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十四【終章】

 初夏の瑞々しい陽光が、小石川養生所の白い漆喰壁を眩いほどに照らしていた。開け放たれた窓からは、川沿いの新緑の匂いと共に、快い鳥のさえずりが流れ込んでくる。つい数日前まで、悪しき夢一芝居と猛毒の香り水「佐葦の露」が江戸の町を暗澹とさせていたとは信じられぬほど、清々しい朝の訪れであった。毒と欲に塗れた香り水は、京極備前守一派が成敗された事によって全て消え去り、そのせいか江戸を吹く風がいつも以上に心地よく爽やかに感じた。

 凌庵は彩乃を伴い、養生所の病人長屋を訪れていた。呼び出しではなく、先の自身番屋で自らが執刀した井筒屋万蔵の見舞いであった。病人長屋の寝台では、一時は生死の境を彷徨った万蔵が、ようやく峠を越えて上体を起こせるまでに回復していた。蘭医の桂川慶斎が手慣れた手つきで万蔵の包帯を丁寧に解いていき、その傍らでは老名主の向井蓬洲が、偏屈そうな目を細めて傷跡を検分している。

 「うん、実に順調。肉の癒着も見事なものだ」

 慶斎が太鼓判を押す。

 「もうじき抜糸できますぞ、万蔵殿。」

 「・・・かたじけなく存じます、先生方。」

 万蔵が消え入るような声で頭を下げたところへ、襖が静かに開き、往診箱を提げた凌庵と彩乃が入ってきた。

 「井筒屋さん、お加減はいかがかな。」

 凌庵の言葉に、万蔵は青白い顔ながらも、精一杯の感謝を瞳に宿して寝台の上で深く平伏した。

 「凌庵先生! 皆様から伺いました。私の浅はかな不始末のせいで、先生方には多大なるお手を煩わせ、なんと お詫びしてよいか。」

 「気にするな。お前さんのような真っ当な商人を、ただの欲の犠牲として死なせるわけにはいかない。生きて罪を償わせる、それが医者の本分だからな。」

 凌庵がぶっきらぼうに言うと、慶斎が感心したように傷口を覗き込んだ。

 「それにしても流石は凌庵先生の執刀だ。この酷い裂傷だというのに、膿ひとつ無い。これなら明日には糸が抜ける。急な頼みとはいえ、よくぞ自身番屋のあのような悪条件でこれだけの治療を施したものだ。」

 「水臭いことを言うな、慶斎先生。お前さんがすぐに養生所の手配をしてくれたからこそ、この男の命が繋がったんだ。感謝している。」

 「過ぎる謙遜は嫌味だぞ?」

 二人のやり取りを見ていた蓬洲が、いつものように皮肉混じりの笑みを浮かべて鼻を鳴らした。

 「検屍の仏さんを捌くだけが能ではないようだな、凌庵。生きた人間を救う腕も少しは上がったと見える。」

 「当たり前ですよ、蓬洲先生。俺のメスは、死者の無念を晴らすためだけでなく、生者の明日を繋ぐためにあるんですから。」

 上役の嫌味混じりの冗談を、凌庵は白い歯を見せて笑い飛ばした。

 だが、万蔵はガクリと肩を落とし、痛切な後悔の念を顔に浮かべた。

 「・・・考えてみれば、すべては目先の小利に目が眩んだ、私の弱さが招いた業にございます。水野様の行き過ぎた改革による不景気で、小間物の売り上げが落ち込み、店は火の車。親父が裸一貫で築き上げたこの井筒屋の暖簾を、私の代で潰すわけにはいかない、家族や奉公人たちを飢えさせるわけにはいかない。その一心で悩んでいたところへ、香具師の仙之助と桔梗屋から、あの香り水の話を持ちかけられたのです。これさえ売れば起死回生できる、店の者を守れると・・・。ですが、それはただの浅ましき助平心、醜い欲に過ぎませんでした。」

 「万蔵さん、何も悪くはありません。あなたは騙されただけです。」

 「いいえ、騙された私が悪いのです・・・。少し頭を使えば、裏があると解りそうなものを・・・。」

 見守っていた秋月伊織が堪らず声をかけるが、万蔵の悔恨の涙は止まらなかった。

 「佐々木丈太郎という若侍に斬られ、意識を失っている間、何度も何度も、酷い夢を見ました・・・。若かりし頃の厳格だった父母が、夢の中で鬼の形相をして、私の前に座っているのです。『この馬鹿野郎、情けない! 目先の金に魂を売り、井筒屋の暖簾を泥で汚す気か!』と、気絶するほど激しく叱咤されるのです。・・・そこで、ようやく目が覚めました。夢の筈なのに、夢の中で親父に張り倒された頬がズキズキと痛みました。子供の頃、玩具欲しさに店の売り上げをちょろまかし、蔵に閉じ込められて叱られたあの日を思い出し・・・布団の中で声を上げて泣きました。しかも、昨日ようやく意識がはっきりした途端、今度は現実の女房からも『店が潰れても命があれば何とでもなるのに、なぜそんな馬鹿な真似をしたのです』と、夢より手酷く泣きながら叱られましてね・・・。夢でも現でも、私は本当に情けない男です・・・。」

