野良猫が倒れたと聞いたが・・・昨日あたりからは乞食や夜鷹の類まで、無造作に置かれた甘味を食うて死んでいる。これで人死には四人目だ。」

 「まったく、胸糞の悪い仕業でございますな。辻の物乞いや夜鷹など、腹をすかせた弱者を狙い撃ちにするとは。いったい誰が、何の目的で・・・。」

 堀本はそう吐き捨てながらも、どこか他人事のような冷めた視線を屍体に送っていた。事なかれ主義で知られる堀本にとって、身元の知れぬ夜鷹の一人や二人死んだところで、己の勤めに傷がつかなければそれで良いというのが本音であった。

 「だが堀本さん、これはただの狂人の辻斬りとはわけが違うぞ。手口が実に巧妙だ。紙包みに包んだ美味そうな饅頭を、人通りの途絶えた夜道や辻堂の縁側にさりげなく置いていく。空腹に耐えかねた者が手を伸ばすのを、暗がりから高笑いして眺めている奴がいるのだ。」

 半兵衛は固く拳を握りしめ、地面に転がる毒饅頭を睨みつけた。 死因はおそらくヒ素か、あるいは阿片などの劇薬。一口口にしただけで五臓六腑を灼き爛ねる猛毒が、初夏を迎えた賑やかな江戸の町に、静かに、しかし確実に死の影を落としていた。

 あくる朝、北町奉行所・御用部屋は、朝から蜂の巣をつついたような騒然とした熱気に包まれていた。

 「八丁堀の面目は丸潰れだ!江戸市中で毒入りの菓子がバラ撒かれ、町民が死んでいるというのに、未だ下手人の影すら掴めんとはどういうことだ!」

 内与力である蒲生武太夫の怒号が、重厚な鴨居を震わせる。吟味方や定廻りの同心たちが勢揃いし、机の上に並べられた報告書を前に血走った目を走らせていた。

 「お言葉ですが、相手は姿を見せぬ死神・・・。市中の菓子屋を片っ端から洗っておりますが、毒物の購入経路も特定できず、被害者の接点もまったく存在いたしません」

 そう弁明するのは、吟味方与力の笠原兵馬(かさはらひょうま)であった。兵馬は苛立ちを隠さず、手元の書類をバシバシと叩いた。

 「言い訳など聞きとうない!老中様方の耳に入れば、我が北町奉行所の失態とみなされるのだぞ!」

 与力と同心たちが不毛な押し問答を繰り広げる中、お上段のふすまが静かに滑り開き、一人の男が姿を現した。 北町奉行・遠山金四郎景元である。

 「皆のもの、静粛に。」

 金四郎の重々しくも澄んだ一言が響くと、一瞬にして御用部屋の怒号が立ち消え、役人たちが一斉に平伏した。金四郎は着物の裾を払い、空いた椅子へとどっかりと腰を下ろすと、咥えた煙管から紫煙をくゆらせた。その眼光は、普段の洒脱な男のそれではなく、江戸三千町を守護する奉行としての鋭い光を宿している。

 「半さん、昨夜の四谷の夜鷹の検死結果はどうなった」

 「はっ・・・。やはり、胃の腑から強いヒ素の反応が出たとのこと。毒の配合が極めて濃く、口にしてから刻を置かずに絶命した模様にございます。」

 「ふむ・・・。犬猫に始まり、ついには人間までか。胸糞の悪い真似をしやがる。」

 金四郎は紫煙を深く吐き出し、苦々しい表情で眉間を寄せる。

 「いいか、これは単なる物好きな狂者の仕業にあらず。これほど大量の劇薬を手に入れ、町中に漏れなく撒くには、相応の財力と組織、そしてなにより『試毒』を繰り返す明確な意図を感じる。」

