十七
「懐が暖けえというが・・・、こりゃあ返って金冷えしちまうなァ」
人通りの少ない路地に入ると、凌庵は徐ろにその切り餅を取り出し、月明かりの下でまじまじと眺めた。これだけの金があれば、小石川の薬種問屋への長年の支払いも一括で済ませられるし、三度の飯が幾分か豪華になる。
「彩乃殿が泣いて喜ぶぞ。」
薬礼一律十六文、ある時払いの催促なしを信条とする貧乏医者たる凌庵。稀に見る大枚の薬礼に一度は笑みがこぼれた。
満足そうな笑みを浮かべると後ろから、静寂を破るように激しく息を切らせた若い男の叫び声が響いた。
「先生っ! 高柳凌庵先生でございやすねっ!」
驚いて振り返ると、そこには額に嫌な脂汗を滲ませ、肩を大きく上下させて立ち尽くす、引き締まった体躯の若者がいた。ただ者ではない御用聞きの下っ端らしい、鋭くも礼儀正しい佇まいである。
「あんたは確か・・・、浜町の五郎蔵親分の?」
「へい、子分の伊三次と申しやす。お初にお目に掛かりやす。北町筆頭与力の近藤様より、此方に往診に出られたと聞きやして・・・。」
伊三次はいそいそと頭を下げたが、その表情には尋常ならざる切迫感が満ち満ちていた。
「五郎蔵親分の話は、清左衛門旦那から聞いている。ところで五郎蔵親分の子分が、俺に何の用だ?わざわざこんな所まで追いかけてくるとは、只事では無さそうだな。」
「・・・ただごとじゃございやせん。一刻を争う事態で。五郎蔵親分から何が何でも、すぐに先生をお連れしろと厳命を受けやした。場所は神田川、和泉橋の麓でございやす。」
「和泉橋・・・? 奇遇だな、この花街のすぐ近くではないか。」
「へえ、そうなんです。ですが、あまりにも場所が悪くて・・・。知っての通り、和泉橋の近隣には大名旗本の御屋敷が集っておりやす。近くにある細川様の大名屋敷の用人が、『不浄なものを天下の細川の前に晒すな!』とギャアギャア、金切り声を上げてうるさくて。それで、五郎蔵親分たちの手で、近くの万福寺の境内に緊急に隠し、運び込みやした。」
「天海和尚の寺か。・・・わざわざ大名家の用人が騒ぎ立て、寺の境内に緊急に隠さねばならんほど、その死骸は酷い有様なのか?」
凌庵がさらに一歩踏み込んで尋ねると、伊三次は「あっ」と声を漏らし、誰かに聞かれては困るという風に、一瞬だけキョロキョロと辺りの夜道を警戒するように見回した。そして、凌庵にぐっと顔を近づけ、震える声でその凄惨な様子を囁いた。
その内容を聞いた瞬間、それなりに凄惨な現場を踏んできた検使医であるはずの高柳凌庵の身体が、嘘のように硬直した。
「五臓六腑が・・・、全て無い?」
「その通りでさあ。文字通り、中身が全部きれいにくり抜かれた、空っぽの『腑抜け』の状態で上がったんでさぁ。」
「冗談だろ、伊三次さん。そんな化け物が仕施したような死骸が、この江戸の川に?」
「嘘や冗談で、こんな罰当たりな事が言えるわけねえでしょう! 兎に角、一刻も早く現場へ来てくだせえ!親分が待っておりやす!」
懐の切り餅の重みを忘れ、凌庵の心は一気に陰惨な調べの渦中へと引きずり戻された。家に戻り、甚兵衛からもらった報酬を彩乃に見せて少しばかり休息を取りたかったが、五郎蔵たちが現場で頭を抱えて待っていると言われては、断るわけにはいかない。
「身元は解っているのか?」
凌庵が歩き出しながら、念のために確認すると、伊三次の口から出た言葉が、彼の歩みを完全に止めさせた。
「へえ、引き上げた地元の町名主が面体を改めたところ・・・たしか、柳橋で今売り出し中の、『蔦吉』っていう芸者だって話でさぁ。」
その名前が鼓膜を叩いた瞬間、凌庵の頭の中を、先ほど松葉楼の部屋ではじけた娘たちの笑顔と、甚兵衛の誇らしげな言葉が、狂った濁流のように駆け巡った。
(祝言を間近に控えた・・・あの、蔦吉・・・・?)
