十八
高柳凌庵が検分を終え、その重苦しい結果を胸に万福寺の境内を後にしようとした、まさにその刹那であった。
「ちょいと待てえッ!!」
「そこの藪医者、動くんじゃねえ! 南町の旦那のお通りだぁ!!」
割れんばかりの横柄な怒号が、まだ静まり返る境内の空気を不躾に切り裂いた。赤門の前に群がっていた野次馬たちが、恐怖に慄いて左右へ蜘蛛の子を散らすように割れる。そこから大股で敷石を鳴らし、我が物顔で踏み込んできたのは、南町奉行所随一の蛇蝎の如く嫌われる筆頭同心の村上伝助。そして、その腰巾着として数々の悪名を轟かせる御用聞き、鳥越の権蔵であった。
「最悪な野郎が嗅ぎつけやがったな。」
新太郎は忌々しげに男たちを睨み据えた。その傍らに控える仁吉も一瞬で表情を強張らせ、地元の天海和尚までもが「南無阿弥陀仏」と眉をひそめて、同じ南町の与力たる仙波忠介もまた、この不躾な乱入者たちを冷ややかに見つめた。
「これは、村上の旦那。随分とお早いお着きで。北の月番の邪魔をしに、わざわざ神田までお散歩ですか?」
新太郎が嫌味を込めて声をかけると、伝助は脂ぎった顔にこれ見よがしな嘲笑を浮かべてみせた。
「どうも、近藤の若旦那。巷で発見された凄惨な死骸がこの万福寺に運び込まれたと小耳に挟みましてねぇ。何かお力になれればと、わざわざ足を運んでやった次第です。おぅ仙波ァ、一人で苦労かけたな。」
「これも御役目、問題ない。」
「そうかい、俺も筆頭同心として協力させてもらう。」
明らかに馬の合わない相手に、これ以上言葉を掛ける事は止めた。
もっともらしい大義名分を並べ立ててはいるが、その腹の内は透けて見えていた。北町奉行所の管轄で起きた大事件の手柄を強引に横取りし、北の鼻を明かして執政の場での点数を稼ぐ――それが伝助の唯一の目的であった。
そして、その背後で浅黒い顔に卑しい笑みを浮かべた権蔵の目的は、さらに下劣極まるものであった。
「旦那ぁ、それにしても柳橋で今をときめく売れっ子芸者が、こんな風にズタズタに切り刻まれるなんざぁ、実に勿体ない話ですなえ。死んじまう前に、一度あっしの布団にでも呼びたかったもんでさぁ、ヒヒヒ・・・。中身が空っぽじゃあ、抱き心地も冷たいでしょうなァ。」
死者への尊厳など微塵もない、ただ下心と猟奇的な好奇心に満ちた権蔵の言葉。新太郎の突き刺すような冷たい視線を感じたのか、伝助はわざとらしく鼻を鳴らし、新太郎の方へと歩み寄ってきた。
「ところで近藤様、お顔の色が随分と優れませぬが、大丈夫ですかな? お若い身空で、少々刺激が強すぎましたか?」
「気遣い無用・・・。村上殿、南町がわざわざ何用か? 今はまだ、我が北町奉行所が政務を司る 『北の月番』の筈ですが。管轄を侵すのは、いささか無作法が過ぎる。」
「へっ、そう邪険にしなさんな。」
権蔵が横からニヤニヤと口を挟む。
「もう直に南町の月番に切り替わるんでさぁ。こっちだって、天下の十手持ちとしての御役目を、前もって果たそうとしてる真面目心から来てんだ、有り難く思いなせえ。北町の御役人様方は、お上品すぎて死体の腹を見るだけで吐きそうになるんでしょう?」
「何言ってやがんでえ、油揚げ目当ての鳶のくせに・・・。十手が泣くぜ。」
仁吉がボソリと呟いた痛烈な誹りは、我が物顔で死骸の周りを見分し始めた伝助や権蔵の耳には届かない。まさに馬耳東風、彼らは聞く耳を持たなかった。
邪魔者扱いする新太郎らの空気を完全に無視した伝助は、ゆっくりと立ち上がった凌庵の姿を捉え、その眼を獰猛に細めた。
「おい、そこの藪医者。性懲りもなく、またお上が禁じるようなインチキ蘭学をひけらかしに来たか? 死人を弄くり回す暇があるなら、とっとと八丁堀の犬の糞でも診ていろ。おろく専門の化け物医者が。」