 「意図・・・、でございますか?」

 兵馬が怪しむように尋ねると、金四郎は静かに頷いた。

 「何者かが、この毒の効き目や致死量を『試して』いるのだ。・・・本命の誰かを、確実に殺すためにな。」

 その言葉の重みに、御用部屋の空気は一瞬にして凍りついた。

 「御奉行、ではいかがなさいますか。我が北町だけの手では、市中の探索に限界がございます。」

半兵衛の問いに対し、金四郎は煙管の灰をトントンとコンロに叩き落とすと、力強く言い放った。

 「南町奉行所へ使者を立てよ。・・・鳥居の爺さんにも、協力を仰ぐのだ。」

 「南町と!?普段は縄張り争いで犬猿の仲の南町と手を組むなど・・・。」

 「面目などどうでもいいっ!」

 金四郎の一括に、兵馬は息を飲んで平伏した。

 「市井の罪もなき町民が、辻の饅頭一つで命を落としておるのだぞ。南も北も関係あるか!奉行所の垣根を払い、全力を挙げてこの毒殺魔を追いつめるのだ!左様心得い!」

 「ははっ!!」

役人たちの腹の底からの返答が、御用部屋に響き渡った。南北合同の執念の捜査線が、今まさに江戸の街に敷かれようとしていた。

 しかし――この毒殺劇の裏に潜む恐るべき暗雲と、己の運命を狂わされていくひとりの少女の悲劇を、この時の役人たちはまだ知る由もなかった。

                   ◇◆◇

 「英助さん、そうじゃありません! そんな力任せじゃ、混ざる物も混ざりません!」

 八丁堀岡崎町にある町医院「天竜堂」の調剤場は、いつにも増して賑やかであった。朝の澄んだ陽光が格子窓から差し込むなか、威勢のいい甲高い声と、それに平身低頭する男の太い声が交互に響き渡っている。

 「薬研の車輪は、腕の力で叩きつけるのではなく、手首を滑らかに転がして粉を挽くように擦り潰すのです!」

 「も、申し訳ございません! 彩乃先生っ!!」

 舟形の鉄鉢に向かい、額に大粒の汗を浮かべて必死に車輪をゴロゴロと転がしているのは、見習い医者である宮永英助だ。かつて三十俵二人扶持の禄を食み、剣を握る武士であったが、ある事件をきっかけに己の限界を知り、二本差しを捨てて凌庵の弟子となり、医師の道を歩み始めたばかりの青年である。

 「書物で学んだ知識は確かですし、薬草の効能を暗記するお頭の良さは大したものなんですけれど・・・いかんせん、手先が不器用すぎます!」

 腕組みをした彩乃が、呆れたように、けれどどこか慈しむような溜め息をつく。将軍家の脈を診る奥法印医師の御令嬢であり、凌庵の助手として長年薬を扱い続けてきた彩乃は、 英助にとって厳しい指導係であり、頼れる「先輩」であった。

 「うう、お恥ずかしい限りです・・・。頭では分かっているつもりなのですが、いざこの鉄の車輪を握ると、どうにも腕の筋に力が入りすぎてしまい・・・。」

 知識は持ち合わせていても、いざ実践となるとまるで身体が伴わない。申し訳なさそうに太い眉をハの字に下げ、手ぬぐいで滝のような汗を拭う英助。元武士という身分を笠に着ることもなく、年下の彩乃に対しても素直に教えを請うその姿勢は、近所の患者や出入りの商人たちからもすこぶる評判が良かった。

