二十
神田川のせせらぎに夜霧が這う時刻、高柳凌庵と彩乃は、馴染みの料理茶屋であり船宿でもある「鶴亀屋」の暖簾をくぐった。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、二人の皮膚は澱んだ殺気を含んだ空気の乱れを敏感に察知した。平素の活気ある喧騒とは明らかに異なる、どこか刺々しい、押し殺したような「騒がしさ」が店内に充満している。
「吉兵衛さん。」
凌庵が低く声をかけると、帳場で算盤を弾いていた主人の吉兵衛が、弾かれたように顔を上げた。その額にはびっしりと冷や汗が滲んでいる。
「おや、先生。彩乃先生もご一緒で。」
「今日は随分と繁盛しているようだな。奥の広間が随分と賑やかだが、何かあったのか?」
「いえ、その、流行っていると申しますか・・・。」
吉兵衛は視線を泳がせ、言葉を濁した。その尋常ならざる様子に凌庵は不審の眉を寄せたが、吉兵衛は「何でもありませんので、さあ、どうぞ」と、逃げるように二人をいつもの奥座敷へと促した。
通された座敷で待つことしばし、注文した酒と小鉢が運ばれてきた。盆を抱えて入ってきたのは、鶴亀屋では見覚えのない、まだ十代半ばとおぼしき若い女中であった。
「おや。見ない顔だな、新顔かい?」
凌庵が声をかけると、娘は驚いたように肩をすくめ、おっかなびっくりといった様子で深々と頭を下げた。
「は、はい・・・。お菊と申します。まだ奉公に上がったばかりで、行き届きませず・・・。」
お菊と名乗ったその娘は、初々しくも可憐な容貌の中に、どこか芯の強さを感じさせる理知的な瞳を持っていた。怯えながらも一礼して去っていくその後ろ姿を見送りながら、彩乃が小さく微笑む。
「可愛らしいお嬢さんですね。」
「ああ。だが、少し怯えすぎているな。この店の客層なら、あそこまで縮こまる必要もないはずだが。」
そう言葉を交わしていると、凌庵たちの来訪を聞きつけたおえんが座敷へ姿を現した。
「龍三兄ちゃん、いらっしゃい。あら、彩乃先生も一緒なんて珍しいじゃない。」
何時もと変わらない艶やかな声を上げようとするおえんだったが、その顔色は酷く悪く、目の下には隠しきれない濃厚な隈が浮いていた。凌庵は手にした盃を置き、心配そうに彼女を見上げた。
「おえんちゃん、何だかやつれているな。具合が悪いなら無理は禁物だぞ。医者の前で隠し立ては通用しない。」
真っ直ぐな凌庵の言葉に、おえんは張り詰めていた肩の力をふっと抜くと、周囲の動静を窺うように引き戸を少し締めて、声を潜めた。その声には、まるで鉛のような重みが混じっている。
「・・・ちょいとね、厄介な客が居座り続けているのさ。お侍の威光を笠に着て、お菊ちゃんを我が物にしようと毎日大暴れさ。」
「あの若い女中か?」
「ええ、お菊ちゃんは母一人子一人って奴でね。今おっ母さんは、養生所に入ってるんだよ。ようやくいい人が見つかって、養生所の稲垣蓬洲先生が御仲人を引き受けてくれるって手はずになっているんだけど・・・、何処で見染めたかもう毎日よ。お父っつあんに助けを求めようにも、相手の身代が大きすぎて、これ以上巻き込めなくてね・・・。」
「江戸屋の親分も手に余るのか。」
おえんが忌々しげに視線を向けたのは、壁を隔てた隣の大広間であった。そこから漏れ聞こえる下卑た笑い声と怒声の主――それは、ただのタチの悪い酔客ではない。お上の絶対的な権力を背景に 持った、傲慢不遜な影であった。
「お侍の威光・・・。」
凌庵の脳裏に、数日前に松葉楼の甚兵衛が漏らしていた言葉が不吉に蘇る。亡き蔦吉の周囲にも、同じように「タチの悪い権力者の影」が蠢いていたのだ。花街や船宿で働く女たちにとって、それは避けては通れぬ理不尽な天災のようなものなのかもしれない。
