二十五
「よし。包帯の結び目はこれで良い。二三日はあまり腕を酷使せず、なるべく安静にしているのだぞ?」
「ありがとうございます、先生。お陰様で腕の痺れも取れてまいりました」
凌庵は患者の粗末な袖口を丁寧に巻き直すと、差し出された銭箱から十六文の治療代を手指で掬い上げ、温和な微笑みを浮かべて送り出した。ここ数日、天竜堂の敷居を跨ぐ患者の数が明らかに増えている。しかもその多くが、刃物による浅い切り傷や殴打による酷い皮下出血など、明らかに何者かに暴行を受けたと思われる外傷であった。待合の長椅子に腰掛けた者たちが、痛みに耐えながら口々に囁き交わしている名はただ一つ――本多征八郎だ。。
「またあのお侍ですか・・・。今朝方いらした鳶職も、茶店の娘さんに乱暴しようとしていた本多征八郎とを止めに入って、家来に半殺しにされたとおっしゃっていましたよ。」
買い出しから戻ったばかりの彩乃が、薬箪笥の引き出しを整理しながら、憤りを隠せない様子で眉をひそめた。白巾着に包んだ薬草の香りが、部屋の重苦しい空気をいくらか和らげる。
「凝りもせずに、悪行を重ねている様だな・・・。」
「全くです・・・。ところで先生、私が昨日の夕刻に薬草の買い出しに出ていた間、どこへお行きになっていたのですか?天竜堂を空けておいでだったと慶斎先生から伺いましたけれど。」 「うん? ああ・・・、仁吉の奴とちょいとな。」
「ちょいと、とはどこです?まさか……また吉原だの板橋だの破廉恥な場所ではないでしょうね?」
「馬鹿をお言いなさんな。私がそんな風流な真似をする柄に見えますか」
まるで長年連れ添った世話女房のように詰問してくる彩乃に対し、凌庵は苦笑いを浮かべながら手元の薬研を擦り続けた。日々の診療に追われながらも、こうした軽口を叩き合えるささやかな時間が、崩壊の危機に直面する江戸の市井において凌庵の心を繋ぎ止める数少ない平穏であった。
しかし、その静寂は不意に破られた。
天竜堂の敷居を揺るがす粗暴な足音と、耳を刺す甲高い怒号。
「おーい! 藪医者ぁ!! 出てきやがれぇ!!」
門前に立っていたのは、やせ細った出っ歯の男と、逆さにでっぷりと肥えた御用聞き――南町奉行所の同心・村上伝助と、鳥越の権蔵であった。その背後には、捕縄を腰に下げた同心や十手を手にした岡っ引きどもが十数人、格子戸を取り囲むように乱暴な陣を敷き、殺気立った気配を放っている。
村上伝助の顔には、隠しようもない勝ち誇った笑みが張り付いていた。日頃から町医者の分際で奉行所の検死に口を挟み、検死役の枠を超えて現場を調べ回る凌庵を、伝助は前々から忌々しく思っていたのだ。いまやその「煙たい存在」を完全に罠に嵌め、追い詰めたという優越感が、醜く光る脂顔全体から滲み出ていた。
「これはこれはお揃いで。何用かな?」
凌庵が静かに格子戸を開けると、権蔵が鼻を鳴らし、伝助が腰の十手を誇らしげに叩いて見せた。
「御奉行からの呼び出しだぁ! 即刻、南町奉行所へ出頭しろい!」
「奉行からの呼び出しか。・・・申し訳ないが、俺にはお白州へ引っ立てられるような心当たりはないんだがな。」
「そら惚けてるんじゃねえや!町医者の分際で検死役の域を越え、お上のお取調べに不当に介入した疑いだ。何でも、怪しげなオランダ思想……いやさ、嘗ての渡辺崋山や高野長英ら過激な蘭学者連中のような怪しい思想にかぶれ、奉行所の差配を不当に挫こうとしているという噂だ!手前の腹ン中をお白州でじっくり吟味してやるから、大人しくついて来てもらおうかぁ!!」
異国思想による幕政批判――その言葉が響いた瞬間、天竜堂の空気が凍りついた。かつて尚歯会の蘭学者たちが一網打尽にされ、獄死や自害に追い込まれた『蛮社の獄』の惨劇が、市井の記憶に鮮血の如く蘇ったからである。
