十八
浄真寺での凄惨極まる検死を終えた高柳凌庵は、その足で小石川台地の上に広がる「小石川養生所」へと向かった。
「凌庵殿、もしもそれが事実ならば、これは単なる辻斬りや怨恨の類ではない。由々しき事態だぞ?」
浮かない顔で訪ねて来た凌庵の話を聞いた慶斎は、あまりの衝撃に動揺を隠せぬまま手元の桐箱から精巧なビードロ製の器を取り出した。そして、そこに長崎から密かに取り寄せた、深紅に煌めく舶来物の葡萄酒をトクトクと注ぎ込む。
御役目中、しかもお上の公的な診療所の中で堂々と酒を食らうなど、本来ならば罷り間違えばお家断絶、とんでもない不祥事である。だが、この無法地帯たる養生所の奥の院においては、そう珍しい光景ではなかった。御上の肝煎で作られたこの養生所は、正に貧困にあえぐ江戸の庶民に無償で医療を施す慈悲の至尊。しかしそれは建前、その実態は「清濁併せ呑む」という言葉すら生ぬるい、素行の悪い貧乏人や無宿者たちの薄暗い吹き溜まりでもあった。病状が快方に向かった途端、暇を持て余した患者たちがどこからかサイコロや花札を懐に忍ばせて持ち込み、病室の片隅でちっぽけな賭場を開帳する。見舞人に命じてお上の禁じる嗜好品や強い酒を密かに持ち込ませる。果てには、一部の質の悪い医者や小者が患者に酒や煙草を法外な値で売りつけ、不当な小銭を稼ぐ者さえ現れる始末であった。養生所の治安を維持するため、お上からは二人の町奉行所与力の下に十人の同心が置かれ、日々差配している筈であった。しかし、彼ら役人の存在は「あって無きが如し」であり、賭場の見返りに上前を跳ねるなど、実質的には野放し状態と言ってよかった。
慶斎は注がれた深紅の液体を一口啜ると、肴として机に置かれていた、これも珍しい長崎伝来の蘇を竹楊枝に差して口へと運んだ。芳醇な香りとコクが口中に広がり、いつもならばいい心持になれる筈の極上の組み合わせであった。しかし、今しがた耳にした話の重苦しさのせいで、ちっとも酔いが回る気がしなかった。
凌庵は浄真寺で目撃したあの美しい肉体に刻まれた地獄の光景を思い出しながら、重い口調で話を続けた。
「私が自らの指で触れ、直接我が目で見た故に間違いない。慶斎殿、俺とて最初は我が目を疑ったのだ。しかし、あれは紛れもない意志を持った手術の跡だった。」
「・・・にわかには信じがたい。凌庵殿、その下手人は薬を用いて娘を眠らせた上で、その五臓六腑を切り取ったのか? それとも、首を絞めるなりして殺した後に、死骸を切り刻んだのか?」
「そこなのだ、慶斎殿。」
凌庵は首を振った。
「私は浄真寺の境内で、傷口の様子をつぶさに観察し銀簪を用いて毒物や迷薬の類が用いられているかを徹底的に調べた。だが、銀の変色は一切なく、薬品の反応は見られなかった。首を絞められた跡も、撲殺の痕跡もない。他に外傷があるか隈なく見てみたのだが、暴行を受けたような類のものは、どこにも見当たらなかったのだ。」
「何だと?」
慶斎の持つ器のが、微かにカタカタと震えた。
「じゃあ・・・まさか、生きたまま開腹が行われたと言うのか!?」
「―そういうことになる。」
凌庵の断定に、室内を刺すような沈黙が支配した。
「狂っていやがる・・・。」
慶斎が葡萄酒を喉に流し込み、声を震わせた。
「本来、我々が腑分けややむを得ぬ外科治療を行う際は、華岡先生の麻酔薬を用いるか、あるいは既に息絶えた遺体を用いるのが鉄則だ。それを、意識がはっきりとした生きた人間の皮膚を切り裂き、五臓六腑を生きたまま切り刻むなど正気の沙汰ではない! それだけでも信じられぬと言うのに、生きたまま腑分けだぞ? 江戸の街に、そんな身の毛もよだつ気違い野郎が本当にいるというのか・・・・!」
外科治療の難しさと神聖さを誰よりも知る慶斎だからこそ、医の術を最悪の形で汚した下手人への驚愕、そして人間としての激しい怒りが、その胸中で煮えたぎっているようであった。
「聞けば蔦吉は亥之助の子を孕んでいたと言うが、腹の子も丸ごとか?」