おえんが「お兄ちゃんたちは気にしないで、ゆっくりしていって」と言いかけたその時、吉兵衛が青ざめた顔で座敷の障子を開けた。
「女将さん、新太郎様と仁吉様が参りやした・・・だが、どうにも様子が。」
直後、荒々しい足音と共に座敷になだれ込んで来たのは、近藤新太郎と、その腹心である仁吉であった。二人の顔は、怒りと悔しさによって見る影もなく歪んでいる。
「何だい二人して、まるで泥人形みたいな不景気な面をしてさ」
おえんが呆れたように言うと、新太郎はドカ座りし、机を拳で激しく叩いた。
「何が泥人形だ!腸が煮えくり返って仕様がねえ! 凌庵殿・・・例の蔦吉さんの割腹の一件、北町の意地を見せてやろうと、俺の息の掛かった隠密や手先を江戸中に走らせ、ようやく下手人とおぼしき怪しげな外科医師の潜伏先を突き止めたんだ。今夜、手入れに踏み込む手筈だった・・・その矢先だ!」
「南町に横槍を入れられたのか?」
凌庵の鋭い指摘に、新太郎は獣のように忌々しげに吐き捨てた。
「その通りだ! あの南町のゲジゲジ同心、村上伝助の野郎だ! どこから嗅ぎつけたか、事件の背後に大物御典医の影があると知るや否や、手柄欲しさに筆頭与力の石塚民部様を通じて上からねじ込んできやがった! 『直に月番が代わるゆえ、一件はすべて南町に引き渡せ』と抜かしやがったんだ。南北協力など形ばかり、事実上の乗っ取りだ!」
「・・・そうか。それは残念だったな」
凌庵は静かに首を振った。検使医としての彼の本分は、死骸の声を一言半句も漏らさず聞き届け、記録に留めること。手柄がどこへ転がろうと見立てが変わるわけではないが、新太郎たちの無念は痛いほど分かった。
「俺が怒っているのは、手柄を攫われたことだけじゃねえ。」
新太郎は凌庵から差し出された杯を一息にあおり、喉を焼く酒の熱さに顔を顰めながら声を潜めた。
「南町が出張ってきたとなると、先生のような『蘭学医』は雁字搦めにされる危険がある。現南町奉行の鳥居耀蔵の蘭学嫌いは有名だ。かつての蛮社の獄の恐怖が、まだ江戸の町には燻っている。南の月番に先生が表立って動けば、あのゲジゲジがどのような難癖をつけてくるか分かったもんじゃねえ。」
「嘆かわしいことです。先生はただ、頼まれてお役に立とうとしているだけですのに……」
彩乃が憤りを露わにすると、凌庵はふっと息を漏らし、自嘲気味に微笑んだ。
「必要とあれば手を貸し、要らざる時は身を引く。それが町医者の気楽なところさ。それに新太郎さん、俺も検死だけが能じゃない。まあ、そう怒るな。酒が不味くなる」
「全く・・・、先生には敵わねえな」
新太郎は苦笑し、ようやく少しだけ表情を緩めた。
酒席の空気が僅かに和らいだ瞬間、隣の広間からドスン、と激しく壁を叩くような重い衝撃音が響き渡った。凌庵はほぼ無意識に、騒動の元へ向かった。
「お菊っ!なぜ私の言うことが聞けぬ! この身の程知らずが!」
「お、お許しください・・・!離してくださいませ!」
若い男の傲慢な怒声と、先ほどのお菊の悲鳴。ただの泥酔した客の痴話喧嘩ではない。異様な緊迫感に、凌庵たちはすぐさま席を立ち、大広間へと向かった。
広間の襖が乱暴に跳ね開けられた光景は、権力の横暴をそのまま具現化したような醜悪さであった。
広間の中央では、上等の絹で仕立てられた衣服をだらしなく着崩した若い武士が、畳の上にどっかりと胡坐をかいていた。男の名は本多征八郎。現老中・本多長門守の嫡男であり、放蕩の限りを尽くしている若侍であった。
征八郎はすっかり出来上がった様子で、手にした重厚な鉄製の黒千代香の注ぎ口を直接口元に宛がい、がぶがぶと音を立てて酒を煽っている。受け止めきれなかった強い酒が顎を伝い、高価な小袖の襟元を無惨に濡らしていた。
