二十
「離してください!ご無体な!!」
「無礼者!大人しくいたせ!」
隣の広間の襖が乱暴に跳ね開けられた瞬間、凌庵たちの目に飛び込んできたのは、酒の悪臭と権力の横暴が視覚化されたかのような、醜悪極まる光景であった。
広間の中央では、上等の絹で仕立てられた衣服をだらしなく着崩した若い武士―本多主水之助が、畳の上に胡坐をかいていた。その手には、ずっしりと重い鉄製の黒千代香が握られている。主水之助はそれを杯に移すことすら微睡っこいと言わんばかりに、直接千代香の注ぎ口を血走った口元に宛がい、がぶがぶと音を立てて喉を鳴らしていた。受け止めきれなかった強い酒が顎を伝い、高価な小袖の襟元を無惨に濡らしている。
そのすぐ側では、主水之助の取り巻きである二人の共侍がお菊を畳の上にねじ伏せるようにして押さえつけていた。お菊の華奢な肩は荒々しく掴まれ、まだ幼さの残る顔は恐怖と屈辱で真っ白に変色している。
「お菊ぅ・・・、なぜ私の言う事を聞かぬ。我が本多家は三河以来の名家。その嫡流たるこの私に召し抱えられるのだ、一生不自由はさせぬぞぉ?」
主水之助の目は完全に据わっており、大酒による酩酊状態であることは誰の目にも明らかだった。しかし、その言葉の端々には、お上の権威を笠に着た、武家としての傲慢な威厳が奇妙に保たれている。それが却って、この男の底知れない歪みと質の悪さを際立たせていた。
「若殿の有り難き申し出だぞ! 隅田川の泥水で育ったような野良猫が、天下の本多家に上がれるのだ。有難く頂戴せぬか!」
お菊の腕をキリキリと捻り上げる共侍が、主水之助の言葉に調子を合わせて怒鳴りつける。その理不尽な暴力に対し、お菊は涙をボロボロと流しながらも、驚くべき強さで叫び返した。
「そのお話でしたら、何度も、何度もお断りいたしました! 私には既に、将来を誓い合い、言い交した相手がおります!」
「ああ? 直吉とか申す、あの薄汚い長屋住まいの若い宮大工か? そ奴なら心配に及ばぬ。私の方から直々に『話を付けてやる』と申しておるのだ。命が惜しくば大人しく女を差し出せとなぁ!ただとは言わぬ、金もくれてやる。大抵のものは、金と力で同と出無なる故なァ・・・。」
主水之助は下卑た笑いを浮かべ、千代香を畳に叩きつけた。パリンと音を立てて、千代香が割れる。仮にも大名家、それも幕閣の筆頭老中を務める本多長門守の御曹司ともあろう者が、市井の船宿で職人の名前を持ち出し、このような無様な脅迫の言葉をさらすなど、見苦しいことこの上ない。
大名ないし旗本の当主が、市井に生きる女を見染めて妾奉公を勧めると言う事は珍しい事じゃない。女性としても富も権力も持ち合わせた物からの申し出は、この上ない出世。だがこうして断り、それが縺れて騒動になると言うのもままある事だった。
共侍が迫るがお菊はなおも「嫌です!」と魂を振り絞るように拒絶し、一歩も引かなかった。大名の権力よりも、暴力の恐怖よりも、愛する男との約束を踏みにじられることの方が、彼女にとっては耐え難いことだったのだ。
思い通りにならぬ目の前の小娘に対し、主水之助の顔にみるみるうちに苛立ちの影が広がり、その表情が凶悪に凄んだ。
「・・・聞き分けの無い女だ。身の程を知らぬ泥人形めが。よかろう、これ以上ここで恥を晒す必要はない。屋敷へ連れ帰り、我が本多家の家法にて、たっぷりと躾てやる!さすれば、この申し出の有難みが身に染みるであろう。」
主水之助が顎で指図すると、共侍たちは我が意を得たりと、お菊の身体を無理やり床から引き剥がし、奥の荷物のように引っ立てようとした。お菊の悲鳴が再び広間に響き渡る。