いつもの根拠なき難癖だ。相手にするだけ時間の無駄である。忠介が「口を慎め」と伝助を制止したのを確認し、凌庵は薬箱を担ぎ直して新太郎に告げた。
「新太郎さん、検分はもう済んだ。私はこれで失礼する。後は頼む.」
「待て待て待て、逃げるんじゃねえ!」
伝助が凌庵の前に大きく立ちふさがった。
「オメエ、芸者のおろくを調べたんだろ? 何が解ったか、この俺にも教えな。南町にも知る権利はある。それとも、適当な見立てをお上に聞かせるのが恐ろしいのか?」
何を言っても否定するか、あるいは自らの手柄として掠め取るだけの男に、医療の精密な見立てを伝えたところで無意味である。凌庵が「やれやれ」と心の中で深い溜息をついた、その時であった。
「蔦吉ぃーーーーっ!!」
境内の入り口から、引き裂くような聞き覚えのある嗄れ声が響き渡った。
凌庵の全身に、冷たい氷水を浴びせられたような戦慄が走る。まさか、そんな筈はない。振り返ると、そこには六尺棒を手にした奉行所の小者たちに必死に阻まれながらも、狂ったように筵の方へ手を伸ばす、松葉楼の主人・甚兵衛の姿があった。
「甚兵衛さん!? 何故、ここに・・・。」
凌庵の顔が蒼白になる。新太郎も「まさか、先生がさっき言っていた松葉楼の主人か?」と驚愕し、仁吉は憤怒に震えた。
「何故だ!?名主以外に、他言は一切していねえ筈だぞ! 誰が漏らしやがった!」
三人が驚きに目を見張る横で、村上伝助はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、まるで自分の屋敷に珍客を招き入れるかのように、甚兵衛に向けて手招きをした。
「おぅおぅ、来たか甚兵衛。入れ入れ。おいどけどけ、この御仁は死骸の立派な身内だ。面通しをさせてやるんだよ。早く確認しねえと、おろくが腐っちまうからなぁ。」
「村上殿・・・まさか、あんたが連れてきたのか!?」
新太郎の怒声に、伝助はしたり顔で胸を張った。
「ここへ向かう道すがら、たまたま松葉楼の前を通りかかりましてな、甚兵衛殿と行き会ったので 少々事情を話してやったまでのこと。そうした所、どうしても自身の目で確認したいとおっしゃる故、親切心でお連れ致した。面通しが早まれば、お上としても手間が省けますからなぁ。褒められても良い仕事だ。」
偶然出会ったなど、大嘘に決まっている。北町より先に被害者の身元を確保し、遺族の動転を利用して事件の主導権を握るため、直接松葉楼へ押し入ったに違いないのだ。
風邪の病み上がりで、やっと熱が引いたばかりの老人に、五臓六腑をくり抜かれた娘の惨状をいきなり見せつければどうなるか――。現に甚兵衛は激しく咳き込み、ヒュウヒュウと息を切らせている。
患者の命を、そして人間の尊厳を何とも思わぬその独善的な所業に、凌庵の胸の奥で、かつてないほどの激しい怒りが静かに、しかし烈々と燃え上がった。
「な、何てことを・・・。」
凌庵に代わり、伝助の胸ぐらに掴みかからんばかりに食って掛かったのは、激昂した新太郎であった。
「何てことをするのだ、村上殿! 如何に御役目のためとはいえ、あんたには人の心、遺族を気遣う優しさが一欠片も無いのか!?ただでさえ甚兵衛殿は、今朝方まで高熱で死線を彷徨っていたと凌庵先生から聞いている!あんたは病床の者に、その手で止めを刺したいのか!?」
「まあまあ、落ち着かれませ、若旦那ぁ」
伝助は新太郎の手を冷酷に振り払った。
「遺族の為と言うのならば、早急に下手人を捕らえ、一件を落着させることこそが最大の肝要。身内の死に顔を見るくらい、町人の分際で何を甘えたことを。その程度の温いお考えでは、いつまで経っても一人前の与力にはなれませぬぞぉ?」
「テメエ!」
