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十九

 浄真寺での検死、小石川養生所での対談を終えた凌庵の足取りは足枷でもはめられたかの様にずっしりと重く、何時もの帰路が遠く感じた。の「天竜堂」へと帰りついた頃には、江戸の街はすっかり夕暮れ、空はまるで血を思わせる真っ赤な茜空、そしてその空を鮮やかな茜雲が漂っている。表の提灯が夜風に小さく揺れ、格子戸を開けると、使い込まれた薬調合の道具が並ぶ庵の奥から、香香たる薬湯の湯気が立ち上っている。中では彩乃が、仕入れた薬膳を調合していた。

 「おかえりなさいませ、凌庵先生。」

 「うん・・・。」

 「随分と、遅いお帰りでしたね。何かありましたか?」

 彩乃は凌庵にそう問うが、察しは付いていた。

 酷く疲弊した顔色、そして十徳に微かに染みついた鉄錆のような血の匂いを敏感に察知し、その切れ上がった眉を痛ましげにひそめた。

 凌庵が重い薬箱を畳に下ろすのを手伝いながら、彼女は声を潜めて切り出した。

 「近所の肩から聞いたのですが、神田川で見つかった芸者さんの件・・・、芸者の蔦吉さんが何者かに無惨に切り刻まれたとか・・・。先生、それは事実なのですか?」

 凌庵は思い口を開き「ああ・・・。」と力の無い返事をした。

 「それも、ただの辻斬りや怨恨による凶行ではない。れっきとした医学の・・・、それも最先端の外科の術を用いた者による、意志を持った開腹の跡だった・・・。」

 「やはり・・・、噂は本当なのですね。」

 「信じられぬだろうが、事実だ。」

 彩乃は小さく息を呑み、白い指先で着物の袖を強く握りしめた。彼女の脳裏には、ある老人の悲痛な顔が浮かんでいた。甚兵衛の事だ。彩乃も甚兵衛の往診に何度か付いて行き、蔦吉の事情も知っている。

 「松葉楼の甚兵衛さんは、一体どうされたのですか? あの方は今朝方まで高熱を出して寝込んでおられたはず。蔦吉さんの事を実の娘のように可愛がり、数日後の祝言を誰よりも楽しみにしていらしたのに・・・。この天竜堂へも、あの子の花嫁姿が楽しみだと、嬉しそうにお話しに来てくださっていたのに・・・、まさかこんな事になるなんて・・・。寝込んでしまわれたのでは?」

 彩乃は蔦吉が亥之助の子を身籠っていたが、その子供事抜き取られたと言う事までは耳に入っていない様だ。全て耳に入れる事は無いと、其れに関しては口にしなかった。

 「来たよ・・・、現場に。甚兵衛さんは、南町の村上伝助に強引に現場へ連れてこられた。最悪の形で、遺体との面通しをさせられたのだ。」

 凌庵の口から漏れたその名に、彩乃の瞳に一瞬で激しい怒りの炎が灯った。普段は理知的で物静かな彼女が、これ程までに感情を露わにすることは稀の事である。

 「あのゲジゲジ・・・、何かと北町の鼻を明かそうと邪魔ばかりして・・・。挙句に病床にある甚兵衛さんを文字通り引きずり出したのですか!? 如何に御役目のためとはいえ、あまりにも人の心が無さすぎます。ただの手柄欲しさのために、遺族の引き裂かれるような悲しみを踏み躙るなんて・・・。あんな倫理なき者が奉行所の同心を名乗っているなど、到底許せません!」

 彩乃はあの時凌庵が表に出さなかった怒りを代言するかの様に憤った。病み上がりの老人にあの地獄のような惨状を見せつけることが、どれほどの狂行であるか、医療の現場に身を置く彼女だからこそ、その残酷さが腸を煮えくり返らせるほどに理解出来るのだ。

 凌庵は彩乃の激しい憤りを受け止めながら、ふと、浄真寺の境内で遭遇した「もう一人の男」の存在を思い出した。

 「彩乃殿、柴崎孝伯と言う御典医を知っているか?」

その名を聞いた彩乃は、伝助への怒りを一度収め、少し意外そうな表情を浮かべて記憶を辿り始めた。

 「柴崎孝伯先生・・・。ええ、よく存じております。私の父も生前、そのお名前を口にしておりました。柴崎先生は元々町医者の家系でありながら、その卓抜した医術の技量と、決して奢ることのない素晴らしい人品が認められ、お上の奥医師へと異例の抜擢をされたお方だと。父は『あれほど高潔で、技量人品ともに優れたお医者様は滅多にいない。』と、大層褒めちぎっておりましたよ。」

