二十一
前夜の「鶴亀屋」での喧騒と、本多征八郎という特権の塊のような若侍が撒き散らした醜悪な酒臭さは、翌朝の江戸の澄んだ空気によって洗い流されたかのように見えた。しかし、高柳凌庵の胸中に澱のように沈んだ不穏な予感だけは、朝の光を迎えてもなお、いささかも消え去ることはなかった。
むしろ、あの万福寺の境内で見た芸者・蔦吉の、あまりにも精密で残酷な割腹の跡と、南町奉行所による強引な捜査権の強奪、外道の医師・杉野良伯の存在、そしてその背後で不気味に価値を高めつつある新薬『永命丸』――それらの断片が、寝返りを打つたびに脳裏で噛み合わさり、一つの巨大な 「歪み」となって凌庵の思考を深く侵食し始めていた。
「ちょいと日本橋へ足を延ばす、留守番頼むぞ。」
「はい、行ってらっしゃいまし。」
八丁堀岡崎町にある天竜堂の庵で、朝の薬湯を啜り終えた凌庵は、そう言い残して荷物をまとめた。留守を預かる彩乃は、何かを察したようにその切れ上がった眉を僅かに動かしたが、敢えて何も尋ねず静かに見送った。彼女の理知的な瞳には、昨夜凌庵が鶴亀屋で見せた圧倒的な気迫への信頼と、それゆえに彼が背負い込もうとしている闇への懸念が、複雑に交錯していた。ただ一言、「ご無理だけは」と添えられた声の響きだけが、凌庵の背中に心地よい重みを与えていた。
凌庵の行く先は、日本橋の本町にある高名な薬種問屋であり、両替商・札差・廻船業にまで事業を発展させた名店「福寿堂」であった。 大通りに面した広大な敷地には、白壁の堅牢な蔵がいくつも立ち並び、表の暖簾をくぐれば、日本全国、果ては長崎の出島を経由して運ばれてきた唐薬や和薬の、独特な香草の匂いが厳かな空気と共に漂っている。福寿堂の主、楢岡善右衛門は、名字帯刀を許された江戸でも屈指の豪商でありながら、凌庵が育てられた実家同然の場所である藤村家とは世代を超えた昵懇の間柄であった。
「おやおや、凌庵先生。藪から棒にどうしましたね? 天竜堂の薬棚が空にでもなりましたか?」
奥の格天井が立派な帳場から姿を現した善右衛門は、四十路をいくつか過ぎたばかりの恰幅の良い、いかにも福々しい相好をした男だった。しかし、その細められた眼光の奥には、数千石の荷を動かす廻船問屋としての鋭敏な知性と、世間の酸いも甘いも噛み分けた老練な大人の余裕が光っている。周囲の奉公人たちからは畏怖を込めて「旦那様」と呼ばれる彼だったが、凌庵の前では一人の気の置けない友人であり、頼もしい後ろ盾である「善さん」の顔になった。
「金が御入用ですかな? であれば、金蔵の金を好きに持って行ってくださいまし。何なら、一箱持っていかれますか?」
「いやいや、そういう訳じゃない。今日は少し、生薬の買い付けも兼ねて、耳に入れたい噂話があってな。」
「これまた珍しい、何事ですかな?」
凌庵の改まった口調とその涼やかな双眸の奥にある真剣な光を見て、善右衛門はすぐに手元の帳面を閉じた。大店の主ならではの機転で、周囲の丁稚たちに目くばせをし、人目を遠ざける。
「人目がありますからな、部屋へどうぞ。」
通されたのは、店の最奥にある離れ屋敷だった。中庭の青々とした竹林が日差しを遮り、驚くほど静まり返ったその部屋で、手焙りの炭がパチリと小さな音を立てた。
「それで、博識と名高い先生が何を聞きたいのです?」
「善さん・・・、ここに『永命丸』の噂は聞こえてないか?」
凌庵の口からその名が出た瞬間、善右衛門の柔和な目元が一瞬にして老練な商人のそれへと鋭く引き締まった。彼は茶碗を置くと、深く腕組みをして深いため息をつく。
「なるほど、先生の耳にも届いていましたか。あの、飲むだけでどんな大病もたちどころに癒えるという、お上の御救い薬ですな」 「ああ。巷では不老不死の秘薬とまで持て囃され、天竜堂にやってくる長屋の患者たちまでが、その幻影を追ってまともな養生を放棄し始めている。善さん、お前さんの所ならあの薬の『出所』や『製法』について、何か掴んでいるのではないかと思ってな。」
凌庵の問いに対し、善右衛門は重々しく首を横に振った。
