二十二
日本橋の本町にある薬種問屋「福寿堂」の主・楢岡善右衛門の奥座敷で、唐土の不老不死にまつわる禁忌の寄食伝説――脈打つ生身の臓器を切り刻み、妙薬に練り上げるという、人間の底なき業を煮詰めたようなおぞましい怪異譚を聞かされてからというもの、高柳凌庵の脳裏からは、あの万福寺の境内に打ち捨てられていた芸者・蔦吉の姿が片時も離れなくなっていた。
美しい肌を無残に切り裂いた、あのあまりにも精密で、かつ機能的な腑分けの痕跡。それは怨恨や猟奇的な快楽の類ではなく、明確な意志を持った「収穫」の跡ではなかったか。善右衛門の言葉が、冷たい楔のように凌庵の医師としての魂に打ち込まれていた。
さらに追い打ちをかけるように、福寿堂からの帰路、神田の薄暗い裏路地で遭遇した、元北町奉行所同心の一子・宮永英助による襲撃。
――杉野良伯。
血走った眼で叫んだ英助の狂気と、彼が白刃を大上段に振りかざして口にした「父と妹の仇」という言葉。医者界隈で若き天才と持て囃され、老中・本多長門守の肝煎りで大奥へ新薬『永命丸』を売り込んでいる御典医・杉野良伯を、あの青年は明確に「化け物」と呼び、命を狙っている。
全ての毒素が江戸の底知れぬ闇から染み出し、一本のねじれた糸となって凌庵の身に絡みついてくるかのようだった。医者として、そして一人の人間として、己が直面しつつある闇の巨大さに、さしもの凌庵も隠しきれぬ憔獗をその端正な顔に滲ませていた。 じっとりと汗ばむ八丁堀岡崎町の夜風を受けながら、天竜堂の薄暗い軒灯を見上げたとき、凌庵は小さく息を吐き、自らの表情を引き締めた。
「おかえりなさいまし、凌庵先生。」
冠木門をくぐると、いつものように凛とした佇まいの彩乃が出迎えた。しかし、その切れ上がった美しい眉の奥には、主のただならぬ気配を瞬時に察知した微かな揺らぎがあった。彩乃は凌庵が小脇に抱えた薬箱を恭しく受け取りながら、静かな、しかし確かな観察眼を込めた声で言った。
「随分とお疲れの様ですね。衣服の肩のあたりに、砂埃がついておりますが・・・。」
「ああ、少しな。日本橋まで薬草を買いに行って、耳が痛くなるような大昔の噂話を聞かされた。その帰り道、機嫌の悪い野良犬に追い掛け回された。」
「野良犬、ですか? 先生が犬に遅れをとるなど、妙なこともあるものですね。お怪我はありませんでしたか?」
「いや峰打ち・・・、追い払っただけだ。大したことはない」
幾重にもオブラートに包んで、立ち回りの事実を隠した。プッと思わず口元を押さえて噴き出した彩乃の顔を見て、凌庵は密かに安堵の息を漏らした。ここで「元同心の倅に命を狙われた」などと馬鹿正直に言えば、癇癪玉が服を着て歩いているようなこの女性が、いつどこで爆発するか分かったものではない。彼女に余計な心労をかけたくないというのも、凌庵の本音であった。
すると彩乃は、思い出したように表情を改め、懐から一枚の書状を取り出した。
「面白い話の腰を負って済みませんけど、先ほど江戸屋の使者が参り、今宵夕飯を兼ねて『鶴亀屋』の離れ座敷まで大至急お越しいただきたいとの言伝にございます。お使いの者の様子がどこか切迫しておりましたので、只事ではないかと。」
「江戸屋の親父さんが?」
凌庵はその名を聞き、胸の奥の凝りがほんの少しだけ解ほぐれるのを感じると同時に、新たな直感が背筋を走った。 江戸屋長兵衛。表向きは口入れ屋の主でありながら、その実、本所深川、両国から柳橋一帯にまで強固な縄張りを持つ、名実ともに江戸の裏社会を束ねる香具師の元締である。その無類の手腕と、筋の通った侠気あふれる人間性を買われ、お上からは十手捕り縄まで賜っている、裏社会で知らぬ者のない大物であった。