 万蔵の告白を静かに聞いていた蓬洲が、穏やかに髭を撫でた。

 「自身の罪悪感が見せた幻想だな。だが万蔵殿、それはお前さんの根が誠実である証拠だ。本当に欲に溺れた悪党は、親の顔など夢に見やしない。親御さんのお叱りを生涯の薬とし、今後は健全に商いに励むことだ。」

 「ですが・・・、一度は御法度の商売に手を染めた身。いかなる重罪もお受けする覚悟ですが、店や家族の今後を思うと・・・・。」

 万蔵が声を詰まらせたその時、「――その必要はねえよ」と言う、よく通る声が室内を破った。見れば、小石川の番所から町方同心の近藤新太郎と、岡っ引の仁吉が揃って入ってくるところであった。

 「これは、近藤様、仁吉親分!」

 万蔵が身を起こそうとするのを、新太郎は手で制した。

 「そのままでいい。随分と顔色が良くなったな。万蔵、御奉行・遠山左衛門尉様より、直々の御沙汰を預かってきた。」

 「御沙汰・・・・、如何なる処罰もお受けします。」

 万蔵の身体が恐怖で強張る。闕所か、それとも遠島か――。しかし、新太郎の口から語られたのは意外な物だった。

 新太郎は懐から公文書を取り出し、厳かに読み上げた。

 「『井筒屋万蔵、一度は御法度の品を流通させたる罪は不届きなれど、悪党らに脅迫され、困窮の末の過ちであることは明白。また、自ら刺客の刃に倒れながらも、奉行所の調べに対し極めて重要な証言を行い、巨悪の掃討を大いに助けた廉を考慮し――此度は「叱り」の上、お咎めなしとする』・・・以上だ。」

 「お咎め、無し・・・?」

 万蔵は呆然と新太郎の顔を見つめた。

 「ああ、これからは欲を捨て真っ当に商いに励む様にとの事だ。」

 「よかったなぁ、井筒屋の旦那!おいらもハラハラしてたんだが、御奉行の粋な計らいだ!」

 仁吉が我が事のように顔をほころばせる。

 「本当に、北町が月番の時期で幸運だったな。これがもし南町の鳥居耀蔵の白洲だったら、お前さんは今頃、問答無用で全財産没収の上、遠島に処されていただろう。井筒屋の暖簾を守れたのは、お前さん自身の最後の誠実さが手繰り寄せた運だ。」

 新太郎が苦笑いを浮かべた。

 「万蔵さん、もし本当に罪を償いたいと思うのなら、今度はどんなに泥に塗れても、真面目に小間物屋としての暖簾を守り抜くことだ。一から出直しだな。」

 凌庵の言葉に、万蔵は溢れる涙を隠そうともせずに何度も畳に頭を擦りつけた。

 「はい・・・はい・・・・! 治った暁には、どんなに貧しくとも、泥水をすすってでも真面目に商いに精を出します! 一から、一から出直させていただきます!!・・・ところで、お役人様。」

 万蔵は涙を拭いながら尋ねた。

 「私を襲った、あの旗本の若いお侍はどうなりましたか?」

 「ああ、気になるのか?」

 「ええ、あの方も香り水に惑わされたいわば被害者。出来ます事ならば、私の様に再起を図る事が出来ればいいのですが・・・。」

 成程万蔵は聖人君主だ、自分を斬った相手の行末まで心配するとは。

 しかし新太郎の表情が、一瞬にして曇った。

 「残念ながら、それは叶わん。」

 「え?」

 「・・・薬に溺れ、罪なき町人を何人も傷つけた罪はあまりに重い。俺からも上へ助命を乞うたつもりだったが、時すでに遅かった。丈太郎は身内の恥を隠さんとした父親の手によって密かに処刑され・・・その父もまた、公儀への詫び状を残して、昨夜自ら腹を切った。」