同名の芸者が江戸に三人や四人いないとは限らない。しかし、先ほど若い芸者が口にしていた「たちの悪い客に付け狙われていた」という不穏な言葉が、最悪の形で脳裏に結びついた。激しい嫌な予感と鳥肌が、凌庵の全身を支配する。
せっかく風邪が治りかけて、未来に希望を抱いている甚兵衛に、万が一にもこの段階で致命的な絶望を与えてはならない。凌庵は、表情を極限まで引き締め、伊三次に低く鋭い声で命じた。
「そうか、解った。一刻を争う。行こう。」
「先生? 急に顔色が変わりましたが、どうしたんで?」
「道々話す。急ぐぞ!」
松葉楼の華やかな行灯の光が届かぬ闇の中を、二人は身を隠すように、事件の核心が待つ万福寺へとひた走った。直ぐに和泉橋に到着すると、複数の野次馬がわらわらと群れていた。江戸っ子連中は、誠に早耳だ。
「おいおい、一体全体どうしたんだえ?」
「何でも、お腹の五臓六腑を全部えぐり取られた、若い女の死骸が上がったんだとさ。」 「何だいそりゃ。江戸の街に、人を喰らう鬼でも出たってのかい?」
「あるいは河童か?」
万福寺の赤門の周りには、夜明かりを灯した提灯を手にした、噂を聞きつけた野次馬たちが、幾重にも膨れ上がって群がっていた。「腹を裂かれ、中身を失った美女の骸」。そのあまりにも猟奇的で怪談じみた噂は、瞬く間に江戸八百八町へと広まりつつあった。
凌庵は伊三次と共に野次馬の波を大股で掻き分け、寺の境内へと滑り込んだ。
(頼む・・・間違いであってくれ。)
心の中でそう懇願しながら進む凌庵の視界に、寺庭の地面に敷かれた筵と、その上に横たえられた白い物体が飛び込んできた。筵の周りには古顔の御用聞き、五郎蔵と仁吉、そして引き締まった体躯の若者、新太郎が、一様に暗い顔で立ち尽くしていた。
「おぅ伊三次、よう連れてきてくれた。凌庵先生ですね、浜町の五郎蔵でございやす。今回の骸は常軌を逸しておりやして、先生の知恵が必要でございやす。」
五郎蔵が手短に挨拶を交わす。凌庵は、自分を実質的に仙波忠介と、その隣に見覚えのある姿を見た。近藤新太郎と仁吉だった。見れば、新太郎は寺庭の隅にある古びた井戸の側で、あまりの惨状に耐えかねたのか、激しい吐き気を催してしゃがみ込んでいた。その逞しい背中を、仁吉が沈沈な面持ちで摩っている。死骸のすぐ枕元では、万福寺の住職である天海和尚が、異様な死を遂げた魂を慰めるべく、早鐘のような速度で供養の経を唱え続けていた。
「よう、新さんも来ていたのか?」
「あ・・、ああ。俺はあんたの後見人だからな。それに事が事だ、力になって参れと父上の申し付けもあったからな・・・。」
「俺も念のため、着いて来たと言う訳だ。」
「そうか、ところで道中死骸の身元を伊三次さんから聞いた。・・・本当に、柳橋の『蔦吉』という芸者なのか?」
凌庵の口から出た具体的な名前に、仁吉は鋭く反応した。
「そうだが何だ先生、まさか兄貴、その芸者と個人的に昵懇の仲にでもあったのか?」
「馬鹿野郎、そんなことじゃねえ。・・・実は今さっきまで、その蔦吉が籍を置く『松葉楼』の主人、甚兵衛の往診をしていたんだ。」
「何だと・・・!?」
いつもとは明らかに違う、凌庵の切迫した声に只ならぬ因縁を感じ取った新太郎と仁吉は、彼を野次馬から見えない木の陰へと引き込み、詳細を聴いた。事情を知った二人の表情は、凄惨な猟奇殺人の恐怖から一転し、被害者遺族を想う深い同情と険しさに変わった。
「何てこった、そいつは一大事だな。よりによって、今まさに病から立ち上がろうとしていた親代わりの患者の、その娘同然の芸者だったとは・・・。」
「先生の患者とこの最悪の骸が繋がっちまうなんて、神仏も残酷な真似をしやがる。」