「残念ながら先生、結論から言いますと・・・うちのような日本橋の薬種問屋の株仲間を寄せ集めたとしても、あの『永命丸』の流れに関しては毛ほどの情報も入ってこない。それどころか、あの一連の丸薬が『どこで誰の手によって作られているか』さえ、完全に深い闇の中なんですよ。」
「天下の福寿堂の耳目をもってしてもか?」
凌庵は息を呑んだ。福寿堂は幕府の公認を得て、長崎からの輸入薬品を独占的に扱う特権を持っている。そのネットワークから外れたところで、江戸中の人間に行き渡るほどの大量の薬が製造・流通しているなど、本来であれば有り得ないことだった。
「ただ、作り手の名前だけは、薄気味悪いほどはっきりと喧伝されておりますがね。」
「老中、本多長門守様の肝煎で推挙された、杉野良伯先生か。」
「ご存じでしたか。この『永命丸』を知る者は、本多様の息の掛かった大奥の御年寄衆の周辺だけで、完全に秘匿されて配給されています。我々商売の筋から見れば、これは異常極まることです。どれほど優れた新薬であっても、材料となる生薬は諸国から仕入れねばならないはず。ですが、永命丸に使われているとされる高価な高麗人参や当帰の買い占め動向が、市場のどこにも見当たらないんです。もし廻船を利用して密密に運び込んでいたとしても、我ら問屋の寄合で耳に入るはず。それが入って来ないとすると、まるで・・・『既存の生薬とは、全く異なる材料』で作られているかの様な気がいたしますな。」
善右衛門の言葉は、冷たい刃のように凌庵の胸に突き刺さった。既存の生薬を使わずに、劇的なまでの鎮痛・回復効果をもたらす薬。そんなものが、果たしてこの世に存在するのだろうか。善右衛門は少し身を乗り出し、世間話好きの顔に戻りながらも、その声のトーンを一段と落とした。
「廻船で思い出したのですが先生、唐土の国ではおぞましい噂があるのです。まあ、噂話として聞いてくださいまし。・・・中国の古き医学書には『同物同治』という概念があります。人間の身体の悪い部分を治すには、それと同じ動物の部位を食すべし、という考えですな。酒が過ぎて肝臓が弱れば獣の肝を、歩きすぎて足腰が弱れば獣の脚を喰らう。」
「ああ、医食同源か・・・。それは蘭学の解剖生理の視点から見ても、栄養を補うという意味で一定の理はある。」
「そうでしょう? ですがね、私が聞いた噂話はそれだけに収まらない話でしてね。清国の一部の狂信的な権力者や、不老不死を追い求めた歴代の皇帝たちの裏の歴史には、その同物同治を極限まで歪めたおぞましい『禁忌の秘薬』の記述があるそうです。」
「禁忌の秘薬?」
「それは・・・、孕み女の胞衣です。」
善右衛門の話がそこに至った瞬間、座敷の空気が凍りついた。
「漢方では『紫河車』と呼んで乾燥させたものを薬にする事や、肉として焼いて食う場合もありますが、彼らが求めるのはそんな生ぬるいものじゃない。生きた人間の、それも五臓六腑がまだ脈打っている新鮮なうちに、その『悪い部分と同じ人間の臓器』を抉り出し、特殊な技法で丸薬に練り上げるという奇習です。特に、人間の生命力の源泉とされる胎児や、若き生命に満ちた内臓は、万病を癒やす究極の劇薬になると言われています」 「正に寄食だな・・・。」
「ええ、その妙薬を特に欲するのは清国の王妃や妾、つまり王族の子女を産む務めを抱える奥向きの女達だそうで、中には傲慢不遜な雲上の女が孕み女を攫い、それをまるで魚を捌くかの様に、産まれる前の子や胞衣を取り出したと言う逸話があります。王宮の台所の中枢には、それらが厳重に保管されていたとか。まあ、この噂は多分眉唾でしょうがね・・・。」
そう怪談話のオチを言った跡の様に、普段の柔和な顔に戻った善右衛門。ふっと息を吐き、悪戯っぽく微笑んで見せるその姿は、いかにも物知りな商人が座興に仕入れた奇談を語り終えた風であった。しかし、凌庵にはとても眉唾の絵空事には聞こえなかった。 凌庵の脳裏に、万福寺の検死台の上に横たわっていた蔦吉の姿が、鮮烈なフラッシュバックとなって蘇る。美しい芸者の、まだ温かみの残る肉体。そこから、子宮と胎児、あるいは五臓六腑が「明確な意志」を持って、根こそぎ抉り取られていたあの惨状。
(まさか、あの腑分けは、怨恨でも猟奇的な快楽殺人でもなく・・・、『永命丸』の材料を採取するための、明確な『収穫』だったとしたら・・・!)