その時、集まっていた群衆の隙間から、それを切り裂くような鋭い声が響いた。
「いいかげんにしなっ!!」
凛とした、しかし怒りに震える声の主は、おえんであった。主水之助は、遮られた言葉に不快感を露わにしながら、声のした方をギロリと睨みつけた。
「何じゃ貴様は?」
「ここの女将さ! あんたがどれだけ御偉いお侍様か知らないけれどねえ、堅気の娘を無理やり引っ立てるなんて、そんなみっともない真似は止めちまいなっ!! 江戸の男が聞いて呆れるよ!」
「町人の分際で猪口才な・・・。」
おえんは新太郎や仁吉が止める間もなく、すくみ上がる周囲の客たちを押し退けて主水之助の前に立ちはだかった。その顔は怒りで紅潮しており、長年この神田の地で暖簾を守ってきた意地と、預かった奉公人を守ろうとする女将としての覚悟が、彼女を突き動かしていた。おえんの気っ風は柳橋界隈でも有名だ。民衆の中からは、喝采が聞こえる。
「黙れ阿婆擦れ!格式高き武家に意見するとは不届き千万!」
主水之助の顔が、怒りと酒の熱で般若のように変貌した。大名の子息として生まれ、生まれてから一度も逆らわれたことのない男にとって、一介の船宿の女将に「みっともない」と罵られたことは、何よりも許しがたい侮辱であった。
「おや、弱い犬ほど吠えるってぇけど、本当だねえ。まあ犬の方が、もっと可愛げがあるがねえ!!」
「・・・天下の法を乱す虫ケラが!手向かうならば、ここで叩き斬ってくれるわ!」
主水之助の手が、迷いなく腰の刀の柄へと掛けられた。鯉口が不気味な金属音を立てて切られる。 爛々と輝く刃が、室内の行灯の光を反射してぎらりと抜かれた。おえんの顔に、初めて死の恐怖がよぎる。しかし、主水之助の腕が完全に振り上げられ、おえんの脳頭めがけて白刃が振り下ろされようとした、その刹那―タンっ!と信じられないほど静かな足音が響いた。
次の瞬間、主水之助の振り下ろされかけた手首を一本の強靭な手が掴んでいた。凌庵だった。凌庵はいつの間にか主水之助の間合いの内側に入り込み、その刃の軌道を完全に殺していた。
「――そこまでにされよ、若殿。」
「何奴だ、貴様っ! 手を離せ!」
主水之助が暴れようとするが、凌庵の手首を掴む力は万力のように微動だにしない。
凌庵は、刃を向けられているおえんを自らの背後にやんわりと庇いながら、主水之助の目を真っ直ぐに見据えた。その端正な顔立ちには、怒りも恐れも、何の感情も浮かんでいない。ただ、暗い奈落の底のような、底知れぬ静けさと圧倒的な「気迫」が、その瞳の奥で怪しく揺らめいていた。
「お侍様、大酒による酩酊は人体の五臓六腑を狂わせ、脳髄の働きを著しく損う。言わば、貴殿は酒毒に犯された状態だ。」
凌庵の声は、周囲の騒動が嘘のように冷静で、かつ低く地響きのように響いた。 主水之助は、自らの剣筋が完璧に止められたことに驚愕し、目の前の男を睨みつけた。
「な、何奴だ貴様は・・・!名を名乗れえ!」
「ただの町医者だ。」
凌庵の瞳の奥に、凍りつくような冷徹な光が宿った。それは日々、生と死の境界線に立ち、何人もの死骸を解剖し、人間の肉体の構造を知り尽くした者だけが持つ、独特の「気迫」であった。
「離せ離せ!叩き斬ってくれる!」
腕を捻られようと、尚ももがき悪足搔きをする主水之助。
続いて凌庵は主水之助の胸元を掴み、左右の腕に微かに力を込めた。主水之助は宙を舞い、したたかに地面にたたきつけられた。医者としての知識が、主水之助の肋骨の隙間、どの位置に指を突き立てれば、あるいはどの経絡を圧迫すれば人間がどのような激痛に悶え、相手を制する事が出来るのか知り尽くしている。
