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十九

 万福寺での凄惨極まる検死を終えた高柳凌庵は、重い足取りのまま、小石川台地の上に広がる「小石川養生所」へと向かった。

 江戸の貧窮にあえぐ庶民へ無償で医療を施す、いわば御上の慈悲の象徴たるこの診療所は、しかし表向きの建前とは裏腹に、素行の悪い無宿者や行き場のない病人がひしめく、特有の薄暗い熱気に満ちていた。お上から派遣された与力や同心たちの目は届かず、病床の片隅では小銭を賭けた花札の音が密かに響き、禁じられた酒や煙草が法外な値で取引される――まさに清濁を併せ呑む吹き溜まりの奥の院。その一角にある医局の戸を、凌庵は静かに叩いた。

 「・・・凌庵殿、もしもそれが事実ならば、これは単なる辻斬りや怨恨の類ではない。由々しき事態だぞ。」

 浮かない顔で訪ねてきた凌庵の話を聞き終えた桂川慶斎は、あまりの衝撃に動揺を隠せぬまま、手元の桐箱から精巧なビードロ製の器を取り出した。長崎から密かに取り寄せた、深紅に煌めく舶来物の葡萄酒(ワイン)をトクトクと注ぎ込む。公的な診療所の中で堂々と酒を食らうなど本来なら不祥事の極みだが、この無法地帯においては誰も咎めない。

 慶斎は深紅の液体を一口啜り、肴として机に置かれていた長崎伝来の(チーズ)を竹楊枝で口へ運んだ。いつもなら芳醇な香りに相好を崩すはずの極上の組み合わせだったが、今しがた耳にした話の重苦しさのせいで、ちっとも酔いが回る気がしなかった。

 凌庵は万福寺で目撃した、あの美しい肉体に刻まれた地獄の光景を思い出しながら、低い声で言葉を紡いだ。

 「私が自らの指で触れ、直接我が目で見た故に間違いない、慶斎殿。俺とて最初は我が目を疑ったのだ。しかし、あれは明確な意志と、人体の構造を知り尽くした者による『手術』の跡だった。」

 「信じがたい・・・。」

 慶斎の持つ器が、微かにカタカタと震えた。

 「その下手人は、薬を用いて娘を眠らせた上で五臓六腑を切り取ったのか? それとも、首を絞めるなりして殺した後に死骸を切り刻んだのか?」

 「そこなのだ、慶斎殿。」

 凌庵は首を振った。

 「私は境内で傷口の様子をつぶさに観察し、銀簪を用いて毒物や迷薬の類が用いられているかを徹底的に調べた。だが、銀の変色は一切なく、薬品の反応は見られなかった。首を絞められた痕跡も、撲殺の跡もない。暴行を受けたような類の傷も、どこにも見当たらなかったのだ。」

 「何だと?」

 慶斎の顔が驚愕に強張る。

 「じゃあ・・・まさか、意識がはっきりとした生きた人間の皮膚を切り裂き、五臓六腑を生きたまま引き摺り出したと言うのか!?」

 「・・・そういうことになる。」

 凌庵の断定に、室内を刺すような沈黙が支配した。

 「狂っていやがる・・・!」

 慶斎は葡萄酒を喉に流し込み、激しい嫌悪感に声を震わせた。

 「我々が腑分けや、やむを得ぬ外科治療を行う際は、華岡先生の麻酔薬を用いるか、あるいは既に息絶えた遺体を用いるのが鉄則だ。それを、生きたまま腑分けだと? 江戸の街に、そんな身の毛もよだつ気違い野郎が本当にいるというのか! 病理を知るためなら、お上の許しを得た刑死者の腑分けで十分に足りるはずだ。それを、何故何の罪もない堅気の娘を・・・!」

 外科治療の難しさと神聖さを誰よりも知る慶斎だからこそ、医の術を最悪の形で汚した下手人への激しい怒りが、その胸中で煮えたぎっているようだった。

 「祝言は・・・、もう直ぐだったのだ。」

 憤慨する慶斎とは打って変わって、魂を抜かれたように愕然としていたのは、部屋の片隅に座る老医師・蓬洲であった。今回の事件で、彼は身内同然の衝撃を受けていた。

 「あの子は本当に気立ての良い娘でなァ。これからは亥之助とお腹の子と共に、ささやかでも幸せな暮らしを送るはずだった。儂も久しぶりに頼まれた仲人の大役だからと、老体に鞭打って、それはもう張り切って準備をしていたのだ。婚礼の衣装の段取りや、引き出物の相談までしていた所へ、この一件・・・。やり切れぬ、あまりにもやり切れぬよ!」

