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二十七

 白金の麓、陽光を遮る鬱蒼とした竹林と高い練塀に囲まれた一角に、豪商・三国屋儀右衛門が所有する豪華極まる別寮が隠れるように佇んでいた。 庭園には西国から運ばせた名石や樹齢数百年の古松が配され、屋敷内には唐渡りの紫檀細工や金銀を散りばめた蒔絵の調度品が所狭しと並べられている。贅沢を固く禁じる『天保の改革』の嵐など露知らぬ、まさに密室の格別な魔窟であった。

その豪華絢爛な大広間の奥、塗りの重厚な机を挟んで、老中格・本多長門守と三国屋儀右衛門が朱色の盃を重ね合っていた。

 「・・・ところで儀右衛門よ。先刻より姿が見えぬが、征八郎はどちらへ行ったのだ?」

 長門守が苛立ちを隠さずに貧乏揺すりをしながら尋ねる。長門守は手元の貧乏徳利から並々と酒を注ぎ込むと、一気に喉奥へ流し込んだ。儀右衛門は揉み手をしながら、揉み揉みと卑しい笑みを浮かべた。

 「ふふふ、ご案じ召されるな長門守様。お菊という深川の生娘を見つけたと、獲物を狩る目をして出て行かれましたよ。あの女を仕舞屋へ引きずり込み、直接種を仕込んで身動きを取れなくしてやると鼻息を荒くしておりました・・・。」

 「フン、あの馬鹿息子めが・・・・。」

 酒を飲み干した長門守は、乱暴に杯を置いた。

 「征八郎は徳川の血を引く、この本家に真の和子を生み出すための大事な御身であると言うに・・・。田安家よりお迎えする琴姫様は、上様の御従妹にあたるお方。血筋としては申し分ない。もしも男児が産まれれば、徳川の血を引く本多家の和子が産まれる。そのものが幕閣入りすれば、他の幕臣など比べ物にならぬ権勢を手に出来るのだ・・・。本多家は益々盤石・・・。だが肝心の征八郎があれでは、元も子もなくなる。」

 「左様でございますなァ。徳川様との固い繋がり・・・これこそが、あの水野忠邦を老中の座から引きずり下ろし、殿が幕府の首座に座る最大の突破口となりましょう。大奥の大曾根様もこちらに味方となられる手筈。これには『鷹の御前』様も、特に大きな期待を寄せておられます。それをお知りになりながら、街で女を追い回すとは・・・若気の至りとは言え、困った若君様で。」

 「全く、誰の血を受けた物だろうか・・・。他に代わりがおれば、すぐさま勘当にする物を・・・。」

 儀右衛門が膝を擦り寄せ、酒を注ぎながら媚びへつらうように耳打ちする。

 「まあまあ長門守様、祝言が成就すれば落ち着きましょう。それに杉野良伯先生の『永命丸』さえ完成すれば、姫君との間にもすぐに健やかな御子が生まれましょう。大曾根のご尽力もあり、大奥も幕閣も全ては我らの掌の上でございます。」

 「そうであれば良いが・・・、我らの思惑を阻む邪魔立てが多すぎる。町方と言い、天竜堂の高柳凌庵とか申す鬱陶しい医者と言い・・・・。鬱陶しい・・・。」

 「くっくっく、ご案じなさいますな。如何に正義面をしておろうとも、金と権力の前にはなすすべなど御座いませ んよ。喉元に小判を突きつければ、直ぐさま我らの飼い犬となり、甘い汁を吸うことでございましょう。現に長門守の申し出に耳を傾けた水野様の御指図を受け、鳥居様が手酷く凌庵を痛め付けたとの事・・・。」

 「水野・・・、馬鹿な男よ・・・。我が口車に乗り、邪魔者を封じてくれたわ。これから自分が、除かれるとも知らず・・・。」

 「上しか見ていない者は、足元がお留守になる者でございます。先ずは吉報を待ちましょう・・・、果報は寝て待てと申します・・・。」

 儀右衛門が朱の盃を傾ける。壁際には儀右衛門が手土産として持参してきた千両箱が積まれている。目で楽しむ最 高の肴と、長門守は笑みを浮かべた――その瞬間であった。

  大広間の重厚な唐紙が、ドスンという鈍く激しい衝撃音と共に、内側へ豪快に倒れ込んで来た。

 「な、何事だっ!?」

 狼狽して立ち上がる長門守と儀右衛門の目の前へ、一塊の肉の塊が投げ込まれた。太い麻縄で豚の ように厳重に縛り上げられ、口に汚い布きれを押し込まれた男――顔面をすり鉢で擦ったように紫黒く腫れ上がらせ、泡を吹いて絶命寸前の本多征八郎であった。