新太郎が拳を握りしめ、今にも刀を抜きそうな一触即発の空気を、仁吉が必死に間に割って入って制止する。
「新さん、落ち着きねえ!ここで刃傷沙汰を起こしたら、村上の思うツボだ!」
「嫌ですねえ、お若え方は血の気が多くてェ。」
「やかましいっ!静かにしろ!!」
すったもんだの醜い言い争いに、ついに凌庵が地を幾重にも這うような、しかし有無を言わせぬ凄まじい語気で一喝した。その医者としての、命を預かる者としての圧倒的な威圧感に、伝助も新太郎も一瞬で言葉を失って黙り込んだ。
忠介もまた、伝助を冷ややかな目で睨みつけ低く吐き捨てた。
「村上さん、下級の私が言える事ではありませんが、その卑劣なやり口は南町の恥さらしだ。」
「流石は仏の誉れ高い仙波様。だがなァ、甘い事は捕物では通用しねえぞ?ほれ、甚兵衛、とっとと面体を改めな。」
押し出されるように促された甚兵衛は、幽霊のようにふらふらと、筵の前で崩れ落ちるように膝を突いた。
「蔦吉ぃ・・・、ああ、蔦吉、何だってこんな姿にぃ・・・! お前、お前なのかっ!」
甚兵衛の肩が激しく震える。その視線が、蔦吉の裂かれ空洞となった腹部へと向かう。
「甚兵衛さん・・・辛いだろうが、間違いないか?」
凌庵が、せめてもの支えになろうと隣で静かに問いかける。
老人は血の涙を流さんばかりの、絶望に歪みきった顔を上げた。
「見まがう訳がござんせんよ・・・! 娘の泣き黒子も、その手の傷も・・・。何故だ、何故あの子がこんな目に遭わなきゃならねえんだ・・・!誰が・・・誰があの子をこんな、中身のない干物みたいにしちまったんだよぉっ!」
「甚兵衛殿、あまり気を落としませぬように・・・。」
凌庵と共に町名主の治郎兵衛も、甚兵衛の背中を支えながら声を詰まらた。
「おいおい、可哀そうになぁ。せっかくの店の稼ぎ頭が、こんな無残に中身をくり抜かれちまってよぉ。これじゃあ、これからの店の稼ぎも、置屋の損失も計り知れんなぁ?」
「全くだ。お察ししやすぜ、甚兵衛さんよ。売り出し中の芸者に死なれちゃ、干上がっちまうなァ・・・。」
慰めているのか、それとも傷口に塩を塗って楽しんでいるのか、伝助と権蔵は下卑た笑みを浮かべながら無神経な言葉を投げかける。新太郎は「こんな倫理なき奴らに、同心の株や十手を与えている御上はどうかしている」と、幕府の腐敗に心底から絶望を覚えた。
「金など・・・金など、どうでも良い・・・・っ!」
甚兵衛は爪が剥がれんばかりに地面を掻き毟り、泥まみれになりながら慟哭した。
「蔦吉は身寄りがなく、私が実の娘の様に、手塩に掛けて育ててきた子なんだ! ほんの数日後の、あの子の祝言の日を・・・花嫁衣装・・・・。そして、あの子のお腹に宿っていた、私の孫になるはずだった赤子を抱く微笑ましい姿を・・・どれほど楽しみにしていたか……! 赤子はどこへ行ったんだ! お腹の赤ちゃんまで、あの鬼は殺しちまったのかよぉおぉっ!」
地面に頭を擦り付け、髪を振り乱して泣き崩れる甚兵衛。その深い落胆と、完膚なきまでに叩き潰された絶望の前に、凌庵も新太郎も、もはやかけるべき言葉を失い、ただ唇を噛み締め、無力感に苛まれるしかなかった。
「甚兵衛殿、蔦吉さんの無念は、北町の若旦那方が必ずや・・・必ずや晴らしてくださいます。だから、今はこれ以上見るのを止めて・・・・。」
治郎兵衛が必死に言葉を絞り出し、崩れ落ちた甚兵衛を抱きかかえた。
大量の涙と泥で顔を汚した甚兵衛は、魂をどこかへ置いてきてしまったかのように、光のない、虚ろな目で宙を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がった。親友の必死の支えがなければ、一歩も歩けないほど、その心は完全に死に絶えていた。