あまりの衝撃に、凌庵は手にした茶碗を微かに震わせた。医者として、人間として、そのような狂気がこの江戸のど真ん中で、しかもお上の最高権力者の庇護のもとで行われているなど、到底信じたくはなかった。だが、今回の猟奇事件の忌まわしきピースが、善右衛門の語る大陸の怪異譚によって嫌というほどぴたりとはまって行くのを肌で感じていた。
動揺を悟られぬよう、凌庵は冷めかけた茶を一口に含み、喉の渇きを潤した。善右衛門の言葉を聞きながら、凌庵は自らの記憶の奥底に封印されていた、ある一人の男の顔を思い出していた。 まだ記憶に新しい、「佐葦の露」の一件を調べていた公儀隠密、梶野弥一郎が言っていた事だ。
――内藤新宿の仕舞屋では、秘密裏に不審な腑分けが行われている。
内藤新宿の仕舞屋は、「佐葦の露」の毒に蕩かされた客を相手に、秘密裏に破廉恥な闇商いがされていた場所だ。あの時は、陰謀を企てた悪党どもによる刺客の襲撃など、度重なる不測の事態に追われ、仕舞屋のそのさらに奥にある黒い噂までを暴くには至らなかった。ただの噂の域を脱していないと捨て置いていたのだ。だが、あの新宿の仕舞屋こそが、生きた人間を切り刻む「屠殺場」であり、永命丸の製造拠点なのだとしたら――再び江戸の闇で、とんでもない策謀が巡らされているということになる。
「凌庵先生? どうかなさいましたか? 少々、お顔色が悪いようですが・・・。」
善右衛門の怪訝そうな声に、凌庵ははっと我に返った。
「いや・・・、すまん。少々、その寄食の話が医者として生々しく響いたものでな。善さん、貴重な話を有難うよ。新薬の流通の件も含め、腑に落ちる事が多かった。」
「いえ、滅相もない。商人のつまらぬ与太話、聞き流してくだされば幸いです。ですがねえ先生・・・。」
善右衛門は立ち上がろうとした凌庵を真っ直ぐに見つめ、その日一番の真摯で重みのある声で付け加えた。
「その『永命丸』という薬には、あまり深入りなさらぬ方がよろしいかと存じます。福寿堂の荷船がもたらす風向きから察するに、あの薬の背後にある影は・・・我ら町人が見上げてよい山の高さではございません。藤村の旦那様方のためにも、どうかご自愛を。」
「ああ、肝に銘じておくよ。」
「そうして下され。ああ、薬草の御用があるとの事でしたな。何をお望みですか?」
善右衛門はいつもの柔和な顔に戻って立ち上がると、薬草が厳重に保管されている奥の蔵へと、凌庵を静かに案内した。
「では、これだけ頂いて行くぞ。」
「これだけでよろしいのですか?」
「ああ、何時も済まぬな。」
「何の何の、またお申し出くださいまし。彩乃様にもよろしくお伝えください。」
善右衛門との挨拶を済ませ、幾つかの薬草を買い入れた凌庵は、善右衛門に見送られて表通りへと出た。 日本橋の照り返しは厳しく、買い付けた薬箱を抱える腕にじっとりとした汗が滲む。しかし、凌庵の心は福寿堂を去る前よりも確実に凍りついていた。
(生きた人間の、脈打つ臓器の収穫……)
善右衛門の言葉が耳の奥で呪詛のように繰り返される。考え事をしながら大通りから神田方面へと抜ける裏路地へと足を踏み入れた瞬間、凌庵の医師としての鋭敏な五感が、背後の空気の僅かな「歪み」を捉えた。
――また、あの視線だ。
昨夜の帰路で感じたものと同じ、執拗で、しかしどこか焦燥を含んだ殺気。凌庵は歩調を変えず、敢えて天竜堂とは逆の、格子戸が連なる入り組んだ人気のない袋小路へと誘い込むように足を向けた。細い路地の辻を二度、三度と鋭角に曲がり、薄暗い軒下の陰に身を潜める。直後、草履が激しく土を蹴る音が近づき、一人の男が路地裏に飛び込んできた。追っ手が自らを見失って足を止めた刹那、凌庵は音もなくその背後に回った。