「村上様・・・、これはいかなるご用向きでございましょうか! 凌庵先生が一体どのような咎を犯したというのです!」
奥から着物の裾を翻して駆け寄ってきた彩乃が、顔を蒼白にさせながら伝助の前に立ち塞がった。しかし伝助はその肩を荒々しく突き飛ばす。
「ガタガタ言うねぇ!邪魔立てすると同罪で引っ立てるぞ!」
「くっ・・・!」
倒れそうになった彩乃の身体を、後ろから凌庵がそっと支えた。彩乃の手は小刻みに震えており、凌庵の羽織の袖を固く壊れものにしがみつくように握りしめている。凌庵はその震える手の上に静かに己の大きな掌を重ね、温もりを伝えるように包み込むと、安心させるような笑みを浮かべて見せた。
(過激な蘭学思想、か・・・。なるほど、いよいよ蛮社の獄の一件を持ち出してきたか。投獄か、よくて手鎖。・・・だが、この手の打ち方は町方同心の独断にしては手回しが早すぎる。裏に本多家か、あるいは奉行所の深部からの圧力がかかっている証だ。拒んで無駄な血を流すより、あえて罠に乗って懐に入り込む方が、敵の真意を探る早道かもしれん)
「・・・承知いたしました、お供いたします。」
凌庵は落ち着き払った動作で着物の皺を伸ばすと、ずいっと前に出た。
「先生! 行ってはなりませぬ!奉行所へ引かれてしまっては、どんな濡れ衣を着せられるか・・・!」
「大丈夫だ、彩乃殿。俺に疾しいことは何一つ無い。・・・留守の間、患者たちの薬の調合を頼むよ。」
覚悟を決めた凌庵の強い眼差しに、彩乃は溢れ出しそうになる涙を必死に堪えて唇を噛み締めて頷くしかなかった。
「が~はっはっは! 藪医者ぁ・・・、ざまあねえや! 当分帰れねえぞぉ!今のうちに看板を下ろしておくかぁ!」
「へへっ、彩乃先生ぇ~これを機に、お家で花嫁修業でもした方がいいのではぁ!?」
鬼の首を取ったようにご満悦の伝助と権蔵は、泣き出しそうな彩乃を面白おかしく茶化すと、凌庵を囲い込むようにして引き立てて行った。
呉服橋を渡り、南町奉行所の重々しい門をくぐった凌庵であったが、連れて行かれたのは白砂の敷かれた「お白州」ではなかった。 幾重もの廊下を通り、奥深くにある灯火を極限まで落とした重厚な一室――そこは日差しすら届かぬ、湿り気と冷気が澱む部屋であった。
室内の中央、漆黒の文机の前に座していたのは、痩せ型で色白、切れ長の涼しげな目の奥に底知れぬ暗濁を湛えた男であった。ひんやりとした死気のような冷気を全身から纏う不気味な男。
――鳥居耀蔵。
南町奉行の地位にあり、江戸八百八町において「妖怪」「蝮」と揶揄され、老中・水野忠邦の側近にして「水野の三羽烏」の一人に数えられる男。そして何より、あの『蛮社の獄』を陰で冷酷に排置し、数多の蘭学者を破滅に追い込んだ黒幕その人であった。
案内してきた村上伝助は、鳥居の前に出ると先ほどまでの威勢が嘘のように縮こまり、まるで蛇に睨まれた蛙のように脂汗を流していた。
「下がれ、村上。」
「は、ははっ!」
鳥居の短く低い一言に、伝助はほうほうの体で平伏し、退室していった。去り際に凌庵へ投げかけた視線には、ふふっと歪んだ笑みが浮かんでいた。「これで貴様も終わりだ」という勝者の優越だったが、凌庵はその視線をまるで存在しないもののように受け流した。
部屋には、鳥居耀蔵と高柳凌庵の二人だけが残された。北町奉行と対面した時とは根底から異なる、肌を刺すような死線上の緊迫感が漂う。
「蘭学医、高柳凌庵・・・。面を上げい」
低く、地底の亀裂から漏れ出るような声。凌庵が静かに顔を上げると、鳥居は机の上に置かれた一 冊の書状に目を落としたまま、氷のような声で口を開いた。
