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二十八【終章】

 丁堀に差し込む日差しはどこまでも澄み渡り、爽やかであった。

 全ての一件が片付き、高柳凌庵は今日もいつものように調合室で薬研を操っていた。天竜堂の中には、薬草を煎じる甘苦い香気が満ち満ちており、すり鉢で生薬を擂るゴリゴリという規則正しい音が、静かな朝の空間に心地よく響き渡っている。

 「はいよ、およねばあさん。これで三日分だ。脚の痛む時は無理をせず、この膏薬を薄く塗って温めておくれ。痛みが続くうちは、精々うちの若い者に汗をかいてもらえばいいんだからな」

 「まあまあ、いつもありがとうねぇ、凌庵先生。先生の顔を見るだけで、痛みが半分引きますよぉ・・・。」

 「おいおい、拝まないでおくれ。俺は観音様じゃないんだから。」

 「なにをおっしゃいます、儂らにとっちゃあ先生はお助け大明神様さ。」

 「大袈裟だ。」

 両手を合わせて拝む老婆に、凌庵は和やかな笑顔を向ける。 診察を終えた老婆は、嬉しそうに手ぬぐいを握り締め、何度も何度も深く頭を下げながら帰っていった。

 凌庵は「お大事にな」と優しく見送り、手ぬぐいで額に浮かんだ汗を軽く拭った。数日前の血煙が嘘のような、町医者としての穏やかな日常がそこにはあった。

 ――しかし、患者の足音が遠ざかった直後、背後から氷のように冷たい視線がグサリと突き刺さった。

 振り返ると、そこには両手で帯の前を固く締め、眉間を八の字に寄せた彩乃が立っていた。 その 瞳には、明らかに「怒り」の炎がメラメラと燃え上がっている。

 「な・・・、何だね? 彩乃殿。そんな怖い顔をして・・・。」

 凌庵が引きつった笑みを浮かべ、じりじりと後ずさる。

 「『何だね?』ではありませんよ、先生!」

 彩乃はトンと畳を強く踏み鳴らし、凌庵の目の前まで一気に詰め寄った。

 「今日、養生所へ使いに行った際に、お怪我を負われた南町の仙波忠介様から伺いましたよ! あ の杉野良伯や、神楽坂の与兵衛一派と凄惨な大立ち回りを繰り広げられたそうですね!? 慶斎先生を問い詰めたら、慌てた顔で渋々白状しました!」

 「慶斎先生め・・・、余計なことを喋ったな・・・。」

 「喋ったな、ではありません! 先生のお身体は先生一人だけのものじゃないって、あれほど言い ましたよね!?」 

 「いや・・・あの折はやむを得ない事情があってだな・・・。」

 「何がやむを得ない事情ですか!?無茶ばっかりするんだから!南町から呼び出しを受けても尚も大立ち回りだなんて危ない事をして・・・、先生の身に万一のことがあったら、天竜堂はどうなるんですか!? 先生を頼りにしている患者さんたちはどうなるんですか!? それに私は・・・、私はどうしたらいいのですか!?」

 溢れんばかりの涙を瞳に溜め、大声でまくしたてる彩乃。 普段は控えめで温厚、滅多な事では動じない彩乃であるが、凌庵が命を粗末にするような無茶をした時だけは、火が付いたように怒り出すのだ。こうなってはもう、誰にも止められない。

 「悪かった、悪かった。本当に反省している・・・。医者の身でありながら、己の技量を悪用して人を弄んだ良伯を許しておけなかったのだ。だが、それほどの心配をかけたのも事実だ。済まなかった、許してくれ。」

 観念した凌庵が椅子から降りて正座し、深く頭を下げると、彩乃は「はぁ……」と胸の奥から大きなため息をついた。

 「全く・・・、少しは懲りてくださいよ!」

 最後の一言をピシャリと言い放つと、彩乃は着物の袖でそっと目元を拭い、ようやく気持ちを落ち着かせた。その瞳には怒り以上に、無事に生きて自分の元へ帰ってきてくれた事への安堵と、深い愛おしさが静かに滲んでいた。

 「ようよう御両人! 相変わらず夫婦喧嘩のごとき熱々ぶりで結構だねぇ!」

 突如玄関の引き戸がカラカラと開き、威勢の良い江戸っ子声が飛び込んできた。入ってきたのは、浅葱色の着物を粋に着流し、懐から延べ煙管を覗かせた遊び人姿の北町奉行、遠山金四郎であった。