「まだ、俺の勘違いという線もある。名主さんも、ここに連れてきているんだな?」
「ああ。念のため、最初に面体を改めた地元の名主を境内に残してある。」
仁吉の合図に促され、怯えきった様子で豊島町の名主、治郎兵衛が前に出てきた。
「名主さんだね?」
「豊島町名主の治郎兵衛でございます・・・。」
「お前さんは、松葉楼の甚兵衛さんやそこの芸者衆をよく知っているのか?」
「はい。松葉楼の甚兵衛さんとは街の寄合や仕事を通じて、昔から昵懇の間柄でしてな。私自身、あの置屋の芸者衆の華やかなお座敷を贔屓にしておりましたので、みんなの顔はよく頭に入っております。」
「そうか。ならば、本当につらい役目を強いるようで申し訳ねえが・・・俺の目の前でもう一度だけ、死骸の面体を細かく改めちゃくれんか?」
「よろしゅうございます。それが、あの子の無念を晴らすお役に立つのであれば。」
治郎兵衛は震える手で顔を覆いながらも、凌庵の隣に膝をつき、再びあの筵の上の凄惨な骸と対峙した。目を背けたくなるような死骸だが、治郎兵衛は町役人としての、そして一人の人間としての責任を全うするため、しっかりと顎を持ち上げその顔を凝視した。
そして治郎兵衛が口にした事実、それは凌庵の希望を一瞬で打ち砕いた。
「残念ながら・・・、間違いございません。この泣き黒子、確実にお顔の造り。松葉楼の蔦吉さんです・・・。」
「そうか・・・、本当に、彼女だったか・・・・。」
高柳凌庵はこれまでの検使では滅多に見せない程両肩を落とし、拳を強く握りしめた。治郎兵衛は、甚兵衛の病気と蔦吉の現状についてを聞き、涙ぐんだ。
「左様でございましたか。あんなに楽しみにしていた祝言を間近に控え、折角甚兵衛さんの病も先生のおかげで治りかけてきたというのに・・・。」
「娘同然の芸者の晴れ舞台を目前にして、この仕打ち・・・。御役人様! 蔦吉さんの無念の為、そして、気の毒な甚兵衛さんの為にも、一刻も早く、下手人をあぶり出してくださいまし・・・!」
「解った。その願い、しかと引き受けた。」
凌庵はゆっくりと筵へと近づいた。
その時、凌庵の姿を見つけた忠介が凌庵の前に立つと、値踏みするような鋭い視線をその細身の身体に走らせた。しかし、その瞳にあるのは警戒ではなく、事態を打開せんとする強い覚悟の光であった。
「其方が、高柳凌庵か?」
忠介の声は低く、しかし驚くほどよく通った。
「私は南町奉行所定町廻り同心、仙波忠介だ。北町の友から、お前の腕の確かさはかねがね聞いていた。・・・見ての通り、この一件は常軌を逸している。有吉の用人どもが早期に片付けろと圧力をかけてきており、明日になればお上の息がかかった公的な検死が入り、すべては闇に葬られるだろ う。」
忠介は一歩近づき、凌庵の目を真っ直ぐに見据えた。
「南だ北だとこだわる必要はない。ただ、この骸が告げている真実が知りたい。時がない、寺社方には書面にて既に承認を受けている。・・・存分にやってくれ。」
南町の配下で、町の治安を守る定町廻り同心という重役の立場でありながら、お上の目を盗んで「真実」を優先させようとする忠介の覚悟を、凌庵は瞬時に感じ取った。
「・・・・身に余るお言葉。南町の旦那がそこまで腹を括っていらっしゃるなら、私も医師としての全霊を以て応えねばなりませんな。」
凌庵の口元に、不敵な笑みが浮かんだ。彼はゆっくりと筵をすべて捲り、凄惨な「おろく」と対面した。
骸は川に遺棄されていた為水を吸っており、全体的に不自然にでっぱりと膨張していた。水面に浮かぶ骸としては一般的な変化であるが、何よりも全員の目を釘付けにし、恐怖のどん底に突き落としたのは、首元から下腹部、膣口にかけて、文字通り縦一文字に、迷いなく切り裂かれた巨大な手術痕のような傷口であった。