そして長兵衛は、凌庵の亡き祖父・道庵や恩師である藤村玄瑞とは昵懇の間柄であり、二親の無い幼少の凌庵を預かり、女房のお登勢と共に我が子同然に育て上げてくれた「もう一人の養父」に他ならない。普段は凌庵の周囲に迷惑がかからぬよう、滅多なことで呼び出しなどしない男が、「大至急」と使者をよこしたのだ。
「わかった。少し身なりを整えてから向かう。彩乃、天竜堂の留守を頼むぞ。」
「はい。どうぞ、お気をつけて。夜道にはくれぐれも・・・その、野良犬にお気をつけてくださいまし。」
彩乃の理知的な、しかしどこか心配そうに揺れる瞳に見送られ凌庵は再び夜の帳が下り切った八丁堀の街へと歩みを進めた。大川から吹き込む風は、昼間の酷暑をたっぷりと吸い込んでじっとりと重く、肌にまとわりつく。柳橋近辺を抜ける凌庵の足取りは、焦燥感に駆られるようにして、知らず知らずのうちに早くなっていた。
神田川沿いの繁華な通りから一歩入った路地の奥に佇む「鶴亀屋」は、表向きは賑やかな板前割烹の風情を呈しているが、その最奥にある離れ座敷は、周囲の喧騒から完全に隔離された静寂の空間であった。凌庵は慣れた足取りで渡り廊下を進み、お気に入りの座敷の障子を静かに開けた。
そこには、藍染めの木綿着をさらりと着こなした、恰幅のいい老人がドカリと胡坐をかいていた。白髪交じりの鬢に、人生の辛酸を舐め尽くした深い顔の皺。しかし、その衣服の隙間から覗く眼光だけは、未だに獲物を狙う鷹のように鋭く、周囲の空気を圧している。彼こそが、江戸の裏を統べる巨頭、江戸屋長兵衛であった。
「おお、若。元気そうで何よりだ。いつもうちの不肖の倅、仁吉の奴が世話になっているようで、有り難うごぜえます。まぁ、堅苦しい挨拶は抜きにして、こっちへ座りねせえ。」
長兵衛は凌庵がどれほど高名な医者になろうとも、また将軍家の脈を取る藤村家の巨大な地盤を引き継ごうとも、昔と変わらず親愛と敬意を込めて「若」と呼ぶ。それは決して揶揄からではなく、亡き道庵への生涯変わらぬ恩義と、凌庵という男が持つ底知れぬ器量に対する心からの敬意の表れであった。だからこそ、どれほど親密な会話であっても、言葉の端々には一線を画した礼節が一本の芯のように保たれている。
しかし、その座敷には、長兵衛の他にもう一人、極めて意外な人物が同席していた。 上等な紬の着物の片肌をわざと崩し、懐に右手を深く入れたまま、いかにも退屈そうに首を傾げて酒盃を弄んでいる男。遊び人の金五郎――その正体は、江戸の北の司法を預かる最高責任者、北町奉行・遠山金四郎景元その人であった。長兵衛もまた金四郎の隠密活動を知っているが、他言せずに口裏合わせをしている。
「やあ、凌庵先生。また妙な場所で顔を合わせたな。相変わらず、涼しい顔をして江戸の街を歩いているようで安心したよ。」
金四郎は悪戯っぽく笑ってみせたが、その細められた双眸の奥にある光は、およそ遊び人のそれではない。鋭利な剃刀のような知性が、一瞬だけ網膜の奥で明滅した。凌庵は一礼して、長兵衛の正面へと腰を下ろした。
「親父さん、それに金さん・・・。この二人が膝詰めで談判しているとは、およそ楽しい話題じゃなさそうですね。」
凌庵のストレートな問いに、長兵衛は深く、腹の底から響く地鳴りのようなため息をつくと、手元の猪口の酒をぐっと一息に煽った。
