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十五

 葉月中頃—その骸は何の前触れも無く、隅田川の支流、神田川の淀みに流れ着いた。暦の上ではとっくに梅雨明けを迎えているはずであったが、空はしつこい湿り気を孕んだまま、音の無い霧雨が執拗に江戸の街へ降り注いでいた。

 地面は湿り気を帯び、どぶ板の下を流れる水は、崩れた泥を混ぜ込んで一層濁り、重く停滞している。昨晩、まるで桶の水をひっくり返したかのように荒れ狂った土砂降りの名残が、この細かな雨脚となって、江戸八百八町を逃げ場の無い蒸し暑さの中に閉じ込めていた。

 「・・・うぅ、飲み過ぎたなァ・・・・。」

 口いっぱいに広がる酒の香りと胸焼け、ズキズキと脈打つ頭痛に顔をしかめ、大工の喜兵衛(きへえ)は重い瞼を持ち上げた。そこはどこかの別宅の離れのようで、畳の上には喜兵衛以上にしこたま酒を浴びた弟子の駒吉が、あられもない姿で雑魚寝を決めている。ピクリとも動かない。夢心地のままあの世にでも言ったかの様に思えたが、腹が動いている所を見るに眠っているだけだ。

 このご時世には、滅多にない大口の仕事だった。喜兵衛と駒吉がこの酒の席に付き合わされたのは、この大仕事を片付けた恩賞の一つであった。

 大奥御出入りを許される豪商「伊勢藤」こと伊勢屋藤右衛門(いせやとうえもん)は、現役の頃は商いの鬼と言われた。だが、隠居してからと言う物昔の悪癖が再燃した。女房が亡くなり、自由の身となっていた藤右衛門は、娘程に年の違う美しい妾・お早紀を囲っていたのである。

 喜兵衛たちは、このお早紀の「風呂桶を置け」「壁が陰気臭いから作り直せ」という果てしない我儘の末の改築工事をようやく終え、昨晩はその労いとして、到底職人風情の手には届かぬ美酒佳肴を振る舞われていたのだ。

 ちらりと戸板の隙間から僅かに朝の陽ざしが差した事に気が付き—

 (そろそろ起きねえと)

 ゆっくりと何処か何時もよりも重くなったよう見思える身体を起こし、駒吉に声を掛けた。

  「おい駒、そろそろ起きろ。」

  「うええ、もう飲めねえ・・・。」

 (この野郎、夢ン中でも飲んでやがるのか。)

 一向に起きない弟子にしびれを切らした喜兵衛は、声を荒げもう一度駒吉を起こした。

 「駒吉っ!!起きろってんだよ!!」

 「ふえっ!?あぁ親方。わざわざ迎えに・・・?」

 「馬っ鹿野郎、寝ぼけてやがる。もう朝だぞ。」

 「あらら、すいやせん。」

 くしゃくしゃに乱れた服を直す民立ち上がった駒吉だったが、大分酒が残っているらしくふらふらと足元がおぼつかなかった。

 「まったく、ふらふらじゃねえか。飲み過ぎなんだよ。」

 「そりゃあお互い様でしょう?それに、勧められる酒を断るのも失礼ってもんですよ。」

 「馬っ鹿野郎、調子のいい事言ってやがらぁ。」

 するとガラリと襖が空き、入って来たのは此処の住まうお早紀と言う女だ。背が高く、小股の切れ 上がった見るからに良い女。その姿を見ると、駒吉はぽお~っと見とれて動きがお止まった。

 「これはお早紀さん、申し訳ありやせん。すっかりお世話になっちまって。」

 「いいえ、流石は聞こえた職人ですわ。」

 「恐れ入りやす、ではあっしらは失礼致しやすので。」

 喜兵衛がぺこりと頭を下げると、駒吉を立ち上がらせてそそくさとその場を後にした。玄関まで行くと、濡れた傘を畳み水気を落とす六十絡みみの男が立っていた。伊勢屋藤右衛門本人だ。でっぷりと肥えた上に、顔の肌は脂ぎっており何処か淫猥に見えた。

 「おや、伊勢屋の旦那。」

 「これは喜兵衛親方、様子を見に来たのですが無事に終わったようですねぇ。」

 「へい、問題ござんぜん。屋根も壁も滅多に壊れるもんじゃござんせん。」

 「そうでなくては困ります。可愛いお早紀を滅多なところに住まわせるわけには行きませんからねぇ。」

 「また何かあったら知らせて下せぇ、では。」

 妾の為の離れの改築工事、成り金の道楽。元来堅物の喜兵衛は正直言ってこの仕事には乗り気ではなかったが、大層なお足を貰えると言う事で引き受けた。完璧な仕事をしてくれた労を労うと、大層な酒と料理を振舞われしこたまそれを味わった後だった。