「誰だ。何の用があって俺を追う」
低く冷徹な声に、追っ手の肩が跳ね上がった。振り返ったのは、衣服こそ薄汚れているが、身のこなしに確かな芯のある若い浪人であった。その双眸は異様なまでの憎悪に血走り、凌庵の顔を見るなり、狂気混じりの声を上げた。
「・・・とうとう見つけたぞ、杉野良伯ッ!」
そう語気を強めて言う若い浪人は、続けてこう叫んだ。
「元北町奉行所同心、宮永英次郎が一子、宮永英助だ! 天下を欺く、人の皮を被った化け物め! 父、そして妹・佐和の仇、ここで討ち果たしてくれる!」
浪人は狂乱のままに腰の刀へと手をかけ、一文字に白刃を抜いた。鋭い金属音が狭い路地に響き渡る。凌庵は瞬時に身を翻し、抱えていた薬箱を小脇に抱え直すと、腰の中脇差を抜き払ってその一撃を受け止めた。激しい火花が散り、金属同士が軋む鈍い音が鼓膜を打つ。
「待て、人違いだ!」
凌庵の制止など、耳には届かない。英助は凄まじい踏み込みと共に、上段から容赦のない二の太刀を振り下ろしてきた。まともに受ければ一刀両断の凄まじい気迫。しかし、相手の刃が描く軌道は、 激しい感情の昂ぶりゆえに僅かにブレていた。凌庵は中脇差の鎬を巧みに滑らせてその剛刀を受け流し、英助の懐へと一気に踏み込んだ。 英助が驚愕に目を剥く間も無く、凌庵の身体が滑るように動く。英助の鋭い突きを最小限の動きでかわした凌庵は、すれ違いざま、中脇差を逆手に持ち替え、その首元へ鋭く峰打ちを叩き込んだ。
「ぐあああっ!?」
骨を折らずとも的確に神経の束を直撃する衝撃に、英助の身体が大きく揺らぎ、手の力が抜けて刀がカランと地面に落ちた。英助は首の後ろをしたたかに打ち据えられ、激痛に顔を顰めながらも、悔しげに歯噛みして地面を睨みつけた。
「言ったはずだ、人違いだと。刀を収めて頭を冷やせ。」
「くそっ! 殺せ。どうとでもするがいい。だが、貴様が如何に言い逃れようと、俺は貴様を絶対に許しはしない・・・!」
「まったく・・・だから俺は杉野良伯ではない。俺の名は高柳凌庵。八丁堀岡崎町で天竜堂という小さな診療所を開いている、ただの町医者だ。」
凌庵が静かに、しかし断固とした口調で自らの身分を告げると、浪人は一瞬、呆然としたように動きを止めた。至近距離で凌庵の顔を凝視し、やがてその端正な顔立ちにある種の「清廉さ」しか見出せないことに気づいたのか、急激にその身体から力が抜けていった。
「・・・人違い、だと? では、貴様は、良伯ではないのか?」
「そうだ。俺は奴の身内でもなければ、弟子でもない。無関係だ。」
凌庵が刀を引くと、浪人は力なく壁に背を預け、ずるずると地面にへたり込んだ。冷静さを取り戻した彼は、消え入るような声で白状した。
「・・・てっきり、あの男だとばかり思い込んでいた。杉野良伯は八丁堀に居を構え、柳橋に馴染みの芸者がいると聞いた事があり、ここ最近、八丁堀近辺をつけていたのだ。すまなかった、無辜の者に刃を向けた不覚、なんと詫びればよいか・・・。」
(柳橋に馴染みの芸者・・・。)
その言葉に、凌庵の胸に鋭い痛みが走った。殺された蔦吉もまた、柳橋の芸者だった。杉野良伯、蔦吉、そしてこの浪人の怨恨。すべての線が水面下で蠢いている様な気がした。
「簡単に行ってくれるがなァ、下手をしたら俺は今日が命日になっていたんだぜ?」
「申し訳ない・・・。」
