十六
「甚兵衛殿、胸の音も呼吸の乱れも大分良くなって参ったな。」
往診用の薬箱に細かな医療器具を収めながら、凌庵は穏やかな声をかけた。
凌庵の言葉を聞き、それまで張り詰めていた安堵の息を漏らしたのは、神田花街にほど近い芸者置屋「松葉楼」の主人、甚兵衛であった。小柄で瓜実顔の面長、齢六十を数えるその風貌は、お世辞にも二枚目とは言い難いが、目尻に刻まれた深い皺と人懐っこい表情には、長年花界の荒波を乗り越えてきた者の愛嬌と年徳が滲み出ている。
「安心いたしました、先生のお陰です。」
「もう無理をせぬ事だ。」
治療の終わりを告げられた甚兵衛は、緩めていた着物の合わせを、いそいそと、しかしどこかまだ覚束ない手つきで着直した。
「喉の奥の酷い腫れも元に戻りつつある。額を焼くようだった熱も大分冷めたな。」
「いやあ、助かりました。江戸屋の元締から『生ける者も死せる者も分け隔てなく診る凄腕の医者がいる』と強く勧められ、御尊名はかねがね伺っておりましたが、正に聞きしに勝る名医ですな。この甚兵衛、御見それいたしました。」
これまで大病ひとつしたことがなく、医者という人種に掛かったことのなかった甚兵衛であったが、ここ最近の江戸を包む、あの執拗で冷たい霧雨によって完全に体が冷え切ってしまった。普段患わない分、ひとたび風邪を引いた際の反動は凄まじく、ここ二日ばかりは文字通り高熱で寝込んでいた。甚兵衛自身、己の寿命が尽きるほどの大病を患ったと思い込み、本気で死を覚悟していただけに、現れた凌庵が速やかに苦痛を取り去ってくれた事はまさに天の助け、観音の慈悲に思えたのである。
「たかが風邪の引き始めに、大げさなことを言うな。そいつは買いかぶり過ぎだ。」
「何をおっしゃる、先生! 風邪は万病の素と言いますぞ?」
「医者を相手にその御高説か。参ったな。」
薬篭箱の仕切りに、葛根湯などの薬種を整然としまいながら、凌庵はと快活に笑ってその場を和ませた。だが、その瞳には医者としての、そしてこの下町を愛する者としての真摯な眼差しが宿る。
「ならば甚兵衛殿、良くなったからとて無理はしなさんな?お前さんに万一のことがあれば、ここにいる複数の芸者たちが路頭に迷うことになるぞ。主人の体は、お前さん一人のものじゃない。」
「左様でございますな・・・。この店に置いている芸者たちは、私にとっては我が子も同然。あの子たちを路頭に迷わせることだけは、神仏に懸けても避けとうございます。」
普段は頑固で通る置屋の主人が、凌庵の言葉には一切反論せず、うんうんと深く頷いている。医者にとって、これほど素直に養生を誓ってくれる患者はありがたい。
すると、心配そうに見守る三人の芸者の一人が安堵の表情を浮かべて甚兵衛に言う。
「旦那、無理は禁物だよ?松葉楼だって裕福って訳じゃいんだから、旦那に何かあったらあたし達も無事じゃすまないんだから。身寄りのないアタシらにとっちゃ旦那が親代わりなんですからね。」
「解ってる解ってる、本当に済まなかったよ。」
芸者三人にやり込められ、ただひたすら頭をだげるしかない甚兵衛の様は見ていてほほえましい。甚兵衛には子供がいない。女房は難産でお腹の子を流産し、その後自分も体を壊して死別してしまった。その辛さが忘れられず、甚兵衛は後添いも迎える事も他所へ女を囲う事もせず。芸者達を我が子の様に大切にしている。それだけに、置かれている芸者には父親同然に慕われている。