「そうだ・・・。」
「一体全体、誰が何の為にそんな狂行に及ぶのだ!」
深い苦悩を刻んだ顔で呟いた。
「名立たる先人たちの働き・・・前野良沢先生や杉田玄白先生が『解体新書』を著し、人体の構造を明らかにしてくださったお陰で、今や無用な腑分けなど必要ないはずだ。病理を知るためなら、お上の許しを得た刑死者の腑分けで十分に足りる。それを、何故何の罪もない堅気の娘を・・・・。」
「それは、流石に俺でも解らぬ。」
凌庵は無念そうに拳を握りしめた。
「ただ五臓六腑を抉り出す瞬間の苦悶を愉しむ快楽殺人なのか、それとも、医学の皮を被った他に何か恐るべき思惑、実験のようなものがあるのか・・・。いずれにしても、人の皮を被った鬼の所業だ。」
「そうだな・・・。鬼か、さもなくば魑魅魍魎の成せる所業だ。それがこの大江戸の真ん中で巻き起こったという事実に、儂は背筋が凍る思いがする。」
慶斎は深く溜息をつき、それ以上言葉が出ない様子であった。
憤慨する慶斎とは打って変わって、浄真寺の甚兵衛の如く魂を抜かれたように愕然としていたのは、今回の事件で最も大きな衝撃を受けているはずの蓬洲であった。
「祝言は、もう直ぐだったのだ・・・。」
蓬洲の細い声が、静かな部屋に寂しく響いた。
「あの子は本当に気立ての良い娘でな・・・。これからは亥之助とお腹の子共に、ささやかでも幸せな暮らしを送っただろうに。儂も、久しぶりに頼まれた仲人の大役だからと、老体に鞭打って、それはもう張り切って準備をしていたのだ。婚礼の衣装の段取りや、引き出物の相談までしていた所へ、この一件・・・・。やり切れぬ、あまりにもやり切れぬよ!」
報酬も珍しく酒を食らい、酔いも程よく回って次第に誤記が強くなる。
「蓬洲先生・・・お気持ち、お察し申し上げます。」
凌庵が沈痛な面持ちで頭を下げると、蓬洲は悔しさに顔を歪め、目の前の一升瓶から直接、慶斎の葡萄酒を湯呑みに並々と注いで煽り飲んだ。彼が怒っている理由は「楽しみにしていた仲人の大役を台無しにされた」という、他人から見れば少々ズレたところにあるのかも知れないが、今回の事件に関して、その腸が激しく煮えくり返っていることだけは間違いなかった。
酒混じりの生暖かい息を「はぁーっ」と荒く吐き出し、蓬洲は少し赤くなった顔で言った。
「ここ数日、養生所内でもな噂程度だが広まっていたよ。祝言を控えた辰巳芸者が、神田川の河童に尻子玉を抜かれて死んだってな。何を絵空事を言うのだと笑ってみたが、見廻り与力の秋月伊織様から話を聞き、思わず薬研を落としてしまったよ。」
「地元の御役人衆も、その異常性には驚きを隠せない様子でした」 凌庵が万福寺での近藤新太郎らの様子を伝えると、蓬洲はドン、と机を叩いた。
「怪しからぬ! 近頃の江戸の奴らは、何かと理由を付け、あまりにも簡単に人を殺める。命を軽んじる者のなんと多い事か! 我ら医者が、一分一秒でも長く生かそうと必死になっている命を、奴らは塵芥の如く扱いおる!」
いい具合に酒が回り、次から次へと怒りの言葉を発する蓬洲。腕を組み、眉間に深い皺を寄せるその姿は、やはり長年、貧民の命を救い続けてきた養生所の重鎮であった。医者として、一人の人間として、命を弄ぶ存在への憤慨は人一倍強い。
「しかし凌庵殿、許しちゃ置けねえなあ。こんな真似をしやがった奴は、絶対に生かしちゃおけねえ。」
慶斎がグラスを置き、凌庵を凝視した。凌庵の瞳に冷徹な光が宿る。
「俺とて到底許せるものではない。病を払い、人を生かすべき医学の神聖なる術を、これほどまでに醜悪な悪事に悪用する者がいるなど、医を志した者として容認できん。」
「黙ってられねえな。お前さんの顔を見れば分かる。今すぐ下手人の胸ぐらを掴んで、その手術刀とやらを叩き折ってやりたい気分だろ?」