 千鳥足で外に出ると、音の無い霧雨が降り注いでいた。二人分傘を借りると、喜兵衛と駒吉は外に出た。

 普段自分たちではそうはお目に掛れない馳走や美酒をたらふく堪能し、辰巳芸者も呼んで盛大に騒いだ所だったのだが、そんなうきうきとした気分も降り続ける雨露がすっかり洗い流したかの様に、喜兵衛と藤吉はすっかり沈んでいた。

 おまけに自分たちの住まいがある浅草御蔵前佐久間町と八名川町へ向かう為の新シ橋を渡る為に、神田川沿いをしばらく歩かなければならない。神田川を流れる水のせいかこの辺りは余計に湿っぽく感じられ、だからか普段は四季折々の風情と思える蛙のケッケッケッケッと言う鳴き声も今日に限っては五月蠅く聞こえ、余計にイライラさせられた。

 「ケロケロとうるせえ蛙だなあ。」

 「蛙に難癖付けても始まらねえ、さっさと帰って仕事まで休もうぜ。」

 「そうですねえ。」

 蛙に八つ当たりをする藤吉を諭しながら、喜兵衛は家まで歩き続けていた。

暫く歩いていると、空を見上げて今度は喜兵衛が愚痴を言い始めた。

 「畜生、また降ってやがる。」

 「こうも降られちゃ、わっちら商売あがったりですねぇ。」

 「仕方ねえよ、次期のもんだ」

 「ですかねえ。にして伊勢屋のお妾さん、ちらりと見やしたがイイ女でしたねえ。わっちもああ言う女の酌で、しっぽりと行きてぇもんですねぇ。」

 あの妾の酌で酒を楽しんでる自分の姿でも思い浮かべているのか、駒吉は嫌らしい笑みを浮かべていた。

 「お前、あんな女狐みてえな女が好みか?」

 「別にわっちは、べっぴんなら何でもいいんです。」

 「贅沢言いやがって。」

 フンと鼻で笑って見せた喜兵衛をしり目に、駒吉は更に言葉を続けた。

 「しかし、あんな狒々爺の何処が良くて囲われたんでしょうねぇ・・・。」

 「そんなもん決まってらぁな、金だよ金。」

 「金かぁ。伊勢藤は髪は無くとも金はある、こちとら髪はあっても金はねえと来てやがらぁ。金がありゃあんな小股の切れ上がったイイ女が寄り付くんでしょうねぇ。ああ言う成金が独り占めしちまうから、わっちたちに女が回って来ねえんでしょうねぇ。」