 「そうか、玄瑞先生がそこまで言うのなら、出来た御方なのだろう。」

 「かもしれませんね。それに、柴崎先生を殊のほか深く寵愛し、お上の御典医へと強く推挙されたのは、現老中の本多長門守様だと聞き及んでおります。長門守様と言えば、民の暮らしを第一に考え、学問や医療の発展にも私財を投じられる、まさにこの天保の世における稀代の名君。そのような素晴らしいお方に直々に引立てられた柴崎先生ですから、間違いなく、江戸で最も優れた、信頼に足る本道医の重鎮なのだと、私は疑いもしませんでした。

 恩師や彩乃がそこまで褒める程の医者、その医者が肝煎で作る新薬「永命丸」に益々興味が湧いた。

 しかし、凌庵が「では、その孝伯が手掛けたという『永命丸』についてはどうだ?」と尋ねた瞬間、彩乃の顔から先ほどまでの敬意が嘘のように消え失せ、今度はひどく不快そうな、苦々しい愚痴の表情へと一変した。

 「先生、その柴崎先生が作られたという『永命丸』に関してだけは、私は決して良い印象を抱いてはおりません。いえ、むしろ大層な憤りを感じております・・・。」

 彩乃は薬草を片付けながら、ため息混じりに愚痴をこぼし始めた。

 「近頃、天竜堂にやってくる患者たちの中にも、その『永命丸』の噂にすっかり心を奪われ、犯しな事になっている者が多すぎるのです。一粒飲めば万病がたちどころに治るだの、不老長寿の秘薬だのと、巷の薬売りや講釈師たちが面白おかしく触れ回っているせいでしょう。医者に掛からずとも治る魔法の薬があるのなら、家財を投げ打ってでも手に入れたいと、そればかりを口にする与作爺さんのような困ったお年寄りが後を絶ちません。何より恐ろしいのは、そうした怪しげな噂を真に受けて、間違った服薬の仕方をする患者が多すぎることです!」

 彩乃は調剤台の上の、煎じ薬の包みを指差しながら調子を強めた。

 「どんなに優れた薬であっても、個人の体質や病の段階を見極め、我々医者の指示通りに正しく飲まねば、それは容易く『毒』へと変わります。それなのに、あの永命丸の噂を聞きつけた者たちは、『これさえ飲めば、今までの苦い煎じ薬も、面倒な養生も一切必要ないのだろう』と勝手に思い込み、お出しした薬を飲むのを途中で止めてしまったり、逆に早く治したい一心で、手に入りもしない強い薬の噂を追って、他の怪しげな紛い物の丸薬を一日に何粒も過剰に貪り食って体調を悪化させたり・・・。本当に、薬の恐ろしさを知らない無知な服薬が多くて、いくら注意しても聞き入れてもらえず、毎日毎日、私は説明するだけで嫌になってしまいます!」

 長年誠実に患者と向き合い、女医を志した頃より地道な薬の調合を続けてきた彩乃にとって、一粒で全てが解決するという「永命丸」の存在、そしてそれに踊らされて自らの身体を蔑ろにする庶民の浅はかさは、到底看過できない医療の歪みであった。

 「・・・飲むだけで病が消え去る、万能の丸薬か・・・。」

 凌庵は彩乃の長い愚痴を静かに聞きながら、養生所で慶斎たちが語っていた「永命丸」の劇的な効果、養生所の患者が言っていた受診の苦労をしなくて済むと言う老いた患者の言葉。もしこの永命丸がれっきとした患者救済の新薬だとしたら、何よりも心強い新たな救いの手となるはずだ。

 永命丸の製法、そしてその驚異的な薬効の裏に隠された正体。それを解き明かしたいという執念に近い知的好奇心が、凌庵の胸中で静かに、しかし激しく火を灯していた。だが、思考を巡らせるうちに、ふと庵の隅に置かれた行灯の火影が長くなっていることに気づく。腹の虫が小さく鳴った。