慶斎の言う通り凌庵の顔はここにいる三人の中で、最も深い怒りとある種の殺気すら帯びていた。なぜなら、実際に死骸に対面し、その凄惨極まる姿、そして甚兵衛の魂の慟哭を最も間近で受け止めているのは彼だからだ。蔦吉は芸者として、これまでどれほどの苦労を重ねて生きてきた事か。ようやく人並みの、ささやかな幸せを掴みかけたその矢先に、冷酷な刃で惨たらしく嬲り殺された。叶うならば、自らの手で下手人を引きずり出し、医者の術を以てその肉体に仕置をしてやりたいという、暗い衝動が込み上げてくるのが本音であった。
しかし、凌庵は胸中で暴れるその狂おしい感情を、医者としての理性で必死に律し、静かに首を振った。
「・・・いや。俺の役目はあくまで検使医。死骸を余すところなく備に調べ、死者の遺した無念の証拠を集めることまでだ。そこから先の下手人捜しや捕縛は、町方の仕事、新太郎さんたちの役目だ。俺の様な市井の町医者が、感情に任せて下手に出しゃばれば、要らざる騒動を生み、却って北町奉行所の足を引っ張ることになりかねん。」
その言葉に、慶斎は「・・・・確かに、その通りだな。」と苦い表情で頷いた。皆まで言わなくても、慶斎には凌庵が何を深く懸念しているのかが、痛いほど解っていたのだ。
その懸念が、慶斎の口からポロリと言葉になって漏れた。
「凌庵殿。確か、今は北町奉行所の月番だったな?」
「ああ、其れだけが唯一の救いだ。新太郎さんや仁吉が動けるからな。だが、一刻の油足りとも出来ん。下手に俺たちが目立った動きをすれば、手柄を血眼になって探している南町奉行所の連中が、それ見たことかとどっと押し寄せてくる。」
「お前さんが真に懸念しているのは、町方同士の縄張り争い、其れだけじゃあるまい。」
慶斎が探るような目で凌庵を見た。「・・・ああ」 凌庵は声を潜めた。
「この一件に、西洋の外科医師が深く絡んでいるのではという疑念だ。もし、この見立てが表に漏れ、南町の『妖怪奉行』の耳にでも捕まってみろ。奴らは狂喜乱舞して飛びついてくるぞ。」
「妖怪奉行」―現在の南町奉行、鳥居甲斐守忠耀。 過酷な水野忠邦の「天保の改革」の急先鋒であり、江戸の町に奢侈禁制の苛烈な大鉈を振るい、嘗ての高野長英や渡辺崋山の様な御上の意に反する知識人や文化人を次々と容赦なく弾圧している恐怖の象徴だった。
慶斎はうんざりしたように肩を落とした。
「全くだ。今の南町奉行所は、江戸の町の治安を守ることよりも、御定法を盾にして、改革に反する反乱分子の摘発ばかりに躍起になっている。特に御上が警戒している西欧の思想、オランダ医学を修めた我ら蘭方医や、蘭学者どもの監視、けん制、弾圧の機会を今か今かと狙っているからな。この小石川養生所にいる俺だって、普段は目立たぬよう、小さく小さく縮こまって仕事をしている有様よ。下手に目をつけられれば、いつお取り潰しになるか分からん。」
「全くだ。今日、浄真寺へ検死に向かった際も、早速南町のゲジ伝が、これみよがしに嫌味を言いに現場へ乗り込んできおった。」
やはりあの男が来たか、と慶斎は鼻で笑って呆れ果てた。
「ゲジ伝かぁ・・・あの男の強欲さと執念深さには、月番など関係ないな。北の手柄を横取りするためなら、地獄の果てまで這い寄ってくるゲジゲジよ。」
「以前、山王門前町で起きたあの事件の際も、奴には散々邪魔をされたからな。今回も、最悪の場合は死骸を強引に南町へ収容され、事実を隠蔽されるかと思ったが・・・途中で、思わぬ大物が介入してきたお陰で、ゲジ伝の鼻をへし折ることができた。」
「思わぬ大物?」
慶斎が身を乗り出す。
「柴崎孝伯という、将軍家御典医様だ。」
「ほぉ、柴崎孝伯か・・・。」
その名を聞いた途端、慶斎だけでなく、それまで静かに葡萄酒を飲んでいた蓬洲までもが「ほう」と目を丸くした。
「ああ、名前だけは俺も薬種問屋から聞いているぞ」
慶斎がそう言うと、蓬洲も続づけて言った。
「儂もよく知っておるよ。」
「なんでも、医術の技量だけでなく、立ち居振る舞いや人品ともに極めて優れたお方らしくてな。現老中の本多長門守様の強い推挙を得て、町医者の家系から特例で将軍家御典医に任命されたという、今売り出し中の大物だ。」