 「金さん! 冷かさないでください!!」

 真っ赤になって抗議する彩乃を余所に、凌庵は苦笑いを浮かべた。

 「よう金さん。また飲み過ぎで胃でも痛めたか?」

 「いいや、ちょいと世間話のネタを持って立ち寄ったのさ」

 金四郎はニヤリと不敵に笑うと、懐から刷りたての瓦版を取り出し、机の上にひらりと広げた。

 「見てみな。今朝の瓦版だ。江戸中がこの話題で持ちきりよ。」

 凌庵と彩乃が身を乗り出し、瓦版に目を落とす。そこには墨黒々と、不穏な事件の「結末」が記されていた。

 

 『内藤新宿の仕舞屋にて密造薬の一味摘発! 神楽坂与兵衛一派、お上により全員極刑に処される。御典医・杉野良伯は病の為病死。本多長門守嫡男・征八郎乱心の上、父・長門守の手により討たれる! 長門守は家名の不徳を恥じ、その場で自害し果てる』


 本来の真実や、幕閣の闇に触れる側面は一行たりとも記されてはいなかった。凌庵が静かに呟く。

 「ふうむ。世間へは、このように周知されたか」

 白金別寮で起きた血塗られた惨劇、徳川将軍家の影、そして密薬『永命丸』を巡る大奥の大陰謀 ――それら真の闇はことごとく覆い隠され、単なる「乱心と内紛による自害」として片付けられていた。

 彩乃もその文章を一見し、優れた読解力と思慮深さゆえに思わず呟いた。

 「何だか、上辺の綺麗な部分しか書いてないように見えますね。先生が与兵衛一派に殴り込みに行 かれたからには、さらに凄まじい裏があったんでしょ?」 

 鋭い彩乃の言葉を聞き、金五郎は延べ煙管から紫煙をくゆらせてぽつりと漏らした。

 「ま、権力ある御歴々が絡んでるんだろうさ。全てを明るみにしてみねえな、幕府の権威は地に落ち、江戸の市井は大混乱に陥る。お上の考える策としちゃあ、これが落としどころって寸法さ。真相はどうあれ、悪党どもが全員畳の上で死ねなかったんだ、これで良かったのさ」

 「金さん、貴方は遊び人なのに幕政のことに関して随分と詳しいですね?」

 「・・・まあ、蛇の道は蛇さね。そんなことより、伝えたいことがあるんだ。」

 足がつきそうになり、慌てて話をそらして金四郎は続けた。

 「重傷を負っていた町方の仙波忠介殿だが、先生の施した緊急の手当てと養生が功を奏してな。命 に別条はなくなったそうだ。斬られた部分も問題なく回復するらしく、今は静かに療養に入っているよ。」

 「そうか! 仙波殿が助かったか!」

 「ああ、『先生によろしく』との事だったよ。」

 凌庵の顔に、この日一番の明るい笑みが広がった。医者として、救えた命があったこと以上の喜びはない。

 「それから直吉もな。傷がすっかり癒えて、今は蓬洲先生と江戸屋長兵衛の元元締の所で、お菊ちゃんの祝言の準備に躍起になって走り回ってらあ。『凌庵先生と彩乃さんには、一番上座に座ってもらわねえと格好がつかねえ!』って息巻いてたぜ。」

 「ふふ、直吉らしいな。お菊殿と直吉の祝言か・・・これは何としても駆けつけねばならんな。」

 「本当に良かった。大変な目に合った分、幸せになってもらいたいですね。」

 彩乃も嬉しそうに胸を撫でおろした。犠牲となった多くの命の陰で、小さな幸せの芽が確実に芽吹いているのだ。

 「ごめん下さい!」

 その時、控えめながらも芯のある声と共に、新たな訪問者が天竜堂の玄関をくぐった。 そこに立っていたのは、身なりを整えた若い武士――宮永英助であった。

 「おう、英助殿!」

 英助は室内へ上がると、ふと畳の上に座る金五郎の顔を見てハッと息を呑んだ。

 (まさかっ!? このお方は、北町奉行・遠山左衛門尉様!?)