「旦那、蔦吉姐さんの祝言も近いのだから大事にしてくださいよ?」
「おぉ、そうだった。もう直かぁ・・・。亥之の奴も楽しみだろうなぁ。」
「御仲人の稲垣蓬洲先生も大慌てだそうですよ。」
「蓬洲先生、あの人の世話好きは有名なようだな。」
蓬洲は小石川養生所肝煎なだけあって、名医と評判高い人物だ。有能な医者であると同時に、仲人としても有名な人物だ。医者としては大したことは無いが、仲人に掛けては名人と言う褒め言葉か嫌味か解らぬ川柳が存在する程に、医者が仲人を務める場合が多い。
「そうか、此処の蔦吉さんの祝言が近かったな甚兵衛さん。」
「ええ、やっぱりうれしい物ですねえ。我が子同然の芸者が祝言を上げると言うのは。」
「蔦吉は祝言を上げた後、どうするんだい?」
「へえ、亥之助は板前修業を積んでおりまして小料理屋を開くとの事です。」
「ほお、そいつはいいなあ。」
「じつはちと恥ずかしいんですがね、蔦吉は既に身重なんです。まだ腹は目立ちませんがね。亥之の奴は生真面目で、申し訳ねえ申し訳ねえって何度も誤って来たものですよ。目出度え事なのにペコペコ頭下げられて、変な気分ですよ。」
「ほお・・・、重ね重ね目出度いな。しかし稼ぎ頭がいなくなっては今後大変だろう。」
「心配ご無用、なあに、心配ご無用。その分、残されたこの跳ね返り娘たちに死ぬ気で稼いでもらいますから。まあ蔦吉ほど、客の心を掴んで離さない稼ぎ頭には、そう簡単にはなれないでしょうがねえ。」
笑いながら冗談を言う甚兵衛に、「憎ったらしい!」、「姐さんに負けないぐらいに稼いで見せますよ。」と食って掛かる芸者たち。芸者置屋の中には、芸者をまるで牛馬の様にこき使う阿漕な輩もいるが、この甚兵衛は違う様だ。家族の様にじゃれ合う二人を見る限り、甚兵衛の出来た人間性が伺える。
「小料理屋か、流行廃りもある故楽な稼業では無いぞ?」
「まあ向こうも、それは覚悟していると思います。こっちも出来る限り手助けは致しますがね。後は二人次第でさぁ。直に三人になるんですからねぇ。」
「若い頃は苦労は飼ってでもしろと言う、辛い時代が良い経験になるだろうさ。」
「そうですね、わっちらも見守る事に致しやす。」
「そうしてやんな。」
二人が話していると、若い芸者の一人が何かを思い出した様で甚兵衛に言った。
「そう言えば、旦那ァ。この前、蔦吉姐さんが言っていた、あのお座敷でしつこく言い寄ってきて、家までつけてくるような『たちの悪い客』の一件はどうなったんです? 姐さん、大分気味悪がって怯えていましたけど・・・。」
「ああ、あの話は然るべき所に届けたよ。まあ、お上の役人がどこまで一芸者の我が儘を真面目に聞いて、役に立ってくれるかは分からんがね。」
聞き捨てならない話を耳にし、凌雲は甚兵衛に聞いた。
「何かあったのか?」
「いいえ、大したことじゃござんせん。こういう仕事してますとね、芸者と客の垣根を越えようとする輩がいるんですよ。まあ、色恋の縺れと言う奴ですね。」
「商売柄町方に知り合いがいる、紹介しようか?」
「いいや御心配なく、何もありませんでしょう。」
他愛もない話をしながらも仕事の手を止めない。凌庵は一般的な風邪薬である葛根湯と、乾燥を避ける為の麦門冬湯に加え扁桃腺の炎症を抑える荊芥連翹湯を調合した薬を手渡す。