 「せ、征八郎っ!?」

 身動きが取れず、言葉も発せぬまま、血と脂に濡れた畳の上でのたうち回る征八郎。長門守は反射的に駆け寄り、征八郎の口から布を引っ張抜いた。

 「ち、父上、奴が・・・奴が襲って・・・。」

 「何奴だっ!!どこから入った!!」

 長門守の金切り声のような叫びに応えるように、倒れた唐紙の向こう、闇の奥底から静かに歩み寄る一筋の影があった。 白い宗十郎頭巾を目深にかぶり、流麗な着流しを夜風になびかせた怪盗剣士 ――葵幻之介である。

 「葵幻之介、推参。」

 「葵!?貴様が三つ葉葵を悪用する噂の凶賊か! 老中たるこの儂の屋敷に土足で現れるとは笑止千万!」

 儀右衛門も机の陰に隠れながら叫ぶ。

 「盗賊め!顔をお見せっ!覆面を剥ぎ取ってやるわ!」

 「斬られた相手の顔が解らぬと、閻魔様へ申し開きが出来ぬからなしかと見よ!」

 幻之介は二人を見下ろすと、宗十郎頭巾の結び目を緩め、静かに脱ぎ捨てた。 行灯の光と月光が交錯する部屋に照らし出されたのは、不敵で冷徹な笑みを浮かべた高柳凌庵の顔であった。

 「お・・・お前は、天竜堂の藪医者!?」

 かつて屋敷で一度顔を合わせたことのある儀右衛門が、腰を抜かして後ずさった。長門守も刀の柄に手をかけ、怒号を張り上げる。

 「また会ったな、欲で太ったデブ商人!そして馬鹿親本多長門守!!テメエは倅の悪行を諫めもせず、老中でございとふんぞり返り、挙句に更なる栄達を望んで上様御血筋の姫君と添わせ、毒と秘薬で大奥までも抱き込んで天下を恣にしようと画策しやがった。その陰謀のために、どれだけ罪のねえ女や男の血が流されたと思ってやがるんだ!三国屋儀右衛門、テメエの配下の悪党どもは全員町方の縄目を受けた。もはや言い逃れは出来ねえ!」

 普段の謹厳で穏やかな町医者の佇まいは完全に消え去り、腹の底から響くドスの利いたべらんめえ口調で長門守一派の悪事をことごとく突きつける。 不意を突かれ、悪事の全貌を暴かれた長門守は顔をひきつらせ、狂ったように叫んだ。

 「出会え!出会えいッ!刺客共!斬り捨ていっ!」

 その叫びに呼応し、大広間のからくり仕掛けの壁や廊下の暗がりから、三国屋が破格の金で雇い入れた精鋭の浪人どもや、本多家の家臣三十名近くが、ギラつく抜き身を握り締めて雪崩れ込んできた。

 「斬れ! 斬っておしまい!! 首を上げたら金百両だ!!」

 慌てふためく儀右衛門の声に煽られ、悪党どもが殺気を滾らせて刀を構える。 だがその刹那――屋根の天井裏から一砲の影が疾風のごとく舞い降りた。

 「頭が高いぞ!本多長門!!」

 黒皮の忍び装束に身を包んだ御庭番頭・梶野弥一郎である。弥一郎は爛々と光る眼光で長門守らを一圧すると、凌庵の脇へ恭しく膝をついた。

 「こちらの方を何と心得る!上様御舎弟、松平源七郎君に無礼があってはならぬ! 控え居ろ うっ!!」

 凌庵は胸元から徐々に、一本の短刀を取り出した。柄に葵の御紋が金色に輝く、将軍家秘蔵の銘刀である。

 「な・・・、誠の源七郎君!?」

 「そんな・・・、バカなことが・・・!」

 目の前に君臨するのは、紛れもなく日ノ本の頂点たる十二代将軍・徳川家慶の腹違いの弟君。長門 守も、床に転がる征八郎も、儀右衛門も、そして雇われた浪人どもすらも、葵の御紋と圧倒的な気品に呑まれ、一斉に恐怖で平伏した。