「なぜ杉野良伯をそれ程までに怨む。奴がお前の父と妹に何をした?」
凌庵の鋭い追及に、浪人は一瞬、何かを言いかけようと唇を震わせた。しかし、すぐに武士としての頑なな拒絶がその表情を覆い、刀を拾い上げると、冷たく言い放った。
「・・・これ以上のことは、武士の対面もある。市井の町医者に語るようなことではない。忘れてくれ。」
浪人はそれ以上の追及を拒絶するように背を向けると、すごすごと、しかしどこか深い絶望を背負った後ろ姿のまま、入り組んだ路地の奥へと退散していった。
宮永英助――それが、彼が去り際に残した名であった。
「おい、凌庵殿!! 無事か!?」
静まり返った路地に、荒々しい足音と共に飛び込んできたのは、近藤新太郎と仁吉であった。二人は蔦吉の足取りを秘密裏に調査している最中、この近辺で刀がぶつかり合う音を聞きつけて駆けつけたのだという。
「ああ、新太郎さん、仁吉。俺は見ての通り無事だ。」
「何があったんだ、一体。」
新太郎が周囲を警戒しながら尋ねるその後ろから、もう一人、ひょっこりと男が姿を現した。
「おやおや、凌庵先生。福寿堂で錠剤を下ろした帰りに凄まじい音がして来てみたら、随分と物騒な騒ぎに巻き込まれたみたいですな?」
懐をまさぐりながら、能天気な声を上げた三十路がらみの男。福寿堂にも出入りするしがない錠剤屋を装っているが、その正体は、御用取次役の本郷丹後守が凌庵の護衛として密かに付けた公儀御庭番・梶野弥一郎その人であった。凌庵は弥一郎と一瞬だけ鋭い視線を交わし、すぐに新太郎たちに向き直った。
「先ほど、宮永英助と名乗る若い浪人に襲われてな。どうやら杉野良伯と人違いをしていたらしい。」
「何、宮永だと・・・!?」
新太郎の顔が驚愕に跳ね上がった。さすがは北町奉行所の与力の嫡男、その姓に心当たりがあるようだった。
「知っているのか、新太郎さん。」
「宮永家は元々、我が北町奉行所の同心だった家柄だ。だが、数年前、親父の英次郎が探索中に何らかの重い不始末をしでかしたとかで、御役御免、家名断絶になったはずだ。その倅が、なぜ御典医の杉野良伯を仇と狙うんだ?」
新太郎と仁吉は顔を見合わせ、腑に落ちない様子で首を捻った。
「何はともあれ、凌庵殿が怪我一つなくて本当によかった。ゲジゲジ伝助の件もある、これ以上ややこしい騒ぎに巻き込まれたら、俺たちの身が持たねえからな。さあ、ここは引き上げよう。あまり無茶をするなよ?」
仁吉に促され、新太郎たちは安心したように路地から表通りに出て行った。その賑やかな背中を少し遅れて追いかけながら、凌庵は、背後に残った弥一郎へ向けて、新太郎たちに聞こえぬほどの低い声で命じた。目配せの奥には、冷徹な医師の眼光が宿っている。
「・・・弥一郎、あの宮永英助の身辺を洗え。それと・・・。」
凌庵は一瞬、言葉を詰まらせ、福寿堂で聞いたおぞましい仮説を頭の中で反芻した。
「嘗て、お前が口にした『内藤新宿の仕舞屋』だ。あの佐葦の露の裏にあった場所。そこが今、何に使われているか・・・その『裏』を、至急探れ。」
弥一郎は普段のふざけた笑みを一瞬だけ消し、御庭番の冷酷な顔で無言のまま頷いた。
夏の強い陽光が路地を照らす中、凌庵は新太郎たちの元へと歩みを進める。 宮永英助の怨嗟の声、善右衛門の語った同物同治の禁忌、そして内藤新宿の仕舞屋。まだ確信には至らない。だが、お上の最高権力が潜む江戸の暗黒が、天竜堂のすぐ側まで確実に触手を伸ばしてきていることだけは、疑いようのない事実であった。