 かつて奉行所で遠山の顔を拝謁したことのある英助は、目の前の遊び人が江戸の最高司法責任者であることに即座に気づいたのだ。思わずその場にひれ伏そうとした英助だったが、金四郎が唇に人差し指を当て「シッ」と片目を瞑ってみせた。

 (・・・口をつぐめ、今はただの『遊び人の金さん』だ)という合図である。

 英助は即座に察し、慌てて押し黙ると、深呼吸をして凌庵に向き直った。

 「まあ、上がりなさいな。」

 凌庵に通され、英助は腰の刀を右に置いて正座をした。一切の敵意がないことを示す、武士の厳格な礼儀である。

 「凌庵先生、此度は誠にお世話になりましたお陰様で、父および妹の仇を討つことが出来申した! それに見事な助太刀、御礼の申し様もございませぬ!」

 深々と平伏する英助。「見事な助太刀」という言葉に、彩乃のジトッとした鋭い視線が凌庵に突き刺さる。凌庵は冷や汗をかきながら問いかけた。

 「斬られたお腕も、大分良くなられたようだな・・・。ところで、仇討ちの一件は?」

 凌庵の問いに、金五郎が横から口を挟んだ。

 「ああ、それなら心配いらねえよ先生。何でも北町奉行所の調べじゃあ、英助さんは見事な武士の 意地をもって、父と妹の無念を晴らすべく仇討ちを果たした・・・と裁定が下りたそうでさあ。お上からのお咎めは一切なし。それどころか、途絶えていた宮永家の家名再興と、元の藩への復職まで約 束されたって話だぜ。」

 「本当に金さんは早耳ですねぇ、誰かの下っ引きでもしているのですか?」

 「・・・、まあそんな所だ。」

 しまった、言い過ぎたと金四郎は扇子で顔を隠して取り繕った。

 「ふうん、それにしても良かったですね英助さん。これで亡くなったお父様、妹さんも浮かばれますね。」

 彩乃も嬉しそうに、英助に祝いの言葉を述べる。しかし、当の英助の表情は晴れない。それどころか、決意に満ちた厳しい眼差しで静かに首を横に振った。

 「・・・いいえ。私は、宮永家再興のお話を、全て辞退することにいたしました」

 「えっ!?」

 彩乃と凌庵は耳を疑った。武士にとって、お家再興と復職は悲願中の悲願のはず。それを自ら蹴っ たというのだ。

 「英助殿、正気ですか!? 何故その様な・・・・。」

 英助は拳を固く握り締め、胸の奥底から熱く語り始めた。

 「亡き父は生前、常々申しておりました。『侍たるもの、心から仕えたいと願う主に仕えてこそ、 真の幸せである』と。・・・私は、父と妹が怪死した際、ロクな調査もせず裏の圧力に屈して事件をうやむやに幕引きしようとした武家社会や町方に、深い疑問を感じておりました。」

 英助の視線が、真っ直ぐに凌庵の瞳と重なる。

 「ですが・・・、凌庵先生は違いました。一時は勘違いから命を狙われたというのに、私を咎めるどころか手当てをし、悪の真相を暴き、命懸けで私の仇討ちの機会まで作ってくださった。・・・身分も名誉も関係なく、ただ目の前の弱い者を救うために命を張る。私は、先生のその情の深さと、生き様に心底惚れ込んだのです!」

 「そ、そいつはどうも。男に惚れられたと言われてもなぁ・・・。」

 凌庵はおどけて見せ、苦笑いを浮かべた。

 照れ臭そうに人笑いした後、凌庵は再び聞いた。

 「それで、御武家を捨てたらどうするのだ?」

 するとすかさず英助は畳に両手をつき、深く深く額を床に擦り付けた。

 「凌庵先生! 改めてお願い致す!どうか・・・、私を先生の弟子にしてください!! 武士の身分 を捨て、先生のもとで人を生かす道を学びたいのです!!」

 「な・・・っ!?」

 唐突すぎる弟子入り志願に、凌庵は慌てふためいた。

 「英助さん、頭を上げなさい!とんでもない話だ! 俺は只の貧乏医者、人に物を教えるような大 層な人間ではありません! それに、御武家様が刀を捨てて医者になるなど・・・。」

