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二十三

  「勘兵衛さん。武芸百般、天下無双と謳われたあんたが、珍しく下手を打ったな。」

 「ははは、面目次第もない・・・。」

 八丁堀岡崎町の天竜堂のなかには、むっとするような生薬の苦い匂いと、それに負けないくらい濃厚な男の汗の臭いが立ち込めていた。長い刀や槍、盛り場での大道芸に使う古びた道具類を玄関先に置かせてもらい、診察台の前で熊のような巨躯を丸めて座っているのは、近所でささやかな町道場を営む傍ら、浅草や両国の盛り場で「ガマの油売り」をして日銭を稼いでいる浪人、武藤勘兵衛。通称 「ガマ勘」であった。さながら鍾馗の様な無精髭を生やした厳つい面構えに似合わず、今の男はひどく小さくなって、凌庵とその傍らで美しくも厳しい仁王立ちを見せる彩乃の視線から逃れるようにそっぽを向いている。

 「それで、勘兵衛さん。この手の甲の真新しい切り傷は何ですか?」

 彩乃が、まるで出来の悪い子供を叱る寺子屋の師匠のような、冷ややかで容赦のない声を出す。勘兵衛は太い指でボリボリと頭を掻きながら、照れ隠しにふんぞり返ってみせた。

 「いや、何だ。その・・・いつもの看板の一人芝居でな。真剣を二の腕に当てて『一枚めくれば血がにじむ、二枚めくれば――』と威勢よくやっておったらな、足元で野良猫がニャアと鳴きおった。踏んでは可哀そうだと思ってな、少々手元が狂い、ガマの油の効き目が追いつかぬ程に本物の血がにじんでしもうたわけよ。いや、面目ない。」

 「『面目ない』ではありません! 自分の刀で自分を斬って医者へ駆け込むなど、何でも道場の主が聞いて呆れます。いつも江戸屋の親分さんの身辺警護を引き受けてくださっているからと安心しておりましたのに、これではどちらが護衛されているのか分かりません!」

 「猿も木から落ちると言うではないか、はっはっは。」

 「笑い事ではありませんっ!! 少しは気を付けてください!!」

 彩乃の容赦のない正論の癇癪玉が炸裂し、勘兵衛は「面目次第もない」と大きな身体をさらに縮こまらせた。その様子がおかしくて、凌庵は苦笑しながら袱紗で傷口を丁寧に拭い、手際よく特製の膏薬を塗って包帯を巻いていく。

 「まあ良いじゃないか、彩乃殿。勘兵衛さんの剣技が確かなのは、江戸屋の親父さんが一番よく知っている。この傷も大したことはない、三日もすれば綺麗に塞がるよ。」

 「さすが凌庵先生、話が分かる!どうだ彩乃さん、先生もおっしゃる通り・・・。」

 その時だった。 天竜堂の表通りから、突如として血の凍るような悲鳴と、獣じみた怒号が響き渡った。

 「斬り合いだァー! 侍と町奴の喧嘩だぁ!!」

 凌庵と勘兵衛の目が、同時に刃のように鋭くなった。次の瞬間には、二人は草履を引っ掛け、診療所を飛び出していた。十数間先、入り組んだ長屋の路地裏の中で、白刃の擦れ合う不穏な金属音が激しく響いていた。その中心で狂ったように刀を振るっているのは、昼間に凌庵を襲撃したあの若い浪人、宮永英助だった。しかし今の彼は、明らかに多勢に無勢。彼を取り囲んでいるのは、「丸に神」の紋をどこかにあしらった着物を着崩し、長脇差を振り回す十数人の無頼漢たち――神楽坂の与兵衛の配下たちであった。

 「おい若造、こちとら手前には何の恨みもねえが、親分の命令だ!」

 「くそっ! 多勢に無勢、卑怯だぞ!」

 「しぶとい野郎だ! 観念しやがれ、宮永の残りカスが!」

 「黙れ、悪党どもめが!」

 英助は激しく息を切らせ、片方の肩からべっとりと血を流しながらも執念で刀を振るっていたが、疲弊の極みにあるせいか、背後から音もなく迫るもう一振りの凶刃に気づいていない。