それを見届けた伝助が、再び勝ち誇ったように凌庵に詰め寄る。
「さあ、面通しも済んだ。蘭学医とやらが調べた結果を、さっさと吐け。」
凌庵は伝助を冷徹な眼で見据えた。伝えるべきか迷ったが、この事件の異常性を知らせねば新たな犠牲者が出る。何より検しているのは、切り口の美しさだ。
(確かに私は、この傷口に酷似したものを、かつて見たことがある)
凌庵の記憶は、遥か昔の長崎、鳴滝塾の光景へと飛んでいた。そこには、自分に本格的な外科治療を徹底的に叩き込んでくれた異国の師、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの姿があった。彼の執刀による、日本国内では未だ誰も成し得ていなかった「本格的な開腹手術」。凌庵はその緊迫した臨床の現場に、門人の一人として直に立ち会っていたのだ。当時、日本にも「華岡流」などの外科手術は存在したが、内臓を完全に摘出・処置するような近代的な開腹手術は未踏の領域に近かった。ゆえに鳴滝塾の技術は、当時の最先端の極みであり、その奇跡の術式を目撃せんとして、全国から極めて優秀な医学生たちが集い、数多くの門人を抱えていた。凌庵もまた、その烈々たる医学の灯火を継いだ一人であった。
そして、今目の前にある蔦吉の凄惨な傷口は、その鳴滝塾で厳格に教え込まれた、最先端の「開腹術」の断面と、恐ろしいほどの整合性を示していたのだ。
「・・・あぁ、とんでもないことが分かったな。」
凌庵は低く呟いた。
「何がとんでもねえ事なんだ? 勿体ぶらずに言え。」
伝助が急かす。
「だが、未だ確証のない憶測にすぎぬ・・・。」
「当て推量でも構わねえ、この俺が聞いてやるってんだ。早く言え!」
凌庵は伝助の耳元に顔を近づけ、周囲にも聞こえるほどの明確な声で仮説を突きつけた。
「この一件・・・医学、それも最先端の外科手術を修めた『医者』が、明確な意思を持って関わっているやもしれぬ。それも、生きたまま解剖を行うような、狂気の腕前を持つ者がな。」
「はぁ!? 医者だと?」
伝助が呆れたように声を裏返した。
「何寝言を言ってやがる。医者が人を切り刻むわけがねえだろう」
「傷口の断面があまりにも・・・。」
凌庵がそう言いかけた、まさにその時であった。
「おい! これ、入ってはならぬ! ここは奉行所の検死現場だぞ!」
「黙れ、無礼者。どかぬか、このお方をどなたと心得る!」
境内の入り口で、再び野次馬の行く手を遮っていた小者たちの金切り声が響いた。新太郎が驚いて振り返ると、万福寺の赤門前に金銀の金具をあしらった漆塗りの格式高い駕籠が停まっていた。その周りを固める屈強な共侍たちが、奉行所の足軽たちを容赦なく押し退けていた。
共侍たちが作った人の波の隙間から出て来たのは、豪勢な十徳を身に纏った坊主頭の男。パッと見た所、茶坊主の様な見た目の謎めいた男。
招かれざる新たな野次馬と踏んだ権蔵が、己の権力を誇示する絶好の機会とばかりに、いち早くその男の前に立ち塞がり凄んだ。
「やいやい、テメエ何者だ!? ここは奉行所の検死場だ、見世物じゃねえぞ! とっとと失せやがれ!」
だが権蔵の言葉が終わるより早く、中年の男を護衛していた共侍の目が鋭く光った。
「無礼者ッ!」
一喝と共に、共侍の刀の鐺が稲妻の如き速さで権蔵の鳩尾を正確に貫いた。
「が、はっ!?」
突かれた権蔵は、悲鳴すら上げられずにその場に両膝を突いて激しくのたうち回った。
「な、何をしやがるんだテメエら!此奴は町方の配下だぞ!!それを知っての狼藉か!?」
伝助が激昂して刀の柄に手をかけたが、共侍はそれを冷酷に睨み据え、朗々とその名を告げた。
「不浄役人が何をほざく。此方におわす御方は将軍家御典医、杉野良伯先生なるぞ!」