「その通りでさぁ、若。蔦吉があんな惨たらねえ殺され方をしたってぇのを聞いちゃあ、この儂も黙って引っ込んでるわけにゃあいかねえ。・・・ご存じの通り、昨今のお上は奢侈禁制だ何だと、寄席を潰し、芸者衆の着るものから髪型にまで難癖をつけて弾圧しやがる。俺ぁ、浅草の『を組』の辰五郎さんとも手を組んで、なんとかあの裏町で健気に生きる娘たちの暮らしと命を守るために、必死で骨を折ってきたんだ。それなのに・・・南町の野郎どもは、あの万福寺での事件を、まるでそこらの野良犬の死骸でも片付けるかのように、強引に手柄を引っ手繰っていきやがった。」
長兵衛の筋張った大きな拳が、畳を強かに叩いた。ミシミシと音が立てば、裏社会を束ねる元締としての誇りと、守るべき市井の民を無残に殺された怒りが、その老躯から目に見えるほどの熱気となって立ち上っていた。
「それで、俺ぁこの金さん・・・いや、北町の御奉行様に、直談判に及んだ次第でさぁ。いくら月番の管轄が南町だからって、江戸の街で起きたこんな大罪を、そのまま闇に葬らせてたまるかってな。それに、若を呼んだのはもう一つ訳があるんだ。」
長兵衛は言葉を濁し、苦渋に満ちた目で金四郎へと視線を送った。金四郎は手元の酒盃を静かに置くと、いつになく真摯な、奉行としての面持ちで凌庵を見つめた。
「凌庵先生。すまない。・・・お前が必死に救おうとしていた、松葉楼の甚兵衛のことだ。南の月番の中ではあるが、我が北町の隠密の配下を動かして、密かにその安否を確認させた。だが、甚兵衛さんの病状はすでに手の施しようのないところまで悪化している。今は完全に寝たきりで、意識も混濁している状態だ。南町の連中が強引に捜査権を奪った挙句、自らの手柄欲しさに残酷な現実を突きつける、明らかな愚行の結果だ。奉行所の、いや、お上の落ち度だ。・・・医者であるお前さんに、こんな報告をせねばならん己の不甲斐なさを、どうか許してくれ。」
金四郎は、一国の奉行という雲上の身分でありながら、町医者である凌庵に向かって深々と頭を下げた。凌庵は、胸が万力で締め付けられるような激しい痛みを覚えた。ご時世の圧政にも負けず、我が子同然に育てた芸者・蔦吉の幸せだけを盲目的に望んで、必死に生きていた実直な患者が、沽券と面子だけを重んじた勝手な都合と面目のせいで命を縮めている。医者としてこれほどの敗北、これほどの屈辱はない。
「・・・頭を上げてくれ、金さん。お前さんが謝るべきことじゃあない。悪いのは、江戸の人間を脅かし、不老不死の幻影で人心を弄んでいる、真の黒幕です。」
凌庵の声には、凍りつくような冷徹な怒りが宿っていた。低く抑えられた声が、逆に座敷の空気を震わせる。そして、彼は思い出したように、昼間に起きたもう一つの事件のピースを机の上に提示した。
「親分、金さん。実は今日日本橋の福寿堂からの帰路で、宮永英助と名乗る若い浪人に襲われた。彼は俺を『杉野良伯』と誤認し、父と妹の仇だと言って正気を失った目で刃を向けてきたのだ。」
その名が出た瞬間、金四郎の細い眼がさらに鋭く、獲物を射抜く光を放った。彼は酒盃を満たすと、淡々と、しかし淀みのない口調で宮永家にまつわる隠蔽された「過去の記録」を語り始めた。
「宮永英助・・・そうか、無事だったのか。凌庵先生、その宮永という家名は、かつて我が北町奉行所で実直な探索を行うことで知られていた同心、宮永英次郎の家だ。一、二年程前、英次郎は小石川養生所の与力であった更科茂左衛門と密かに連絡を取り、ある『不正』の尻尾を掴みかけていた。」
「不正?」
「ああ。典薬寮、すなわち将軍家や大奥のお抱えである御典医たちの周辺で、高価な生薬の横流しや、裏で行われている極めて不審な『試し』があるという疑いだ。・・・だが、その調査が核心、つまり製造場所の特定に近づいた途端、上層部から途方もない圧力がかかった。更科茂左衛門は『風烈廻り』という、名ばかりの閑職に追い込まれて事実上失脚。宮永英次郎もまた、ありもせぬ罪を捏造されて連座する形で御役御免、家名断絶へと追い込まれたのだ。」