「町医者の分際で検死の域を超え、奉行所の差配に不当な介入を重ねておるそうだな。老中・本多長門守様も案じておられた御様子。おろく医者として進んで検死に手を貸すのは、なにやら良からぬ思惑があるのではないかと懸念されていた。村上等は、其方がかつての渡辺崋山らの如き過激な異国思想に染まり、いずれ大塩平八郎の如く幕府転覆を企てておるのではないかと、鼻息を荒らげておるが・・・。」
「過激な思想などとは恐れ多いことにございます。手前はただ、検死の依頼を受けて医学の徒として傷口や毒の事実を町方に述べただけにございます。」
「事実を述べた・・・、か?」
手にしていた書物を静かに置くと、耀蔵の鋭い眼光がまっすぐに凌庵を射抜いた。その眼差しは、罪人を裁く者のそれではなく、密偵が標的の臓腑まで透かし見ようとする粘着質な網のようであった。
(ここで余計な弁明をすれば、天竜堂のみならず、養生所の慶斎先生や仲間の医者にまで及ばかねん。・・・ならば、己の身一つで受け止めるまで)
凌庵は肚を括り、畳に両手をついて深く頭を下げた。
「・・・まあ、何を言っても余計な差し出口をし、奉行所の差配に波紋を広げたことに変わりはございませぬ。私をお裁きになるおつもりなら、存分に裁かれよ。手鎖でも投獄でも、あるいは遠島や江戸追放であっても、甘んじてお受けいたします。」
「覚悟はできていると申すか?」
「はい。」
耀蔵の目がさらに険しく細められた。室内を圧倒的な沈黙が支配する。数息の後――耀蔵の薄い唇が、歪んだ曲線を描いた。
「フッ・・・、誰が其方を裁くと言った。そんな気は毛頭ないわ。」
裁くつもりは毛頭ない――その思いも寄らぬ言葉に、凌庵は思わず目を見開き、平伏したまま固まった。
「裁くおつもりがない・・・と仰いますと?」
「呼び出した真の理由は他にある。其方が市井の闇で追っておる、その『陰謀』の事実確認だ。」
耀蔵の冷徹な眼光が、刺すような鋭さで凌庵の瞳の奥を捉えた。凌庵は息を飲んだが、目の前に座す男がただの権力者ではなく、江戸八百八町の暗闘と幕閣の権力闘争の全てを網羅しようとする「怪物」であることを悟り、完全に腹を括った。
「其方も知っての通り、幕閣内には魑魅魍魎が渦巻いておる。水野様が天保の改革を推し進めようとも、そのお考えに疑問を抱き、足を引っ張ろうと良からぬ事を企てておる者がおるのだ。此度の悍ましい一連の件も、先だって世を騒がせた香り水の一件も、恐らくはその陰謀の一端・・・。儂はそう睨んでおる。其方はその道の玄人だ。医術と薬物の見地から、其方の見立てを賜りたい。」
凌庵は短く息を吐き出すと、ゆっくりと姿勢を正した。この怪物は、凌庵を処罰するためではなく、己の情報網すら届かない「薬物と医学を使った陰謀」の核心を吐かせるために呼び出したのだ。
「・・・左様でございますか。では、お話しいたしましょう」
凌庵は静かな声で、ことの真相を語り始めた。
まずは、かつて江戸の街を震撼させた『佐葦の露』の真実について。――廻船問屋の渡海屋五郎兵衛が、本多長門守の息がかかった大目付の暗黙の指示の元に極秘裏に精製させた幻惑の香り水。伽羅や白檀の香料に混ぜ込まれたのは、芥子や曼陀羅華の抽出液、そして極めて稀少な龍涎香の変異種であった。ひとたびその香りを纏えば相手を狂惑させる媚薬となり、同時に纏う者自身を強い依存症と精神の崩壊へ追いやる、麻薬そのものの恐ろしい産物。
「・・・なるほど。怪しげな香り水で上様の御意を取り込もうと企む、大奥の女どもが飛びつきそうな毒薬だな。」
「左様にございます。そして・・・、これは私の推測に過ぎませぬが、その先にはさらに恐ろしい事態が控えております。」
「構わぬ、申せ。」
