二十四
神田明神の裏手に位置する、鬱蒼とした雑木林に囲まれた一角。そこに、新興の香具師・神楽坂の与兵衛が息の掛かった者たちに開かせている、お上の目の届かぬ秘密の賭場があった。夜も更けた頃、その賭場の奥座敷から、畳を蹴り飛ばすような激しい音と、下卑た男の怒声が響き渡っていた。
「すっこんでろ、この野郎! 俺を誰だと思ってやがる!」
大酒に酔って顔を赤銅色に染め、衣服をだらしなく崩して暴れているのは、長門守の嫡男である征八郎であった。 彼の足元には、賽ころを仕込んだ壺皿が無残に叩き割られ、与兵衛の手下である胴元の男が、額から血を流して畳に平伏している。征八郎が気まぐれに仕掛けた難癖に逆らった結果、手近にあった木の棒で容赦なく殴り倒されたのだ。
「若殿、お静まりくだせえ!お気持ちは分かりますが、ここらで色を付けてお引取りを・・・・。」
「黙れ、与兵衛の飼い犬が!寄るな、汚らわしい!与兵衛がこの神楽坂で幅を聞かせられるのは、どこの誰のおかげだ!全ては俺の父上の威光があったればこそだぞ!」
止めに入った男の顔面を、征八郎は鼻骨が砕ける手応えを愉しむように容赦なく踏みつけた。嫌な潰れる音が部屋に響くが、彼の目に宿る残虐な光は増すばかりだった。止めようとじりじりと取り囲む無頼漢たちを血走った眼で見回し、狂ったような哄笑を上げた。
「どいつもこいつも、この俺に指一本触れてみろ!打ち首獄門じゃあ済まさんぞ!貴様らのような泥水に生きる虫ケラとは格が違うんだ。俺はなァ・・・、直に徳川様のこの上ないご加護を得る身なのだっ!!それでも楯突くと言うなら、かかってこい!!」
その言葉は、単なる酔客の法螺ではなかった。神田の賭場での大立ち回り、数日前の柳橋の飲み屋での刃傷沙汰、そして大店の年若い女中を強引に拉致しての強姦――中には治療の甲斐なく息絶えた娘すら存在した。
しかし、征八郎が町奉行所に引き立てられることは一度として無かった。ここ半月の間に江戸の至る所で聞こえてくる本多征八郎の狂行の数々と、その都度彼が口にする「徳川の加護」という不気味な不遜。征八郎の乱行は酒のうえの過ちなどではなく、生まれついての化け物の気質――人の痛みを蜜と味わう狂気そのものであった。凌庵の天竜堂に運び込まれてくる傷病者のうち、実に五人に一人が征八郎の直接・間接の被害を被っていたと言っても過言ではない。
「本多の若殿と目を合わせたら食い殺される。」
「あの男は、人を痛めつけ、踏みにじらなきゃ生きている心地がしねえんだ。」
「鬼の血が流れているに違いない。
市井に伝播する悲鳴と不吉な噂。にもかかわらず何の取り締まりもなされないのは、幕閣の頂点に君臨する老中・本多長門守という巨大な後ろ盾があるからに他ならなかった。
同刻――四ツ谷にある本多家下屋敷の最奥。灯火を極限まで落とした一室に、江戸を揺るがす巨悪の合議が開かれていた。 どんよりと重苦しい香の煙が立ち込める中、上座に座る長門守は、忌々しげに手にした扇子を叩きつけた。
「この愚か者がっ!」
目の前から放たれた父の怒号を全身に浴びながら、征八郎は気怠そうに耳垢を穿くり、欠伸を噛み殺している。一稿に素行を改めない反抗的な態度に、長門守の額の青筋がピキピキと跳ね上がった。
「征八郎!貴様、賭場でああも醜態を晒した挙句に飲み屋での諍い、それに留まらず今度は大店の女中にまで手を付けただと!?今や巷では、其方の乱行は噂の種だ。現に高柳凌庵とか申す蘭学医が、儂らの足元に目をつけておるという報告が入っている。水野の残党を上手く躍らせ、儂が抑えたからよかったものの・・・万が一にも田安様の耳に入り、琴姫様との縁談が破談となったらどう致すつもりだ!」
ケッと蔑むように笑ってみせた征八郎は、酒臭い息を吐き出しながら横柄に言い返した。