 蓬洲は悔しさに顔を歪め、目の前の一升瓶から直接、慶斎の葡萄酒を湯呑みに並々と注いで煽り飲んだ。彼が激怒しているのは、楽しみにしていた仲人の大役を台無しにされたという無念さだけではない。手塩にかけて見守ってきた若い命と、その胎内の新たな命が、自らも志す「医学」の悪用によって無残に蹂躙されたことへの、老医師としての耐え難い屈辱と悲しみであった。

酒混じりの生暖かい息を荒く吐き出し、蓬洲は少し赤くなった顔で言った。

 「養生所でもすでにうわさが広まっておる・・・、辰巳芸者が、神田川の河童に尻子玉を抜かれて死んだってな。何を絵空事を言うのだと笑っていたが、まさかこれほど悍ましい現実だったとはな。地元の役人どもは、一体何をしていたのだ!」

 凌庵が万福寺での近藤新太郎らの奮闘と、それを嘲笑うかのように介入してきた南町奉行所の同心・村上伝助らの愚行を伝えると、蓬洲はドンと激しく机を叩いた。

 「怪しからぬ!南町の連中は、手柄の横取りや利権のことばかりで、命の重みというものを微塵も理解しておらん!我ら医者が、一分一秒でも長く生かそうと必死になっている命を、奴らは塵芥の如く扱いおる!」

 いい具合に酒が回り、次から次へと怒りの言葉を発する蓬洲。腕を組み、眉間に深い皺を寄せるその姿は、長年、貧民の命を救い続けてきた養生所の重鎮のプライドそのものであった。

 「しかし凌庵殿、許しちゃ置けねえなあ。こんな真似をしやがった奴は、絶対に生かしちゃおけねえ。」

 慶斎がグラスを置き、凌庵を凝視した。凌庵の瞳にも冷徹な光が宿る。

 「俺とて到底許せるものではない。病を払い人を生かすべき医学の神聖なる術を、これほどまでに醜悪な悪事に悪用する者がいるなど、医を志した者として断じて容認できん。叶うならば、今すぐ下手人を引きずり出し、その悪しき手術刀とやらを叩き折ってやりたい気分だ。」

 実際に死骸に対面し、甚兵衛の魂の慟哭を最も間近で受け止めている凌庵だからこそ、その胸中には暗い怒りの衝動が込み上げていた。しかし、彼は医者としての理性でそれを必死に律し、静かに首を振った。

 「だが・・・、俺の役目はあくまで検使医。死骸を余すところなく備に調べ、死者の遺した無念の証拠を集めることまでだ。そこから先の下手人捜しや捕縛は、町方の仕事、新太郎さんたちの役目だ。それに、下手に俺たちが目立った動きをすれば、南町の『妖怪奉行』の耳に入る。奴らは蘭学やオランダ医学を修めた我ら蘭方医を、弾圧する機会を今か今かと狙っているからな。」

 「妖怪奉行」――現在の南町奉行、鳥居甲斐守忠耀。過酷な天保の改革の急先鋒であり、お上の意に反する知識人を次々と容赦なく弾圧している恐怖の象徴だった。慶斎はうんざりしたように肩を落とした。

 「全くだ。下手に目をつけられれば、この養生所ごといつお取り潰しになるか分からん。だが凌庵殿、現場へ乗り込んできたという南町のゲジ伝の鼻をへし折ったという、その『思わぬ大物』とは一体誰なのだ?」

 「杉野良伯という、将軍家御典医様だ。」

 「ほぉ、杉野良伯か・・・。」

 その名を聞いた途端、慶斎だけでなく、それまで静かに酒を飲んでいた蓬洲までもが「ほう」と目を丸くした。

 「ああ、名前だけは俺も薬種問屋から聞いているぞ。」

 慶斎が言うと、蓬洲も深く頷いて言葉を続けた。

 「儂もよく知っておるよ。なんでも、医術の技量だけでなく、立ち居振る舞いや人品ともに極めて優れたお方らしくてな。現老中の本多長門守様の強い推挙・・・いわば幕閣のある大物の強力な口利きを得て、町医者の家系から特例で将軍家御典医にスカウトされたという、今をときめく大物だ。」