 それを見届けた凌庵は、胸元から一枚の錦の裏打ちがされた上意書を静かに掲げ、朗々と読み上げ始めた。

 「上意っ!本多長門守ならびに三国屋儀右衛門。政道を悪用し、御法度の薬剤密造ならびに人を辱める愚行に手を貸し、私腹を肥やしたる段明白なり。よって本日をもって老中職解官を言い渡す。また嫡男征八郎と田安琴姫との婚礼の儀、直ちに撤回の事・・・。松平源七郎斉勝、上様代行としてこれを取り仕切るものなり!!」

 その上意書の文面と葵の威光を目にした瞬間、長門守の顔面は死人のように蒼白となった。田安家との密約も、大奥での権力奪取も、全ての陰謀が一瞬にして砕け散った事を悟ったのだ。しかし、長門守は額に脂汗を浮かべ、必死に食い下がる。

 「お、お待ちください源七郎君! 如何に上様の上意とは言え納得がいきませぬ! 何を証拠にこのようなご処置を・・・!」

 「黙れ! 貴公らに利用されていた香具師・神楽坂の与兵衛が全てを自白した。更に、永命丸密造の張本人たる貴様が弟・杉野良伯は、其の方らに虐げられた者の手によって因果の果てに果てた。其方に手を貸していた大曾根も大奥を負われた。全ての一件は、すでに上様の御耳に達しておる。もはや言い逃れ無用だ!覚悟せい!」

 「ぐ・・・、ぬぬぬっ!」

 極限の恐怖と狼狽の中で、長門守の脳裏に走ったのは武士としての矜持でも反省でもなく、「己の保身」という醜悪な業のみであった。長門守の目が、床でガタガタと震える我が子・征八郎へと向けられる。

 「違う、儂は・・・儂は関係ない・・・。そ、そうだ!これはすべて、この不届き者・征八郎が仕かしたことにございます!我が家の恥さらしめ! 此度の事、私の不徳の致すところ・・・! かくな る上は我が家の不忠者を今、ここで成敗いたす!」

 「父・・・上・・・・?」

 錯乱した長門守は大刀を抜くや、平伏していた我が子・征八郎へ向かって容赦なく刃を突き立てた。

 ――ズスッ!!

 「ち、父・・・上・・・・何故・・・・。」

 征八郎は口から夥しい血を吐き出し、絶望に目を見開いたまま床に倒れ伏した。実の我が子すら、己の生き残りのための生贄として惨殺したのだ。血塗られた刀を手に、長門守は身勝手な狂気の笑みを凌庵に向けた。

 「いかがでございますか!?首謀者はこの手で成敗いたしました!まだ不服とあらば、上様の前で我が潔白を申し開きますぞ!」

 「往生際が悪いぜ、長門守っ!!」

 凌庵の瞳に、怒濤のごとき怒りの炎が燃え上がった。

 「己の胤すら保身の道具に落としめるか! テメエなんざ人間じゃねえ!ただの畜生だ!! 武士ならば武士らしく、腹をくくりやがれ!!」

 我が子にすべての罪を着せて口を封じ、尚も忠臣を気取る男。毅然とした凌庵の怒号に、ついに長 門守の化けの皮が完全に剥げ落ちた。

 「狂気の妄言を!ええい、知るか!上意もへちまもあるか!こ奴らは上様の御名を騙る偽物だ! 斬れ!一人残らず斬り捨ていっ!!」

 開き直った長門守の狂叫に、金で買われた雇われ浪人どもが一斉に正気を失い、刃を翻した。

 「殺せぇぇっ!首を上げれば金百両!恩賞は思いのままじゃ!」

 いよいよ覚悟を決めた悪党どもを前に、凌庵は二尺三寸の太刀を静かに抜き放ち、構えのない構え ――柳生新陰流の「無形」で立った。

 「関わりなき者、悪に組せぬ者、親兄弟のある者は立ち去れ!尚も牙を剥く者は、すべて江戸の病原と見なし、俺がこの手で引導を渡してやる!」

 「ぬかせぇぇっ!」

 躍りかかってきた最初の浪人の振り下ろしを、凌庵は刀身の腹で軽やかに滑らせて受け流した。

 ――ガシャァァン!

 衝撃で体勢を崩した浪人の顎へ、凌庵の太刀の柄頭が叩き込まれる。骨の砕ける音と共に浪人が 吹っ飛ぶ。間髪入れず、右から襲い来る二人の刀を同時に鞘当てで跳ね返し、一瞬の踏み込みで刃の 腹を叩きつけた。

 ――ガキィィン! ドスッ!