その洗練された体術を食らい、痛みに顔を歪めながら主水之助は凌庵を睨む。
だが凌庵は一切物怖じせず、真っ直ぐ主水之助を睨む。
「人間の身体は、如何に高貴な血を引いていようとも、薄い皮一枚を剥げば皆同じ、脆い五臓六腑が詰まっているだけだ。もしお望みなら、荒療治を施し体に溜まった酒毒を絞り出してやろうか。」
凌庵の放つ、刃物よりも鋭い生々しい「死の気配」。それはこれまで主水之助が、未だかつて味わったことのない本物の恐怖であった。この男は冗談を言っているのではない、これ以上の地獄を見せる事が出来る。主水之助の背筋に、一瞬にして冷水が浴びせられたような戦慄が走った。酒の酔いが、その恐怖によって急速に引いていく。
「くっ・・・、う、うう・・・・。」
主水之助の額から、だらだらと冷や汗が流れ落ちる。彼は凌庵の気迫に完全に呑まれ、刀を握る右手の力が抜けていった。凌庵が静かに手を離すと、主水之助は逃げるように数歩後退り、刀を鞘に収 めることも忘れて取り巻きの侍たちを見回した。
「・・・お、覚えていろ! 今日の不届き、決してただで済むと思うなよ! おい、引き上げるぞ!」
主水之助は捨て台詞を吐き散らしながら、這う這うの体で広間から逃げ出していった。お菊を押さえつけていた共侍たちも、主人を放っておいたとあっては家来の名折れと、慌ててお菊を放り出し、転げるようにその後を追っていく。
一瞬の静寂の後、鶴亀屋の中に爆発するような大喝采が巻き起こった。
「やったぞ! 天竜堂のセンセ!」
「あのバカ殿を追い返しやがった!」
詰めかけていた客たちが口々に叫び、拍手が地鳴りのように鳴り響く。おえんは緊張の糸が切れたようにその場にへたり込んだが、すぐに顔を輝かせ、凌庵の腕に飛びつくようにして大喜びの歓声を上げた。
「お兄ちゃん!最高に格好良かったよ!見たかい!? 今のお兄ちゃんの気迫!」
興奮して飛び跳ねるおえんの傍らで、解放されたお菊は、駆け寄ってきた吉兵衛に抱きしめられながら、涙ながらに凌庵に何度も頭を下げていた。
「ありがとうございます、先生。」
「ああいう奴はしつこいからな、もし何かあった時は言うんだぞ。」
「はい。」
店内が歓喜と興奮に包まれる中、しかし、新太郎と仁吉、そして彩乃の表情だけは、未だ晴れてはいなかった。
「先生はどういう訳か、騒動に好かれていますねぇ。」
「俺を疫病神の様に言うんじゃない。」
新太郎は、主水之助たちが去っていった暗い廊下の先をじっと見つめながら、低い声で凌庵に語りかけた。
「・・・凌庵殿。見事な制止だったが・・・・相手はあの本多長門守の倅だ。黙って引き下がるとは思えぬ。」
「ああ、老中の倅と来れば一筋縄ではいかぬな。」
「俺も御奉行に、今回の乱行について耳に入れる事にしよう。役に立つかはわからぬがな・・・。」
「さあさ、飲み直しましょうお兄ちゃん。」
助けてもらいはしゃいだまま、おえんは引っ張る様に凌庵達を座敷に招く。暫くは、細やかながらも華やかな宴が開かれた。
夜の帳がすっかりと下り、神田の路地にはしんしんと冷え込む夜風が吹き抜けていた。 鶴亀屋の奥座敷では、先ほどの騒動の熱気もどこへやら、気怠く重苦しい空気だけが澱みの様に残されている。凌庵は徐に懐からなめし革の紐がついた精巧な懐中時計を取り出し、月の光を弾く文字盤に目を落とした。刻限はすでに夜四つ(午後十時)を過ぎていた。
「彩乃、そろそろ天竜堂へ戻るとしよう」
凌庵が声を掛けると、隣で静かに白湯を啜っていた彩乃が、小さくうなずいて立ち上がった。