「じゃあこれを飲む様にな、元気になったからと言って飲むのを止めてはいかんぞ?出した分、全部飲み切るんだ。」
「承知しやした、おーい誰か。」
甚兵衛は店の者に、金子を持ってこさせる。
布に包まれた金子を番頭の一人が持って来た。布を捲ると、小判の切り餅一つがその中にあった。稼ぎとしては上々だ。
「甚兵衛さん、包み過ぎでは無いか?」
「いいえ、どうかご遠慮なく。助けて頂いたのですから。その代わり、蔦吉夫婦が店を開いた際はどうぞ御贔屓に。」
「解った、では頂戴致す。」
甚兵衛の様に、こうして往診を頼む患者がちらほらと現れる。往診を頼む患者の中には、こうして大枚の薬礼を払ってくれる患者がいる。正直言ってこういう患者の存在は有難い。死骸を専門に診る「おろく医者」としての役目を引き受けるようになってから、真っ当な生きた患者が庵を訪れなくなるのではないかという不安が少なからずあったが、どうやらそれは完全な取り越し苦労だったようだ。
「ありがとうございました、凌庵先生。噂通り、先生は生ける者も、物言わぬ死骸も、命の重さを分け隔てなく診る本当の名医でございますな。また、何かありましたらよろしくお願いいたします。」
「また、なんてことは、私の商売柄、無い方が良いのだ。お互い、息災でな。」
そう軽く手を挙げて挨拶を交わし、凌庵は松葉楼の賑やかな門口を後にした。懐へと入れた切り餅は、ずっしりとした物理的な重みを伴って、着物の胸元を大きく崩した。
「懐が暖けえというが・・・、こりゃあ返って金冷えしちまうなァ」
人通りの少ない路地に入ると、凌庵は徐ろにその切り餅を取り出し、月明かりの下でまじまじと眺めた。これだけの金があれば、小石川の薬種問屋への長年の支払いも一括で済ませられるし、三度の飯が幾分か豪華になる。
「彩乃殿が泣いて喜ぶぞ。」
満足そうな笑みを浮かべると後ろから、静寂を破るように激しく息を切らせた若い男の叫び声が響いた。何事かと驚いて振り返ると、そこには額に汗を滲ませ、今にも膝を突きそうなほど息を荒げた青年が立っていた。仁吉に仕える下っ引きの
「おや、文七さんじゃないか。そんなに血相を変えてどうしたんだ?」
「やっと見つけやした!百間長屋のお豊さんから先生が松葉楼へ往診に出かけたと聞いて、一目散にここまで駆けつけて来たんでさぁ。全く先生ったら、足が速いんだから。目を離すとすぐに、風のようにどこかへ飛んで行っちまうんだ。」
「糸の切れた凧じゃあるまいし、人聞きが悪いな。それで、そんなに息を切らせて、一体何の用だ?」
問いかけてはいるものの、文七がここまで必死に自分を追ってきた理由について、凌庵の脳裏にはすでに、ある一つの冷たい見当がついていた。
「死骸だな?」
凌庵が声を潜めて呟くと、文七はゴクリと唾を飲み込み、顔を強張らせて頷いた。
「へい。若旦那が一刻も早く先生をお呼びしろと。場所は神田川、和泉橋の麓でさぁ。」
「和泉橋? 奇遇だな、この花街のすぐ近くではないか。」
「へえ、そうなんです。ですが、あまりにも場所が悪くて・・・。近くにある細川様の大名屋敷の用人が、『不浄なものを天下の細川の前に晒すな!』って、ギャアギャア、金切り声を上げて五月蠅えもんで、近くの浄真寺の境内に運び込みやした。」
