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十三

 向島の隅田川沿い。竹林が夜風にざわざわと葉を擦り合わせる闇の中に、ひっそりと佇む阿波屋治兵衛の豪奢な別寮「風月庵」。この界隈は幕府の高官や特権商人が人目を忍んで囲う隠宅が集う、静かながらも金に飽かせた贅が尽くされた意匠の場所であった。

 しかし、今宵の別寮内を支配していたのは、華やかな宴の気配など微塵もない、血を吐くような重苦しい空気であった。 畳の上には、大目付・京極備前守、闕所奉行・柴田監物、そして阿波屋治兵衛の三人が膳を囲んでいた。芸者を呼んでどんちゃん騒ぎをするわけでもなく、互いに仏頂面のまま、まるで憂さ晴らしの自棄酒を喉の奥へ煽り込んでいる。

 「くそっ! まさか黒沢左門たちが、あれほど容易く北町に捕縛されようとは・・・!」

 京極備前守が、怒りに顔を歪めて愛用の扇子を畳へ叩きつけた。パァンと高い音が響く。 「桔梗屋は終生遠島、山本屋は打ち首獄門・・・。あろうことか、公儀の役人である黒沢左門に至っては、白洲で切腹を申し付けられるとは。北町の遠山金四郎め、余計な真似を! あやつはいつも我らの利権の邪魔をしおる!」

 隣に座る柴田監物が、額の冷や汗を何度も手拭いで拭いながら、震える声で乗っかった。

 「京極殿、本当に大丈夫なのですか?左門様は、評定所の裏で我らの思惑を吐きはしなかったでしょうな。もし我らの名が公に露見すれば、お家断絶どころか我々もただでは済みませぬぞ!阿波屋!貴様が裏で繋がっていた山本屋仙之助の刺客どもが、あの小癪な町医者一人を仕損じるから、こんな事態になったのだ!」

 「痩せても枯れても南町の与力。黒沢も本多長門守様の威光を恐れて、我らの名は意地でも伏せたと聞いております。その心配はありますまい・・・。」

 阿波屋治兵衛が不敵な笑みを浮かべて酌をするが、その手は微かに震えていた。

 「それにしても、黒沢の阿呆が・・・。」

 京極が忌々しそうに杯を干す。

 「谷中の妾宅に、暗殺の依頼書や金の割り前を記した密書を隠しておくなどという致命的な失態を演じおって。元同心の岩永又右衛門や疾風の久蔵といった、僅かながらも検屍の知識があるゴロツキを使い、首吊り自殺に見せかけておはつや歌之丞、三島屋の甚助らを始末する・・・そこまでは完璧な絵図だったのだ。それを、すべてあの町医者がぶち壊しおった。」

 「しかし、京極様、御安心を。」

 阿波屋が声を潜めて顔を近づけた。

 「入船町の密輸の件は、渡海屋五郎兵衛一派が勝手にやったこととして、全て泥を背負わせる手はずを整えました。この治兵衛が正式に公儀御用商人の座に就けば、金などいくらでも湧いて出ます。水野忠邦を失脚させる計画も、本多長門守様が裏で着々と進めておいでです。あの香り水『佐葦の露』で若者や旗本の莫迦どもを骨抜きにし、夢一芝居の退廃に狂わせる。『世が乱れたのは水野の厳しすぎる改革のせいだ』と世論を煽り、水野の首を飛ばして長門守様を後釜に据える。その暁には、京極様には老中への道が・・・。」

 「治兵衛、滅多な名を口にするなと言ったはずだ。」

 京極が冷たく言葉を遮った。しかし、その口元には権力への野虐な笑みが浮かんでいた。

 「我らの絆は盤石よ。捕らえられた羽虫どもの口さえ封じておけば、御上もそれ以上は踏み込めまい。儂は大目付だ、奉行所の動静などいくらでも握りつぶせる。・・・ただ、どうしても気に食わぬのは、高柳凌庵とかいうあの町医者よ。阿波屋、金では転ばなかったそうだな。」

 「はい。一万両の小判を目の前に積んでやりましたが、口幅ったい正義論を並べ立てて、あっさりと突っ返してきました。」

 「ふん、青二才の藪医者が、身の程を知れ。だが、奴は相当な遣い手だと黒沢の報告にあったな。」

 「まさかあれほどとはな・・・。又右衛門殿は馬庭念流の免許持ち。確実にあの医者の首を獲れると踏みましたが、返り討ちとはな。次なる死神を募らねばなりませぬな・・・・。」

 柴田監物が邪悪に目を細める。

 「左様。正義などという実体のないものは、黄金の重みでいくらでも歪むもの。この江戸を真に統べるのは御法などではない。我らという特権階級の意志だ。」

 「御上は所詮飾り、何を言っても『そうせい』としか言わぬ暗愚ですからな。」

 三人が醜い哄笑を上げ、再び祝杯を掲げようとした、その刹那――。 庭先の静寂が、落雷のような衝撃によって激しく破られた。

 ――バァアアン!!