「佐葦の露をもって上様や高貴な方々の御心を狂わせた後、次に必要となるのは『丈夫な跡継ぎを産む肉体』にございます。そこで用いられるのが、唐土の古文書に記された医食同源の異端・・・孕み女の胞衣を用いた秘薬『紫河車』でございます。御典医・杉野良伯は、これを用いて子種の付きにくい高貴な女性の肉体を強制的に造り変える新薬――『永命丸』を精製しております。」
「なに・・・? 孕み女の胞衣だと?」
冷血無比な耀蔵の眉間に、初めて明らかな不快感の皺が刻まれた。
「永命丸は単なる媚薬ではございませぬ。人間の母体と胎児の生命力を直接搾取し、薬として服用させる禁忌の術。良伯らはこれを大奥や高貴な家柄に売り込み、莫大な財と絶対的な権力を握ろうとしております。政商・三国屋儀右衛門が莫大な資金を投じているのも、この新薬の利権を見越してのこと。・・・そして、養生所の報告によれば、すでに試作品としての『永命丸』が、市井の富裕層やならず者の間にも実験的に流れております。」
「正気の沙汰ではないな・・・。女子のみに効く薬ならば、なぜ市井の男どもにまで回す?」
「薬の毒性と効能を、老若男女の肉体で測る『試薬』にございます。かつて首切り浅右衛門が罪人の肝から人胆を作り上げたように、彼らにとって市井の人間など、ただの薬の材料に過ぎぬのです。・・・現在もなお、神楽坂の裏街や内藤新宿の隠れ家で、佐葦の露の増産と、永命丸の原料となる犠牲者の収集が行われております。」
凌庵の淡々とした、しかし説得力に満ちた医学的説明を聞くうちに、鳥居耀蔵の脳内でバラバラだった情報が見事な結び目を形作っていった。
(・・・本多長門守。表向きは上役たる水野忠邦様に恭順の姿勢を見せ、改革に協力的であるかのように装っていたが・・・裏では田安家との婚礼を急ぎ、大奥の御年寄と結んで『永命丸』と『佐葦の露』をもって大奥と上様を毒で籠絡しようとしているのか! 水野様を追い落とし、自らが幕閣の首座に座る腹づもり・・・・!)
忠邦の威光を傘に着て江戸の改革を推し進める耀蔵にとって、幕閣内部からのこの背信は看過できぬ巨大な毒芽であった。
(しかし・・・密偵を放っても届かなかったこの深部に、一人の町医者がここまで正確に辿り着くとはな・・・)
耀蔵の目が、再び蛇のように滑らかで冷酷な光を帯びた。
「・・・凌庵。やはり其方はただの町医者ではないな。一つ聞こう。幕府の厳しい取締りを潜り抜け、かつて長崎の鳴滝塾に学んだ其方のような蘭学医が、なぜこれほどまでに江戸の権力機構の深部に精通している? 何者かと裏で繋がっているのではないか? かつての尚歯会のような過激派、あるいは幕府に不満を持つ大名家と・・・・。」
探るような、やんわりとした問いかけ。そこには「過激派蘭学者との内通」を口実に凌庵をからめ捕ろうとする、仕掛けられた毒針が存在していた。
しかし、凌庵は一切の揺らぎを見せず、静かに目を伏せた。唇を固く結び、一言も発しない。
黙秘――己の背後にいる仲間たちを守り、かつ耀蔵の誘導に乗らないための、最も力強い拒絶であった。
部屋を重苦しい沈黙が満たす。やがて、耀蔵は冷ややかに鼻で笑った。
「・・・まあよい。其方の腹と、この一件のカラクリは良く分かった。・・・去るが良い。」
「・・・感謝いたします。」
凌庵が静かに頭を下げ、立ち上がろうとしたその時。
「待て、凌庵。」
背後から突き刺さったのは、氷塊のように冷徹な耀蔵の声であった。
「勘違いするなよ。儂は其方や蘭学者どもを信用したわけではない。其方が医学の徒としてではなく、過激な異国思想に染まり、幕政の弊害となったその時は……容赦なく其方の首を撥ねる。忘れるな。」
「・・・・肝に銘じておきます。」
凌庵は静かに深く一礼すると、奉行所の重い扉を開けて退室していった。
奉行所の門を出ると、湿った風が凌庵の頬を撫でた。門前の影から、一人の男が急ぎ足で歩み寄ってくる。八丁堀の同心・仙波忠介であった。