「天海和尚の寺か、わざわざ大名家の用人が騒ぎ立て、寺の境内に緊急に隠さねばならんほど、その死骸は酷い有様なのか?」
凌庵がさらに踏み込んで尋ねると、文七は「あっ」と声を漏らし、誰かに聞かれては困るという風に、一瞬だけキョロキョロと辺りの夜道を警戒するように見回した。そして、凌庵の肩を掴むようにして耳元に顔を近づけ、震える声でその凄惨な様子を囁く。
その内容を聞いた瞬間、其れなりに場数を踏んだ検使医であるはずの凌庵の身体が、嘘のように硬直した。
「五臓六腑が・・・全て無い?」
「へえ・・・・。文字通り、中身が全部くり抜かれた、綺麗な『腑抜け(空洞)』の状態で上がったんでさぁ。」
「冗談だろ、文七さん。そんな化け物が施したような死骸が、この江戸の川にだと・・・。」
「嘘や冗談で、こんな罰当たりな事が言えるわけねえでしょう! 兎に角、一刻も早く現場へ来てくだせえ!」
懐の切り餅の重みを忘れ、凌庵の心は一気に陰惨な調べの渦中へと引きずり戻された。家に戻り甚兵衛からもらった報酬で少しばかり休息を取りたいところだったが、可愛い弟分たちが現場で頭を抱えて待っていると言われては、断るわけにはいかない。
「身元は解っているのか?」
凌庵が歩き出しながら、念のために確認すると、文七の口から出た言葉が、彼の歩みを完全に止めさせた。
「へい、引き上げた地元の町名主が面体を改めたところ、たしか花街で今売り出し中の、『蔦吉』っていう芸者だって話でさぁ。」
その名前が鼓膜を叩いた瞬間、凌庵の頭の中を、先ほど松葉楼の部屋ではじけた娘たちの笑顔と、甚兵衛の誇らしげな言葉が駆け巡った。
(祝言を間近に控えた、あの蔦吉・・・・?)
同名の芸者が江戸に三人や四人いないとは限らない。しかし、先ほど甚兵衛の口から出た「たちの悪い客に付け狙われていた」という不穏な伏線が、最悪の形で脳裏に結びついた。激しい嫌な予感と鳥肌が、凌庵の全身を支配する。
せっかく風邪の病気が治りかけて、未来に希望を抱いている甚兵衛に、万が一にもこの段階で余計な、そして致命的な絶望を与えてはならない。凌庵は、表情を極限まで引き締め、文七に低く鋭い声で命じた。
「そうか・・・解った。一刻を争う。行こう。」
「先生? 急に顔色が変わりましたが、どうしたんで?」
「道々話す。急ぐぞ!」
松葉楼の華やかな行灯の光が届かぬ闇の中を、二人はひた隠しにするように、事件の核心が待つ浄真寺へとひた走った。
「おいおい、一体全体どうしたんだえ?」
「何でも、お腹の五臓六腑を全部えぐり取られた、若い女の死骸が上がったんだとさ。」 「何だいそりゃ。江戸の街に、人を喰らう鬼でも出たってのかい?」
万福寺の赤門の周りには、夜明かりを灯した提灯を手にした、噂を聞きつけた野次馬たちが、幾重にも膨れ上がって群がっていた。「腹を裂かれ、中身を失った美女の骸」。そのあまりにも猟奇的で 怪談じみた噂は、瞬く間に江戸八百八町へと広まりつつあった。
凌庵は文七と共に野次馬の波を掻き分け、寺の境内へと滑り込んだ。
(頼む・・・間違いであってくれ。別の誰かであってくれ・・・)
心の中でそう懇願しながら進む凌庵の視界に、寺庭の地面に敷かれた筵と、その上に横たえられた白い物体が飛び込んできた。筵の周りには古顔の御用聞き、五郎蔵と仁吉をはじめとする役人達が、一様に暗い顔で立ち尽くしていた。