「たかが奉行所の犬や町医者が嗅ぎ回った所で、我が本多家をどうこう出来はしますまい。琴姫様がこの俺に輿入れしさえすれば、我が家は将軍家と血で繋がるのです。町娘の一人や二人、叩き斬ろうが手込めにしようが、誰がこの俺にお咎めを立てられましょうか。」
「馬鹿者がっ!」
投げつけられた脇息が征八郎の肩を打つ。長門守は身を乗り出し、怒号を飛ばした。
「その重大な婚礼が控えているからこそ、表立った乱行は控えよと言っているのだ!幕閣の中には我が家の急進を快く思わず、粗を探そうと目を皿にしている者も多い。そんな中で貴様の乱行など格好の餌食!一歩間違えれば、田安家との縁談ごと吹き飛ぶぞ!」
「ふん・・・・、それでは父上の本多家の悲願が水泡に帰しますなァ?」
「貴様っ・・・!!」
激昂した長門守が立ち上がり、征八郎の胸ぐらを掴み上げる。親子が殺気立った火花を散らす中、その横で静かに座していた男が、滑り込むように割り入った。御典医・杉野良伯である。
「お落ち着かれませ、お二人共。」
良伯は細い目をさらに細め、取りなすように手を差し伸べた。
「若殿の血気盛んなのは今に始まったことではございませぬ。御年若ゆえの粗相もありましょう。ですが、病弱でひ弱な若君よりは、多少荒々しい方が天下を統べる君子にふさわしいとも言えましょう。」
思わぬ助っ人の登場に、勝ち誇ったような笑みを浮かべる征八郎。長門守は舌打ちをし、座布団にどっかりと胡坐をかき直すと、良伯を鋭く睨みつけた。
「他人事のように申すな、良伯!」
矛先が自分に向いても、良伯の表情は崩れない。しかし、次の瞬間、その声のトーンがすっと氷のように冷たく変わった。
「・・・ですが、若殿。私からも、今回ばかりは一言苦言を呈さねばなりませぬな。」
ねっとりとまとわりつくような良伯の異様な声に、征八郎の眉がピクリと跳ねる。
「何か?」
「あの芸者、蔦吉の一件にございますよ」
良伯は数珠を繰る手を止め、闇の中で妖しく目を光らせた。
「田安の琴姫様は御器量こそ良けれど、中々子種が付きにくいお身体と聞いております。本多家の血を盤石にするためには、徳川様の血を引く若君を確実に産ませる秘薬『永命丸』の完成が不可欠。だが、内藤新宿の仕舞屋に監禁して飼っている女どもは、薬の効きが薄く、中々に良質な子を孕まない。そんな中で、あの芸者・蔦吉が征八郎様の子を孕んだという報せを聞いた時、拙僧は降って湧いた極上の『材料』と喜んだのです。以前から若殿が目を付けられていた瑞々しい女……実に素晴らしい生薬の素であった。」
良伯の口から当然のように漏れ出た「材料」「生薬の素」という悍ましい言葉。部屋の空気、そして香の煙すらも凍りつく。
「それを若殿が、濡れ落ち葉の如く執拗に追い回した挙句、拒絶されたからと逆上して手荒に扱い、腑分けの前に息の根を止めてしまわれるとは・・・。死体から速やかに取り出したとはいえ、鮮度の落ちた『胞衣』を縫合して回収せねばならなんだ拙僧の苦労も察していただきたい。」
「・・・ふん、しかし叔父上」
征八郎は不気味に目を細め、せせら笑った。
「あれは結局、私が殺した後、叔父上が速やかに腹を裂いて、欲しかった『胞衣』を手に入れたのでしょう?結果は同じではありませんか。」
「左様。生きたまま腹を裂く手間が省けた、と言えばそれまでですがね。」
「それとも何か?生きたまま悲鳴を上げる女を差し出した方がお好みでしたか?」
淫猥と残虐が交錯する征八郎の問いに、長門守が「口を慎め!」と短く咎める。だが、良伯の口元には笑みが浮かんでいた。
「命は散りましたが、幸いにして回収した『胞衣』は純度が高く、町方の阿呆どもに気付かれる前に極上の薬種として精製できました。あの胞衣から抽出した薬効があれば、琴姫様の御身体を造り変え、本多の種を確実に宿らせることができる……。そして、琴姫様で結果が出れば、次なる対象は・・・。」