 「好きでもない職に執着しても、それこそ父は喜びませぬ!!」

 「しかし御武家様なら、医学の心得もおありにならないのでは? 今から医学を学ぶのは容易なことでは・・・。」

 心配そうに尋ねる彩乃に対し、英助は頭を上げたまま必死に訴えた。

 「いえ! 幸いにも宮永家の屋敷に地借りしていたお医者様がおられ、幼少よりそのお方から蘭学や本草学、医学の手ほどきを受けておりました。素人よりは幾分か、薬や人体の仕組みについての心得がございます!」

 しかし、凌庵は強く首を横に振った。

 「そうだとしても駄目だ!天竜堂は、いつ潰れてもおかしくない吹けば飛ぶような貧乏医院だ。武士の身分を捨ててまで飛び込むような場所ではない! どうせ弟子入りならば、名のある名医の元 へ・・・。」

 「いいえ、誰でも良いという訳ではありませぬ!杉野良伯のような医者の風上にも置けぬ者もおります。先生ならば間違いございません!どうかお願いいたします! この宮永英助も男、弟子にしていただけるまでここを動きませぬ!」

 絶対に首を縦に振らない凌庵と、ずんと座ってまんじりともしない英助。英助の熱意と凌庵の困惑が交錯し、室内が押し問答に包まれた――その時である。

 「受けてやったらどうだ、凌庵。」

 玄関先から、重厚で深く響く声が差し込んだ。

 一同が驚いて目を向けると、天竜堂の門前に一基の見事な黒塗りの駕籠が止まっていた。 駕籠から降り立ち、玄関に立っていたのは――繊細な細工が施された十徳を羽織り、威風堂々とした佇まいを纏った老練の医師。彩乃の実父であり、凌庵にとっては医学の基礎と信念を叩き込んでくれた育ての恩師である幕府奥法印医師・藤村玄瑞であった。側には、大きな薬箱を抱えた用人の青木市蔵が控えている。

 「お父様、どうされたのですかこんな所まで!?」

 「ふん、愛弟子と娘の顔を見に来てみれば・・・相変わらず賑やかなことだな。彩乃、元気そうだな。凌庵の足手纏いにはなっておらんか?」

 「足手まといなどになるはずがありません!失礼なことばかり仰って!」

 「少しはその気性が改まったかと思ったが、まだまだの様だな。」

 父と娘が懐かしい軽口を叩き合うのを見て、凌庵は慌てて敷居まで進み出てひれ伏した。

 「玄瑞先生、お健やかそうで何よりです。」

 玄瑞は天竜堂の中に足を踏み入れ、ぐるりと室内を見渡すと満足そうに頷いた。

 「うむ・・・、廃れてはないようだな。それよりお前、江戸屋の元締から話を聞いたぞ。佐葦の露や永命丸を巡る一連の怪事、大分骨を折ったようだな凌庵よ。」

 「・・・あ、いえ、それは・・・。」

 「『上医は国を医す、命に貴賤なし』という道庵先生や儂の教えを頑なに守り、弱き者を救うのは誠に立派だ。だがな・・・・、それを守るあまり医者の領分を逸脱し、町方や奉行所に迷惑をかけてはならんぞ?南町の鳥居がボヤいておったぞ。」

 「そうなんです父上、私も再三申しているのですが・・・。」

 (言うことまで父娘そっくりだな)

 苦笑いをしながら、凌庵はペコリと頭を下げる。

 「肝に銘じまする」

 恩師を前に凌庵が縮こまると、玄瑞はチラリと畳の上で煙管をくゆらせる金四郎に目配せをした。 金四郎は楽しそうにクックッと喉を鳴らしている。

 「まあ、先生みたいな人がいるから町方も助かってるんじゃねえかなあ。」

 「金さん、甘やかさないでください。」

 照れくさそうに頭をかく凌庵に対し、玄瑞は表情を崩さず、静かに英助へ視線を向けた。

 「凌庵よ。人に物を教えるということは、己自身の技量と心を磨く最大の修行になるのだ。ただで さえ、お前には勝手気ままな跳ねっ返りの娘がいて苦労だろうが・・・・。」

 玄瑞の小さな誹りに「お父様ッ!」と彩乃が頬を膨らませる。

 「侍の身分も、約束された家名再興も全て捨て去り、ここまで不器用に頭を下げている男がおるの だ。受けてやりなさい。」

 玄瑞は英助の目の前に歩み寄り、英助の人品を見定める。

 文武で鍛え上げた引き締まった顔立ちと、澄んだ瞳をじっと見つめた。

 「英助さんとやら。この高柳凌庵という男の腕と人品は、この儂が保証する。天竜堂を選んだお前 さんの目は間違いない。しかし、天竜堂の修行は厳しいぞ?存分に学び、良き医者になられませ。」