「おぅ文七、待ってたぞ?凌庵先生ですね、あっしは五郎蔵と申しやす。今回の骸は常軌を逸しておりやして、先生の知恵が必要でございやす。」
五郎蔵と手短に挨拶を交わした凌庵は、自分を実質的に呼び出した張本人である仁吉と新太郎の姿を探した。見れば、新太郎は寺庭の隅にある古びた井戸の側で、あまりの惨状に耐えかねたのか、激しい吐き気を催して激しくしゃがみ込んでいた。その逞しい背中を、仁吉が沈痛な面持ちで摩っている。死骸のすぐ枕元では、万福寺の住職である天海和尚が、異様な死を遂げた魂を慰めるべく、早鐘のような速度で供養の経を唱え続けていた。
「新さん、待たせたな。体は大丈夫か」
「おぅ、先生。済まねえな、往診帰りの忙しい中を引っ張り出しちまって。」
「そんなことは構わねえ。それより、死骸の身元を文七さんから聞いた。……本当に、柳橋の『蔦吉』という芸者なのか?」
凌庵の口から出た具体的な名前に、仁吉は鋭く反応した。
「そうだが何だ先生、まさか兄貴、その芸者と個人的に昵懇の仲にでもあったのか?」
「そんなことじゃねえ。・・・実は今さっきまで、その蔦吉が籍を置く『松葉楼』の主人、甚兵衛の往診をしていたんだ。」
「何だと・・・!?」
いつもとは明らかに違う、凌庵の切迫した声に只ならぬ因縁を感じ取った新太郎と仁吉は、彼を野次馬から見えない木の陰へと引き込み詳細を聴いた。事情を知った二人の表情は、凄惨な猟奇殺人の恐怖から一転、被害者遺族を想う深い同情と険しさに変わった。
「何てこった、そいつは一大事だな。よりによって、今まさに病から立ち上がろうとしていた親代わりの患者の、その娘同然の芸者だったとは・・・・。」
「先生の患者とこの最悪の骸が繋がっちまうなんて、神仏も残酷な真似をしやがる。」
「まだ、俺の勘違いという線もある。名主さんも、ここに連れてきているんだな?」
「ああ。念のため、最初に面体を改めた地元の名主を境内に残してある」
仁吉の合図に促され、怯えきった様子で豊島町の名主、治郎兵衛が前に出てきた。
「あんたが名主さんかぇ?」
「豊島町名主の治郎兵衛でございます。」
「お前さんは、松葉楼の甚兵衛さんやそこの芸者衆をよく知っているのか?」
「はい。松葉楼の甚兵衛さんとは街の寄合や仕事を通じて、昔から昵懇の間柄でしてな。私自身、あの置屋の芸者衆の華やかなお座敷を贔屓にしておりましたので、みんなの顔はよく頭に入っております。」
「そうか。ならば、本当につらい役目を強いるようで申し訳ねえが・・・俺の目の前でもう一度だけ、死骸の面体を細かく改めちゃくれんか?」
「よろしゅうございます。それが、あの子の無念を晴らすお役に立つのであれば・・・。」
治郎兵衛は震える手で顔を覆いながらも、凌庵の隣に膝をつき、再びあの筵の上の凄惨な骸と対峙した。目を背けたくなるような死骸だが、治郎兵衛は町役人としての、そして一人の人間としての責任を全うするため、しっかりと顎を持ち上げ、その顔を凝視した。
「残念ながら間違いございません。この泣き黒子、そしてお顔の造り。松葉楼の蔦吉さんです・・・。」
「そうか・・・、本当に、彼女だったか・・・・。」
高柳凌庵はこれまでの検使では滅多に見せない程両肩を落とし拳を固く握りしめた。そして治郎兵衛は、甚兵衛の病気と蔦吉の現状についてを聞いた。