 「だろうなあ。ああ言う小綺麗な女は男の面か金しか見ねえからな、俺達みてえな目立たねえ奴にゃ見向きもしねえだろうさ。」

 「あぁ・・・、金が欲しいなあ・・・、せめて手前の面が良くならねえかなあ。」

 わざとらしく泣き顔を付くってぶつくさ言っていた駒吉は、やけくそと言わんばかりに足を速くした。

 「おいおい、危ねえぞ。」

 深いため息を付きながら、千鳥足でずんずんと進んでいく駒吉を追いかけているうちに、こってりと残っていた胸やけも二日酔いもどこかにすっ飛んでいた。

酔いに任せて梅雨の文句を言いながらぬかるむ道を進んで行き、神田川沿いを歩き気が付くと新シ橋の辺りまで歩いていた。

 「てやんでえ!おいらのどこがいけねえってんだい!!」

 「おい、近所に迷惑じゃねえか。静かにしろい。」

 「伊勢藤の死に損ないぃ~、くたばっちまえ!!」

 浅草へ入る為に、新シ橋を渡ろうとすると自棄になって歩いていた駒吉が躓いて転びそうになってしまった。慌てて服を掴み、喜兵衛は駒吉に語気を強めて言った。

 「何やってんだ馬鹿野郎、危ねえじゃねえか。」

 「す、すいやせん。」

 「気を付けろ、もう少しで落ちるところだったぞ。」

 「へへへ、申し訳ねえです。あっし金槌なもので、助かりゃした。」

 「大工が金槌、つまらねえ駄洒落だ。」

 へへへと駒吉は笑って誤魔化しながた。そしいぇふと駒吉が目を凝らして橋の下を見ると、橋桁に何かがぷかぷかと浮いているのが見えた。筵を巻かれた細長い物だった。

 「親方ぁ、あれなんでしょう?」

 「おぉ?何か浮いてるなあ。」

 「筵、簀巻きですかねえ。もしかしたら誰かが賭場でドジって簀巻きにされたのかもしれませんねえ。」

 「だとしたら放っちゃおけねえ、助けてやろうじゃねえか。」

 「へい!」

 そう言うと駒吉は近くにあった棒で筵を引き寄せると、結び付け立った紐が緩んで解け、巻かれた中身が 段々と露わになった。喜兵衛の想像通り、筵の中身は人間だった。

しかし、もはやこの世の者ではなかった。

 筵の中から出て来たのは、一糸纏わぬ死骸だった。乳の張りと、股間の様子から女である事は解る。だが、その顔は見るも無残な物だった。診ていると、酒の酔いによる物とはまた別の、違った吐き気が込み上がって来る。

 二人が吐き気を催す理由は、もう一つあった。青白い肌に水面には乱れた髪が浮き、筵が解け露わになったその骸は首元から股の辺りまで縦一文字に切り裂かれていたからだ。まるで腸を取り除かれた、調理前の魚の様だった。

 「あわわわ・・。」

 怪談物に出てくる様な凄惨な女の骸を目の当たりにした駒吉は、その場で腰を抜かした。喜兵衛はあまりの凄惨な様子に言葉が出ない様子だったが、どうにか腰を抜かした駒吉の元に駆け付けた。

 「お、おい!駒吉っ、大丈夫か?」

 「お、親方ぁ・・・。あれ・・・・。」

 「駒吉っ、お前は早く番屋に駆け込んでお役人様を呼んで来い!!」

 「へ、へい!!」

 尻もちをついた駒吉を介保し、役人を呼びに行かせた。喜兵衛に支えられ、震える足で立ち上がった藤吉は一目散に駆け出して最寄りの自身番屋へと走って行った。暫く喜兵衛は、田んぼの案山子のように立ち尽くしていた。

 暫くすると騒ぎを聞きつけて町名主の治郎兵衛、治郎兵衛と共にガタイの良い四十絡みの男が子分と思わしき者を連れて息を切らせ駆け付けて来た。ここ界隈を縄張りとする堀江町(ほりえちょう)五郎蔵(ごろぞう)だった。

 「おぅ伊三、早くしろい。」

 子分の伊三次(いさじ)に銘じて骸を引き上げた。鳶口を用いて骸を筵ごと引き上げた。引き上げられた骸は水を吸ってでっぷりと膨らんでいた。

 詳しく骸を調べる子分の一人が「うえっ」と顔を背けた。名主の治郎兵衛(じろべえ)は無論の事、子分にしても五郎蔵にしてもこんな凄惨な骸は見た事は無かった。

 その骸は切り裂かれているだけではなく、その中にあるべきものが無かった。

 骸の腹腔内からは、五臓六腑が一切抜き取られていたのだ。

 「こいつぁひでえ、空っぽじゃねえか。」

 「親分・・・、五臓六腑が見当たりませんぜ。」

 「殺しだけでも罪深えってのに、ここまでやるたあ正気の沙汰じゃござんせんよ。」

 「所々傷だらけだぁ、この女は何されたんでしょうねぇ。」

 「解らねえ。名主様、この女どこの誰か解りますかい?」

 「この女は、柳橋の蔦吉(つたきち)じゃないか?」

 「蔦吉ってえと、今売り出し中の辰巳芸者?」

 「はい、この泣き黒子が証でございます。」

 顔を見ると、確かに黒子が見て取れた。蔦吉と言う芸者に間違いないようだ。

 「しかし辰巳芸者を殺すたぁ、下手人も勿体ねえ事しやがるよ。」

 「馬鹿言ってねえで、一っ走り奉行所まで行って来い!」

 「へっ、へい!!」

 五郎蔵に叱られた子分の一人が、事件を伝えるべく奉行所へ向かって駆け出した。

暫くすると同心連中が出張って来た。加えて同心の中島主馬(なかじましゅめ)に連れられ、近所で診療処を営む町医者の相良順庵(さがらじゅんあん)も駆けつけて来た。医者を連れて来たのは、検死を依頼する為だ。

 「おぅ五郎蔵、朝早くからご苦労だったな。念の為医者の相良順庵先生もつれて来た。」

 「とんでもござんせん中島の旦那、先生よろしくお願いしやす。」

 「うむ、診てみよう。」

 ゆっくりとしゃがみ、顎髭を撫でながら骸を調べ始めた。順庵は医は仁術を信条と厳守する老練の医者で、その功績を町方より認められ駕籠の乗り降りを許された御駕籠医だ。町方の手伝いも積極的に行っている医者だ。そんな順庵もこうした骸は初めてだった様で、「これは酷いのう。」と思わずつぶやいた。