 江戸幕府の奥医師のポストは、大半が代々幕府に仕える家系の「世襲制」で占められているが、江戸末期に近づくと、杉野良伯の様に一介の町医者から推挙される事がある。時の老中クラスの強力な後ろ盾を得て外部から抜擢されるというのは、余程の天才的な技量と、政治的な立ち回りの上手さがある証拠だった。

 「流石のゲジゲジ同心も、そのクラスの大物には平伏するしかなかったか。」

蓬洲が皮肉げに笑ったが、慶斎の表情は次第に真剣なものへと変わっていった。彼は声を一段と潜め、さらに裏の情報を付け足した。

 「だがな、凌庵先生。良伯先生がそれほどまでに幕閣や大奥から絶大な期待を寄せられ、莫大な資金を投じられているのには、もう一つ別の理由があるのだよ。」

 「如何なる事で? 単なる医療の腕への期待ではないのか?」

 万福寺の現場での、あの不気味なほどの冷静さを思い出し、凌庵は慶斎へ問いかけた。

慶斎は葡萄酒の入ったビードロをそっと回し、一言だけ呟いた。

 「・・・永命丸(えいめいがん)だよ。今、典薬寮の奥深くで、その新薬が作られつつあるのだ。」

 「永命丸・・・?」

 一介の町医者である凌庵の耳には、まだ一度も入ってきたことのない名であった。

 「そうだ、新たなる奇跡の丸薬だ。一粒飲めば、身体の悪くなった場所、それこそ五臓六腑の病が劇的に回復する、魔法のような万能薬らしい。その噂を聞きつけた大名旗本の御内儀や、大奥のお偉方、果ては将軍家の縁者からも『大金を積むから、是非ともその薬が欲しい』という懇願の声が、良伯先生の元へ殺到しているそうだ。その研究には、大奥の御歴々も並々ならぬ執心を燃やして注目しているという話だ。」

 大奥、大名、老中――。江戸城の深奥に潜む最高権力者たちの名前がずらりと並び、室内の空気はにわかに緊張感を帯びた。だが、凌庵はそれを手放しで信じる気にはなれなかった。名前だけは大層な名前を名乗りつつも、中身はただの小麦粉や有害な水銀を混ぜただけの紛い物を高値で売りさばく、悪徳な薬売りの詐欺が横行しているのも事実だからだ。

 「何だか、聞けば聞くほど眉唾な話に思えるな。その薬の製法や成分について、何か聞いてはおらんか?」

 凌庵がそう尋ねると、今度は蓬洲が苦笑いを浮かべて答えた。

 「儂も、養生所の見回りに来るお上の役人にそれとなく探りを入れてみたのだがね……驚くほど、何も情報が入って来ぬのだ。材料が何であるかさえ、完全に闇の中よ。早々に他人に真似をされては、その莫大な利権が失われて困る。ゆえに、杉野良伯先生は徹底的に情報を秘匿されているのでしょうな。」

 「兎に角だ。」

 蓬洲が、空になった湯呑みを机に置き、話を締めくくるように言った。

 「その『飲めば万病が治る薬』の噂だけが一人歩きして、江戸の庶民がその完成を狂おしいほど待ち望んでいることだけは紛れもない事実だ。この養生所に通っている偏屈な与作爺さんなんかはな、毎日毎日、儂の顔を見るたびにこう言うのだよ。『全財産をはたいても惜しくねえから、手配してくれ』とな。」

 「いかん・・・、それは危険だ。」

 凌庵の表情が、一気に険しくなった。

 「その『永命丸』とやらが、どのような成分で出来ているかも分からぬ以上、我々医者から見れば恐ろしい限りだ。もし、劇薬の類が含まれていた場合、一時的に痛みは消えても、身体を内側から崩壊させる逆効果になりかねん。庶民が怪しげな噂に踊らされる前に、しっかりと実態を掴まねば・・・。

 「そうじゃのう・・・。こんな事、天竜堂で待つ彩乃が聞いたら、まさに鬼の如く怒り狂うぞ。『そんな眉唾の薬が役に立つようじゃ、私たち医者なんて不要じゃないですか!』とな。」