「左様でございましたか。あんなに楽しみにしていた祝言を間近に控え、折角甚兵衛さんの病も先生のおかげで治りかけてきたというのに・・・。」
「娘同然の芸者の晴れ舞台を目前にして、この仕打ち・・・。」
「気の毒な・・・・。鬼の所業としか思えん。」
「御役人様! 蔦吉さんの無念の為、そして、気の毒な甚兵衛さんの為にも、一刻も早く、下手人をあぶり出してくださいまし・・・・!」
「解った。その願い、俺たちが必ず引き受けた。・・・頼んだぜ先生。」
新太郎の重い言葉に押されるようにして、凌庵はゆっくりと筵をすべて捲り、本格的な検分を開始した。
骸は川に遺棄されていたため水を吸っており、全体的に不自然にでっぷりと膨張していた。水面に浮かぶ骸としては一般的な変化であるが、何よりも全員の目を釘付けにし恐怖のどん底に突き落としたのは、首元から下腹部、膣口にかけて、文字通り縦一文字に、迷いなく切り裂かれた巨大な手術痕のような傷口であった。その地獄絵図のような様を一見した瞬間、流石の凌庵も一瞬だけ強く奥歯を噛み締め、目を背けたい衝動に駆られた。
この骸の内部には、人間として機能するための心臓も、肺も、胃も、腸も・・・ありとあらゆる五臓六腑がすべて、外科的な手法で綺麗に切り取られ、中が不気味な空洞と化していたのである。そしてもう一つ、赤子がいない。澪持っていたはずの赤子がいない。
「まるで蘭書に描かれる人体図だ。」
凌庵は玄人としての眼が、ふやけ切った皮膚のあちこちに薄っすらと浮き上がる、不自然な赤い痣と、四肢に付けられた無数の細かい傷跡を捉えた。何か恐ろしい仮説を思いつき、薬篭箱から特別に手入れされた二つの金属製の器具を取り出すと、周囲の役人たちが息を呑む中で、女の膣内を細かく調べ始めた。
「川の水に流されていなけりゃ良いが・・・。」
注意深く奥の粘膜を覗き込み、懐から取り出した上質な懐紙を丸め紙縒りを作り中に押し入れた。拭き取るようにして慎重に紙縒りを動かし引き抜く。月光と松明の炎にかざされたその紙縒りの先端には、川水の白さとは明らかに異なる、乳白色の粘り強い液体が微量ながら付着していた。
「・・・やはりな。淫水(精液)の跡が明確に残っている。死ぬ前に激しく手籠めにされている・・・、身重の女を手籠めにしたってのか・・・。」
蔦吉はまずその美貌ゆえに拉致され、暴行を受け、それからこの凄惨な有様にされたという事実が瞬時に証明された。次に、凌庵は彼女の死因を特定すべく、首筋や胸元を調べたが、絞め殺されたような索条痕も、生前に激しく抵抗して刺されたような致命的な刺創も一切見当たらなかった。
「傷が無い・・・? ということは・・・。」
凌庵は袂から一本の磨き抜かれた銀簪を取り出すと、蔦吉の青白い唇を抉るようにして、その口の奥深くに差し込んだ。もし、彼女が即効性の毒物などで眠らされ、あるいは毒殺されていたのであれば、銀の表面は毒素に反応して禍々しい黒紫色に変色するはずだ。
しかし、銀簪は少しも変色せず、元の鋭い銀色の輝きを保ったままであった。
(薬物による毒殺でもない。首を絞められた形跡も、撲殺の跡も無い・・・。すなわち、彼女は意識が完全にあり、五感が正常に働いている状態で、手籠めにされた挙句・・・・生きたままこの胸を切り裂かれたというのか。気違いの所業だ・・・・!)