「大奥・・・か。」
長門守の呟きに、良伯が深く頷く。
「左様。琴姫様は言わば、本多家と徳川家を繋ぐ『表の鎖』。我らの狙う本元は、一言で幕閣の首すら挿げ替える大奥の権力。特に有力な御年寄の一人・大曾根様は、己の息の掛かったお部屋様方のために永命丸を強くご所望です。そして・・・例の秘香も。」
「うむ・・・、『佐葦の露』か。渡海屋の残党をすぐさま三国屋に匿わせて正解であったわ。甘美な香りで上様を虜にし、女には永命丸を飲ませて孕みやすい体を作る。我が家の縁戚である大曾根が、大奥の内部から手回しをしてくれれば天下は完全に我らの手中に落ちる。」
父と叔父が描くあまりにも巨大で禍々しい陰謀の全貌。さしもの征八郎も、その底知れぬ悪意の深さに背筋に冷たいものを感じ、短く息を飲んだ。
「・・・これは失礼いたしました、叔父上。高尚な『お薬事』の邪魔をしたとは、この征八郎、万死に値しますな。」
その口調には、父や良伯への反発と己の個人的な欲を「お家の大義」のために抑え込まれることへの、狂気的な苛立ちが滲んでいた。
陰謀の確認が終わると、長門守は視線を部屋の最暗部へと向けた。そこに平伏していたのは、廻船問屋・三国屋儀右衛門である。
「ところで、儀右衛門。例の『嗅ぎ回っている鼠ども』の始末はどうなっている。高柳凌庵という町医者が、長崎の鳴滝塾や大坂の華岡青洲の元で得た知識を以て、我が家の生薬の動向を探っているようだが。」
「はっ・・・。」
儀右衛門は畳に額を擦り付けながら、声を潜めた。
「凌庵の奴め、私が良伯先生と共に御典医の椅子をチラつかせて懐柔を試みましたが、『考えさせてくれ』などと抜かし未だ首を縦に振りませぬ。それどころか彼奴め、あろうことか『紫河車』という禁忌の生薬名を口にいたしました。確実に、永命丸の『本質』……人体を用いていることに気づき始めております。更に、その周囲を探る宮永英助という元町方崩れの小僧・・・あれが我らの情報を集めている気配がございます。」
「・・・これ以上、婚礼の前に雑音を増やすわけにはいかん。」
長門守の顔が、能面のような冷酷さに変わる。
「儀右衛門、神楽坂の与兵衛を通じて手配した『あの男』を動かせ。」
「ははっ。すでに甲源一刀流の達人にして、裏社会でも一、二を争う凄腕の刺客・林田十蔵を確保してございます。かつてはさる大藩の剣術指南番、今は市井でちっぽけな町道場を営んでおりますが、腕は確か。情け容赦のない冷徹な刃にございます。」
良伯が冷ややかに付け加える。
「凌庵は医学の知識だけは侮れんが、所詮はおめでたい人道主義の医者だ。十蔵を遣わし、再び凌庵に接触させよ。本多の陣営に下るか、あるいは口を瞑って江戸を離れるよう『最後の交渉』をさせるのだ。もし少しでも拒む色を見せるか、我らの仲間にならぬと分かれば・・・。」
長門守は、持っていた扇子で自らの首を真横に切る仕草をした。
「・・・その場で始末せよ。それから、地下に捕らえている宮大工の直吉という小僧……あの口も一緒に塞いでおけ。良伯、男の体も女の体も同じだ。殺した後は五臓六腑を切り取り、薬の材料に組み込むが良い。かつて首切り浅右衛門がそうしたようにな。」
「畏まり極めてございます。」
「征八郎、分かったな。其方には田安家との婚礼という大事な御役目があるのだ。当面は大人しくしておれ。」
「畏まりましたよ。まあ、例え正妻を迎えたとて、気に入った女を側女として囲うことまで咎められはしないでしょうからなァ・・・。」
「色魔めが・・・。」
暗がりの中、良伯の不気味な笑い声と、征八郎の狂気を孕んだニヤけた顔が重なり合う。本多家の恐るべき謀略が、ついに凌庵たちに対して明確な「殺意」の牙を剥いた。