 「あがっ!?」

 「ハァッ!!」

 凌庵の剣術は道場での型ではない。市井で民の苦しみを見つめ、数々の修羅場をくぐり抜けてきた  「生きた剣」であった。

 一閃ごとに浪人の刃が折れ飛び、血煙が舞う。

 「背後は任せられよ、源七郎様!」

 弥一郎も忍び刀と鋼の鉤爪を打ち鳴らし、凌庵の背後に迫る用心棒たちの手首や膝の皿を瞬時に砕 いていく。二人の無双の連携の前に、三十人近い手練れどもが次々と崩れ落ち、大広間はあっという間に血の海と化した。

 「ひぃぃっ! お許しを、お許しをォ!」

 恐怖で正気を失った大商人・三国屋儀右衛門が、懐の中に抱えられるだけの小判を詰め込み、庭先へ逃げ出そうとした。凌庵はその背中へ疾風の踏み込みで追いつく。 追い詰められた儀右衛門は小判の袋を掴み、凌庵に向かって差し出した。

 「こ、これを差し上げます! 小判千両、みんな差し上げますから助けてくだせえ!!」

 「民の血肉を啜って肥え太った悪徳商人・・・、地獄へ行け!」

 ――ズバァァッ!!

 「あがぁぁっ!?」

 斜め真一文字に切り裂かれた儀右衛門は、抱えていた小判を庭の白砂にぶち撒けながら、血の泡を吹いて倒れ伏した。散らばる小判が、朱の血に染まっていく。

 残されたのは、我が息子の血がべったりと付いた血刀を握り締め、背中を壁に押しつけた本多長門守ただ一人であった。

 「来いっ!余は三河以来の名門・本多家の当主ぞ!町医者ごときに斬られるかぁっ!」

 長門守が狂乱の諸手突きで猛然と繰り出してきた。凌庵はその突きを最小限の体さばきでかわすと、すれ違いざまに真一文字の太刀を深く叩き込んだ。

 「天誅っ!!」

 ――ズバァァァン!!

 「無念・・・、我が・・・本多家が・・・。」

 真っ向唐竹割りに斬り裂かれた長門守は、自らが作った血の海へ膝から崩れ落ち、二度と動かなくなった。静寂が密寮を支配する。刀の血を懐紙で静かに拭い、鞘へ収める凌庵。弥一郎が静かに膝をついた。

 「源七郎様。見事でございました」

 「弥一郎。これで、哀れな娘たちの無念も少しは報われよう。・・・行くぞ。」

 源七郎は再び白い宗十郎頭巾を被り、三つ葉葵の紋章を夜風に翻しながら、血煙の残る密寮をあと にした。


 数日後。江戸の街外れ、鬱蒼とした雑木林の奥にひっそりと佇む、とある小ぶりな茶室。 静寂が 支配する室内で、一人の人物が茶を点てていた。茶釜から立ち上る湯気と、静かに響く水の音。本来ならば風流な空気に包まれているはずの空間に、ずっしりと重い只ならぬ殺気が立ち込めていた。

その茶室の小窓の外で、黒ずくめの男がひざまずく。

 「・・・ご報告いたします。白金の別寮にて本多長門守、ならびに三国屋儀右衛門……葵幻之介と 名乗る者に討たれました。」

 茶筅を動かしていた手が、ぴたりと止まった。

 ――『鷹の御前』。今回の一件を影で操っていた、謎の怪人物である。

 「そうか・・・。散ったか、本多長門は・・・・。」

 「はっ。嫡男もろとも果てました。」

 点てた茶を一口啜ると、深いため息をつく鷹の御前。

 「ふう・・・使えぬ男であった。あの程度の奸計で幕政を揺るがせられると踏んだか。またしても 庶民の暮らしに、明るい日をさしてやることが出来なんだか。水野が政を取り仕切るようになり、江戸の者は戦々恐々しておる。上手くすれば、水野を追い込むことが出来たものを・・・・。まあよいわ。世を正す手段など、ほかにも幾らでもある。主馬(しゅめ)、其方は引き続き市井の様子を探れ。」

 鷹の御前は冷ややかに、隠密たる主馬に短く命じた。

 「・・・・散れ!」

 「はっ!」

 気配が完全に消え去ったのを確認すると、鷹の御前は再び茶を啜り、暗闇の奥でぽつりと呟いた。

 「葵幻之介・・・。叶うなら、敵にはしたくない男よ・・・。」

 時を同じくして、江戸城・老中御用部屋。 老中首座・水野忠邦のもとへ、本多長門守の「急死」と、それに伴う内情の密告が届けられていた。

 「ほほう、長門守が身内の内紛で果てただと? ふん、愚か者が。己の倅も満足に躾けることが出来ぬ者に、政を取り仕切れるわけがなかろうが・・・・。まあ、それは上様にも言えることだがのう。」