その地獄絵図のような様を一見した瞬間、流石の凌庵も一瞬だけ強く奥歯を噛み締め、目を背けたい衝動に駆られた。
この骸の内部には、人間として機能するための心臓も、肺も、胃も、腸も・・・ありとあらゆる五臓六腑がすべて、外科的な手法で綺麗に切り取られ、中が不気味な空洞と化していたのである。 そしてもう一つ。いるはずの物が腹の中にいない。
(・・・赤子が、いない)
身重であったはずの蔦吉の腹の奥には、宿っていたはずの小さな命の気配すら、跡形もなく消し去られていた。
「まるで蘭書に描かれる人体図だ。」
凌庵は玄人としての眼で、ふやけ切った皮膚のあちこちに薄っすらと浮き上がる不自然な赤い痣と、四肢に付けられた無数の細かい傷跡を捉えた。何か恐ろしい仮説を思いつき、薬篭箱から特別に手入れされた二つの金属製の器具を取り出すと、周囲の役人たちが息を呑む中で、女の膣内を細かく調べ始めた。
「川の水に流されていなけりゃ良いが・・・。」
注意深く奥の粘膜を覗き込み、懐から取り出した上質な懐紙を丸めて紙縒りを作り、中に押し入れた。拭き取るようにして慎重に紙縒りを動かし、引き抜く。月光と松明の炎にかざされたその紙縒りの先端には、川水の白さとは明らかに異なる、乳白色の粘り強い液体が微量ながら付着していた。
「・・・やはりな。淫水の跡が明確に残っている。死ぬ前に激しく手籠めにされている・・・・。身重の女を手籠めにしたってのか・・・。」
蔦吉はまずその美貌ゆえに拉致され暴行を受け、それからこの凄惨な有様にされたという事実が瞬時に証明された。
次に、凌庵は彼女の死因を特定すべく、首筋や胸元を調べたが、絞め殺されたような索条痕も、生前に激しく抵抗して刺されたような致命的な刺創も一切見当たらなかった。
「傷が無い? ということは・・・・。」
凌庵は袂から一本の磨き抜かれた銀簪を取り出すと、蔦吉の青白い唇を抉るようにして、その口の奥深くに差し込んだ。もし、彼女が即効性の毒物などで眠らされ、あるいは毒殺されていたのであれば、銀の表面は毒素に反応して禍々しい黒紫色に変色するはずだ。
しかし、銀簪は少しも変色せず、元の鋭い銀色の輝きを保ったままであった。
(薬物による毒殺でもない。首を絞められた形跡も、撲殺の跡も無い。すなわち、彼女は意識が完全にあり、五感が正常に働いている状態で手籠めにされた挙句・・・生きたままこの胸を切り裂かれたというのか。気違いの所業だ・・・!)
十中八九、この医療的な見立てに間違いは無いはずであった。凌庵は怒りと、背筋を凍らせるような恐怖のあまり、激しく眉を顰めた。
(それにしても・・・この切り口、あまりにも見事、綺麗すぎる。荒っぽい大工の包丁でもなければ、武士の刀による一閃でもない。よく研いだ床屋の剃刀を使ったとしても、人間の強靭な皮膚と肋骨を、これほど滑らかに、内臓を一つも傷つけずに切り開くことは不可能なはずだ。)
凌庵が注目した傷口の断面は、まるで布の端の如く、術後に上手く針と糸で縫い合わすことができるほど直線的で美しい曲線を描いていた。解剖学の知識を完璧に叩き込まれた、超一流の手術刀を操る者でなければ、この様な芸当は絶対に不可能であった。
しばらく凌庵が、その異常な傷口に顔を近づけて調べ続けていると、後ろから恐る恐る、極力死骸を見ないように目を背けながら、五郎蔵が震える声で声をかけてきた。
「・・・どうだ、先生。何が分かった。」
凌庵が深い集中から意識を戻し、立ち上がった頃には夜空を覆っていた重苦しい梅雨の雲がすっかりと割れ、東の空から強烈な朝の太陽が完全に顔を出していた。折角江戸の空が晴れやかになりつつあるというのに、事件のあまりの闇の深さに、凌庵たちの心はどんよりとした薄曇りのままであった。