そのすぐ側では、征八郎の取り巻きである二人の共侍が、お菊を畳の上に力任せにねじ伏せていた。お菊の華奢な肩は荒々しく掴まれ、恐怖と屈辱でその顔は真っ白に変色している。
「お菊ぅ・・・、目を覚ませ。我が本多家は三河以来の名家。その嫡流たるこの私に召し抱えられるのだ、一生不自由はさせぬぞ?」
征八郎の目は完全に据わっており、大酒による酩酊状態であることは明白だった。しかしその言葉の端々には、お上の権威を笠に着た、武家としての傲慢な威厳が奇妙に保たれている。
「若殿の有り難き申し出だぞ! 隅田川の泥水で育ったような野良猫が、天下の本多家に上がれるのだ。有難く頂戴せぬか!」
お菊の腕をキリキリと捻り上げる共侍が怒鳴りつける。その理不尽な暴力に対し、お菊は涙を流しながらも、驚くべき強さで叫び返した。
「そのお話でしたら、何度も、何度もお断りいたしました! 私には既に、将来を誓い合い、言い交した相手がおります!」
「あぁ? 直吉とか申す、あの薄汚い長屋住まいの若い宮大工か? そ奴なら心配に及ばぬ。私の方から直々に『話を付けてやる』と申しておるのだ。命が惜しくば大人しく女を差し出せとなぁ! ただとは言わぬ、金もくれてやる。大抵のものは、金と力でどうとでもなる故なァ!」
征八郎は下卑た笑いを浮かべ、空になった千代香を畳に叩きつけた。パリンと音を立てて鉄器が割れる。仮にも幕閣の筆頭老中を務める本多長門守の御曹司ともあろう者が、市井の船宿で職人の名前を持ち出し、このような無様な脅迫の言葉をさらすなど、見苦しいことこの上ない。
「嫌です!」
お菊は魂を振り絞るように拒絶し、一歩も引かなかった。思い通りにならぬ目の前の小娘に対し、征八郎の顔にみるみるうちに苛立ちの影が広がり、その表情が凶悪に凄んだ。
「聞き分けの無い女だ。身の程を知らぬ泥人形めが。よかろう、これ以上ここで恥を晒す必要はない。屋敷へ連れ帰り、我が本多家の家法にて、たっぷりと躾てやる!」
共侍たちがお菊の身体を無理やり床から引き剥がし、引っ立てようとしたその時、集まっていた群衆の隙間から、それを切り裂くような鋭い声が響いた。
「いいかげんにしなっ!!」
凛とした、しかし怒りに震える声の主は、おえんであった。
「何じゃ貴様は?」
「ここの女将さ! あんたがどれだけ御偉いお侍様か知らないけれどねえ、堅気の娘を無理やり引っ立てるなんて、そんなみっともない真似は止めちまいなっ!! 江戸の男が聞いて呆れるよ!」
「黙れ阿婆擦れ! 格式高き武家に意見するとは不届き千万!」
征八郎の顔が、怒りと酒の熱で般若のように変貌した。一介の船宿の女将に「みっともない」と罵られたことは、何よりも許しがたい侮辱であった。
「おや、弱い犬ほど吠えるってぇけど、本当だねえ。まあ犬の方が、もっと可愛げがあるがねえ!!」
「天下の法を乱す虫ケラが! 手向かうならば、ここで叩き斬ってくれるわ!」
征八郎の手が、迷いなく腰の刀の柄へと掛けられた。鯉口が不気味な金属音を立てて切られる。爛々と輝く刃が、室内の行灯の光を反射してぎらりと抜かれた。おえんの顔に、初めて死の恐怖がよぎる。征八郎の腕が完全に振り上げられ、おえんの脳頭めがけて白刃が振り下ろされようとした。
その刹那――、タンっと信じられないほど静かな足音が響いた。
次の瞬間、征八郎の振り下ろされかけた手首を一本の強靭な手が正確に掴んでいた。
声の主は凌庵であった。彼はいつの間にか主水之助の絶対的な間合いの内側に入り込み、その刃の軌道を完全に殺していた。
「そこまでにされよ、若殿」
「何奴だ、貴様っ! 手を離せ!」