 「危ない!」

 凌庵が叫ぶと同時に、懐から取り出した金属製の手術刀を凄まじい精度で風を切って投げつける。刃はヤクザの右腕に正確に突き刺さり、長脇差が落ちて甲高い音を立てた。

 「何だ手前ぇ!」

 「ただの町医者だ。目の前で怪我人が出ようとしているのに、見過ごしには出来ぬ。助太刀させてもらうぞ!」

 「構わねえ、まとめてやっちまえ!!」

 凌庵は、こんなチンピラ相手に脇差を抜く必要もないと、体術で応戦すべくすっと両手を前に出そうとした。しかし、後ろからその肩をポンと叩く太い手があった。ガマ勘こと、武藤勘兵衛である。

 勘兵衛は、普段の大道芸の道具に混ぜて常に帯びている六尺の短槍を右手に掲げ、不敵な笑みを浮かべた。

 「先生、医者が腕力沙汰はいかん。こういう泥臭い事は、この儂が請け負おう。」

 ずいっと前に出た勘兵衛は、短槍の切っ先をチンピラどもの鼻先に向け、低く地鳴りのような声を轟かせた。

 「剣心館主、武藤勘兵衛だ! 数に物を言わせる腰抜けども! 儂が相手となってやる、かかってきな!」

 勘兵衛の短槍が夜の闇を引き裂いて唸りを上げるたび、ヤクザ者が一人、また一人と石畳に叩き付けられて転がっていく。流石に勘兵衛も無用な殺生は望まず、刃ではなく柄や石突を用いて、相手の急所を的確に外して無力化していた。

 凌庵もまた、勘兵衛の死角から回り込もうとしたヤクザ者を、洗練された古流の体術を用いて迎え撃った。凌庵の懐に飛び込んだ一人は容赦なく地面に投げ飛ばされ、もう一人は一瞬の交差で手首の関節を外され、刀を落としてその場にのたうち回った。

 圧倒的な二人の実力者の介入により、与兵衛の配下たちは「ひえっ!」と短い悲鳴を上げ、形勢不利と見るや、這う這うの体で闇へと逃げ去っていった。

 息を荒くしてその場にへたり込んだ宮永英助を、凌庵は静かに見下ろした。英助の瞳からは、昼間の狂気的な敵意は完全に消え失せ、ただ深い絶望と憔悴が滲んでいた。

 「また会ったな。宮永英助さんだったかな?」

 「・・・ご苦労をおかけいたした。」

 凌庵たちは英助を天竜堂の奥座敷へと連れ帰り、急ぎ傷の処置を施した。彩乃は目を丸くして心配そうに見守っていたが、処置が終わり、白湯を一口飲んだ英助の口から、すべての真相が明かされた。

 「先生を狙うなんて、とんでもない早とちりを!」

 事情を知った彩乃が凄い剣幕で声を上げると、英助は畳にきつく額を擦り付けた。

 「申し訳ございません! 全ては手前の不徳、浅はかさが招いた事・・・。」

 「まあまあ、彩乃。まずは落ち着きなさい。」

 凌庵は彩乃を宥め、英助に向き直って改めて静かに問いかけた。

 「ようやく話してくれるな、英助さん。」

 「はい・・・、改めて名乗り申す。私は元南町奉行所同心、宮永英助と申します・・・。」

 重い口を開いた英助は、凌庵を狙った理由を淡々と、しかし怒りに声を震わせながら語り始めた。

 「私の父、宮永英次郎は、密かに典薬寮にて行われている御法度の『試し』・・・すなわち、御法度の薬に関する不正を、同輩である更科茂左衛門(さらしなもざえもん)殿と共に内偵を進めておりました。寝食を忘れて調べておりましたが、あと一歩と言う所で上から調べの中止を厳命されたのです。茂左衛門様は最後まで抗いましたが、それが元で風烈廻りという閑職に飛ばされてしまいました。」