 激しい音と共に、庭に面した障子戸が内側から粉々に蹴破られた。冷たい夜風が室内の灯火を激しく揺らし、吹き込む竹の葉と共に一人の男が座敷の中央へと舞い降りた。

 「何奴っ!?」

 京極が、弾かれたように立ち上がった。現れた男の身を包んでいたのは、汚れなき純白の白頭巾と、夜闇に鮮烈に浮かび上がる白装束。しかしその背には、夜の闇を黄金の光で射抜くかのような、巨大な「三つ葉葵の御紋」が、見事な金糸で鮮やかに刺繍されていた。

 「用人! 用心棒はどうした! 出会い狂え!!」

 阿波屋治兵衛が、狂ったような悲鳴を上げて座敷の隅へ後退る。白装束の男は、抜身の刀を右手に下げたまま、静かに、しかし地響きのような低い声で名乗った。

 「葵幻之介、推参。」

 「葵幻之介だと・・・・? 御用部屋の噂で聞いたことがあるぞ。貴様が、葵の御紋を騙って悪事を働くという、あの不届きな盗賊か!」

 京極備前守が、腰の刀を引き寄せながら怒号を浴びせた。

 「貴様・・・恐れ多くも将軍家の御紋を無断で身に纏うとは、正気の沙汰か!天一坊の再来か、あるいはただの狂人か!その薄汚い覆面を剥ぎ取って顔を見せい!」

 京極の怒号に対し、男は静かに立ち止まり、白頭巾に手をかけた。

 「斬られた相手の面が解らなきゃ、閻魔様に申し開きもできねえからなァ・・・。」

 男がゆっくりと白頭巾をずらす。 月光の下に露わになったのは、端正ながらも、凍りつくような 冷徹な眼光を湛えた、あの八丁堀の町医者――高柳凌庵の顔であった。

 「お、お前は・・・高柳凌庵っ!なぜ、なぜ貴様がここにいる!」

 柴田監物が、あまりの衝撃に顎をガタガタと震わせた。

 「覚えておいでかね、こいつは忝い。」

 凌庵はニヤリと、獣のような鋭い笑みを浮かべると、手挟んだ刀の切っ先を京極へと真っ直ぐに向けた。

 「お前さんたちが『佐葦の露』を江戸にばら撒き、未来ある若者を狂わせ、三島屋を罠に嵌めてその身代を貪ったこと。そしておはつ殿と歌之丞を暗殺し、その罪を死人に着せたこと。・・・・そのすべて、この凌庵が『検屍』という名の執刀を以て、すべての膿を暴き出させてもらった。」

 「何を証拠に、一介の藪医者が戯言を・・・・!」京極が虚勢を張る。

 「問わず語りとは、よく言ったものだ。貴様らの悪事・・・、酒席の肴に全て語った悪事の真相、すべて俺の耳に届いている。言い逃れは出来めえ。黒沢左門も桔梗屋も、すでに白洲で己の罪に報いを受けた。お前さんたちも武士ならば、最後くらい潔くその首を差し出しやがれ!」

 「黙れ! 狂人の妄言だ!」

 京極備前守は、完全に理性を失って刀を抜き放った。

 「恐れ多くも葵の御紋を身に纏う天一坊め!出会い狂え!逆賊として、その場で首を刎ねてくれる!」

 京極が用人たちを呼ぼうと叫んだ瞬間、凌庵は眉一つ動かさず、懐から一本の小刀――懐剣を取り出し、それを月光の下に掲げた。

 「天一坊かどうか・・・この懐剣の輝きを見ても、まだ狂人の戯言だと言い切れるかい?」

 それは、極上の職人によって精緻な彫りが施された、黄金の三つ葉葵の装飾を纏う懐剣であった。   徳川宗家の肉親、それも将軍の直系にしかその身分を証すために授けられることのない、世に二つとない神器。

 「そ、それは・・・・まさか、徳川宗家の・・・・!?」

 京極の剣が完全に止まり、柴田監物は畳の上にへたり込んだ。

 その時、風月庵の表門を豪快に叩き割る音が響き、重厚な足音が廊下を鳴らした。監視のために配置されていた京極の共侍達を払いのけ、襷掛けに一本の長槍を引っ提げて座敷へと乗り込んできたのは、老練なる圧倒的な気迫を纏った本郷丹後守であった。その背後には、忍び装束に身を包んだ梶野弥一郎、そして配下の隠密・鬼岩と楓が、影のように付き従っている。