十中八九、この医療的な見立てに間違いは無いはずであった。凌庵は怒りと、背筋を凍らせるような恐怖のあまり、激しく眉を顰めた。
(それにしても・・・・この切り口、あまりにも見事、綺麗すぎる。荒っぽい大工の包丁でもなければ、武士の刀による一閃でもない。よく研いだ床屋の剃刀を使ったとしても、人間の強靭な皮膚と肋骨を、これほど滑らかに、内臓を一つも傷つけずに切り開くことは不可能なはずだ)
凌庵が注目した傷口の断面は、まるで布の端の如く、術後に上手く針と糸で縫い合わすことができるほど直線的で美しい曲線を描いていた。解剖学の知識を完璧に叩き込まれた、超一流の「手術刀」を操る者でなければ、この様な芸当は絶対に不可能であった。
しばらく凌庵が、その異常な傷口に顔を近づけて調べ続けていると、後ろから恐る恐る、極力死骸を見ないように目を背けながら、新太郎が震える声で声をかけてきた。
「・・・・どうだ、先生。何が分かった」
凌庵が深い集中から意識を戻し、立ち上がった頃には、夜空を覆っていた重苦しい梅雨の雲がすっかりと割れ、東の空から強烈な朝の太陽が完全に顔を出していた。折角、江戸の空が晴れやかになりつつあるというのに、事件のあまりの闇の深さに、凌庵たちの心はどんよりとした薄曇りのままであった。
「新さん・・・、この骸は、以前の山王門前町の事件の時に輪を掛けた、最悪の酷え有様だ。人間の仕業じゃねえよ。」
凌庵は新太郎を直視し、検分によって明らかになった「生きたままの解剖」「性的な暴行」「完璧な医療技術」という事実を、容赦なくかつ簡潔に伝えた。
「おいおい・・・お前の言うことが本当なら、相手はただの人殺しじゃねえ。鬼畜に勝る化け物だぜ?」
「ああ。それから、地面や周囲に大量の血が流れた跡が無いところを見ると、女は別の場所で完璧に腑分けされ、命を失った後にこの和泉橋の麓に打ち捨てられたようだ。」
「成程。しかし、一体どこの誰が、どこでこんな大掛かりな事を。」
「江戸の街にゃ、大名の空き屋敷も、寂れた灰寺も腐る程ある。その中から執刀場所を探し出すのは、骨が折れるだろうな。・・・ところで新さん。この娘が、たちの悪い客に付け狙われていたという件は、これから調べるのか?」
「ああ、松葉楼の周囲から、最近不審な動きをしていた男たちの身元を洗うつもりだ。先生、他に何もなければ、そろそろ骸を下げてもいいか? これ以上ここに置いておくと、大名家の奴らがまた騒ぎ出す。」
「おう、ちょっと待ってくれ。最後の手向けだ。」
あらかたの調べを終えた凌庵は、往診用の薬箱からおもむろに一枚の懐紙を取り出すと、手慣れた筆跡で何やら文字を素早く書き付けた。
そこには、「御遺骸改メ平に御容赦、南無阿弥陀仏」と記されていた。本来ならば一刻も早く棺桶に入り、清らかな体で葬られるべきところを、死んでなおそのプライドを傷つけ、体を道具で弄り回したことに対する検使医としての心からの「詫び状」の代わりとして、この紙を遺体の胸元に添える事を自らに課した絶対の鉄則にしていた。
「検分はすべて終えた。後はこの紙をそっと添えて、丁寧に葬ってやってくれ。」
「はい、かしこまりました。お労しや・・・。」
骸を再び筵で包み、戸板に乗せると、奉行所の小者たちは番所そして引き取り先へと静かに運び出していった。
それを見送りながら、新太郎は凌庵の横顔を見つめた。
「死んだ仏にまで詫び状を添えるなんて、律儀だな。」
「せめて魂だけでも、迷わずにまっすぐあの世へ行けるようにな。・・・では新さん、仁吉、あとは頼んだぜ。それから、くれぐれも・・・この蔦吉の最悪の最期の有様だけは、絶対に甚兵衛さんの耳には直接入れるなよ。いずれ身元の確認で知ることになるにしても、あの人の風邪の病後が完全に落ち着き、満を持すその瞬間まではな。」
「分かっている。その辺りの手配は俺たちに任せな。」
患者の心身の健康を第一に考え、新太郎らに強く念を押凌庵はゆっくりと立ち上がった。太陽はすでに高く昇っている。貧乏小路の天竜堂では今日もまた、自分の奇跡の腕を頼りにして、多くの生きた患者たちが列を成して待っているかもしれない。いつまでも死者の闇に囚われているわけにはいかない、気分を切り替え、自らの本業に精を出さねばならなかった。胸の中に溜まった負の感情と、鬼畜への激しい怒りを吐き出すように、凌庵は深い溜息を一つ付いた。