金四郎は、冷え切った酒を忌々しげに喉に流し込んだ。
「その挙句の結末が悲惨でな。英次郎は、自分が囲っていた妾とされる柳橋の芸者とともに、内藤新宿の仕舞屋で心中しているのが発見された。宮永家は完全に断絶。英次郎には二人の子が残された。兄の英助と、妹の佐和だ。だが、その直後、妹の佐和が忽然と江戸の街から失踪し・・・数か月後、見るも無残な腑分けをされた死骸となって大川に浮いた。英助はその妹の無残な遺体を引き取った後、すべての行方をくらまし、それっきり杳として知れなくなっていたのだが・・・・まさか、すべての元凶として杉野良伯を狙い、江戸に潜伏していたとはな。」
幕府の医療と製薬の一切を司る典薬寮の不正。そして、その典薬寮の権威の裏で、大奥の御年寄衆を巻き込んで急速に流通し始めている新薬『永命丸』。その責任者たる杉野良伯と、彼の命を狙う宮永英助という若い浪人。その浪人の父は、まさにその製法と不正を探っていたがゆえに消されたのだ。 これまでバラバラに散らばっていた、関係のないはずの乱麻が、いまや「人間の臓器の収穫」という、血塗られた一本の太い糸になりかかっていた。
(永命丸・・・お前は果たして、人を救う妙薬なのか。それとも、人の血肉を貪る呪いなのか・・・。)
座敷の中が、呼吸すら憚られるほどの重苦しい沈黙に支配された。いつもならば、長兵衛の威勢のいい昔話や、金四郎の軽妙な世間話を肴に、美味い酒が飲めるはずの鶴亀屋の離れ。しかし、ひとたび江戸の深層に触れれば、それは味もそっけもない、死臭の漂う席へと変貌する。凌庵を取り巻く空気が、まさにそれであった。
すると、料理茶屋には不釣り合いのけたたましい騒音が轟いた。
――バタバタバタバタッ!
静寂を破ったのは、離れの廊下を、板張りが軋むほど慌ただしく走ってくる足音だった。
「お父っつあん! 入ってもいいかい! 尋常じゃないよ!」
「おえん、どうした。客の前で騒々しいぞ。」
長兵衛が声を荒らげるよりも早く、障子が乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、長兵衛の娘であり、この鶴亀屋の女将として店を切り盛りするおえんであった。そのおえんの腕にしがみつくようにして両脇を支えられている一人の娘がいた。 娘は着物の裾を泥で汚し、髪を振り乱し、ボロボロと大粒の涙を流しながら、座敷の畳へと崩れ落ちた。
征八郎に言い寄られ参っていた、女中のお菊だ。
「お菊ちゃん、どうしたんだ?」
着々と婚礼の準備を進めているはずのお菊が、何故ここまで絶望しきっているのか。普段から満面の笑みのおえんが、かつてないほど険しい表情で父親の長兵衛に向き直った。
「普段真面目なこの子がなかなか来ないからうちまで行ったのさ、そしたら数寄屋橋で髪を振り乱して今にも正気を失って倒れそうになって泣き叫んでいたのさ。あたしが急いで駕籠に乗せてここまで連れてきたんだけど・・・、事態は一刻を争うよ。」
「先生・・・凌庵先生っ・・・・! 直さんが、直さんがっ!」
お菊は膝行するようにして凌庵の袴の裾にすがりつき、狂ったように首を横に振った。その小さな手は、恐怖で小刻みに震えている。
「お菊、落ち着きなさい。一体何があった。」