その大物の名の響きに、村上伝助の顔から一瞬で血の気が引き、腰が抜けそうになった。
――将軍家御典医。それは将軍一族や幕閣大名、最高権力者たちの医療一切を司る、医家における最高峰の身分である。格式そのものは旗本以下にして御家人以上とされるが、将軍の「命」を握る立場ゆえに、その政治的権勢は凄まじい。江戸の街において、御典医の駕籠が通る際は、最高権力者である老中の駕籠先さえも道を譲らせることが出来た、とまで畏敬を込めて語り継がれるほどの絶対的な権力者であった。八丁堀の貧乏小路でその日暮らしの治療をしている凌庵のような町医者とは、天と地、雲と泥ほどの差がある特権階級の人間であった。
凌庵は、権蔵の悶絶など意にも介さずにゆっくりと蔦吉の死骸の前へと近づいた。
「何だお前さんは?」
良伯の存在に気づき凌庵が問いかけると、孝伯は筵の中を覗き込み嘆息してみせた。
「何と言うことだ・・・。これが本当に、人の世で行われた所業なのか?」
「誰だあんたは、役人なのか?」
新太郎が不審そうに尋ねると、良伯は十徳の袖を優雅に払い一同を見回した。
「申し遅れた。私は幕府御典医の杉野孝伯と申す。人伝に、和泉橋の麓で人智を超えた凄惨な死骸が見つかったと耳に挟み、同じ医の道を志す者として、何か力になれぬかと、お節介ながら訪れた次第。」
「そ、これはこれはっ! 御典医様、我が配下の者が大変な無礼を働き、誠に申し訳ございませぬ!どうか御容赦を・・・!」
先ほどまで威張り散らしていた伝助が、手のひらを返したようにペコペコと頭を下げ、揉み手をしながら擦り寄った。
「堅苦しい謝罪は無用。」
良伯は伝助を冷たくあしらうと、その鋭い視線を凌庵へと向けた。
「其方が、自らこの死骸の検使を引き受けているという、噂の蘭学医か?」
「左様。高柳凌庵と申します。」
「うむ。私は本道の身であるが、死骸の言葉なき声を聴く検使の重要性は理解している。偏見を捨てて真実を見るのが、医徒の努めだ。」
軽く挨拶を交わすと、良伯は上質な十徳の裾が汚れるのも厭わず、凌庵の隣で同じように地面に屈み込んだ。蔦吉の臓腑を全て失ったおぞましい死骸を、眉一つ動かさずにじっと見つめるその様は、間違いなく「命の構造」を知り尽くした玄人の眼であった。
「凌庵殿、貴殿は先ほど『医者が関わっている』と言いかけていたな。何か確たる証拠を掴んだかね?」
凌庵の意見に耳を傾ける良伯の様子が面白くないのか、手柄を奪われることを恐れた伝助がすかさず二人の間に割り込んだ。
「御典医様ぁ!こんな貧乏小路のオランダ医者崩れの見立てなんざ当てになりませんぜ? どうせ、新し物好きの蘭学をひけらかして、大層な名前をつけたいだけでございましょう!」
「いいや、同業者の意見は決して無駄にはならぬ。お役人、少し黙って私に話を聞かせてもらえないか?」
良伯は静かに、しかし有無を言わせぬ重圧を込めて伝助をねめつけた。身分ある御典医に真っ向から冷徹に窘められ、難癖と牽制が十八番の伝助も今度ばかりは形無しとなって押し黙った。
(これほどの大物が、何故ここにこうも都合よく……)
凌庵の胸中に、言い知れぬ不気味な違和感がよぎったが、今は目の前の事実を語るしかなかった。彼は自身の仮説を、孝伯に向けて開陳した。
「良伯殿、私はやはりこの一件には我々と同じ『医者』、それも執刀の技術を完璧に極めた者が関わっていると考えます。」
良伯の表情が、僅かにピクリと動き、険しさを帯びた。
「何故そう思う」
「この傷口を、よく見られよ」
「傷口・・・、これが如何したかな? 単に鋭利な刃物で裂かれたように見えるが。」
「あまりにも、滑らかだと思いませぬか?」
「そうよな・・・。」
良伯は探針を手に取り、傷口の縁をなぞった。その二人の専門的なやり取りを、伝助らは疎ましそうに、如何にも面白くなさそうな様子で眺めていた。