 「こんな刻限か、そろそろ飯時だな。」

 凌庵は膝を叩いて立ち上がると、馴染みの料理茶屋であり船宿である「鶴亀屋」へ行こうと思い至った。あそこへ行けば、小石川での密談を終えた慶斎や、奉行所での政務を切り上げた新太郎といった常連たちが、一日の疲れを癒やしに訪れている頃合いだ。さらに、近藤新太郎の腹心である仁吉にとっても、そこは亡き母の地盤を継いだ姉が営む、実家も同然の場所である。彼もまた、顔を出しているに違いなかった。

 凌庵が外出の支度を始めると、それまで薬研片付けていた彩乃が、すかさずその気配を察して顔を上げた。

 「先生、私もお供いたします」

 「お供?」

 「鶴亀屋で夕餉と考えているのでしょう?」

 「察しがついたか、ならたまには共に行くか。珍しいこともあるものだな。」

 凌庵は少し驚いたように眉を上げた。彩乃は決して下戸ではないが、平素は酒席を好まず、夜は天竜堂で静かに本を読んでいることが多い。そんな彼女が自ら「行く」と言い出すのは、滅多にないことだった。

 「はい。でないと、先生は放っておくと直ぐに御酒が過ぎますから。今日のような凄惨な事件の後は、特に・・・。」

 「信用ねえんだな、俺は」

 凌庵は苦笑いしながら肩を竦めた。だが、彩乃が口にした「酒の量」という理由は、彼女が抱く懸念のほんの一部に過ぎなかった。

 彩乃の胸中には、二つの大きな心配事が渦巻いている。

 一つは、凌庵という男の「質の良さ」についてだ。端正な顔立ちに加え、医者としての冷静さと懐の深さを併せ持つ凌庵は、本人の無自覚とは裏腹に、花街の女たちの間で中々にモテる。鶴亀屋には「おえん」のような豪快で気さくな、しかし女盛りの色香を漂わせる女たちも出入りする。酒に酔った勢いで、妙な女に引っ掛かり、厄介な浮き名を流すことを彩乃は密かに危惧していた。

 そしてもう一つ、何よりも彼女の心を重くさせているのは、凌庵の身に及ぶ「命の危険」であった。

 かつて凌庵は、謎の薬物「佐葦の露」を巡る一件の調査に自ら身を投じ、その真相に近づきすぎた為に敵が雇った刺客に襲われた経験がある。今回の蔦吉の割腹事件も、その背後にうっすらと見え隠れする永命丸の影も、明らかに「表の医療」の範疇を超えた巨大な闇を感じさせた。

 (先生は、またあのような危険な目に遭おうとしている・・・)

 自らの身体を顧みず、医の術を汚す悪事を許せぬ一心で闇へ踏み込んでいく凌庵。そんな彼を一人で行かせれば、今度こそ帰らぬ人になるのではないか。そんな切実な恐怖が、彩乃を「酒席への同行」という慣れぬ行動へと駆り立てていた。

 「さあ、行きましょう、先生。新太郎様たちもお待ちですよ。」

 彩乃は努めて明るい声を出し、凌庵の少し先を歩いて天竜堂の戸を引いた。神田の夜風は冷たかったが、鶴亀屋から漏れる賑やかな灯りが、遠くの路地を仄かに照らし出していた。


 神田の賑わいを象徴する船宿「鶴亀屋」の暖簾をくぐった凌庵と彩乃は、瞬時に肌を刺すような空気の乱れを感じ取った。普段の活気ある喧騒とは異なり、どこか殺気立った、落ち着かぬ「騒がしさ」が店内に満ちていたのである。

 「吉兵衛さん」

 凌庵が声をかけると、帳場にいた主人の吉兵衛が顔を上げた。

 「おや先生、彩乃先生も一緒ですかい?」

 「今日は流行っているな。ずいぶんと賑やかなようだが?」

 「はあ、流行っていると言いますか・・・。」

 吉兵衛の歯切れの悪い物言いに、凌庵は眉を寄せた。

 「何かあったのか?」と重ねて問うたが、吉兵衛は「いいえ、何でもありません。さあ、どうぞ。」と視線を泳がせながら、いつもの奥座敷へと二人を促した。

 座敷へ腰を下ろすと間もなく、注文した酒が運ばれてきた。盆を運んできたのは、鶴亀屋では見覚えのない、まだ十代半ばに見える若い女だった。

 「おや? 見ない顔だな。」

 「はい、お菊と申します。」

 お菊と名乗ったその娘は、まだ日が浅いのか、凌庵と視線が合うたびにおっかなびっくりといった様子で身を縮めている。しかし、その所作には誠実さが滲んでおり、気立ての良さを感じさせた。