 「なんという事でしょう・・・。若い身空で、親の手にかけられるとは・・・・。」

 「悪しき薬は、それに関わった者すべてに破滅を呼ぶのだな。」

 蓬洲が深くため息をつく。万蔵は身を引き締め、「亡くなったあのお若い方の分の命まで、私は真っ当に生きなければなりませんね」と静かに誓った。

 「万蔵さん、その気持ちを忘れずにしっかりな。」

 病室にようやく穏やかな空気が戻りかけたその時、長屋の襖が勢いよく開けられた。

 「先生っ! 大変です、これを見てください!!」

 薬草の買い出しで外へ出ていた彩乃が、興奮で顔を真っ赤にし、一枚の瓦版を握りしめて息を切らせながら飛び込んできた。

 「どうした彩乃殿、病室だぞ?」

 凌庵が嗜めるのも耳に入らぬ様子で、彩乃はくちゃくちゃの瓦版を一同の前に広げた。

 「そんなこと言ってる場合じゃありません!これを見てください! あの大悪党の阿波屋治兵衛と、南町の元与力・黒沢左門が、極刑に処されたそうです! それから、お上の裏にいた悪いお役人様たちも、みんなお裁きを受けたと! 瓦版屋が『向島の悪鬼羅刹、ついに天罰下る!』って大声を張り上げて走ってました!」

 「ほう、阿波屋が極刑か」

 慶斎が覗き込む。

 「金と権力を使って、奉行所の網の目を巧みにすり抜けていた巨悪が、こうもあっさりと・・・。」

 新太郎も驚きを隠せない。

 瓦版を受け取った慶斎は、紙面の下部に書かれた奇妙な記述に目を留めた。

 「ん? だが、ここに妙なことが書いてあるぞ。処刑される間際、阿波屋が狂ったように『背中に三つ葉葵を背負った、葵幻之介という白装束の義賊に襲われた』と言い残したと。奉行所は悪党の往生際の悪い世迷言として完全に握りつぶしたそうだが・・・・。」

 「葵幻之介・・・・。」

 新太郎が顎に手を当てた。

 「実は、奉行所の御用部屋でもその名が極秘裏に挙がっていた。三つ葉葵の御紋を悪用する不届きな盗賊としてな。」

 すると、仁吉がポンと手を叩き、思い出したように口を開いた。

 「そういやぁ、おいらも贔屓にしている神田の耳目屋から妙な噂を聞きましたぜ。近頃、葵の紋を身につけて闇夜に悪党を狩る謎の男がいるって。噂じゃあ、少し前に目黒の御狩場で、将軍家の大切な御世継様が謎の刺客たちに襲われた際、どこからともなく現れてその危機を救ったのも、その『葵幻之介』って男らしいですぜ・・・。」

 「ほう・・・公儀の密命を帯びた隠密か、あるいは世に出ていない御落胤の仕業か。」

 蓬洲が面白そうに髭を撫でる。

 「おいおい、蓬洲先生、気安く徳川様の落胤だなんて口にするもんじゃない。ただでは済まないぞ。」

 新太郎が慌てて周囲を警戒する。

 「おっと、こいつは口が滑った。何にせよ、これで江戸の風通しがほんの少しばかり良くなったのは確かじゃな。」

 一同が噂話に花を咲かせる中、凌庵は往診用の薬箱に新しい薬瓶を詰める手を止め、ふっと窓の外の突き抜けるような青空を見上げた。自らが「葵幻之介」として闇を駆け、あるいは将軍の弟「松平源七郎斉勝」として鉄槌を下した張本人であること等、おくびにも出さない。彼にとって、己の武勇が世間にどう語られようと、道端の石ころほどの価値もなかった。重要なのは、権威を笠に着た悪党どもの私欲によって歪められた江戸の正義が、元の形に戻ること。そして、目の前の万蔵や彩乃のような人々が、怯えることなく明日を迎えられる夜を取り戻すことだ。

 本来ならば徳川の血の呪縛によって生涯日陰に隠されるはずだった身が、野に下り、こうして自らの意志で患者を救い、世の病巣を断つことができる。これ以上の自由と幸せはない。そう思うと、凌庵の口元に自然と穏やかな微笑が浮かんだ。

 「先生? 何かご存知なんですか?なんだか、とっても嬉しそうですけれど。」

 彩乃が不思議そうに、その大きな瞳で凌庵の横顔を覗き込んできた。

 「ん? いや、何でもないさ。天網恢恢疎にして漏らさず、天は見ていると言う事だ。」

 「悪の栄えた例はない、本家を継いだ兄も口癖のように言っていたわ。それにしても凌庵殿。」

 「何だ?」

 慶斎がニヤニヤしながら肩を小突いてきた。

 「お前さん、捕り方を手伝って渡海屋の寮で大暴れしたんだってな?治療した小役人がべらべら喋っていたぞ。町医者のくせに、剣の腕も一流とは大したものだ。だが水臭いじゃないか、そんな面白い殴り込みがあるなら、どうして俺に声をかけてくれなかったんだ。これでも元を正せば武士の端くれ、腕っ節には自信がある。たまには暴れたかったなァ。」