 「控えおろう!京極備前守!柴田監物!!」

 本郷の地響きのような一喝が、別寮の天井を震わせ、埃をハラハラと降らせた。

 「本、本郷殿・・・! 何事このような場所に!」

 「一同、欲に目が眩んで、その両眼は腐り落ちたか!」

 本郷丹後守が、自慢の長槍の石突をドォンと畳に突き立て、凌庵の傍らに一分の隙もなく跪いた。

 「この黄金の懐剣を拝して、まだその御身分に気付かぬか!こちらにおわすは、当代将軍・家慶公の御実弟であり、神田三河町の御控様、松平源七郎斉勝まつだいらげんしちろうなりかつ君なるぞ!! 皆々、控えおろうッ!!」

 「ば、蟠竜様!?」

阿波屋治兵衛は、口から泡を吹いて畳の上に頽れた。 京極も柴田も、突きつけられた真実のあまりの重さに、持っていた刀を力なく床へと落とした。

 蟠竜――飛び立たず、地に蜷局を巻く龍。生まれた時期の巡り合わせから、幼少期にその素性を完全に秘匿され、身分が明かされた今となっては、将軍位の御控、すなわち徳川宗家の「絶対のスペア」として神田三河町の広大な屋敷に留め置かれている、将軍家慶の歳の離れた実の弟。 堅苦しい権力闘争と城の暮らしを嫌い、身分を捨てて野に下り、八丁堀で「高柳凌庵」という町医者として生きる道を選んだ、伝説の貴人。それが、目の前に立つ白装束の男の正体であった。

 「兄上の『そうせい』という言葉を、自分たちの都合の良いように履き違えたのが、お前たちの運の尽きだ。」

 凌庵の瞳に、青い炎のような怒りが宿る。

 「あれは、お前たちの私欲を認めた言葉ではない。天下泰平の世に仇成し、民を病ませる獅子身中の毒虫どもを、この凌庵のメスで『一物も残さず斬り捨てよ』という、兄上から俺への絶対の下知だ。この拝領の脇差が、その何よりの証拠よ。」

 京極備前守は、冷や汗で顔を濡らしながら、慌てて両手を畳につけて平伏した。

 「お、お待ちください御控様!?獅子身中の虫とは、何たる誤解!我らの画策は、すべてはこれからの徳川の世を盤石にするため、ひいては天下万民のための利を考えてのことにございます!」

 「見苦しいぞ、備前。」

 凌庵が冷たく吐き捨てた。

 「この期に及んで、まだそんな言い訳が通用すると思っているのか。民の命を金に換えたその時点で、お前たちの命数は尽きているんだ。武士なら武士らしく、最後くらい潔く散りやがれ。」

 もはや弁明の余地なしと悟った京極備前守は、絶望のあまり逆に顔を真っ赤に狂わせ、力なく立ち上がると、落ちていた刀を再び激しく構えた。

 「に、偽物じゃ天一坊の再来じゃあ!!この者は恐れ多くも、上様のご実弟を騙る不届きな大泥棒 じゃ!誰もいないか!斬れ!斬って捨てて、証拠を隠滅しろ!!」

 京極の狂乱の叫びに応じ、別寮の周囲を警備していた共侍や、凄腕の用心棒たち総勢二十数人が、抜身の刀を構えて一斉に座敷へと雪崩れ込んできた。

 「往生際の悪い奴らだ・・・。ならば、容赦はせぬ。」

 凌庵は白頭巾を完全に投げ捨てると、すらりと二振りの名刀を抜き放った。白柄の二刀流、その鍔と鎺には、燦然と輝く三つ葉葵の紋が刻まれている。将軍家慶より直々に拝領した、備前長船の銘刀であった。 凌庵はそれを、胸の前で美しく十字に構えた。

 「関わりなき者、悪に組せぬ者、親兄弟のある者は立ち去れ!尚も牙を剥く者は、すべて江戸の病原と見なし、俺がこの手で引導を渡してやる!」

 「ウオオオオッ!」

 真っ先に飛び込んできた二人の用心棒に対し、凌庵は円を描くような滑らかな足捌きで、その懐へと潜り込んだ。 医者として人体の関節、筋肉、神経の走り方を知り尽くしたその動きには一切の無駄がない。すれ違いざま、凌庵の左手の刀が、一人の手首の腱を正確に裂き、右手の刀がもう一人の膝裏の筋を、皮一枚で斬り上げる。