征八郎が暴れようとするが、凌庵の手首を掴む力は万力のように微動だにしない。凌庵は、刃を向けられているおえんを自らの背後にやんわりと庇いながら、主水之助の目を真っ直ぐに見据えた。その端正な顔立ちには、怒りも恐れも、何の感情も浮かんでいない。ただ、暗い奈落の底のような、底知れぬ静けさと圧倒的な「気迫」が、その瞳の奥で怪しく揺らめいていた。
「お侍様、大酒による酩酊は人体の五臓六腑を狂わせ、脳髄の働きを著しく損なう。言わば、貴殿は酒毒に犯された状態だ」
凌庵の声は、周囲の騒動が嘘のように冷静で、かつ低く地響きのように響いた。征八郎は、自らの剣筋が完璧に止められたことに驚愕し、目の前の男を睨みつけた。
「な、何奴だ貴様は・・・! 名を名乗れえ!」
「ただの町医者だ。」
凌庵の瞳の奥に、凍りつくような冷徹な光が宿った。それは日々、生と死の境界線に立ち、何人もの死骸を解剖し、人間の肉体の構造を知り尽くした者だけが持つ、独特の「死の気配」であった。
「離せ離せぇ!叩き斬ってくれる!」
尚ももがき、悪足掻きをする征八郎に対し、凌庵は掴んでいた手首を起点に、主水之助の胸元へ滑り込むように間合いを詰めた。医者としての精密な知識が、征八郎の肋骨の隙間、どの位置に指を突き立て、どの経絡を圧迫すれば、骨を折らずとも人間がどのような激痛に悶え、完全にその身体の自由を奪い去ることが出来るのかを知り尽くしている。
凌庵が左右の腕に微かに力を込め、征八郎の重心を絶妙な角度で崩した次の瞬間、大きな風を切り、征八郎の体がふわりと宙を舞った。
抵抗する間もなく、畳の上へとしたたかに叩きつけられる。ドスン、と鈍い衝撃音が広間に響き、征八郎は肺の中の空気をすべて吐き出されたように息を詰まらせた。その動きは、洗練された体術の技だった。
「がはっ・・・っ! う、うう・・・・。」
痛みに顔を歪めながら床から凌庵を睨む主水之助に対し、凌庵は上から真っ直ぐに彼を睨み据えた。
「人間の身体は、如何に高貴な血を引いていようとも、薄い皮一枚を剥げば皆同じ、脆い五臓六腑が詰まっているだけだ。もしお望みなら、ここでもう少し荒療治を施し、体に溜まった酒毒を根こそぎ絞り出してやろうか。」
凌庵の放つ、刃物よりも鋭い生々しい「死の気配」。それはこれまで征八郎が、未だかつて味わったことのない本物の恐怖であった。この男は冗談を言っているのではない、これ以上の底なしの地獄を見せる能力と意志がある――征八郎の背筋に、一瞬にして冷水が浴びせられたような戦慄が走った。大酒による酔いが、その原初的な恐怖によって急速に引いていく。
「くっ、う、うぅ。」
征八郎の額から、だらだらと冷や汗が流れ落ちる。彼は凌庵の気迫に完全に呑まれ、刀を握る右手の力が抜けていった。凌庵が静かに手を離すと、征八郎は逃げるように床を這い、数歩後退りして、刀を鞘に収めることも忘れて取り巻きの侍たちを見回した。
「お、覚えていろ! 今日の不届き、決してただで済むと思うなよ! おい、引き上げるぞ!」
征八郎は捨て台詞を吐き散らしながら、這う這うの体で広間から逃げ出していった。お菊を押さえつけていた共侍たちも、慌ててお菊を放り出し、転げるようにその後を追っていく。
一瞬の静寂の後、鶴亀屋の中に爆発するような大喝采が巻き起こった。
「やったぞ! 天竜堂のセンセ!」
「ざまあみろ、青大将っ!」
詰めかけていた客たちが口々に叫び、拍手が地鳴りのように鳴り響く。おえんは緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだが、すぐに顔を輝かせ、凌庵の腕に飛びつくようにして大喜びの歓声を上げた。
「さっすがお兄ちゃん! 最高に格好良かったよ! 見たかい!?今のお兄ちゃんの気迫!」