 「はっはっは、あの娘なら間違いなく言うでしょうなあ。」

 「その気性が、あの娘の良い所だ。」

 緊迫した話の中で唯一の身内話に、慶斎と蓬洲が微かに笑った。医学に愚直な凌庵だが、薬学に関して彩乃はさらに輪をかけて厳格だ。正しい手順を踏まない新薬の噂には、いつも苦言を呈していた。

 しかし、少し和んだ空気も束の間、本題である蔦吉の凄惨な殺人事件へと引き戻される。

 「正直、俺としてはその新薬の正体を知りたい。だが、御上の、それも最高権威たる御典医様が関わる事に、市井の町医者が口を挟む隙などどこにもないな。」

 「ああ、その通りだ。まずは芸者・蔦吉の無念を晴らすため、一日も早く下手人が上がることを祈るまでじゃな・・・。」

 力なく言う蓬洲のその言葉を最後に、酔えぬ酒で弔い酒代わりに献杯する三人が座る一室は、再び重苦しい静寂に包まれた。

 幸せを目前にしながら、生きたまま五臓六腑を抉られた蔦吉。そして、江戸の最高権力者たちを虜にする、謎の秘薬『永命丸』と、それを取り仕切る御典医・杉野良伯。

 点と点。未だ繋がらぬはずの二つの奇妙な事象が、凌庵の脳裏で、まるでおどろおどろしい大蛇の如く、不気味に絡み合い始めていた。

 

 万福寺での凄惨極まる検死を終え、さらに小石川養生所での重苦しい密談を経て神田へと引き返す高柳凌庵の足取りは、目に見えぬ鉄の足枷でも嵌められたかのように、ずっしりと重かった。住み慣れたはずの江戸の街並みも、今日ばかりはどこか遠く、見知らぬ異郷を歩いているかのような錯覚さえ覚える。

 天竜堂の庵へと帰り着いた頃には、江戸の街はすっかり逢魔が時の深い夕闇に包まれようとしていた。西の空は、まるで万福寺の境内で見た鮮血をそのままぶちまけたかのような、毒々しくも美しい真っ赤な茜色に染まり、ちぎれた雲がその血の海を漂っている。

 表に掲げられた「天竜堂」の提灯が、川面を渡る夜風に小さく揺れていた。凌庵が重い格子戸をガラガラと開けると、使い込まれた薬調合の道具が整然と並ぶ庵の奥から、漢方生薬特有の、苦くもどこか懐かしい香香たる薬湯の湯気が白く立ち上っているのが見えた。

 行灯の仄かな明かりの下で、仕入れたばかりの薬草を丁寧に選別していた彩乃が、戸の開く音に素早く顔を上げた。

 「おかえりなさいませ、凌庵先生。」

 「う、うむ・・・。ただいま戻った」

 何時もの鋭い足取りとは対照的な、引き摺るような足音。彩乃は「随分と遅いお帰りでしたね、何かありましたか」と、いつものような軽い小言を口にしようとしたが、凌庵の顔を見た瞬間にその言 葉を喉の奥へ引っ込めた。

 明かりに照らし出された凌庵の顔面は、完全に土気色に変わり、その瞳の奥には底知れぬ疲弊と、生々しい暗闇がへばりついていた。それだけではない。彼が身に纏う十徳の袖口からは、隠しようのない鉄錆のような、生々しい血の匂いが微かに漂ってきている。彩乃はその聡明な切れ上がった眉を痛ましげにひそめ、すぐさま手元の薬研を置いた。

 凌庵が背負っていた重い薬箱を肩から下ろすのを素早く手伝いながら、彼女は周囲の夜闇に声を吸い込まれぬよう、ひときわ声を潜めて切り出した。

 「先生・・・。実は、先ほど近所のお内儀から聞いたのですが、神田川の河岸で見つかったという芸者さんの件。あれは、松葉楼の蔦吉さんなのでしょうか。何者かに無惨に切り刻まれて亡くなったというのは、本当なのですか?」

 凌庵は畳の上にどっかりと腰を下ろし、自らの両手をじっと見つめながら、力の無い声を絞り出した。

 「ああ・・・本当だ。それも、ただの辻斬りや怨恨による凶行などではない。れっきとした解剖学の・・・、それも最先端の西欧外科の術を修めた者による、明確な意志を持った『開腹の手術』の跡だった。」