 「そして父上は、妾と心中をされた、と?」

 「違うっ!!」

 英助は突如、激しく叫んだ。その目は血走っている。

 「父は、心中などしていない! 御典医・杉野良伯の手の者によって闇討ちにあい、心中へと見せかけて殺されたのだ。そして、私の妹の佐和は・・・!」

 英助は拳を握りしめ、爪が肉に食い込んで畳に血が滲むほどに、床を見つめた。

 「先程申しました試しとは、秘密裏に行われていたと言う腑分けです。・・・私の妹の佐和も、父の死の真相を暴くべく評定所へ直訴に行きその途中で姿を消した。そして、奴らの試しの犠牲になった。数日後、大川から揚がった妹の身体には・・・中身が、五臓六腑が、何一つ残されていなかったっ!」

 英助の涙が、大粒の雫となって畳に染み込んでいく。その言葉は、福寿堂の善右衛門が口にした「唐土の寄食伝説」と、芸者・蔦吉の無残な腑分けの痕跡、そして消えた宮大工・直吉の謎を、あまりにも生々しく一本の黒い線へと繋ぎ合わせていった。

 「それで、良伯の身辺を探っていたのです。良伯は八丁堀に居を構えており、更に柳橋には馴染みの妾がいると言う噂を聞きつけ、張っておりました。鶴亀屋は柳橋でも聞こえた名店、そこから堂々と出てきた貴殿の後ろ姿を見て、私は良伯と勘違いしたのです。そして段々と核心に迫り、良伯が神楽坂の与兵衛と言う香具師と内通していると聞きつけ、与兵衛一家の屋敷へ向かう途中で、先ほどの袭撃を受けた次第にございます・・・。」

 「成程な。あんたもそれなりの腕前らしいが、多勢に無勢じゃあどうにもならん」

 勘兵衛が腕組みをして深く頷く。家族を無残に殺され、その張本人が権力者として栄耀栄華の暮らしを送っているとなれば、若者が正気を失って暴発するのも無理はなかった。

 「まずは英助さん、その身体では何もできまい。一先ず、勘兵衛先生の道場に身を隠し、身体を休めるんだな。悪い様にはしない。」

 「迷惑をかけたと言うのに、此処までして頂き・・・誠に申し訳ございません。」

 「気にしなさんな。勘兵衛さん、後は頼んだよ。表通りは奴らの目が光っている、裏の木戸から回ってくれ。」

 「おぅ、任せておけ。おい若造、しっかり掴まってな。」

 「勘兵衛さん、英助さんに変な油売りの口上なんか教えるんじゃないよ?」

 「はっはっは、そいつは儂の商売敵になるから教えんよ!」

 笑って誤魔化す勘兵衛に連れられ、英助は裏口から道場へと向かった。 まさか、昼間に自分を殺そうとした男とこれほど深く関わることになるとは。そして、互いに目指すべき「闇の正体」が一致するとは。運命の巡り合わせとは、時に奇妙なものだと凌庵は感じていた。

 永命丸を巡る謎を解け  ――それはまるで、医者である凌庵に課せられた天命のようでもあった。

 

 英助が勘兵衛に連れられて外に出て間もなく、凌庵と彩乃が少し遅い昼餉を取っていると、天竜堂の前に一台の豪奢な黒塗りの駕籠が音もなく停まった。ちらりと格子戸の隙間から見えたその駕篭の装飾に、凌庵は確かな見覚えがあった。

冠木門を抜けて入ってきたのは、仕立ての良い一級の絹の着物を優雅に纏った医師と、その傍らで傲然と腕を組み、大店の主らしき尊大な雰囲気を漂わせる初老の男であった。

 医師の方はよく知っている――御典医、杉野良伯だ。

 「昼餉の最中に済まぬな。また会ったのぅ、高柳凌庵殿。」

 「貴殿は確か、幕府御典医の杉野良伯先生。」

 「覚えていてくださったか、これは光栄だ。」

 良伯の声は、上質な絹が擦れ合うように優しく、心地よい響きを持っていた。しかし、その端正な顔に張り付いた完璧な笑みの奥には一切の人間的感情が欠落した、絶対的な虚無が潜んでいる。凌庵の医者としての本能が、激しい警鐘を鳴らしていた。