「老中のお気に入りとは、相当な御方だ・・・。」
江戸幕府の奥医師のポストは、大半が代々幕府に仕える家系の「世襲制」で占められているのが常であった。しかし、柴崎孝伯のように、時の幕府閣僚、それも老中クラスの強力な後ろ盾を得て、その卓越した才能を見込まれて外部から抜擢されるという異例の事例も稀に存在した。過去には、一介の町医者の身分から奥医師へと取り立てられた若林敬順や、日向陶庵といった伝説的な前例がある。余程の天才的な技量と、政治的な立ち回りの上手さがなければ、このような大出世の話は絶対に舞い込まない。孝伯が紛れもなく、現代の江戸医学界の頂点に君臨する男の一人であることは間違いなかった。
「がははは! 流石のゲジゲジ同心も、足元でプチンと一突きで潰されたか!」
蓬洲が嬉しそうに声を上げて笑った。蓬洲も日頃から、養生所を見下して横暴に振る舞う村上伝助のことを蛇蝎のごとく嫌っていたのだ。普段は偉そうにしている悪徳同心が、自分より遥かに格上の権力者の前で、揉み手をしながらへこへこ平伏する滑稽な様が目に浮かんだと見えて、痛快そうに膝を叩いた。
「しかし・・・あの傲慢な村上の旦那が、それほどまでに平伏し、媚びを売るということは・・・孝伯先生というお方は、単に官位が高いだけでなく、相当に『羽振りがいい』、つまり金と権力があらゆる所に回っている医者なのだな。」
「そうともよ、凌庵先生。」
慶斎が声を潜め、さらに裏の情報を付け足した。
「孝伯先生はな、今やただの大奥の主治医ではない。幕閣の御歴々、それこそ老中や若年寄たちからも、絶大なる期待と、莫大な資金を投じられているのだよ。」
「如何なる事で? 単なる医療の腕への期待か?」
その柴崎孝伯という、万福寺の現場での不気味なほどの冷静さを思い出し、凌庵はさらに慶斎へ問いかけた。
慶斎は葡萄酒の入ったビードロをそっと回し、一言だけ呟いた。
「永命丸だよ。」
「永命丸・・・?」
名前からして、何らかの丸薬、秘伝の漢方薬の類であることは想像がついたが、神田の町医者である凌庵の耳には、まだ一度も入ってきたことのない名であった。
「そうだ、新たなる奇跡の丸薬だ。まあ、俺もこの間、養生所に出入りしている馴染みの薬種屋の番頭から、内密に聞いた話なのだがな・・・。」
「新たな丸薬・・・。それが、それほどまでに大物たちを動かしているのか?」
「何でも、その効き目が覿面らしいぞ。ただの気休めの富山の薬売りとは訳が違う。一粒飲めば、身体の悪くなった場所、それこそ五臓六腑の病が、劇的に、目に見えて効果が表れて回復する、魔法のような万能薬らしい。その噂を聞きつけた大名旗本の御内儀や、大奥のお偉方、果ては将軍家の縁者からも『大金を積むから、是非ともその薬が欲しい』という懇願の声が、孝伯先生の元へ殺到しているそうだ」
大奥、大名、老中――。 次から次へと江戸城の深奥に潜む大物たちの名前がずらりと並び、室内の空気はにわかに緊張感を帯びた。 だが、凌庵はそれを手放しで直ちに信じる気にはなれなかった。何故なら近頃の江戸の街には、大奥や有名大名の名を無断で失敬し、「あの大奥御中臈も愛用!」などという大嘘の売り文句を利用して、中身はただの小麦粉や有害な水銀を混ぜただけの紛い物の丸薬を高値で売りさばく、悪徳な薬売りの詐欺が横行しているのもまた、紛れもない事実だったからだ。
「何だか、聞けば聞くほど眉唾な話に思えるな。」
凌庵は冷ややかに言った。
「そんな奇跡の薬が、もう巷の薬売りの店頭に広がっているのか?」
「いいや、まだそこらの庶民の口には一切入っていない。流通しているのは、それこそ一握りの、お大尽や特権階級の金持ち止まりだ。どうやら、その新しい薬を試すことが出来るのは、莫大な寄付金を払える金持ちが最初、という暗黙の決まりがあるらしいな。我々が日々診ているような、養生所の凡人が、その薬を買って使用したなどという話は、未だに一度も聞いたことがない。」