 「二本差しを捨てて医者になる覚悟を決めましたが、やはり私には、この繊細な薬道は向いていなかったのでしょうか・・・。」

 しょぼんと大きな肩を落とす英助を、奥の文机から凌庵が優しく諭すように声をかけた。

 「英助、最初から上手くいく者などおらぬ。俺だって昔は苦労した。死んだ祖父や、彩乃殿の御父上に懸命に仕込んでいただいて今がある。」

 「はあ・・・。」

 「彩乃殿だって昔、干した蜥蜴の薬種を見て、腰を抜かして悲鳴を上げていたぞ。」

 「せ、先生っ!昔の話です!私の立場はどうなるのですか!」

 笑いながら昔話を暴露する凌庵に、ぽっと頬を朱に染めて抗議する彩乃。凌庵は苦笑しながら手を振った。

 「まあまあ。誰でも最初は不慣れだということだ。人に教えるということは、自分自身を学び直すきっかけにもなる。根気よく教えてやってくれ。」

 「ですが凌庵先生、英助さんは力任せに薬研を引くものですから、貴重な黄連の粉が半分ほど外に飛び散っておりますのよ? 薬種問屋でも黄連は高値なのですから。」

 「そうか・・・、それはちと勿体ないのう」

 「もしなんでしたら、私のこれからの飯代から引いていただければ・・・。」

 「まあ、それなら英助さんは今月にでも飢え死にしてしまいますね」

 「それはご勘弁を・・・。」

 冗談交じりに彩乃もふっと笑みを浮かべる。まだまだひよっこには違いないが、このまっすぐな根性があれば、いずれ良い医者になると凌庵も彩乃も確信していた。

 そんな穏やかな八丁堀の朝が破られたのは、まさにその直後のことだった。

 「おーい、兄貴ぃ!! いるかぁ!!」

 勢いよく格子戸が開かれ、息を切らせて飛び込んで来たのは御用聞きの江戸屋仁吉だった。凌庵にとっては、十手を持っていた頃からの義兄弟も同然の間柄である。

 「どうした仁吉、そんなに慌てて。」

 凌庵が静かに立ち上がる。仁吉は荒い息を整えながら、周りをはばかるように声を潜めて告げた。

 「死骸だ。死骸の検分を頼みてえんだよ。」

 「誰だ?」

 「深川の表長屋で、あの高利貸しの『おしま』が死んでやがるのが見つかった」

 「ほお、あのおしまがな。」

 凌庵も彩乃も、新米の英助ですら、特段の驚きは見せなかった。それは、おしまという女の普段の 極悪非道な行状を知っていたからだ。 おしまは亡き夫が遺した質屋を営む傍ら、恐ろしい高利貸しを生業としていた。その取り立ては熾烈を極め、病で死にかけている病床の者の布団を容赦なく引っ剥がし、食べるものまで取り上げて「あったかい布団で寝て、美味いもの食いたけりゃ金を払え」と言い放つ悪婆であった。天竜堂の患者の中にも、おしまの脅迫的な取り立てに追い詰められ、心を病んだ者が何人もいたのだ。

 「下手人を探すのは大変だろう。あのババアを恨む者など、江戸に星の数ほどいる。」

 「いや、それがな。下手人はもう捕まってるんだよ。」

 「何?」

 「おしまの下女をやってた『おゆみ』って若い女さ。常日頃からおしまに下僕のように扱われてたからな、我慢の限界が来て、カッとなってやったってところだろうさ。」

 「下手人が捕まっているなら、町奉行所に引き渡せば済む話では?」

 英助が首をかしげると、仁吉は顔をしかめた。

 「いくら一目瞭然の死骸であっても、検死を疎かにして後からお上に突っ込まれちゃ敵わねえってことでな。奉行所に送る前に、念のため凌庵先生に死骸を改めてもらえねえかって話になったんだよ。御奉行の御指図だ。」

 「そうか。では参ろう。」

 凌庵は十徳を羽織ると、側に立つ英助に視線を向けた。

 「英助、ついて参れ。」

 「わ、私もですか?」

 「ああ、この天竜堂に来たからには検死も覚えろ。医者とは生きている者の体を診て病を払うだけが仕事ではない。無念のうちに命を落とした者が、最後に遺した『声なき声』を聞くのもまた、我ら医者の重大な務めだ。お前にとって初めての検死となる。とくと目に焼き付けろ」

 「はいっ! お供いたします!」

 「彩乃殿、留守を頼むぞ」

 「かしこまりました。英助さん、足手まといにならぬよう、きちんと学んできてくださいね。」

 彩乃に送り出され、凌庵たちは運び込まれたと言う番屋へと向かった。深川蛤町にあるおしまの古い質屋から、死骸は最寄りの番屋へと運び込まれていた。 番屋の戸を開けると、中には南町奉行所の同心・村上伝助と、その手先の岡っ引き・鳥越の権蔵がどっかりと腰を下ろしていた。伝助も権蔵も、日頃から袖賄賂で甘い汁を吸っている噂のある悪徳役人であった。

 「ようやくお出ましか、おろく医者。もう下手人は捕まったんだ。事件は解決したも同然なのに、ご苦労なこっちゃな。」

 「無駄な事かもしれぬが、これも御奉行からの御役目なのでな。」

 伝助の嫌味を軽く受け流し、凌庵は筵を静かにめくった。むわっと甘ったるい死臭が漂う。 露出したおしまの顔面は赤黒くうっ血し、眼球は酷く飛び出していた。そして太い首筋には、どす黒い帯状の痕跡――索条痕が刻まれていた。 凌庵のしなやかな指先が、おしまの冷たくなった首筋を静かに撫でていく。

 「・・・喉の骨が粉砕されているな。死因は明らかに絞殺。紐の類ではなく、直接『素手』で締め上げられている。」

 「素手で、ですか・・・?」

 「うむ。首に残ったこの強烈な手形を見ろ。親指と他の指の圧迫痕が深く刻まれ、喉骨を内部から粉砕している。これは、相当な腕力を持つ大の男が、上から覆いかぶさるようにして力任せに締め上げねばつかぬ痕だ。」

 「しかし、下手人は・・・。」

 英助が視線を巡らせると、番屋の隅にある牢の中に、身を小さく丸めて座り込んでいる人影があった。おしまの下女・おゆみだ。着物は煤けて破れ、髪は乱れ放題。だが、その背中は驚くほど小さく、肩も腕も折れそうなほど華奢な、年の頃は十八か十九ほどの少女であった。

 「あの娘が、おしま殺しの下手人なのか?」

 凌庵と英助は静かに牢格子前へと歩み寄った。

 「おゆみさん、だね?」

 凌庵が穏やかに声をかけるが、少女は顔を上げようとしない。権蔵が十手で丸太の格子をバンバンと叩いた。

 「おい阿婆擦れぇ、顔を上げねえか!」

 チッとあからさまに舌打ちをして、おゆみはゆっくりと顔を上げた。乱れた髪の間から覗くその顔立ちは、どこか幼さが残っており、「悪女」という前評判とは程遠いものだった。 英助と思わず目が合う。