「相変わらずいい腕だな、先生。」
興奮して飛び跳ねるおえんの傍らで、解放されたお菊は、駆け寄ってきた吉兵衛に抱きしめられながら、涙ながらに凌庵に何度も頭を下げていた。
「ありがとうございます、先生・・・!」
「怪我はないかい? ああいう手合いはしつこいからな、もしまた何かあった時はすぐに天竜堂へ知らせるんだぞ。」
「はい・・・。」
「祝言を控えているんだってな、蓬洲先生に任せれば問題ない。幸せにな。母親に何かあった時は、天竜堂にも何時でも来な。」
「はい、ありがとうございます!」
店内が歓喜と興奮に包まれる中、しかし、新太郎と仁吉、そして彩乃の表情だけは、未だ晴れてはいなかった。新太郎は、征八郎たちが去っていった暗い廊下の先をじっと見つめながら、低い声で凌庵に語りかけた。
「・・・先生。見事な制止だったが・・・相手はあの本多長門守の倅だ。黙って引き下がるとは思えぬ。俺も御奉行に、今回の乱行について耳に入れる事にしよう。役に立つかはわからぬがな・・・。」
「ああ、老中の倅と来れば一筋縄ではいかぬな。だが、あの男の目には、酒毒以外の不穏な光もあった。少し気になる。」
「さあさ、飲み直しましょうお兄ちゃん!」
おえんは引っ張るように凌庵たちを座敷に招く。その後は、細やかながらも華やかな宴が開かれ、鶴亀屋の夜は更けていった。
夜の帳がすっかりと下り、神田の路地にはしんしんと冷え込む夜風が吹き抜けていた。刻限はすでに夜四つ(午後十時)を過ぎていた。
「彩乃、そろそろ天竜堂へ戻るとしよう。」
凌庵が声をかけると、隣で静かに白湯を啜っていた彩乃が、小さく肯いて立ち上がった。
座敷の真ん中では、北町奉行所与力の嫡男たる近藤新太郎が、まるで糸の切れた人形のように畳の上へと突っ伏していた。南町に手柄を横取りされた無念をすべて洗い流そうとするかのように大酒を煽り、今は地鳴りのような高いいびきをかいて夢の中であった。凌庵は、その傍らで呆れたように顎をさすっている仁吉と、おえんに彼の後始末を託すことにした。
「おい仁吉、若旦那は大丈夫か?」
「ああ、ご覧の通りさ。ゴーゴーピーピー、いい気なもんだ。後で叱られるのは俺だってのに。」
仁吉は呆れたように手拭いで頭を掻きながら、新太郎の肩を揺すったが、返ってくるのは規則正しいいびきだけだった。それを見た彩乃が厳しい口調で付け加えた。
「全く、いくら辛い事があったからと言って、あのような飲み方は体に毒です。仁吉さん、目が覚めたら厳しく言ってあげてください。夜中に気分が悪くなったら、喉を詰まらせぬように横を向かせ、大量に水を飲ませてやってくださいね」
「解った、解った。全く若旦那は、普段は真面目なんだが、自棄酒を煽ると止まらねえのが玉に瑕だ。」
「仕方がねえよ。新さんも江戸の治安を預かる誇りがある。それをあの様に無惨に踏みにじられては、酒を煽りたくもなるだろう。」
こうして温かい挨拶を交わした凌庵は、彩乃と共に鶴亀屋の賑やかな灯りを背にして、ひっそりとした夜の帰路に就いた。
神田の裏路地は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っており、等間隔に置かれた街灯りの辻行灯が、二人の影を長く地面に映し出している。夜風は肌肌と冷たく、彩乃は着物の袂を合わせて凌庵の半歩後ろを歩いていた。
しかし、道々歩いている最中、凌庵の様子がどこかおかしかった。前を向いて歩きながらも、数歩進むごとに、ちらり、ちらりと、不自然なほど後ろの闇を気にしているのだ。その鋭い視線は、ただの夜道を警戒しているものとは明らかに異なっていた。
「・・・先生、どうしましたか?」