「先生・・・・、先ほど直さんが住む長屋に、黒塗りの立派な駕籠が停まり本多家用人を名乗るお方が、数人のお供を連れて訪ねてこられたのです。そのお方は、冷え切った声でこう言いました。『お前の許嫁の直吉が、お菊との婚礼のことで奉行所に妙な訴えを起こそうとしていると聞いた。お前との今後の生活のために、内密に話し合いたい場所があり、直吉はすでにそちらへ向かっている。悪い様にはせぬから、大人しく待っていろ』と・・・!直さんもケジメが付くと付いて行ったのですが、待てど暮らせど帰ってこないのです。」
「何だとっ!」
凌庵の涼やかな眼光が、一瞬にして刺客を射すような鋭さを増した。
「私は直さんがどこへ連れて行かれたのかと、必死にそのお武家様の袖を掴んで問い詰めました。ですが、そのお方は虫ケラでも見るような冷たい目で私を見下ろすだけで、私の手を振り払い、それっきり何も言わずに去っていってしまわれました。胸騒ぎがして、急いで南町奉行所の門前へ行って、直吉を探してと門番の足軽どもに泣きついたのですが・・・・ですが『うるさい、お上の邪魔をするな』、『その様な事いちいち取り次げるか!』と門前払いし、其れからはなしのつぶてで・・・! 先生、直さんは・・・直さんは本多の屋敷に、口封じで殺されてしまうのですか!?」
お菊の悲痛な叫びが、座敷の空間を真っ二つに切り裂いた。直吉は失踪直前に「中にいる人間を二度と外に出さないための、巨大な牢獄の図面を引かされている」と怯えていた。その彼が、本多家の用人に直接誘い出され、そのまま消息を絶ったのだ。
長兵衛は、太い眉をこれでもかと跳ね上げ、額に青筋を浮かべてその顔を怒りで真っ赤に染めた。ガタガタと座卓が揺れるほど、彼の巨躯から怒りの波動が放たれる。
「本多家の野郎どもっ!いくら老中の権勢を笠に着てやがるとはいえ、市井の、婚礼をひと月後に控えたまともな職人を、お菊との婚姻を盾にして誘い出しやがったか。若、これは完全に『口封じ』の動きだ。泳がせておけば、自分たちの隠密作事の秘密が漏れると思って、一気に網を絞りやがったんだ!このままじゃ、直さんが危ねえだろうなァ。」
「間違いないな。直吉殿の身が危ない。」
凌庵は、へたり込んで涙を流すお菊の肩を優しく、しかし医者としての強い意志を込めて抱き起こした。
「お菊、落ち着きなさい。お前がここで泣き崩れて正気を失っても、直吉殿は戻らない。俺を信じろ。・・・金さん、事は一刻を争うようだ。本多の手が動いた以上、猶予は今夜しかないかもしれん。」
「そのようだ。だが、今は南の月番。北町奉行である俺が表立って本多の屋敷や作事場に手入れをすることは、幕府の法度として絶対にできん。南町に託すしかないのだが・・・。構わん、此方でも調べてみよう・・・。秘密裏にな。」
金四郎は、黙って立ち上がった。その顔からは、いつもの遊び人の軽薄な笑みは完全に消え失せ、江戸の北を預かる絶対的な司法の長としての、冷徹な威厳と苦渋が満ち満ちていた。
「・・・親父さん、このお菊という娘は、今すぐ江戸屋の息の掛かった隠れ家に移し、厳重に守ってくれ。直吉を誘い出すための出汁に使った以上、本多の手の者が、次にお菊の口を封じるために命を狙わんとも限らん。」
「承知いたしました、腕っこきの用心棒に守らせます。おえん、一っ走り江戸屋に行け。外に待たせてある。江戸屋から一歩も外へ出すんじゃねえぞ。いざとなれば、代貸しの半右衛門を頼れ。」
「わかってるよ、お父つぁん。お菊、おいで。あたしの側にいなさい。どんな大名のお武家様が来ようとも、この鶴亀屋の包丁で追い払ってやるからね。」
おえんに半分引きずられるようにして、涙を拭いながら連れて行かれるお菊の後ろ姿を、凌庵は見送った。格子戸が閉まった瞬間、凌庵は金四郎と視線を交わした。その瞳の奥には、すでに青い炎が燃え盛っている。