 「まあ、お上がりください。大したおもてなしは出来ませんが。」

 凌庵は良伯と、商人風の男を中へ招き入れた。奥の次の間に通され、出された座布団に二人が腰を下ろすと、彩乃が緊張した面持ちでそつなく茶を運んできた。良伯はその彩乃の顔をじっと見つめ、細い目をさらに細めた。

 「おや、貴女は確か・・・あの藤村家の。」

 「私の父をご存じなのですか。」

 「ええ、かつては何かと良くして頂いておりましたよ。」

 「左様でございますか。ところで、このような場末の町医者に何の御用でしょうか。」

 彩乃の冷淡な問いかけに、良伯は鈴を転がすように軽やかに笑った。

 「ははっ、あまり歓迎されていない様ですな。まあ、無理もない。」

 彩乃には分かっていた。良伯が口にした「良くして頂いていた」という言葉は、かつて父を陥れ、 藤村家を改易に追い込んだ張本人としての、冷酷な世辞に過ぎないのだということを。

 ずずっと上品に茶を啜った良伯は、隣の商人風の男を細い指で指し示した。

 「此方はな、三国屋儀右衛門様と言ってな。江戸でも五本の指に入る大層な廻船問屋だ。」 「お初にお目にかかります、三国屋儀右衛門と申します。世間では三儀などと頭を下げられておりまする。」

 儀右衛門は頭を下げたが、その眼光は常に凌庵の懐を探るような、貪欲な商人のそれであった。

 「して、御典医様が何用ですか? 私は今、南町奉行所より余計な詮索はするなとお叱りを受け、大人しくしている身ですが。」

 凌庵がわざとらしく冷淡に返すと、良伯はまたくくくと笑った。

 「やれやれ、そんなに警戒しないでほしい。高柳殿、貴公はこの八丁堀に腰を落ち着けて、どのくらいになりますかな?」

 「まだそれほど年月は経っておりません。」

 「左様か。貴公は聞けば、長崎の鳴滝塾の系譜を継ぎ、医学においては五指に入る高弟であったとか。にも関わらず、つまらぬ幕府の勝手都合に付き合わされ、このような日陰に追いやられた。私はね、それを深く惜しんでいるのだよ。貴方のその卓越した医術の腕前と、物事の『本質』を見抜く鋭い眼孔を兼ねてより高く評価しているのだ。」

 「左様ですか。恐れ入ります。」

 淡々と謙遜する凌庵を見て、良伯はいよいよ話の本題を切り出した。

 「そこでどうだろう。退屈な町医者を辞めて、私と共に奥向き(大奥)の医療に携わってはみないか?」

 「奥向き、ですか?」

 「左様。それほどの腕がありながら、一介の町医者に収まるのは国家の損失だ。」

 良伯の傍らから、三国屋儀右衛門が濁ったしかし力のある声で割り込んできた。

 「凌庵先生、これは千載一遇の好機でございますよ。我ら三国屋の圧倒的な資金力と長崎からの廻船、そして何より、大奥の最高権力者である御年寄・大曾根様が、我らの後ろ盾になってくださることが約束されている。君が我らの新薬『永命丸』制作の陣営に加わってくだされば、即座にお上の御典医の椅子を用意いたしましょう。今でこそ、検使医などという煩わしい御役目を押し付けられ、挙句に気を回せば余計な事をするなとのお叱りを受ける身。今の不遇な立場と、約束された御典医の地位・・・迷う事もありますまい。先生なら、法印の位も夢では御座いませんぞ?」

 黄金と権力という名の、目も眩むような光の誘惑。 凌庵は静かに良伯の瞳を見つめ返し、極めて穏やかな、しかし鋭利なメスを含んだ声で問いかけた。

 「御典医になれるというのは、確かに私のような日陰者には魅力的なお話ですね。・・・ですが、その『永命丸』の驚異的な効能の裏には、何やら不穏な噂も聞こえてくるのですよ。唐土の禁忌たる生薬・・・例えば、生きた妊婦の胎盤を用いた『紫河車』の様な、悪しき肉体が使われているという 噂話を聞きましたが?」