「何が滑らかな切り口だ。どうせ、切れ味のいい業物の刀でも使ったんだろうよ。」
伝助が鼻で笑うと、ようやく復活した権蔵が痛む腹をさすりながらヤジを飛ばした。
「とすると村上の旦那ぁ、此奴は新しい刀剣を手にした、どっかの悪趣味なお侍の『試し斬り』か、あるいは『辻斬り』の類じゃねえですか?」
「かもしれねえなあ。大方、そんなところだろ」
(馬鹿なことを言う。試し斬りで、これほど内臓だけを綺麗に傷つけず、すべてをえぐり出すような真似ができるものか)
凌庵は彼らの無知に呆れ果てた。役人の看板を掲げているならば、少しは事態の異常性を真剣に診て欲しいものだ。
「二人共、少し黙って貰えないか。御典医様がお話し中だ。」
横から愚口を叩き続ける伝助らを見かねた新太郎が、格上の与力としての威厳を込めて、伝助を鋭く牽制した。年下の若造にいなされ伝助は「へん」と鼻で笑いそっぽを向いた。
「確かに、包丁や武士の刀にしては滑らかな切り口だ。凌庵殿、貴殿の言う『医者の関与』、その根拠をさらに詳しく聞かせてくれ。」
「この切り口は、おそらく・・・我が国では未だ極めて秘匿されているはずの、近代的な『外科手術』によるものでしょう。」
「外科手術とな?」
良伯の目が、一瞬だけ鋭く爛々と輝いたのを、凌庵は見逃さなかった。
「手前は嘗て長崎の鳴滝塾において、間近で異国医師の開腹手術を見たことがございます。その際皮膚を綺麗に切り開いた断面に、この死骸の傷は酷似しているのです。外科手術には、専用の刃物・・・手術刀を用います。手術刀は切り開いた皮膚を後に寸分の狂いなく縫合するために、肉を潰さず滑らかな切り口を作る独特の切れ味を持ち合わせております。これは並大抵の刃物では真似できぬ芸当です。それも、生体の構造を完璧に把握していなければ、心臓や肺、さらに妊婦の胎内から赤子だけをこれほど綺麗に摘出することは不可能です。」
凌庵の理路整然とした、そして長崎での実体験に基づく圧倒的な説得力を前に、しばらく境内に重苦しい沈黙が流れた。
良伯は、蔦吉の虚無の空洞と化した腹の底を見つめたまま、ゆっくりと立ち上がり、十徳の袖の中で自らの手を組んだ。
「なるほど。お見事な見立てだ。生憎私は本道の身ゆえ、外科手術というものには携わったことは殆どないのだが・・・。長崎で学び、本職の外科の眼を持つ其方がそこまで断言するのであれば、間違いないのだろうな。この江戸の街に・・・我らの知らぬ、恐るべき『手術刀』の使い手が潜んでいる、・・・ということか。実に恐ろしいことだ。」
良伯の言葉は一見、凌庵の見立てを称賛しているように聞こえた。しかし、その声の響きにはどこか冷徹で、すべてを事前に見通しているかのような、底知れぬ「不気味な静寂」が混じり合っているのを、凌庵の鋭い直感は敏感に察知していた。
「顔の色が優れぬようだが、如何致した?」
「いえ・・・目の前の事が信じられぬだけです。よく此処まで、人の体を弄ぶ事が出来る者だと。下手人は悪鬼羅刹か、あるいは・・・。」
「あるいは、我々と同じように知的好奇心に駆られた、行き過ぎた探究者かもしれんな。医の道は時に、人を狂わせる。」
良伯は静かに微笑んだ。その笑みには、冷たい金属のような無機質さがあった。
良伯を気遣う様に、伝助があからさまに胡麻を擦って近づいて来た。
「御典医様ぁ、こんな貧乏小路の藪医者の戯言でさぁ。気にしたら損ですぜ?」
「そうですよぉ、後の事はあっしら十手者にお任せくだせえ。高名な先生方の御力を、無にするような事、南町は致しやせん!」
「おい鳥越の、それじゃあまるで北が役立たず見てえじゃねえか?」
「あん? そうはいってねえよ?」