ほぼ同時刻、鎌倉河岸にある三国屋儀右衛門の豪華な邸宅。その客間に、神楽坂の与兵衛が乗り込んでいた。
「元締、お待ちしておりました。」
儀右衛門は揉み手で丁寧に迎えるが、与兵衛は挨拶も返さず、苛立ちを隠そうともしない。与兵衛は差し出された盃に注がれた毒々しいまでに赤い洋酒を一気に飲み干すとバンッと激しい音を立てて机に叩きつけた。粗暴な目つきには、限界に近い激怒と疲弊が色濃く差していた。
「どうなされた元締、そうお声を荒らげなさって・・・。」
「おい三国屋の旦那ぁ、いい加減にしてくれねえか!俺ぁな、本多家の下請け屋でもなければ、あの若殿の小便を拭う雑用係でもねえんだぞ!」
「まあまあ、そう興奮なさるな。お上のお仕事に苦労はつきもの・・・・。」
「お仕事だと!?」
与兵衛は身を乗り出し、喉の奥から絞り出すような低音で儀右衛門を睨みつけた。
「あのキチガイ、本多のバカ殿の後始末が俺たちの役目なのか!?賭場で暴れた手下の首を飛ばし、柳橋の女中を手籠めにしては脅しをかけて揉み消し、挙句にはあの芸者・蔦吉の事件だ!『俺は徳川様の加護を受ける身だ』だぁ? 酔っ払って街中で叫び散らしやがって、おかげで南町の目がいつになく光ってやがる! 奉行所の目を盗んで、征八郎の後始末をする俺たちの身にもなってみろ!」
「・・・若殿の血気が勝るのは、誠に困りものですがね。」
儀右衛門は表情ひとつ変えず、静かに扇子をパチリと閉じた。その無神経な余裕が、与兵衛の怒りに火を注ぐ。
「それだけじゃねえ!あの狂気じみた御典医・杉野良伯だ!『子種を宿すに打ってつけの、手頃な若い男と女を集めろ』だと? 行方不明の男女を探す親類どもが奉行所に駆け込んで、八丁堀の同心どもが躍起になって動いているんだぞ! 内藤新宿の仕舞屋の地下に監禁して、無理やり子を孕ませて『薬の材料』にするなんざ・・・香具師の俺たちだって跨ぐのをためらうほどの道徳外れだ! いくら本多家から莫大な金が流れてくるとはいえ、いつ俺たちの首が飛ぶか分かったもんじゃねえ。いよいよ胸糞悪くてうんざりなんだよ!」
与兵衛は荒い息を吐きながら、日頃の不満をぶちまける。
「何よりも許せねえのは、仙之助と黒沢左門の馬鹿共だ!どいつもこいつも脇が甘えから町方に捕らわれ、結局渡海屋は打ち首獄門。その後始末だって俺が血の汗を流したんじゃねえか!危うく『佐葦の露』が完全に町方の手に落ちるところだったんだぞ!仙之助に貸してやった岩永又右衛門や疾風の久蔵・・・、腕の立つ頼もしい手駒を何人失ったと思っていやがる!」
「・・・落ち着きなされ、与兵衛さん。」
少し語気を強め、儀右衛門が与兵衛を制した。廻船問屋として荒波をくぐり抜け、巨財を成した男の眼光は、裏社会の元締をも呑み込むほど鋭い。儀右衛門は冷えた茶を一口啜ると、濁った瞳に底知れぬ野心の光を宿し、ねっとりとした声を落とした。
「与兵衛さん。これら全ての『犠牲』は・・・、決して無駄ではございませぬ。幕閣内からあの石頭の老中たちを完全に追い落とし、公方様の御器量に及ばぬ出来損ないの御世継様を廃し、本多家の血を引く新たなる大権現の御世継様を・・・大奥の奥深くで生み落とすための、偉大なる御業なのです。」
「ふんっ、そう上手くいくものかね・・・。そんなものは建前だ。本当はあのキチガイ医者・良伯の腑分け趣味と、本多家の権力欲につき合わされているだけに思えるがな!」
その言葉を聞いた瞬間、儀右衛門の柔和な顔からすべての温もりが消え去った。 儀右衛門は静かに身を乗り出し、与兵衛の耳元へ顔を寄せると、氷のように冷ややかな小声で囁いた。
「言動には気をつけられよ、与兵衛どん。良伯先生だけの思惑でお話が動いているとでも?」
「違うのか?」
「これらは全て、本所の『鷹の御前』の御指図でございます」
「・・・!?『鷹の御前』だと!?」