「新さん、仙波様。この骸は、以前の山王門前町の事件の時に輪を掛けた、最悪の酷え有様だ。人間の仕業じゃねえよ。」
凌庵は新太郎を直視し、検分によって明らかになった「生きたままの解剖」、「性的な暴行」、「完璧な医療技術」という事実を容赦なく、かつ簡潔に伝えた。
「おいおい・・・お前の言うことが本当なら、相手はただの人殺しじゃねえ。鬼畜に勝る化け物だぜ。」
「ああ。それから、地面や周囲に大量の血が流れた跡が無いところを見ると、女は別の場所で完璧に腑分けされ、命を失った後にこの和泉橋の麓に打ち捨てられたようだ。」
「成程。しかし、一体どこの誰が、どこでこんな大掛かりな事を。」
「江戸の街にゃ、大名の空き屋敷も、寂れた灰寺も腐る程ある。その中から執刀場所を探し出すのは、骨が折れるだろうな。」
「真相を解明する為には、如何なる苦労も厭わぬ。しかし凌庵先生、もし先生の言う事が事実ならば由々しき問題ぞ?このご時世、蘭学者に疑わしい所があれば・・・、蘭学嫌いの鳥居様の耳に入ればただでは済むまいよ。」
「その為にも、事件を早く解決せねばならん。・・・ところで仙波様、新さん、蔦吉は最近たちの悪い客に付け狙われていたというのだが・・・。」
「何?詳しく聞かせろ。」
凌庵は甚兵衛が話した、蔦吉に付きまとう質の悪い客に関してを話し始めた。
「解った、その調べはこちらで行う。南北力を合わせ調べると約束する。」
「先生、他に何もなければそろそろ骸を下げてもいいか?これ以上ここに置いておくと、仏が浮か ばれぬ。」
「おう、ちょっと待ってくれ。最後の手向けだ。」
あらかたの調べを終えた凌庵は、往診用の薬箱からおもむろに一枚の懐紙を取り出すと、手慣れた筆跡で何やら文字を素早く書き付けた。
そこには、「御遺骸改メ平に御容赦、南無阿弥陀仏」と記されていた。
本来ならば一刻も早く棺桶に入り、清らかな体で葬られるべきところを、死んでなおそのプライドを傷つけ、体を道具で弄り回したことに対する、検使医としての心からの「詫び状」の代わりとして、この紙を遺体の胸元に添える事を自らに課した絶対の鉄則にしていた。
「検分はすべて終えた。後はこの紙をそっと添えて、丁寧に葬ってやってくれ。」
「はい、かしこまりました。お労しや・・・。」
骸を再び筵で包み、戸板に乗せると、奉行所の小者たちは番所、そして引き取り先へと静かに運び出していった。
それを見送りながら、新太郎は凌庵の横顔を見つめた。
「死んだ仏にまで詫び状を添えるなんて、律儀だな。」
「せめて魂だけでも、迷わずにまっすぐあの世へ行けるようにな。・・・では新さん、仁吉、あとは頼んだぜ。それから、くれぐれもこの蔦吉の最悪の最期の有様だけは、絶対に甚兵衛さんの耳には直接入れるなよ。いずれ身元の確認で知ることになるにしても、あの人の風邪の病後が完全に落ち着き、満を持すその瞬間まではな・・・。」
「分かっている。その辺りの手配は俺たちに任せな。仙波殿も、よろしゅうございますか?」
「無論だ、好き好んで波風立てる者はいない。悪かったな凌庵殿、後は俺たちに任せろ。」
患者の心身の健康を第一に考え、新太郎らに強く念を押した凌庵は、ゆっくりと立ち上がった。太陽はすでに高く昇っている。貧乏小路の天竜堂では今日もまた、自分の奇跡の腕を頼りにして、多くの生きた患者たちが列を成して待っているかもしれない。
いつまでも死者の闇に囚われているわけにはいかない。気分を切り替え、自らの本業に精を出さねばならなかった。胸の中に溜まった負の感情と、鬼畜への激しい怒りを吐き出すように、凌庵は深い 溜息を一つ吐き、朝日の差し込む道を歩き始めた。