彩乃がその違和感を察知し、小声で問いかける。凌庵は一瞬だけ足を止めかけたが、すぐに視線を前に戻し、いつもの飄々とした口調を繕った。
「うん? いや、何でもないさ。夜道が少々暗いと思ってな。」
彩乃に無用な心配をさせまいと咄嗟に嘘をついたが、実際には「何でもなく」などなかった。
――誰かに付けられている。
そんな確実な気配を、凌庵の鋭敏な五感は確かに捉えていた。それは今夜に限ったことではない。以前にも、小石川養生所での会合を終えて夕暮れの台地を降りる際、背後の物陰からじっと自分を凝視し、一定の距離を保って音もなく追ってくる「何者かの視線」を強く感じていたのだ。
(ただの物取りの類であろうか・・・。だとしたら、随分と見る目がない。懐に大金など持たぬ町医者を追って、一体何を得るつもりだ)
凌庵は胸中でそう毒づいたが、一方で、蔦吉の奇妙な割腹事件、そして杉野良伯の背後に見え隠れする「永命丸」の影が頭をよぎり、不穏な寒気が背筋を駆け抜けるのを禁じ得なかった。
そんな凌庵の緊迫した思考を破ったのは、隣から聞こえてきた微かな笑い声だった。ふと見ると、彩乃が凌庵の顔を盗み見ながら、袖で口元を隠してクスクスと楽しそうに笑っている。
「何だよ、彩乃殿。人の顔を見て、藪から棒に笑うなんて無作法だぞ」
「いいえ、申し訳ありません。ただ、先生は本当に『人畜無害』な御方だなと思いましてね。」
「どういう意味だ。先ほどあれだけ若侍を投げ飛ばした医者に向かって無害とは、少々締まらない響きだな。」
凌庵が不満げに眉を寄せると、彩乃は悪戯っぽく目を細めて言った。
「そのままの意味ですよ。先生は、あれほど頻繁に柳橋の花街や鶴亀屋へ行かれるのに、そこで何か浮いた噂を流すでもなく、ただ美味しいお酒と食事を楽しんで、満足して帰ってこられるだけでしょう? 先ほど、権力に物言わせて若いお菊ちゃんを無理やり我が物にしようと醜態を晒していた、あの本多の若侍のことを思い出しましたらね。男の方というのは、皆あのように傲慢で強欲なものかと思っていましたが、我が天竜堂の先生があまりに淡白で誠実なものですから、何だか可笑しくなってしまって。」
「それは褒めているのか? それとも、男としての甲斐性がないと詰っているのか?」
「勿論、最大級に褒めているのですよ。」
彩乃はそう言って、今度は隠すこともなく、月明かりの下で実になだらかな、美しい笑顔を見せた。
彩乃のからかうような、しかし絶対の信頼が籠もった言葉に、凌庵は最初こそ納得がいかないように首を捻っていたが、やがて自嘲気味な温かい笑顔をその顔に浮かべた。理不尽に満ちた江戸の闇は深いが、隣にいる彩乃とのこのような何気ない他愛のない会話こそが、気が重い凌庵の魂にとって、どんな高価な丸薬にも勝る「特効薬」になるのだった。
「さあ、先生。早く戻って、天竜堂の戸締りを厳重にいたしましょう。夜遊びが過ぎる医者は、患者に示しがつきませんから。」
「解った解った、お目付け役の言う通りにいたしますよ。其方に無害と言われるなら、町医者としては上出来だな。さあ、夜道は冷える。明日は軽く茶漬けで済ますか。」
「薬膳の茶漬けでもお作りしましょうか?」
「俺は病人ではないぞ?」
二人は再び歩みを速め、夜霧の立ち込める神田の路地を、天竜堂を目指して真っ直ぐに進んでいった。
背後に感じる謎の気配は、襲い掛かってくる様子も、天竜堂まで直接着けてくる様子も無かった。ただ、こそこそと一定の距離を保って後ろから付いてくるのみだった。
その不気味な気配も、二人の足取りが八丁堀の武家屋敷街に近づくにつれて、夜霧の奥へと静かに途切れて消えていった。しかし、それがかえって、嵐の前の不気味な静けさのように凌庵の胸に重く残るのだった。