 その瞬間、天竜堂の空気が完全に凍りついた。三国屋の目がぎょっと見開かれる。 しかし、良伯の顔に浮かんだ笑顔は少しも崩れなかった。彼はまるで無邪気な子供のように肩をすくめ、くくくと喉を鳴らして笑い声を漏らした。

 「ハハハ!素晴らしい想像力だ、凌庵先生! 確かに昔の首切り役が腹肝を取り出し、不老の薬を作っていたという街の怪談はあるが、それは所詮、絵空事だよ。『永命丸』は、純粋なる和漢の生薬の結晶だ。そんな悪しき、生臭いものが混ざっているはずがない。あまり医療の本質を疑ってかかるのは、感心せぬな?」

 完璧な偽証。しかし、その嘘の「完璧さ」こそが、目の前の男が人間の心を持たぬ異常者であることの、何よりの証明であった。凌庵は静かに息を吸い言った。

 「・・・急な話故、少し考えさせていただけますか。私如きにはあまりにも大きすぎるお話ですので。」

 「勿論良いとも。賢明な貴公のことだ、近いうちに素晴らしい返答が聞けることを期待しているよ。」

 「信じておりますぞ、先生。先生の心も、我らと同じ大志を抱いていると・・・。」

良伯と儀右衛門は不気味な底の知れぬ笑みを残し、天竜堂を去っていった。彼らが去った後の診療所には、上等なお香の匂いの裏に微かな生臭い血の残香のようなものが澱みとなって残されていた。

その様子を物陰からじっと聞き耳を立てていた彩乃が、すっかり青ざめた顔で凌庵の前に歩み寄ってきた。その大きく美しい瞳は、今にも張り裂けそうな不安に揺れている。

 「どうした?」

 「先生・・・まさか、あの者たちの誘いに乗るのではありますまいね?」

 「・・・もし俺が、栄達を望みその誘いを受けると言ったら、どうする?」

 「嫌です!!」

 彩乃は激しく叫んだ。その澄んだ瞳から、今にも涙が零れそうだった。

 「虎の威を借り、お上の権力の座に就くなど・・・先生の往くべき道ではありません! 奥医師の 娘たる私が言うのもおかしな話ですが、先生は今まで通り、この狭い江戸の町で、名もなき大勢の患者さんの為に泥にまみれて生きてこそです・・・・!お願いです先生・・・・、あの誘いは断ってください!」

 「彩乃殿・・・。」

 不安に押しつぶされそうな彩乃の頭に、凌庵はポンと大きく温かい手を置いた。そして、いつになく優しい、陽だまりのような笑顔を彼女に向けた。

 「馬鹿を言いなさい。俺がそんな大層な椅子に興味がないことは、お前さんが一番よく知っているはずだろう。俺はただの八丁堀の町医者だ。身の丈に合わぬ暮らしは窮屈なだけさ。俺は此処で、お前さんや長屋の連中と汗水をたらして働いている方がいい。」

 その言葉を聞いた瞬間、彩乃の胸からすっと緊張の力が抜け、白い頬に微かな朱が差した。

 「・・・左様でございますか。安心いたしました。」

 「全く、子供みたいに震えなさんな。」

 「・・・子ども扱いしないでください!」

 その微笑ましい風景を、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら見ている者がいた。裏口からひょっこりと顔を出した、江戸屋仁吉だ。

 「お邪魔かぇ? 御両人。」

 「お、おう仁吉。お前一人か?」

 「彩乃先生は兄貴がいなくなると、寂しいんだねぇ。お熱いこって・・・。」

 「な、何を言っているのですか、そんなんじゃありません!! 私はただ天竜堂の行末と、江戸の 患者さんの心配をしただけです! もういいわ、私は今から夕飯の買い出しに行ってまいります!仁吉親分の馬鹿っ!!」

 慌てふためいた彩乃はまるで癇癪玉が弾けたように顔を真っ赤にして、買い物籠をひったくると庵の表へと飛び出していった。それを見送った仁吉はすぐに表情を引き締め、凌庵に向き直った。