 「手術、だなんて・・・。やはり、噂は本当だったのですね・・・。」

 彩乃は小さく息を呑み、白い指先で着物の袖を白くなるほど強く握りしめた。彼女の脳裏には、ある老人の悲痛な顔がありありと浮かんでいた。

 彩乃の言葉を聞きながら、凌庵はさらに奥の凄惨な事実・・蔦吉の胎内から、亥之助との間に授かった小さな命までもが、臓物ごと根こそぎ抉り取られていたという地獄の光景を思い返していた。だが、医療の徒であるとはいえ、これ以上彩乃の心に無用な傷を負わせるべきではない。全てを耳に入れる必要はないと判断し、凌庵はその件については固く口を閉ざした。

 「では、松葉楼の甚兵衛さんはどうされていますか? あの方はついこの間まで高熱を出して、天竜堂の薬を飲んで寝込んでおられたはず。蔦吉さんのことを本当の娘のように可愛がり、数日後の祝言を誰よりも楽しみにしていらしたのに・・・。この庵へも、あの子の花嫁姿を見るまでは死ねないと、本当に嬉しそうにお話しに来てくださっていた。とても、その事実を耐えられるお体では・・・、勿論内緒にしたのでしょうね?」

 本来ならばそうするつもりだったが、南の厄介者のせいで裏切られた。

 「甚兵衛さんは・・・、来たよ・・・。現場へな。」

 「え?」

 「南町奉行所の村上伝助が、病床にあったあの方を文字通り強引に引きずり出し、あの惨たらし極まる遺体との面通しを強制させたのだ。折角治りかかったと言うのに、あれでは悪化してしま う・・・。」

 凌庵の口から漏れたその名を聞いた瞬間、彩乃の瞳に、それまでの悲しみをすべて焼き尽くすかのような、激しい怒りの炎がパッと灯った。普段は理知的で、感情を表に出すことを極端に嫌う彼女が、これほどまでに激昂することは極めて稀なことであった。

 「あのゲジゲジ同心・・・! 何かと北町の鼻を明かそうと、事あるごとに邪魔ばかりして。挙句の果てに、高熱でまともに歩くこともできぬ甚兵衛さんを、手柄欲しさの切り札として引きずり出したのですか!?如何に御役目のためとはいえ、あまりにも人の心が無さすぎます!ただ己の出世のためだけに、肉親を失った遺族の引き裂かれるような悲しみを泥靴で踏み躙るなんて……。あんな倫理なき者が奉行所の看板を背負っているなど、私は断じて許せません!いっそ父上の口から、御上の耳に・・・!」

 「止しなさい、揉め事を起こして行かん。」

 彩乃の言葉は、あの現場で凌庵が奉行所の縄張り争いの手前、胸の奥底に押し殺さざるを得なかった激しい怒りを、そのまま代弁しているかのようだった。病み上がりの老人に、あの地獄のような惨状を見せつけることが、どれほどの狂行であるか。日頃から病人の心に寄り添い、医療の現場に身を置く彼女だからこそ、その残酷さが腸を煮えくり返らせるほどに理解できるのだ。胸を激しく上下させ、悔しさに唇を噛む彩乃の姿を、凌庵はただ静かに見つめていた。

 凌庵は彩乃の激しい憤りを受け止め、彼女の呼吸が少し落ち着くのを待ってから、ふと、浄真寺の境内で遭遇した、あの不気味なほどに冷徹な男の存在を思い出した。

 「ところで彩乃殿、杉野良伯という御典医の名を聞いたことはあるか?」

その名を聞いた途端、彩乃は伝助への怒りをすっと収め、少し意外そうな、驚きの表情を浮かべて記憶の糸を手繰り始めた。

 「杉野良伯先生・・・。ええ、よく存じております。私の父も、生前そのお名前を何度も口にしておりました。良伯先生は元々、一介の町医者の家系でありながら、その卓抜した医術の技量と決して奢ることのない素晴らしい人品が認められ、お上の奥医師へと異例の抜擢をされたお方だと。父は  『あれほど高潔で、技量人品ともに優れたお医者様は、現代の江戸医学界には滅多にいない。町医者の希望の星だ』と申しておりましたよ」

 「そうか。あの玄瑞先生がそこまで絶賛されるのなら、表向きは確かに出来た御方なのだろうな。」

 「ええ、恐らくは。それに、良伯先生を殊のほか深く寵愛し、お上の御典医へと強く推挙されたのは、現老中の本多長門守様だと聞き及んでおります。長門守様と言えば、民の暮らしを第一に考え、学問や医療の発展にも私財を投じられる、まさにこの天保の世における稀代の名君。そのような素晴らしいお方に直々に引立てられた良伯先生ですから、間違いなく、江戸で最も優れた、信頼に足る本道医の重鎮なのだと、私は今の今まで疑いもしませんでした。」