 「人間の体を切り裂き、五臓六腑を取り出すなど並の人間のする事ではないな。頼って貰って申し訳ないが儂は本道一筋でなあ。簡単な金創治療なら出来るが、オランダ医者の様な術は持ち合わせておらぬ。申し訳ない。」

 そう言い訳を並べ、これ以上は調べられぬと匙を投げた様子の順庵。主馬は気を遣い、匙を投げた事には触れずに言った。

 「いや、わざわざご苦労だったな。」

 「儂も長い事医者を生業し、町方の手伝いもした。しかし、こんなのは初めてじゃ。まだまだ儂も未熟よな・・・。では患者が待っている故、これでな。」

 手の汚れを手拭いで拭きながら、順庵は立ち上がり待たせていた駕籠に乗り付け去って行った。君子危うきに近寄らず、本当の猛者とは負け戦はせぬ物。自分には不得手であると早々に検使を拒否した順庵の行動は、潔いと言えば潔い。

だが、期待を裏切られた同心連中は、内心面白くはない。

 「チェッ、最もらしい事並べて逃げちまいやがった。」

 「伊三、余計な事言うんじゃねえ。」

 毒づく伊三次を、五郎蔵は諫める。

 さっていく順庵の姿を見ながら、深刻なこの事件に関して上役である同心に言った。

 「ここは郡代や細川玄蕃頭(ほそかわげんばのかみ)様と言ったお歴々の御屋敷が多い、汚らわしき者を何とかいたせだとか何とか言って、カッカとねじ込んで来ますぜ?」

 「であろうな。」

 そう五郎蔵と同心が話していると、紋付袴の侍がずかずかと入り込んで来た。方角から察するに、細川家の組屋敷から来たようだ。

 「何と、当家の組屋敷の近くでこのような物が・・・。」

 「お前さんは何だい?」

 「儂は細川家用人、田中三太夫(たなかさんだゆう)じゃ。その方らは町方の者か?」

 「へい左様で。」

 「であれば早う、この不浄なるものを取り片づけい!」

 「お言葉ですがご用人様、これから詳しくこの骸を調べねばなりませぬ。」

 「黙りおろうっ!天下の細川家の屋敷前で不浄なる真似は許さぬ!第一、市井無頼の民衆が集うては五月蠅うて叶わぬ。それなる者を調べたくば、番所へ運び入れ其処で調べるが良かろう。」

 市井を取り締まる事が役目の町方は、大名旗本と言った武家にこうして横車を入れられた際は歯を食いしばって従わねばならぬ場合があった。

 「承知いたしました。仰せの通りに致しまする。」

 「早々に取り掛かれ!」

 そう語気を強め言い放った有吉は、形で風を切る様に屋敷の中へ帰って行った。「武家って奴は何時もこうだ」とでも言わんばかりに怪訝な顔をして見せる佐平次と子分を察し、同心は冷静な口調で言った。

 「ああ言う喧しい奴を黙らせる為にも、この一件を早く解決しねえとな。」

 「旦那ぁ、そうは言いますが・・・・。好き好んで死骸の相手をする医者なんていませんよぉ。」

すると五郎蔵が少しばかり考えた後、何かを思いついた様でハッとした。

 「旦那ぁ、以前に山王門前町の首縊りの骸を進んで調べてくれた医者がいませんでしたかぇ?」

 「そう言えば筆頭与力の近藤様が申していたな、町方の間でおろく医者と呼ばれている変わり種がいると。」

 「ああ、以前怪しげな香り水に絡む事件の解決に貢献したって検使医の話か。年は若いが、腕は確かだって聞いた。」

 「でしたらその先生に助力をお願いしたら如何ですかい?」

 「順庵先生は元々町方贔屓だから呼んだが、その様な得体のしれぬ物を呼ぶのはなぁ。第一、噂ではかのシーボルトとの不適切な交際を問題視された曰く付きの医者だって話じゃねえか。このご時世に蘭学を頼りにすりゃぁ、どんなお咎めを受けるか解からねえぞ?」

 「でもこのままじゃ、医者の助けを無しに死骸を改めなきゃいけませんぜ?」

 「だとしても解決しなけりゃならねえんだ、おめえも古顔の御用聞きだ。腹ぁくくれ。」

 五郎蔵は「へい」と返答すると、子分達に命じて骸を戸板に乗せて辻番所に運び出した。早朝の出来事だったが、「見目麗しい美女が五臓六腑を抜き取られ殺された」と言う今回の騒動は、程なく光の速さで江戸八百八町へと広まる事になった。

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