 「兄貴、冗談はここまでだ。ちょっと一緒に来てくれねえか。」

 「俺は調べの世話を焼くなと、南町奉行所から厳命を受けたのだぞ?」

 「だからって、このままじゃ収まらねえだろ? 直吉の兄貴もお菊ちゃんも泣いてるんだ。ここからは奉行所を通さねえ、俺の独断だ。こういう裏の件に、めっぽう役に立つ人を知っている。」

 「誰だそれは?」

 「御成道の達磨だよ」

 

  仁吉の提案を受け、凌庵はすぐに行動を起こした。江戸の街に張り巡らされた、奉行所さえも関知せぬ「裏の情報網」と接触するためである。神田・御成道に店を構え、表向きは記録用の古書や日記を扱う商人でありながら、その実、江戸中のあらゆる事件や旗本・大名のスキャンダルを網羅している情報通――「御成道のだるま」こと、藤岡屋由蔵(ふじおかやよしぞう)の元を訪ねた。

 「いるかなぁ・・・。」

 チラチラと往来を探しながら歩くと、筵を広げて古書や古道具を並べ、その真ん中で一人の男がウトウトと居眠りをしているのが見えた。品物を熱心に勧めるわけでもなく、通りすがる客を呼び止めるわけでもなく、ただどっしりと座っている。口髭も相まって、その姿は確かに壁に向かう達磨のようであった。おざなりに建てられた高札には「藤岡屋」と墨書がある。

 しかし、客がいないわけでは無かった。そこには一人、坊主頭に華美な羽織を引っ掛けた、ただ者では無い雰囲気を漂わせる男が立っていた。先程の杉野良伯とは対極にあるような、俗っぽくもヤクザのような厳つい威圧感。

 「あのお方は・・・、練塀小路の河内山宗俊(こうちやまそうしゅん)様だ」

 仁吉が声を潜めて呟く。

 「ほう、あれが幕閣をも恐れぬ強請屋坊主と噂の。」

  宗俊はウトウトとしている由蔵の肩を太い延べキセルで小突き、声を掛けた。

 「おい本由、起きろ。」

 「・・・おぅ、練塀小路の。またどっかの大名の噂話でも欲しいのかぇ・・・?」

 「ああ・・・。だが、話が欲しいのは俺だけじゃねえ様だぞ?」

 二人の視線が、同時に凌庵たちへと向けられた。

 まるで天がこの瞬間に示し合わせたかのように、江戸の影の情報源がそこに集っていた。御成道の情報屋たる藤岡屋由蔵、そして幕府閣僚の奥深くに出入りして茶を出す御数寄屋坊主・河内山宗俊。お上の役人や大名ですら、その存在を恐れるという裏の大物であった。

 「おや、江戸屋の若親分に・・・天竜堂の二八先生かえ?」

 「ほほう、噂の町医者か。本由、こいつは面白い顔合わせになったな。」

 「ろくな噂ではないだろうよ。それで、何を聞きたいのかね?」

 由蔵は面倒そうに立ち上がると、「場所を変えるか」と、御成道の片隅にある静かな茶店へと凌庵たちを誘った。そこで凌庵は本多長門守一派の動き、そして永命丸作成に乗り出す杉野良伯の影について、二人の情報通に端的に切り出した。

 宗俊は煙管を灰吹きにトントンと叩きつけると、その濁った。しかし全てを見透かすような眼で凌庵を凝視した。

 「・・・ククク、やはりそこへ行き着いたか。若先生、お前さんは命が惜しくないと見えるな。いいだろう、せめてもの冥途の土産として聞くがいいよ。」

 ひっひっひと不敵な笑みを浮かべ、由蔵が懐から古びた手帳を取り出して話し始める。

 「老中・本多長門守忠次は、失脚した水野忠邦の後釜として老中首座の座を絶対のものにするため、大奥の『大曾根』を完全に抱き込んでいる。その道具に使われているのが、その『永命丸』だ。大曾根をはじめとする大奥の権力者どもは、すでにあの薬の『依存性』によって、本多家なしでは生きられぬ体になっているのさ。お上と大奥の黒い密約、これが南町奉行所さえもねじ伏せる力の正体だ。」