 「そうだったな、また危ない時には慶斎殿を相棒に連れて行くか。」

 「何時でも言え、待っているぞ。」

 笑い合う二人に対し、彩乃が腰に手を当ててチクリと言葉を投げかけた。

 「慶斎先生! 先生が凌庵先生を調子に乗せるようなことを言わないでください! もし怪我でもして帰ってきたら、天竜堂の切り盛りが大変なんですから!」

 「おや、随分と心配するじゃないか。まるで世話女房だね。」

 「な、何を言うのですか!僕はただ、天竜堂の看板娘として経営の心配をっ!」

 顔を真っ赤にして言い返す彩乃の子供のような可愛らしさを、蓬洲と万蔵が微笑ましそうに見守り、病室は温かい笑いに包まれた。

 ひとしきり笑った後、慶斎がふと思い出したように声を潜め、話題を変えた。

 「そういえば凌庵先生、小耳に挟んだか? 最近、江戸城内の中奥にて、密かに『画期的な新薬』の開発が進められているという噂を。」

 「・・・画期的な、新薬?」

 その言葉が出た瞬間、凌庵の表情がわずかに硬直した。

 万蔵の腕に湿布を貼っていた彩乃が、希望に満ちた目を輝かせる。

 「あ、それ、私も福寿堂へお使いに行った時に聞きました! ご老中様の覚え目出度い、偉い蘭方医の先生が肝煎りになって、極秘裏に作られているとか。」

 「そうなんだな。」

 慶斎が興奮気味に頷く。

 「何でも唐天竺あたりの製法を応用しているらしくてな、既存の蘭方や和漢の常識を根底から覆すほどの驚異的な効能があるらしい。それが完成して広く世に出れば、これまで手の施しようがなかった多くの不治の病の患者が救われる。医者として、これほど胸の躍る話はないじゃないか。」

 「まともな治療も受けられず、貧しさのせいで命を落とす者が減るのなら、これ以上の慈悲はあるまいな。俺たちの出番が早くなくなることを願うわい。」

 蓬洲も深く頷いた。

 慶斎や蓬洲が語る未来は、どこまでも明るく、医療への純粋な希望に満ちていた。しかし、それを聞く凌庵の瞳は、晴れるどころか、底なしの深い闇を湛えるように沈んでいく。

 (――城内の中奥・・・・、本多長門守の影がちらつく場所で進められている新薬開。まさか、弥一郎が掴んできた、あの黒い噂と繋がっているのか?)

 凌庵の脳裏に、弥一郎が命懸けで持ち帰った情報、仙之助邸の屋根裏で囁かれていた禁忌の計画が蘇っていた。「佐葦の露」は、その本命の薬を生み出すための、ほんの副産物に過ぎないという不穏な情報。常識を覆すほどの劇的な新薬。それを製造するために、彼らは一体何を「材料」として使っているのか。裏で行われているという非道な人体実験の噂は、本当にただの噂類なのか。もし、慶斎や彩乃たちが無邪気に期待を寄せるその新薬が、人の道を踏み外した悪魔の産物であったとしたら――。

 (薬が人を救うのではない。それを扱う人間の心が、人を救いもすれば、奈落へ突き落としもする。・・・もしあの噂が真実ならば、江戸城の深奥に巣食う闇は、京極や阿波屋などよりも遥かに深く、昏いと言う事になるぞ。)

 「どうしました、先生? そんなに怖い顔をして・・・・。」

 瓦版を片付けていた彩乃が、凌庵の尋常ではない強張った横顔を不安げに覗き込んだ。 凌庵はハッと我に返ると、己の胸に渦巻く不吉な予感を、無理やり心の奥底へと押し込んだ。今この場で語るには、その疑惑はあまりにも毒が強すぎた。

 「いや・・・、何でもないさ。さあ彩乃、せっかく古巣の養生所に来たんだ。感傷に浸っている暇はないぞ。俺たちも少し手伝って、一仕事してから帰るか。」

 「はい、勿論です! どこまでもお供します、先生!」

 彩乃のいつもの明るい声に背中を押されるようにして、凌庵は立ち上がった。

 己の懸念が、ただの杞憂に終わることを誰よりも切に願いながら。しかし、作務衣の帯の裏に隠された、将軍拝領の備前長船兼光の重みが、これから訪れるさらなる激闘を予見させるかのように、冷たく凌庵の肌に響いていた。

 二人は手慣れた様子で作務衣の袖をまくると、初夏の光が燦々と差し込む病人長屋の廊下へと足を進めていく。 江戸の闇を鋭く切り裂く「影の執刀医」は、今はただの「八丁堀の町医者」として、目の前の小さな命を守るために、確かな一歩を踏み出した。

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