 水野忠邦は冷酷な不敵な笑みを浮かべ、手元の地図の上に置かれた「本多領」の駒を弾き飛ばした。長門守の死に伴い、本多家が改易・断絶の危機に瀕した噂を巧みに利用し、水野は自らの息の掛かった譜代大名へと領地替えを迅速に決定させたのである。

 (災い転じて福となすだ。これで余の権力基盤はさらに盤石となる。)

だが、忠邦はふと手元の書類から目を離し、遠くを見つめた。報告書の中に暗示するように記された 「白い宗十郎頭巾の剣士」の影が、忠邦の胸を逆なでしていた。

 「またしても・・・・、葵幻之介とやらが暗躍したか・・・。」

 自分の懐と権力が潤った満足感の裏で、水野の胸には、己の権力すら及ばぬ闇の正義・葵幻之介と いう存在に対する、嫉妬にも似た不快な悔しさが込み上げていた。

 (己・・・またしても儂の周りを引っ掻き回しおって・・・。覚えておれ、尻尾を出した時が貴様 の最後。悦に入っていられるのも、今のうちじゃ。)

 表向きは笑みを浮かべつつも、忠邦の腹の底は煮えくり返っていた。


 広大な江戸城・吹上御庭。美しく手入れされた池の縁で、第十二代将軍・徳川家慶が、悠々と泳ぐ立派な錦鯉を一人静かに眺めていた。水面に餌を撒くと、鮮やかな鯉たちが一斉に口を寄せて群がる。

 家慶はかつて、側用人・本郷丹後守に対してこう語ったことがあった。『余はこの池の鯉のように、万民に平等に餌を撒けているだろうか・・・』 餌にありつけず、池の隅で静かにたゆたう一匹の不遇な鯉を見つめ、このような庶民がどれほど江戸に溢れているのかと胸を痛める日々。征夷大将軍を継承して以来、完璧ではないにせよ、立派な君主であらねばならないという孤独な念いを抱き続けていた。

 その背後へ、音もなく膝をつく本郷丹後守と、御庭番・梶野弥一郎。背を向けたまま、家慶は二人に問う。

 「・・・そうか。本多長門も、三国屋も果てたか。」

 「源七郎様の見事なご裁断により、悪の根源はすべて絶たれました。表向きは本多長門守様が、悪行を働いた嫡男を成敗に及び、自らも責任を取って殉死されたという扱いに・・・・。大曾根も、病を理由に大奥を去り申した。」

 「上手く対面は保てたと言う事か・・・。」

 「水野殿も、上手く取り繕ったものですな。まさに臭い物に蓋をする・・・。もしも幕閣大名と大奥御歴々が悪事に加担したとなれば、政は失墜いたします故に。」

 丹後守の言葉に、家慶は深くため息をついた。

 「悪党と申すのは、真にしぶとい者よ。三河以来の名門、本多家の血筋ともあろう者が、時の流れによってこうも醜く錆び付いてしまうとは。」

 「上様の御慈悲が行き届かぬのではなく、奴らの欲が深く狂っていただけにございます。ともかく源七郎君のご尽力によって、悪の根は絶たれ申した。」

 家慶は池の水面を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

 「余の目が届かぬばかりに・・・あ奴には、いつも苦労をかける。」

 「上様がお城で国を守り、源七郎君が縁の下の力持ちとして政を支える・・・。誠に御二人は、良き御兄弟でございますな。」

 「まさに愚兄賢弟じゃ・・・、弥一郎よ。」

 「はっ。」

 「ご苦労だが・・・引き続き、あ奴のために力を貸してやってくれ。あ奴の生きる道こそが、この徳川の陰の救いなのだ。」

 「ハッ・・・、畏まりました!」

 家慶はそっと天を仰いだ。江戸の町を包む柔らかな夕暮れの日差しが、御庭の樹木を黄金色に染め上げていく。

 「源七郎・・・、また世を癒したか。誠・・・、あ奴は上医じゃ。」

 姿を見せない弟が、額に汗して患者の為に尽くしている図を思い浮かべ、家慶は笑顔を見せた。

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