「凌庵殿! 無事であったか! 村上の野郎が鼻高々に『大物を捕らえてきた』と吹聴していたのでな、心配でたまらず駆けつけたのだ!」
忠介は凌庵の身に拷問の痕がないことを確かめると、深く安堵の息を吐き出した。
「仙波様。ご心配をおかけしました。鳥居様のお調べを受けましたが、お咎めなく解放されましたよ。」
「そうか・・・あの『妖怪』が直接お前を詰問して、無罪放免とはな・・・。いや、何にせよ無事で良かった。」
胸を撫で下ろした忠介だったが、その表情はすぐに重く沈み込んだ。彼が真に心を痛めている問題は、未だ解決していなかった。
「・・・実は、直吉の奴が依然として行方不明なのだ。直吉の妹のお菊ちゃんも、兄を案じるあまり食を出されても細く喘ぐばかりで、すっかり心身を病みついてしまってな・・・・。」
「お菊ちゃんがなァ・・・。」
凌庵は痛ましそうに目を細めた。直吉の失踪、お菊の憔悴、本多征八郎の乱行、そして杉野良伯の紫河車・・・。バラバラに見える悲劇の糸が、脳内で一筋の太い縄へと繋がっていく。その時、以前に御庭番の梶野弥一郎が極秘裏に調べ上げた情報が、凌庵の頭の中に閃光のように閃いた。
「仙波さん。『佐葦の露』の一件の折、役者崩れの中村歌之丞らが破廉恥な商いをしていたとい う、内藤新宿の『仕舞屋』のことを覚えておられますか?」
「仕舞屋? ああ、歌之丞らが怪しげな買春や薬物の取引に使っていたという、あの荒れ果てた屋敷か。」
「ええ。俺の存じよりの者の話によれば、あの仕舞屋からは異常なほどの『血と薬品の匂い』が漂っていたとのこと。・・・もしや、本多征八郎が拉致した町娘たちを連れ込み、良伯が『紫河車』を精製するための生体実験場として使っているのは、あの仕舞屋なのでは?そして、妹を救おうと真相に迫った直吉さんもまたそこに捕らわれているのでは?」
忠介の目がカッと見開かれた。
「言われてみれば・・・!征八郎の家来どもが街で人を攫った後、姿を消す方向はいつも四ツ谷から新宿へ抜ける街道筋だった・・・・!間違いない、あの仕舞屋が奴らの潜伏先だ!」
「奉行所の鳥居様にも、本多家と良伯の動きについては裏から手を回すよう誘導しておきました。じきに奉行所からも動きがあるでしょうが、直吉さんの命が危ない。」
「分かった! すぐに英助たちと連絡を取り、仕舞屋の裏を張る! 凌庵殿、苦労を掛けたな!」
二人の視線が強く交差した。奉行所の不当な圧迫を潜り抜けた今、次に向かうべき「敵の本丸」が明確になった瞬間であった。
その頃、八丁堀の天竜堂は、今にも天井が吹き飛びそうなほどの重苦しく、そして妙に殺伐とした空気に包まれていた。
奥座敷では、蘭学者で凌庵のよき理解者である松崎慶斎が腕組みをして難しい顔で座っており、近所の長屋の大家・幸兵衛とお豊の夫妻が「先生が引かれていくなんて、何かの間違いだ」とハラハラしながら茶を啜っている。そして縁側には、なぜか顔中を絆創膏や手拭いで痛々しく覆った新太郎と仁吉が、バツが悪そうに肩を小さくして座っていた。
「・・・全く、俺は通りかかって見舞いに寄っただけなのに、なんでこんな目に遭わなきゃならないんだよ・・・。」
新太郎が腫れ上がった頬を撫でながら口を尖らせてぼやくと、隣の仁吉が「若旦那、間が悪かったんですよ・・・・そうぼやかないでください。」と青ざめた顔で宥める。
「うるさい!!」
新太郎のぼやきを聞きつけた彩乃が、薬研を叩きつけるような勢いで怒鳴りつけた。