 「アタシに何か用かい?」

 「俺は蘭医の高柳凌庵、こっちのは弟子の宮永英助だ」

 「何だよ・・・説教ならおあいにく様だね。医者サマの出る幕じゃないよ」

 ガラガラにかすれた、やけに刺々しい声だった。英助が一歩前へ出て格子越しに膝をつく。

 「おゆみ殿、私たちはあなたを責めに来たのではありません。私たちは、死骸に隠された真相を・・・。」

 「逃げ隠れなんざしてないわ!あたしがやったんだよ!」

 「しかしねえ、あなたの体格では・・・。」

 「うるさいねぇ!」

 おゆみが弾かれたように顔を上げた。その瞳には怒りと、それ以上に底知れない「絶望」が塗れていた。

 「アタシが殺したんだよ!憎くて憎くて、あのクソババアの首を締め殺したんだ! 金が欲しかったんだよ! それで満足かい!?」

 自暴自棄な叫び。すると後ろから、権蔵が下品な笑みを浮かべて口を挟んだ。

 「お若い大先生、目の前のモンが何者か見定める力も養った方がいいぜ。おい阿婆擦れぇ、大先生に見せてやんな!」

 促されたおゆみは、何の躊躇いもなく着物の衿をはだけさせ、諸肌を脱いで左腕をさらけ出した。

 「よく見な!どうせアタシは・・・、最初からこういう人間なんだよ!」

 行灯の淡い光に照らし出された彼女の細腕。そこにあったものを見て、英助と凌庵は息を飲んだ。透き通るように白い肌の上に刻まれた、くっきりと濃い藍色の二本線――二条の刺青であった。

 「そ、それは・・・。」

 「解ったかい先生、この阿婆擦れは『りゃんこのおすみ』って呼ばれる前科者の女なのさ。だから、いつ人を殺したとしても不思議はねえのさ!」

 権蔵がせせら笑う。おゆみは自らの腕を蔑むように爪で激しく引っ掻き回しながら、自棄っぱちにへらへらと笑った。

 「アタシはおゆみじゃない、『りゃんこのおすみ』さ! 人殺しの一人や二人、平気でやるような最悪の女だよ! さっさと奉行所に突き落として、お首を跳ねればいいんだ! さあ、どうとでもしやがれ!!」

 そう叫び散らすと、おゆみは再びそっぽを向く。

 「さあ、これで解ったろう?下手人はこのお墨で決まりだ。オメエらの出る幕はねえよ。」

 村上伝助が吐き捨てる。凌庵は静かにおしまの体に向き直し、検分を終えると、持参した紙片に 『南無阿弥陀仏』と認め、静かに筵の上に乗せた。

 「世話になったな、仁吉。後の事は任せたぞ。」

 「おう、任せときな兄貴。」

 番屋を後にし、八丁堀へ向かって並んで歩く凌庵と英助。英助は納得のいかない表情で問いかけた。

 「先生、誠にあのおゆみという女が下手人なのでしょうか? あの細腕で、肥え太ったおしまの喉骨を砕くことなど、到底不可能かと・・・。」

 「そうだ。刃物による刺殺なら不意を突けば可能かもしれんが、素手での絞殺は身体の大きさと絶 対的な腕力が必須となる。さらに、おしまの爪の間には相手を引っ掻いた抵抗の痕が一切なかった。真の下手人は別にいる。」

 「では、なぜ彼女は自分がやったと罪を被るような真似を・・・。」

 「世の中というのは、我々が思っているよりも遥かに残酷なのだ。白い物でも強引に黒く染め上げ られてしまうような理不尽なことが、この江戸にはごまんとある。」

 凌庵の言葉に、英助は唇を噛み締めた。そして凌庵の頭の中には、もう一つ、おゆみが露わにしたあの腕の刺青に関する激しい不協和音が引っかかっていた。

 (ほんの一瞬しか見ておらんが・・・あの刺青はおかしい。二本線の深さが一定ではなく、線も微妙に揺れている。さらに墨の沈着が著しくムラになっていた。官の手によって刺青の刑に処されるな らば、手慣れた彫り師に任せるはず。だというのに・・・あの刺青は、まるで無理やり誰かに彫りつけられたかのような・・・・。)

 「先生、どうなされました?」

 「・・・いや、何でもない。早く帰らぬと、天竜堂で患者を待たせてしまうな。」

 「はい! 急ぎましょう!」

 懐から銀の懐中時計を取り出し、刻限を確認した凌庵は足を早めた。 しかしその最中も、暗い牢の隅で自棄っぱちに笑い、己の腕を掻きむしっていた「おゆみ」の絶望に満ちた瞳が、凌庵の頭から離れることはなかった。

 まるで、声にならない悲痛な叫びを訴えかけているかのように――。

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