ふと視線を落とせば、座敷の真ん中では、北町奉行所与力の嫡男たる近藤新太郎が、まるで糸の切れた人形のように畳の上へと突っ伏していた。南町奉行所に手柄を強引に横取りされ、蔦吉の一件を闇に葬られかけた無念と鬱憤―それを全て洗い流そうとするかのように、彼は大徳利の酒を文字通り煽る様に胃袋へ流し込み、酒に飲まれて今は夢の中であった。地響きの様な高いいびきが、静まり返った座敷に虚しく響いている。凌庵は、その傍らで呆れたように顎をさすっている仁吉と、お菊の介抱を終えて戻ってきたおえんに、彼の後始末を託すことにした。
「おい仁吉よ、若旦那は大丈夫か?」
「ああ、ご覧の通りさ。ぐっすり眠りこけてやがるよ。ゴーゴーピーピー、いい気なもんだ。後で叱られるのは俺だってのに。」
仁吉は呆れたように手拭いで頭を掻きながら、体を丸めて眠る新太郎の肩を揺すったが、返ってくるのは規則正しいいびきだけだった。それを見た彩乃が医者の助手としての顔を覗かせ、厳しい口調で付け加えた。
「全く、いくら辛い事があったからと言って、あの飲み方が続けば毒です。仁吉さん、目が覚めたら、もう二度とあのような無茶はなさらないよう、厳しく言ってあげてください。もし気分が悪くなって吐いてしまったら、すぐに大量に水を飲ませてあげてください。体の中の毒を薄めなければ、明日動けなくなりますから。」
彩乃が厳格な医者の助手としての顔を覗かせ、きつく二人を諭した。続けて凌庵が、付け加える様に泥酔した者の正しい対処を伝える。
「もし夜中に気分が悪くなって吐いたら、喉を詰まらせにように横を向かせ、大量に水を飲ませてやれ。体の中の酒を薄めねば、明日の一日中、頭痛と吐き気に苛まれることになりますからね。」
手際で指示を飛ばすと、仁吉は頭をかきながら苦笑いした。
「解った、解った。全く若旦那は、普段は真面目なんだが、自棄酒を煽ると止まらねえのが玉に瑕なんだ・・・。」
「仕方がねえよ。」
凌庵は、眠りこける友人の背中を見つめて静かに呟いた。
「奴も江戸の治安を預かる誇りがある。それをあの様に無惨に踏みにじられては、酒を煽りたくもなるだろう。」
凌庵自身、かつては御典医としての教育を受けた身であり、周囲からの期待に応え、医学の研鑽に励まねばならない重圧を知っている。立身出世を望まず町医者となった今でも、その責務の重さは新太郎の立場と通ずるものがあった。
「あいよ、解った。じゃあな兄貴、彩乃先生も夜道に気を付けてな。」
「はい、ではおやすみなさい。」
こうして仁吉、おえんと温かい挨拶を交わした凌庵は、彩乃と共に鶴亀屋の賑やかな灯りを背にして、ひっそりとした夜の帰路に就いた。
神田の裏路地は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っており、等間隔に置かれた街灯りの辻行灯が、二人の影を長く地面に映し出している。夜風は肌寒く、彩乃は着物の袂を合わせて凌庵の半歩後ろを歩いていた。
しかし、道々歩いている最中、凌庵の様子がどこかおかしかった。前を向いて歩きながらも、数歩進むごとに、ちらり、ちらりと、不自然なほど後ろの闇を気にしているのだ。その鋭い視線は、ただの夜道を警戒しているものとは明らかに異なっていた。
「・・・先生、どうしましたか?」
彩乃がその違和感を察知し、小声で問いかける。
凌庵は一瞬だけ足を止めかけたが、すぐに視線を前に戻し、いつもの飄々とした口調を繕った。
「うん? いや・・・何でもないさ。夜道が少々暗いと思ってなァ。」
彩乃に無用な心配をさせまいと咄嗟に嘘をついたが、実際には「何でもなく」などなかった。