「金さん。お上の法度や奉行所の壁が動かぬというのなら、俺は俺自身のやり方で、闇に潜って直吉殿の行方を、そしてこの江戸の街を腐らせている闇の全容を暴きます。」
「・・・無茶はするなよ?凌庵先生。お前はただの町医者だ。だが・・・お前が法度の外の闇を往くというのなら、俺も北町奉行としての意地を見せねばならんな。更科茂左衛門の線から、もう一度、宮永英次郎が掴んでいた典薬寮の記録を裏から掘り起こしてみる。表の壁は厚いが、裏の隙間なら俺の管轄だ。」
二人の男の間に、言葉なき固い誓いが交わされた。ハラハラとした焦燥感が、夜の江戸の街全体を覆い尽くそうとしていた。
翌日、天竜堂の生業を疎かにはせず、医者として働きつつ内偵を進めていた。
福寿堂の善右衛門がもたらした、市場に出回らない生薬と廻船の奇妙な動向。御庭番である梶野弥一郎が、夜陰に紛れて探っている内藤新宿の仕舞屋の現状。そして、復讐の鬼と化してどこかに潜伏している宮永英助の足取り・・・。
これらのバラバラに散らばった血塗られた糸が、一本に結ばれた瞬間、直吉の居場所、そして蔦吉を殺した真犯人の喉元への突破口が開かれるはずだった。
しかし悪陣の包囲網は、凌庵の想像を遥かに超える速さと容赦のない強硬さで、その息の根を物理的に止めにかかって来た。
ある日天竜堂の診療所で、凌庵が甚兵衛のために少しでも苦痛を和らげる生薬を調合していたその時、表の通りがにわかに騒がしくなった。
「南町の者だ!」
挨拶の言葉を発せず、同心の仙波忠介を従えて、庵の中に土足で足を踏み入れてきたのは、黒紋付の羽織を隙なく着こなした、威圧感あふれる二人の武士であった。
南町奉行所筆頭与力の片桐民部。幕閣内で妖怪と名高い鳥居耀蔵の忠実な右腕であり、鋭く尖った顎と、冷酷な爬虫類を思わせる三白眼が特徴の男だ。彼はかねてより、高柳凌庵という「ただの町医者でありながら、検屍や事件の核心に介入する特異な存在」を極めて不快に思っており、何かと難癖をつけてはその息の根を止めようと邪魔を企ててきた宿敵でもあった。
忠介は民部の傍で、完全に存在感を消している。忠介は南町の中で、唯一凌庵の医術と人格に理解を示す人間だ。しかし、片桐は南町の「筆頭与力」という絶対的な上司であり、一奉行所の同心にすぎない忠介の立場では逆らうことも、太刀打ちすることも絶対に不可能な上下関係があった。忠介はまるで死人のように青ざめ、唇を血が出るほどに噛み締めていた。
「南町の筆頭与力が、この小さな診療所に何の御用ですか。見ての通り、患者のための薬を調合している最中なのですが。」
凌庵は調合用の匙を持ったまま微動だにせず、片桐民部の冷酷な三白眼を正面から睨み返した。片桐は不気味な冷笑をその薄い唇に浮かべると、懐から老中がしたためた上意の文章を乱暴に引き抜き、凌庵の目の前に突きつけた。
「単刀直入に言う。高柳凌庵・・・今すぐ、その薄汚い手を止めい。」
「手を止めろ、とは?」
「知れたこと。貴様がここ数日、老中・本多長門守様のご公務に関わる隠密作事、および、すでに奉行所において『逐電』として正式に処理済みの宮大工・直吉の件について、不穏な嗅ぎ回りをしているとの告発があった。更に御上が直々に差配されている製薬に関しても、不敬極まる疑念を抱いて探りを入れているとか・・・。」
片桐は一歩踏み込み、その連判状で凌庵の胸元を小突くようにして、地を這うような低い声で言い放った。
「これはお上からの厳命である。今後、蔦吉の件、直吉の件、そして『永命丸』に関わる一切の事柄への介入、思考を禁ずる。もしこれ以上の不審な動き、あるいは一歩でも八丁堀の外へ出て嗅ぎ回るような真似を見せるなれば・・・即座に『蘭学弾圧』の咎、お上への謀反の罪を以て、伝馬町の牢へと叩き込む。如何に貴様が藤村家の高貴な血筋であろうとも、鳥居様直々の御差配だ、江戸のどこにも逃げ場はないと思え。・・・良いな?」