遠回しに「北町奉行所では役不足だ」と誹りながら、伝助は自分たちを売り込んでいる。立身出世を夢見る事を悪いとは言わないが、こう言う自己顕示欲と言うか、出世欲の塊の何と醜い事か。今は南だ北だと、拘っている時ではないだろうに。
「左様か、ではお任せするとしようか。凌庵殿、ご苦労であった。貴殿の働きは決して無駄にはならぬはずじゃ。お陰で死者も、少しは浮かばれる事だろう」
「御典医様にお言葉を頂き、身に余る光栄に御座います。」
普段なら町医者の存在など気にもしないはずの御典医から、偏見のない言葉を受け、凌庵は杉野良伯という医者の存在を、不気味さを感じると同時に、かすかな希望としても受け止めていた。こういう医者が上にいれば、蘭学への偏見も薄れ、救われる命が増えるはずだと。
「ではこれにて所用がある故に失礼致す。凌庵殿、これからも物言えぬ死骸の声なき声に耳を傾けてくだされ。」
「はい、お互いに患者の為に努めましょう」
「おぅ、ではまたどこかで会えると良いのぅ」
丁寧な挨拶をし、孝伯は弟子や共侍を引き連れて、豪華な駕籠まで戻って行った。久々に身分を超えた「医の理解者」に会えた心地がした凌庵は、満足げに、死骸を供養する詫び状を蔦吉の冷たい体の上にそっと置いた。
「おい、もう下げてもいいぞ。」
死骸を下げさせると、甚兵衛と治郎兵衛が後を追うように去っていく。甚兵衛の背中は、まるで老木の枯れ枝のように細く、小さくなっていた。
すると先程までバツが悪そうに黙り込んでいた伝助が、嫌がらせのように口を開く。
「おい藪ぅ、テメエと御典医の話が本当ならば、下手人は蘭学を心得る者の仕業って事だな。やはり御奉行の云う通り、蘭学なんざろくなものじゃねえな。バテレンの妖術だ。」
「左様で御座いますねぇ、これ以上関わるとろくなことありませんぜ?」
「そうだな、これで失礼しようか。近藤様、あまり蘭学者を信用しすぎると痛い目にあいますよ? お気を付けなされよ。おい、行くぞ権蔵。」
捨て台詞を残し、伝助と権蔵は高らかに笑いながら現場を後にした。面倒事は御免被ると伝助がそそくさと立ち去ると、権蔵も後を追う様に続けて去って行った。
その様子を鬼の形相で睨みながら、新太郎は拳を震わせ、地面を強く踏みつけた。
「力み過ぎると空回りしかねぬぞ。・・・。」
凌庵の静かな静止に、新太郎は深呼吸をし、ようやく肩の力を抜いた。
「ああ、我ながら取り乱した。面目ない。ともかく後は任せてくれ、ご苦労だった。先生。」
そう言うと、新太郎は焦燥感を滲ませながら、足早に万福寺を後にした。
「じゃあ俺も行くぜ、またな兄貴。」
早足の新太郎の足を追いかけて行った仁吉に手を振ると、様子を見ていた忠介も、ようやく憑き物が落ちたようにふうと溜息を付いた。
「やれやれ、ようやく嵐が去ったか。凌庵先生、南の同心として上役の無礼を詫びねばならん。高柳凌庵、お前の見立て、心に留めておく。医者の犯行か……。胸が痛む話だが、追うべき筋は見えた。」
「よろしくお願いいたします。」
忠介に軽く挨拶をした後、凌庵も万福寺を後にした。
このまま天竜堂に帰り、待っている患者たちを診るべきだ。だが、今の凌庵に、まっすぐ帰宅する気力は残っていなかった。
懐に残る、甚兵衛から受け取った薬礼の切り餅が、今は鉛のように重く、彼の胸を圧迫していた。あの温かい松葉楼の光景、蔦吉の祝言を楽しみにしていた甚兵衛の笑顔。それが、一瞬にして泥にまみれ、引き裂かれた。
(命を救うための医学が、命を弄ぶために使われたのだとしたら……)
その疑念は、医者としての凌庵の魂を激しく揺さぶり、蝕んでいく。
夜明けの光が江戸の町を白く照らし出す中、高柳凌庵はただ一人、足取りも重く、深い闇を抱えたまま、長い影を引いて歩き続けた。