――事の発端は数時間前。村上伝助が「当分帰れねえぞ! 花嫁修業でもしたらどうだ!」と捨てゼリフを残して凌庵を引っ立てて行った直後のことである。 南町奉行所のあまりの理不尽さに彩乃の怒りは頂点に達し、涙をボロボロと流しながら般若のような恐ろしい形相になっていた。そこへ運悪く、北町奉行所の与力である新太郎が「彩乃先生っ!凌庵のやつ引かれたんだって!?」と顔を出したのだ。
新太郎の所属は北町であり、今回の南町の暴走とは無関係である。・・・が、彩乃の目には「十手を持つお上の一員」として同罪に見えた。
「あんた達ぃ・・・!今まで先生に頼るだけ頼っておいて・・・この恩知らずどもがぁぁぁっ!!」
爆発した彩乃は、手近にあった薬研や水桶を投げつけ、果ては竹ほうきをブンブンと振り回し、新太郎をコテンパンに打ち据えたのであった。
「痛ってぇ・・・。とんだ災難だぜ、全く。」
「新さん、傷は大したことねえよ。今回ばかりは彩乃ちゃんの気持ちも分かる、許してやってくれ。」
おどおどしながらも、隅の方でしゅんとしている彩乃。大家の幸兵衛が苦笑いしながら慰める。
「すみません。取り乱しました。」
「まあまあ、彩乃ちゃん。気持ちは分かるがね、新太郎様だって悪気があって来たわけじゃねえんだから。・・・しかし彩乃ちゃんも、最初は『偏屈で不気味な町医者だ』なんて言っていたのに、今じゃ先生のことが心配でたまらないんだねぇ。」
「なっ・・・・!お、大家さん! 私はただ、薬の調合の指示を聞いていなかったから困っているだけでっ!」
真っ赤になって弁明する彩乃。お豊が「はいはい、そういうことにしておきましょうねぇ」とニヤニヤ笑っていると、ガラリと玄関の冠木門が開く音がした。
「おーい、戻ったぞ。」
静かな声と共に暖簾をくぐってきたのは、どこも痛んでいない無傷の凌庵であった。
「先生っっ!!!」
部屋にいた全員が一斉に立ち上がった。彩乃は一瞬、弾け飛ぶような勢いで駆け寄ろうとしたが、途中でハッと我に返り、モジモジと着物の裾を固く掴んで立ち止まった。
「せ、先生・・・お咎めは? 伝助の奴が『当分帰れない』なんて言っていたのに・・・。」
「ああ、すぐに無罪放免されたよ。」
「よく無事だったな、凌庵殿。鳥居耀蔵の狐に化かされずに済んだか。」
「慶斎先生、私の首の皮は思いのほか厚い様だ。」
凌庵が穏やかに微笑むと、彩乃の目からぽろぽろと大きな涙が溢れ出した。
「良かった・・・本当に、良かった!」
感極まって今にも抱きつきそうな彩乃であったが、隣でゴホンと大袈裟に咳払いをした新太郎が、腫れた顔を凌庵に向けた。
「おいおい、彩乃先生。凌庵先生が無事だったのは重々めでたいけどよ・・・俺のこの顔の傷はどうしてくれるんだよ~?」
新太郎が顔の手拭いを指差しながら恨めしそうに割り込むと、凌庵は首をひねった。
「新さん、その顔・・・猫にでも引っかかれたのか?」
「ああ、めちゃくちゃに狂暴で怒りっぽい雌猫にな・・・。」
「雌猫とは何ですか!ほら、特製の練り湿布を貼ってあげますから、じっとしていてください!」
「痛たたた! 力任せに貼るなよ彩乃ちゃん! 皮膚が千切れる!」
「兄ぃ、花嫁はちゃんと選ばねえと命がいくつあっても足りねえぜ?」
「仁吉親分! 余計なことを言わないでくださいっ!」
新太郎の悲鳴と、彩乃の叫び声、そして慶斎や大家夫妻の温かい爆笑が天竜堂の格子戸を通り抜け、八丁堀の表通りへと響き渡っていく。
最初はただの「偏屈な蘭学医と、押しかけの助手」であった凌庵と彩乃。だが数々の死線を乗り越えた今、二人の間には言葉にせずとも深く温かい、かけがえのない絆が育まれていた。ささやかな賑やかさと笑顔を取り戻した天竜堂。 だが、仲間たちの笑い声を聞きながら、凌庵の瞳の奥には静かで激しい闘志が燃え上がっていた。
向かうべきは、内藤新宿の「仕舞屋」――そして、そこに蔓延る本多家と良伯の巨悪を打ち砕くための、最後の決戦へ向けて。