 恩師である玄瑞や彩乃が、これほどまでに手放しで褒め称えるほどの医者。その医者が、お上の肝煎である「典薬寮」の奥深くで開発しているという新薬『永命丸』がますます気になった。。

 (やはり、良伯先生は単なるペテン師の類ではない。だが、あの男の目にあったのは、純粋な医の心・・・。そして・・・。)

 凌庵の胸中で、謎に包まれた男への興味と不信感が、ますます大きく膨らんでいく。

 「では、その杉野良伯が手掛けたという『永命丸』については、何か聞いていないか?」

こう尋ねた瞬間、彩乃の顔から先ほどまでの敬意が嘘のように消え失せ、今度はひどく不快そうな、苦々しい愚痴の表情へと一変した。

 「先生。その良伯先生が作られたという『永命丸』に関してだけは、私は決して良い印象を抱いてはおりません。いえ、むしろ一人の医療に携わる者として、大層な憤りを感じております・・・。」

彩乃は調剤台の上の薬草を手荒く片付けながら、ため息混じりに、堰を切ったように不満をこぼし始めた。

 「近頃、この天竜堂にやってくる患者たちの中にも、その『永命丸』の不気味な噂にすっかり心を奪われ、おかしなことになっている者が多すぎるのです。一粒飲めばどんな大病もたちどころに治るだの、不老長寿の秘薬だのと、巷の質の悪い薬売りや講釈師たちが面白おかしく触れ回っているせいでしょう。医者に掛からずとも治る魔法の薬があるのなら、裏長屋を叩き売ってでも手に入れたいと、そればかりを口にする困ったお年寄りが後を絶ちません。何より恐ろしいのは、そうした怪しげな噂を真に受けて、間違った服薬の仕方をする患者が多すぎることです!」

彩乃は調剤台の上に並んだ、丁寧に包まれた煎じ薬をピシッと指差しながら、調子を強めた。

 「先生もご存知の通り、どんなに優れた薬であっても、個人の体質や病の段階、五臓六腑の具合を見極め、我ら医者の指示通りに正しく飲まねば、それは容易く人間を殺す『毒』へと変わります。それなのに、あの永命丸の噂を聞きつけた者たちは、『これさえ飲めば、今までの苦い煎じ薬も、面倒な養生も一切必要ないのだろう』と勝手に思い込み、天竜堂がお出しした薬を飲むのを途中で止めてしまったり、逆に早く治したい一心で、手に入りもしない強い薬の噂を追って、他の怪しげな紛い物の丸薬を一日に何粒も過剰に貪り食って体調を悪化させたり・・・。本当に薬の恐ろしさを知らない無知な服薬が多くて、いくら注意しても聞き入れてもらえず、毎日毎日、私は説明するだけで嫌になってしまいます!」

 毎日誠実に患者一人一人の脈を取り、女医を志した頃より地道な薬の調合を続けてきた彩乃にとって、一粒ですべてが解決するという「永命丸」の存在、そしてそれに踊らされて自らの身体を蔑ろにする庶民の浅はかさは、到底看過できない医療の歪みであり、冒涜に他ならなかった。

 「飲むだけで病が消え去る、万能の丸薬か・・・。」

 凌庵は彩乃の長い愚痴を静かに聞きながら、先ほど小石川養生所で慶斎たちが語っていた「永命丸」の劇的な効果、そしてその裏に潜む不気味な情報の隠蔽について、再び深く思考を巡らせた。

 もしこの永命丸が、れっきとした患者救済のための新薬だとしたら、これほど心強い救いの手はない。しかし、もしその薬の驚異的な効果の裏に、何か恐るべき「代償」や、表に出せない禁忌の製法が隠されているとしたら――。そして、その新薬の開発時期と、蔦吉の五臓六腑が抉り取られた猟奇殺人の時期が、不気味に合致しているのは、果たして単なる偶然なのだろうか。

 永命丸の製法、そしてその驚異的な薬効の裏に隠された正体。それを解き明かしたいという、医師としての執念に近い知的好奇心と正義感が、凌庵の胸中で静かに、しかし激しく火を灯していた。