 「新顔かね? よろしくな。」

 「はい、では用事があったらお呼びください。」

 嵐の前の静けさを体現したような初々しい娘が去ると、彩乃が小さく微笑んだ。

 「可愛らしい人でしたね。」

 「ああ。鶴亀屋の評判を聞きつけて、奉公に来たのだろうさ。」

 そう言葉を交わしていると、凌庵の来訪を聞きつけたおえんが座敷へ姿を現した。

 「兄ちゃんいらっしゃい。あら、彩乃先生も来たのね?」

 いつものように華やかな声を上げようとはしていたが、その頬は心なしか削げ、目の下には隠しきれない隈が浮いている。凌庵は盃を置くと心配そうに彼女を見上げた。

 「おえんちゃん、何だかやつれてはいないか?」

 「ええ、大丈夫よ。」

 「何だ水臭い、具合が悪いなら遠慮なく言えよ。医者の前で無理は禁物だ。」

 凌庵の真っ直ぐな言葉に、おえんはふっと肩の力を抜くと、周囲を憚るように声を潜めた。その口調は、鉛を含んだように重い。

 「……ちょいと、厄介な客がねえ。入り浸っちゃってね。」

 「厄介な客?」

 「ええ、厄介者の客なんてざらなんだけど。今回はねえ・・・。お侍の威光を笠に着て、もう入り浸りよ。お父っつあんに助けを求めてもいいんだけど、これ以上迷惑を掛けちゃねぇ・・・。」

 おえんが視線を向けたのは、騒がしい声が漏れてくる隣の広間の方であった。そこには、ただの酔客とは一線を画す、傲岸不遜な権力の影が居座っているようだった。

 「タチの悪い客・・・、どこかで聞いた様な気が・・・。」

 ついこの間聞いた様な言葉に、凌庵が反応した。それは直ぐに思い出された。甚兵衛がやんわりと言っていた蔦吉に付きまとう、タチの悪い客。蔦吉の一件がまだ記憶に新しい内に、同じような職種の人間から同じ言葉を聞いた。花街で働く者には、宿命と言う奴なのだろうか。

 「まあお兄ちゃんは気にしないで、ゆっくり楽しんで。それに仁吉から聞いたよお兄ちゃん、大変だったね・・・。あたしも蔦吉さんの事は良く知っているし、悲しいよ・・・。」

 「調べは仁吉たちの役目だ、彼奴らが無念を晴らしてくれる。」

そう言いかけると、吉兵衛が中の凌庵たちに声を掛けて来た。

 「女将さん、新太郎様と若旦那が参りやした。」

 「何だ、来たのかい。通しておくれ。」

 いつもいつもいい所で来るなと、おえんは表情を曇らせた。今回は御目付け役の彩乃がいたため大胆な真似は出来ないが、もう二人邪魔者が来たと思っての事だろう。

 吉兵衛に通され、新太郎と仁吉が入って来た。だが、新太郎と仁吉の顔は悔しさで歪んでいた。

 「何だい二人共、まるでお化けみたいな随分と不景気な顔をして。」

 「何だも神田もねえや・・・。」

 力なく座る仁吉と新太郎の姿を見ると、その理由は手に取るように解った。

 「例の蔦吉さんの割腹一件、北町で下手人を引きずり出してやろうと、あっしの息の掛かった者たちを江戸中に走らせて、ようやく怪しい外科医師の潜伏先を突き止めたところだったんだ。これから新太郎旦那と手入れに踏み込もうって、その矢先にさ・・・。」

 「南町に横槍を入れられたのか?」

 凌庵の鋭い一言に、新太郎が忌々しげに吐き捨てた。

 「その通りだ、凌庵殿。あのゲジゲジ同心、村上伝助の野郎だ!野郎、事件に有名な御典医が絡んでいると知って、手柄欲しさにねじ込んできやがった。筆頭与力の石塚(いしづか)民部(みんぶ)様を通じて、一件への介入を無理強いして来たんだよ。何が南北力を合わせだ、もう直に月番になるから、とっとと手を引いて南町に任せろと言っているようなもんじゃねえか。どうせこっちが何かを言っても、馬耳東風を決め込んで好き勝手やるに違いねえんだ。」