「最初に試すことが出来るのは、やはり金持ちか・・・。」
凌庵は顎に手を当てた。医学とは、本来あらゆる人間に平等であるべきはずのもの。しかし、その製法や臨床が金で独占されている事に、微かな歪みを感じざるを得なかった。
「・・・その『永命丸』の製法や成分について、何か聞いてはおらんか?」
凌庵がそう尋ねると、今度はそれまで泰然と構えていた蓬洲が苦笑いを浮かべて答えた。
「もしその製法を少しでも知っていれば、とっくにこの儂がここで真似して作って、養生所の貧乏人どもにタダで配っておるよ。儂も、養生所の見回りに来るお上の役人や、出入りの御薬園の小役人に、それとなく探りを入れてみたのだがね・・・驚くほど、何も情報が入って来ぬのだ。一子相伝、門外不出という訳でもあるまいに、材料が何であるかさえ、完全に闇の中よ。」
「早々に他人に真似をされては、その莫大な利権が失われて困る。ゆえに、柴崎孝伯先生は徹底的に情報を秘匿されているのでしょうな。」
慶斎の見解に、「どうであろうかねぇ。」と首を傾げるばかりであった。
「兎に角だ。」 蓬洲が、空になった湯呑みを机に置き、話を締めくくるように言った。
「その『飲めば万病が治る薬』の噂だけが一人歩きして、江戸の庶民がその完成と市販を、今か今かと狂おしいほど待ち望んでいることだけは紛れもない事実だ。ほら、この養生所の第三病室に通っている、あの偏屈な与作爺さんなんかはな、毎日毎日、儂の顔を見るたびにこう言うのだよ。 『おい、蓬洲のセンセ。毎日毎日、こんな苦い薬湯を飲むために、態々此処まで歩いて来るのは億劫で仕方がねえ。医者に掛からず、一発で元の身体に戻る丸薬があるって噂じゃねえか。もしそれが手に入るんなら、俺ァ、裏長屋を叩き売って全財産をはたいても惜しくねえ。頼むから手配してくれ』・・・とな。」
「いかん・・・そいつは危険だ。」
凌庵の表情が、一気に険しくなった。
「その『永命丸』とやらが、どのような成分で出来ているかも分からぬ以上、我々医者から見れば恐ろしい限りだ。もし、劇薬や麻薬の類が含まれていた場合、一時的に痛みは消えても、身体を内側から崩壊させる逆効果になりかねん。庶民が怪しげな噂に踊らされる前に、我々医者や、誠実な薬種屋の意見をしっかりとお上が聞かねば、江戸の街に第二の悲劇が起こるぞ。」
「そうだな、こんな事彩乃殿が聞いたら大変な事になるぞ。」
「俺以上に怒り狂うぞ、『そんな眉唾の薬が役に立つようじゃ、私たち医者なんて不要じゃないですか!許せません!』と言う感じでな。」
「はっはっは、言うだろうな。」
緊迫した話の中で唯一の笑い話、凌庵も厳格と取れる程に医学に忠実だが、彩乃は更に輪をかけて厳格だ。薬学を批判している訳ではないが、正しい飲み方をせずに体調を崩す患者が多い昨今、こうした新しい薬が産まれる度に必ずぶつくさ言うのだ。
少し話が逸れたが、本題は新薬「永命丸」と蔦吉の凄惨な殺人事件に戻った。
「正直俺としては知りたい・・・、だが御上の事には立ち入る事は出来ぬな。」
「ああ、その通りだ。その薬を作っているのが、御上の最高権威たる御典医様とあっては、地元の町医者が口を挟む隙などどこにもねえ。」
「そうだ・・・、その通りだな。まずは芸者蔦吉の無念を晴らす事が肝要だな。」
「一日も早く、下手人が上がる事を祈るまでじゃな・・・。」
力なく言う蓬洲のその言葉を最後に、酔えぬ葡萄酒で、弔い酒代わりに献杯する三人が座る養生所の一室は再び重苦しい静寂に包まれた。
幸せを目前にしながら、生きたまま五臓六腑を抉られた蔦吉。そして、江戸の最高権力者たちを虜にする、謎の秘薬『永命丸』と、それを取り仕切る傲慢なる御典医・柴崎孝伯。点と点。未だ繋がらぬはずの二つの奇妙な事象が、凌庵の脳裏で、まるでおどろおどろしい大蛇の如く、不気味に絡み合い始めていた。