 由蔵の言葉で、権力構造の表層がはっきりと見えた。しかし、それだけではなかった。

 「それだけじゃござんせん、奴らの切り札は永命丸だけじゃねえ。その昔、江戸中で流行って多くの女を狂わせた淫毒の媚薬『佐葦の露』の残党が裏にいる。薬と香りの二つを用いて、完全に大奥を依存の底へ沈め、懐柔に掛かっている様だ。その実務に関わっているのが御典医の杉野良伯、そして良伯を熱心に目にかけて利用しているのが本多長門守って訳だ。」

 「すべては、権力の最高峰にある水野忠邦を完全に失脚させる為か。」

 「流石に耳が早いな先生。長門守が狙うのは、幕府を意のままに動かす老中首座の地位。かつて水野忠邦様もまた、自分の実弟を勘定奉行の要職に据えて権力を固めようとした。長門守も、全く同じ事をしようとしているのだよ。」

 「同じ事・・・?」

 今度は河内山宗俊が、新しく煙草をキセルに詰め、煙をふかしながら淡々と信じ難い真実を語り出した。

 「本多長門守と、御典医・杉野良伯の事だ。あの二人はな、赤の他人じゃあねえんだ。・・・実は、同じ父親を持つ異母兄弟なのさ。」

 「な、何だって!?」

 仁吉が思わず声を上げる。宗俊は不気味に目を細めた。

 「良伯の旧名は本多信之助(ほんだしんのすけ)。本多家の血を引きながら、訳あって典薬寮の杉野家に養子に出された男だ。つまり、あの二人は『本多家の血の呪い』によって結ばれた、一心同体の怪物なのさ。兄が御上に代わって政を司り、弟が上様の御身体を診る。そして先ほど先生が言った件の永命丸・・・女の胞衣を使うという狂気の薬。それを、上様の子を孕む事が勤めの大奥へ差し出し大奥を支配する。一粒で二度美味え、医食同源に工夫を凝らした陰謀と言う訳だな・・・。」

 「それだけじゃねえぞ」

 由蔵がさらに手帳をめくる。

 「長門守の嫡男・征八郎は、田安様の姫君との婚礼も間近に控えているんだ。田安の姫は、上様の従妹にあたるお方。つまり本多の血筋を、徳川の血筋そのものへ食い込ませ、入り込もうとしているんだ。恐ろしい話だろ?」

 本多長門守の陰謀は、想像を絶するほど巨大で悍ましいものであった。だがそれと同時に、凌庵はこの二人の情報網に戦慄を覚えた。宗俊には御家人崩れや元掏摸、無頼浪人や密貿易の商人まで、脛に傷を持つ輩がいくらでも群がっているというが、これほどの上層の機密を平然と仕入れてくるとは。

 「じゃあ、南町の片桐民部が兄貴(凌庵)の動きを封じたのは、本多の差し金か?」

 仁吉の問いに、由蔵が薄笑いを浮かべて頷く。

 「ああ、狡猾な本多様の事だ。上手いこと水野様を使って、蘭学嫌いの鳥居耀蔵をたきつけた。凌庵先生を目にかけているのは、水野様とは普段から虫が好かねえ遠山奉行だからな。鳥居を使って先生の動きを封じるなど、お上にとっては赤子の手をひねるようなものよ。」

 市井の情報屋のお陰で、闇に潜む悪党たちの役者がすべて揃った。その役者たちの言動が、凌庵の頭の中で次々と魔のパズルのように合致していく。

 「成程、奴らの思惑がすべてわかった気がするよ。ありがとう、御二人さん。」

 「先生、あまり無茶をしなさんなよ? あんたもまた・・・容易に動けねえ御人なんだ。色々な意味でな・・・。」

 去ろうとしている凌庵の背中に、由蔵が低い声で忠告を投げかけた。仁吉にはその言葉の真意が解らなかったが、凌庵には分かっていた。

 凌庵の身体に流れる、決して表に出てはならない高貴なる血。その血が今、江戸の街を侵食するあまりの不条理と、巨大な悪の存在によって静かに、しかし激しく煮えたぎろうとしていた。

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