だが、思考を巡らせるうちに、ふと庵の隅に置かれた行灯の火影がずいぶんと長くなっていることに気づき、懐中時計を見る。夕七つ(16時頃)だ。張り詰めた緊張が緩んだ瞬間、腹の虫が小さく鳴った。

 「もうこんな刻限か、そろそろ飯時だな。」

 凌庵は膝を叩いて立ち上がると、重苦しい空気を振り払うように言った。くさくさする気分を晴らす為、鶴亀屋に向かう事にした凌庵が外出の支度を始めて羽織に手を伸ばすと、それまで薬研を片付けていた彩乃が、すかさずその気配を察して顔を上げた。

 「先生、私もお供いたします。」

 「お供? 彩乃殿がか?」

 「ええ。鶴亀屋で夕餉と考えているのでしょう? でしたら、私もご一緒します。」

 「察しがついたか。なら、たまには共に行くか。珍しいこともあるものだな。」

 凌庵は少し驚いたように眉を上げた。彩乃は決して下戸ではないが、平素は騒がしい酒席を好まず、夜は天竜堂の奥で静かに医書を読んでいることが多い。そんな彼女が自ら「行く」と言い出すのは、滅多にないことであった。

 「はい。でないと、先生は放っておくと直ぐに御酒が過ぎますから。今日のような凄惨な事件の後は、特に・・・ご自分で歯止めが効かなくなるでしょう。」

 「こいつは手厳しい。信用ねえんだな、俺は。」

 凌庵は苦笑いしながら肩を竦めた。だが、彩乃が口にした「酒の量」という理由は、彼女がその胸の奥底に抱く、複雑に渦巻く懸念のほんの一部に過ぎなかった。

 彩乃の胸中には、凌庵には決して明かせない二つの大きな心配事が渦巻いているのだ。

 一つは、高柳凌庵という男の「質の良さ」についてである。端正で涼やかな顔立ちに加え、医者としての冷静さと底知れぬ懐の深さを併せ持つ凌庵は、本人の徹底した無自覚とは裏腹に、花街の女たちの間で中々にモテる。鶴亀屋には「おえん」のような豪快で気さくな、しかし女盛りの妖艶な色香を漂わせる女たちも頻繁に出入りするのだ。酒に酔った勢いで、二枚目ながらどこか少年のような純真さを残す凌庵が、妙な女に引っ掛かり、厄介な浮き名を流すことを、彩乃は密かに、そして大層不愉快に危惧していた。要するに、変な女に騙されてほしくないという、彼女なりの強い独占欲の表れでもあった。

 そしてもう一つ、何よりも彼女の心を重く冷たくさせているのは、凌庵の身に及ぶであろう「命の危険」であった。

 嘗て凌庵は、江戸の闇に蠢く悪しき香り水「佐葦の露」を巡る一件の調査に自ら身を投じ、その真相に近づきすぎた為に、敵が放った凶悪な刺客に襲われ、文字通り死にかけた経験がある。あの時の、血に染まった凌庵を前にした恐怖は、今でも彩乃の脳裏に焼き付いて離れない。

今回の蔦吉の割腹事件も、その背後にうっすらと見え隠れする永命丸という巨大な利権の影も、明らかに「表の医療」の範疇を遥かに超えた、底なしの闇を感じさせた。

 (先生は、またあのような危険な目に遭おうとしている。この人は、医の術を汚す悪事を前にすると、自分の命の重さを簡単に忘れてしまう・・・。)

 自らの身体を顧みず、闇へ踏み込んでいく無鉄砲な凌庵。そんな彼を一人で行かせれば、今度こそ本当に帰らぬ人になってしまうのではないか。そんな切実な恐怖と、彼を側で支え、守らねばならないという強い使命感が、彩乃を「酒席への同行」という慣れぬ行動へと駆り立てていたのだった。

 「さあ、行きましょう、先生。ぐずぐずしていると、新太郎様たちに美味しい突出しをすべて食べられてしまいますよ。」

 彩乃は胸中の不安を隠すように、努めていつものように凛とした明るい声を出し、凌庵の少し先を歩いて天竜堂の戸を引いた。

 夜風は肌を刺すように冷たかったが、遠くの路地の向こうから漏れる、鶴亀屋の賑やかな灯りが、暗い足元を仄かに、しかし暖かく照らし出していた。

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