その言葉の背後には、兼ねてより「蛮社の獄」を主導し、目障りな蘭学者や開明派の人間を徹底的に搦め捕り、処刑してきたあの『妖怪』鳥居耀蔵の不気味な影が、巨大な蜘蛛のように張り付いていた。 金箔をこれでもかと施したような、お上の絶対的な権力という名の、巨大で理不尽な壁。それが、天竜堂のこの狭い庵を完全に圧殺しようと、四方から迫ってくるような錯覚を覚えさせる。
「蘭学弾圧・・・。私はただの町医者として、目の前で消えた命と、理不尽に消えゆかんとしている命の行方を追っているに過ぎぬ。それが、お上に対する謀反になると?」
「黙れ! 町医者風情が、お上の国政や御典医の仕事に口を挟むなど、言語道断。片腹痛いわ! 貴様のような羽虫を一匹、圧殺することなど、お上にとっては造作もないことだということを、その足りぬ頭に叩き込んでおけ!」
片桐は吐き捨てるように言うと調合台の上にあった薬草の束を、わざと見せつけるように床へ払い落とし、捕り方たちを引き連れて傲然と天竜堂を出て行った。
静まり返った硝煙のような空気が残される。 一人残された忠介は、片桐の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、張り詰めていた糸が切れたようにがっくりと肩を落とし、凌庵に向かって、消え入りそうな声で深く頭を下げた。
「先生・・・、すまない。俺の力では、どうしても奴らの暴挙を防ぎきれなかった!」
「仙波さん、あんたが謝る必要はない。」
「あの片桐の背後にいるのは、妖怪と名高い鳥居様だ。いや、それだけじゃねえ。南町奉行所その ものを、上から完全に、赤子の手をひねるようにねじ伏せるほどの、途方もねえ『力』が動いているんだ。奉行所の看板なんてなぁ、あの力のある連中の前じゃあ、ただのごみ屑、鼻紙同然だ!お上を守り、市井の正義を守るべき俺たちが、これほどまでに無力だとはッ!」
忠介は、ポタポタと畳に涙を落としながら、自身の拳を血がにじむほど強く握りしめた。八丁堀の同心としての誇りを、お上の理不尽な巨大な権力によって完膚なきまでに叩き潰された男の、哀切極まる悲痛な嘆きであった。
しかし、その仙波の震える言葉を聞きながらも、高柳凌庵の双眸の奥にある、静かなる青い炎は、いささかも衰えることはなかった。むしろ、敵がこれほどまでに強硬な手段を使い、筆頭与力を直接動かして脅しをかけてきたということは、己の推理が、そして梶野弥一郎たちの内偵が、真実の喉元を正確に捉えつつあるという、何よりの証拠であった。
「仙波さん、顔を上げてくれ。・・・あんたが同心としての誇りを捨てる必要はない。お上の築いた壁がどれほど厚く、どれほど高くとも、私には関係ありません。俺には、最初から理不尽を前にして手を引くという選択肢などない。」
すっかり肩を落とし、すごすごと立ち去る忠介を見送る。凌庵は、床に落とされた薬草を静かに拾い上げると、それを調合台へと戻し、自らの腰にある中脇差の柄へと、冷徹な視線を落とした。
その言葉には、いかなる権力、いかなる妖怪をも恐れぬ、一人の「医師」としての、そして暗黒の江戸を生きる「表現者」としての、絶対的な不退転の覚悟が宿っていた。 㠀江戸の闇がどれほど深く、その包囲網がどれほどハラハラと身を焦がすものであろうとも、最奥にある醜悪な真実を暴き、消えた宮大工を救い出すため、凌庵は自ら進んで、二度と引き返せぬ修羅の道へと足を踏み入れるのだった。