その通称が口にされた瞬間、与兵衛の全身の筋肉が恐怖でガチガチに強張った
――鷹の御前。その正体は誰も知らない。しかし幕閣中枢にまで影響力を持ち、裏社会の者たちがその名を耳にするだけで生きた心地を失うという影の支配者である。
「な、なぜ・・・そのようなお方が、この件に・・・。」
「詳しいことなど、我らが知る必要はございませぬ。」
儀右衛門は、相手の恐怖を確かめるようにゆっくりと頷いた。
「天下の大事を成し遂げるためには、市井の泥草鼠が数人消えようが壊れようが知ったことではない。お上に立つお方というのは、どうしてこうも非情になれるものか。我らはただ、その巨大な流れに身を任せ、落ちてくる滴を拾えばよいのです。」
「・・・ふんっ。」
与兵衛はガタガタと震える手で盃を拾い上げ、酒を注ぎ足した。顔を覆い、深い溜め息をつく。
「・・・天下のためか、俺たちの命の担保か知らんが、まったく苦労が絶えねえよ。結局は、オメエさん達が懐柔しようとして失敗した、あの『高柳凌庵』とかいう生意気な町医者や直吉の後始末まで、俺の手下にやらせなきゃならねえんだからなァ・・・。」
「まあ・・・、あの医者は恐らく一筋縄にはいかぬはず。ククク、苦労をおかけしますなァ。」
儀右衛門は脂ぎった顔を歪めて不気味に微笑んだ。
「神楽坂の裏の繋がりを通じ、長門守様からの破格の報償で動かした影の用心棒・林田十蔵先生は甲源一刀流の達人。これまでも数々の暗闘を難なくこなしてきたお方です。町医者の首を斬り落とすなど、造作もないことでしょう。」
「しかし三国屋の旦那、舐めてかからない方がいいぜ?」
与兵衛は目を鋭くして釘を刺した。
「あの凌庵って医者、ただの学者じゃねえ。長崎の鳴滝塾で鍛え上げた手練れで、蘭学の知識だけじゃなく、並の相手なんざァ一瞬で関節を叩き折る体術の腕を持っていると報告が入っている。更に、あの八丁堀の江戸屋長兵衛と固く結びついてやがるんだ。あの元締が一言指図をすれば、江戸はおろか関東八州の無頼どもが束になって襲いかかってくる。一筋縄ではいかねえよ・・・。」
与兵衛の懸念に対し、儀右衛門は薄汚い笑みをさらに深くした。
「ふふふ・・・力づくで倒せぬならば、別の方法がございますよ。あの男は『蘭学』を修めた者。お上は今、蘭学を危険思想として強く警戒しておられる。いざとなれば、鳥居耀蔵様やそれに連なる幕閣を操り、『過激な蘭学思想に染まった危険分子』として濡れ衣を着せ、お上の力で物理的に口を封じさせればよいのです。お上や金の力を使えば、医者一人潰すなど造作も無い事。私も、大奥の側から存分に手を回して尽力いたしますよ。」
闇の中で二人の悪党の笑い声が低く重なり合い、恐ろしい密議は幕を閉じた。老中・本多長門守の野望、御典医・杉野良伯の狂気、そしてその背後に透けて見える「鷹の御前」という巨大な黒幕の影――。逃げ場のない包囲網が、着々と高柳凌庵と、彼を助ける者たちの頭上に押し寄せていた。
同じ頃、夜の八丁堀。 天竜堂の奥座敷では、凌庵が行燈の灯火の下で古い蘭学書を開き、真剣な眼差しで「紫河車」と「生薬の毒性」についての記述を追い続けていた。 その傍らでは、傷を癒やされた元町方崩れの宮永英助が、復讐の炎を宿した瞳で刀の柄を固く握りしめている。
彼らはまだ知らなかった。神楽坂の与兵衛の手下と、冷酷無比の刺客・林田十蔵が、地下牢に囚われた宮大工・直吉の命と、凌庵の首を狙ってすでに暗躍を開始していることを。 そして、内藤新宿の仕舞屋で今も行われている、人間を薬の材料としか見なさない惨虐きわまる謀を。
凌庵を遮る南町の壁は高く、敵の権力はあまりにも絶大であった。 しかし、凌庵の胸に灯った「医者としての誇り」と「悪に対する静かな憤怒」は、やがて江戸の街を揺るがす壮絶な荒療治へと、激しく昇華していくのだった。