近頃、誰かに付けられている。そんな確実な気配を、凌庵の鋭敏な五感は確かに捉えていた。それは今夜に限ったことではない。以前にも、小石川養生所での会合を終えて夕暮れの台地を降りる際、背後の物陰からじっと自分を凝視し、一定の距離を保って音もなく追ってくる「何者かの視線」を強く感じていた。
(ただの物取りの類であろうか・・・。だとしたら、随分と見る目がない。懐に大金など持たぬ町医者を追って、一体何を得るつもりだ。)
凌庵は胸中でそう毒づいたが、一方で、蔦吉の奇妙な割腹事件、そして柴崎孝伯の背後に見え隠れする「永命丸」の影が頭をよぎり、不穏な寒気が背筋を駆け抜けるのを禁じ得なかった。
そんな凌庵の緊迫した思考を破ったのは、隣から聞こえてきた微かな笑い声だった。ふと見ると、彩乃が凌庵の顔を盗み見ながら、袖で口元を隠してクスクスと楽しそうに笑っている。
「何だよ、彩乃。人の顔を見て、藪から棒に笑うなんて無作法だぞ」
「いいえ、申し訳ありません。ただ、先生は本当に『無害』な御方だなと思いましてね」
「・・・どういう意味だ、それは。医者に向かって無害とは、少々締まらない響きだな」
凌庵が不満げに眉を寄せると、彩乃は悪戯っぽく目を細めて言った。
「そのままの意味ですよ。先生は、あれほど頻繁に柳橋の花街へ行かれるのに、そこで何か浮いた 噂を流すでもなく、ただ美味しいお酒と食事を楽しんで、満足して帰ってこられるだけでしょう? 先ほど鶴亀屋で、権力に物言わせて若いお菊ちゃんを無理やり我が物にしようと醜態を晒していた、あの本多の若侍のことを思い出しましたらねえ。男の方というのは、皆あのように傲慢で強欲なものかと思っていましたが、我が天竜堂の先生があまりに淡白で誠実なものですから、何だか可笑しくなってしまって」
「それは褒めているのか? それとも、男としての甲斐性がないと詰っているのか?」
「勿論、最大級に褒めているのですよ。」
彩乃はそう言って、今度は隠すこともなく、月明かりの下で実になだらかな、美しい笑顔を見せた。彩乃のからかうような、しかし絶対の信頼が籠もった言葉に、凌庵は最初こそ納得がいかないように首を捻っていたが、やがて自嘲気味な、しかし不思議と温かい笑顔をその顔に浮かべた。 数日前、自らの患者の身内である蔦吉が、生きたまま五臓六腑を抉り出されるという、この世の地獄のような猟奇殺人事件が起きた。その無念の骸を検死した記憶は、今も凌庵の脳裏に焼き付いて離れず胸を重く塞いでいる。更には、先ほど目の当たりにした、傲慢な特権階級の侍の無様な暴挙。江戸の闇は深く、理不尽に満ちている。だが、隣にいる彩乃との、このような何気ない、他愛のない会話こそが、深く傷つき、気を重くしている凌庵の魂にとって、何よりの、どんな高価な丸薬にも勝る「特効薬」になるのだ。
「さあ、先生。早く戻って、天竜堂の戸締りを厳重にいたしましょう。夜遊びが過ぎる医者は、患者に示しがつきませんから。」
「解った解った、お目付け役の言う通りにいたしますよ。其方に無害と言われるなら、町医者としては上出来だな。さあ、夜道は冷える。明日は軽く茶漬けで済ますか。」
「では明日、私が薬膳を混ぜた特製の茶漬けでも作りましょうか。」
「俺は病人では無いぞ、其れに朝餉はお豊さんに頼む。」
「あら、私も大分上達しましてよ?」
「どうだかな・・・。」
楽しげに冗談を言いながら二人は再び歩みを速め、後ろに感じる気配を他所に夜霧の立ち込める神田の路地を天竜堂を目指して真っ直ぐに進んでいった。