 「そうか・・・そいつは残念だったな。」

 「先生の働きが、無になっちまったな。」

 「俺のことは気にしなくていい、後は町方の御役目だ。」

 凌庵は静かに首を振った。検使医としての本分は、死骸の声を一言半句も漏らさず聞き届け、お上の記録に留めること。手柄の所在がどこへ転がろうと、自らの見立てが変わるわけではない。だが、 新太郎たちの無念も痛いほど理解できた。「まあ飲め」と凌庵から差し出された杯を、新太郎は苦い顔のまま一息にあおる。喉を焼く酒の熱さも、胸中で燃え盛る憤りを消すには至らないようだった。

 「俺が言ってるのは手柄を攫われた悔しさだけじゃねえ、南町が出張って来たって事は、先生の様な蘭学医は雁字搦めにされちまうのではと懸念しているんだ。南町奉行の蘭学嫌いが有名だ。御役目にまで好みを挟むとは思いたくねえがな。」

 「嘆かわしい事ですね、先生はただ頼まれて手を貸しているだけだと言うのに・・・。」

 新太郎は棟居抱いた心配事を吐露し、彩乃もそれに同調する。かの有名な蛮社の獄の黒幕とされる南町奉行の鳥居耀蔵、自身が検使医になった際も何かと言っていたのを凌庵は耳にしている。凌庵が表立って目立とうとしないのは、これが原因だ。

 「必要とあれば手を貸す、要らざる時は身を引く。それが検使医だ。それに俺も、検死だけが能じゃない。」

 「そうですね、其れに大したお足を頂けるわけじゃありませんしね。」

 「悪かったな。」

 珍しく彩乃が揶揄って見せ、其れに笑顔を向けながら返答する新太郎。酒の席の力は、まるで魔力だ。想い食う空気さえも緩和し、こうして顔を綻ばせてしまう。

 すると思い出したように、仁吉が眉間に皺を寄せながらおえんに聞いた。

 「姉さん、そう言えばまた来てやがんのか? あのバカ殿。」

 「ああ、入り浸りだよ。」

 おえんはうんざりしたように肩を落とし、隣の広間の方を顎で示した。

 「なあ仁吉よ、そのバカ殿ってのは誰だ?」

 凌庵の問いに、仁吉は吐き捨てるように声を潜めた。

 「本多主水之助(ほんだもんどのすけ)って若侍が、取り巻きの悪家人どもを連れて来てやがるのさ。」

 「本多?」

 その姓に、凌庵の脳裏を先ほど天竜堂で彩乃と交わした会話がよぎった。

 「ああ、何でも御偉方の御曹司でな。あの野郎、新顔のお菊ちゃんに岡っ惚れでよぉ、何とかものにしようと入り浸りだ。お上がいくら贅沢を禁じる改革を叫ぼうが、身内の身代が太けりゃ痛くも痒くもないってツラしてやがるんだ。」

 「恐らく、本多長門守様の子息だろう。本多の名が付く大物と言えば、十中八九間違いなかろう。」

 凌庵の推測に、それまで静かに話を聞いていた彩乃が驚いたように小さく息を呑んだ。彼女が名君と信じて疑わない、あの本多長門守の血筋が、まさかこのような場所で放蕩を尽くしているとは思いもしなかったのだろう。

 親と子は似ると言うが、全てが似るわけではない。世間一般で名君と誉れ高い長門守だが、倅の躾にまでは果てが回っていない様だ。あるいは、表向きの清廉さの裏に、このような歪みが隠されているのか。 同じ御偉方の身内と言うなら、奥法印医師の娘たる彩乃や、筆頭与力の嫡男である新太郎がこの席にいるが、目の前のバカ殿と彼らを見比べれば、まさに月と鼈であった。二人はお上の権威を笠に着て威張るどころか、それぞれが己の足で立ち、医療と町方の正義のために泥を被ることも厭わない。

 「何ですか?」

 じっと向けられた凌庵の目線を感じた彩乃が反応する。

 「いや、何でもない。」

 凌庵は安堵の笑みを浮かべ、手元の杯を満たした。身近に信頼できる真っ直ぐな者たちがいることへの、ささやかな救いを感じてのことだった。

 ―その時、ドスンと壁を激しく叩くような音が響き、外の廊下がより一層騒がしくなった。

 「お菊っ!なぜ言う事を聞かぬ!!」

 「お、お許しください!!」

 若い男の怒声と、お菊と思わしき若い女の悲鳴。酒席での口論は珍しい事では無いが、これはただ事ではない。

 何事かと、凌庵たちは酒席を中断し座敷を飛び出して様子を見に行った。

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