幕閣で将軍の脈を取る天下の名医が太鼓判を押したのだ。英助の顔に、ワーッと歓喜の光が差し込んだ。

 「はいっ!!ありがとうございます!」

 「凌庵、ここまで言っているのだぞ?受けてやりなさい」

 「玄瑞先生までそんな事を・・・。」

 たじろぐ凌庵だったが、恩師の言葉と、英助の狂喜乱舞する姿を見て、ついに「やれやれ」と肩を落とした。

 「・・・英助殿。俺も出来る限りのことはするが・・・、中には食うに困り石を投げられることもある。後から『やっぱり武士に戻ればよかった』と後悔しても知らんぞ?」

 「後悔など絶対にいたしません!よろしくお願いいたします、凌庵先生!!宮永英助、身を粉にし て精進致しますっ!!」

 英助は何度も、何度も畳に額を打ち付けるようにして頭を下げ続けた。その勢いがあまりにも激しく、部屋中にドスン、ドスンと音が響く。

 「あはは! 彩乃ちゃん、どうやら威勢のいい『弟弟子』が出来たみたいだねぇ!」

 金四郎が膝を叩いて大笑いする。

 「彩乃、お前も弟弟子が出来たのだ。いつも以上に励むようにな。」

 彩乃も呆れつつ、どこか誇らしげで温かい笑みを浮かべて大きなため息をついた。

 「本当ですね・・・。これからどれほど賑やかになることやら。でも、賑やかなのは良いことです!」

 「何を悠長な事を言っている! 俺の手間が増えるだけだ・・・。」

 「でも先生、人手が増えればそれだけみられる患者の数も増えるのではありませんか?」

 「まあ・・・、そうだがな。」

 凌庵がやれやれと首を振った、まさにその時であった。玄関先が一層騒がしくなった、この声の勢 いは、紛れもなく患者だ。

 「先生ぇー、ちょいと診てくれぇ。朝から咳が止まらねえんだ。」

 「こっちこそ大変なんだ!!うちの倅が鉋を悪戯して指を深く削っちまったんだ!血が止まらねえんだ!!」

 「こっちを先に診て下せぇ!婆さんが台所でスッ転んで、頭に傷をこさえたんだ!!」

 表の通りから、どっと押し寄せた患者たちが大声で凌庵を呼ぶ。

 その瞬間――弟子となったばかりの宮永英助が、脱兎のごとき速さで玄関へ駆け出して言った。

 「はっ!暫し待たれよ!今、手当ての準備をいたす!先ずは傷口を綺麗な水で洗い、上を固く縛るのだ!!そちらは婆さんを座らせろ!楽な格好でな!!咳が出ると言う物は、口を手拭いで覆え、風邪が伝染るやもしれぬ!」

 武士特有の滑舌と威勢の良さで、素早く患者の元へ駆け寄っていく英助。患者たちは口々に、「見ない顔の男がいるぞ」と目を丸くした。

 「さっそくあの働き・・・、私も後れを取ってはいけませんね。」

 彩乃も足早に患者の方へ駆けていく。二人の若い者の頼もしい背中を見送りながら、藤村玄瑞は深く頷いて満足げな笑みを浮かべた。

 「うむ、あれは良い医者になるぞ。凌庵、しっかり育ててやれ。」

 「まったく・・・仕事の早い弟子を持てて幸せ、かな。」

 凌庵は苦笑しながらも、愛着を込めて白衣の袖をキュッとまくり直した。

 「さあ、症状の重い者から順番に入れ。」

 窓からは柔らかい江戸の陽光が差し込み、薬草の香りが優しく室内を満たしていく。

 人を惑わせる怪しい水、人の命を弄んだ秘薬と言う数々の陰謀と血煙を乗り越え、天竜堂に、そしてこの江戸の町に、いつもの愛おしい「日常」が戻ってきたのだ。

 凌庵は命を救うため、今日の患者の元へ、笑顔で踏み出していった。

 ――新たな弟子と共に。

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