 「ぐわああっ!」

 「脚が、動かん!」

 二人はまともに刀を握ることすらできず、その場に崩れ落ちた。凌庵は、京極に雇われているだけの、事件の真相を知らぬ共侍たちに対しては、命を奪わぬよう、ただ運動神経だけを的確に切断して無力化していく。まさに「活人」のメスであった。

 その傍らでは、弥一郎と楓が影のように飛び回り、忍び刀で敵の目を潰し、顎を砕いていく。巨漢の隠密・鬼岩は、迫り来る敵の顔面に岩石のような鉄拳を叩き込み、一撃で脳震盪を起こさせて沈めていた。

 「おのれ、古狸がぁ!!」

 残る闕所奉行・柴田監物が、狂ったように刀を振り回し、跪いていた本郷丹後守へと斬りかかった。

 「馬鹿者めが! それでも徳川の禄を食む武士か!」

 本郷は老齢の体に鞭打ち、愛用の長槍を鋭く突き出して、監物の剣撃を激しく弾き飛ばした。キィィンと金属音が響く。しかし、監物も必死であり、狂乱の連撃が本郷を襲う。本郷は槍を捌きながらも、寄る年波による息切れで度々窮地に立たされた。

 「死ねえ!!」

 柴田監物が、勝機と見て上段から全力で刀を振り下ろした。

 「よくで錆びた刀で儂を斬ろうと言うのか!?甘いわッ!!」

 本郷丹後守の目が、一瞬にして見開かれた。苦し紛れの攻撃を完璧に読み切り、身を翻してかわすと同時に、槍の穂先を監物の肉体へと一直線に突き出した。 ズブゥッ!! という鈍い音が座敷に響く 長年鍛え上げられた本郷の槍は、監物の胸骨の隙間、心臓の真芯を正確に貫いていた。

 「がはっ・・・。」

 監物は硬直したまま大きく目を見開き、口からドロリと鮮血を流すとだらりと両手を下げて刀を落とした。本郷が鋭く槍を引き抜くと、監物は糸が切れた人形のように膝から畳へと崩れ落ち、二度と動かなくなった。

 「ハァ・・・、ハァ・・・・。」

 本郷は荒い息を吐きながら、杖のように槍の鐏を畳に突き、どうにかその体を支えた。

 周囲の共侍たちが全滅したのを見届け、残されたのは阿波屋治兵衛と京極備前守の二人だけであった。二人は腰を抜かしながらも、裏口の引き戸へと這いずるように逃げ込もうとしたが、その目の前に、血の着いていない刀を下げた凌庵が、幽鬼のように立ちはだかった。

 「ど、どけ!どかぬか藪医者!」

 「京極備前守、阿波屋治兵衛。・・・お前たちは、この江戸の世を根底から蝕む、手の施しようのない悪性腫瘍だ。今ここで完全に切り取らせてもらう。せめて迷わず、地獄へ行きやがれ!」

 「おのれぇえ!!」

 狂乱した京極が、捨て身の力で凌庵の脳天を目がけて刀を斬り下げてきた。 凌庵はその刃を、右手の刀で鮮やかに上方へ斬り上げると、体勢を崩した京極の胸元目がけ、左手の備前長船を真横に一閃した。

 「・・・天誅。」

 強烈な横一文字の斬撃が、京極の肉体を深く切り裂いた。胸元から夥しい血飛沫を噴き出し、京極は大目付としての栄華の最期に相応しくない無様な悲鳴を上げて、仰向けにひっくり返り、絶命した。

 最後に残された阿波屋治兵衛は、その場にへたり込み、がくがくと全身を震わせていた。

 「阿波屋。・・・貴様は殺さぬ。今回の一件、裏で糸を引いている本多長門守の企みのすべてを、北町の白洲で洗いざらい吐いてもらうぞ。」

 凌庵が冷たく言い放つと、治兵衛は「ひ、ひぃぃ・・・お許しを、お許しを・・・・。」と涙を流して土下座した。観念した――そう見せかけて、治兵衛は懐に忍ばせていた右手を電光石火の速さで引き抜いた。その手には、南蛮渡来の小型の短銃が握られており、銃口が真っ直ぐに凌庵の胸元を捉えていた。どこまでも往生際の悪い悪党であった。

 「死に晒せ、藪医者ぁ!」

 治兵衛が引き金に指をかけた、まさにその刹那。シュッという鋭い風切り音が闇を裂き、治兵衛の右腕の肉に、一本の鋭利な馬針が深々と突き刺さった。

 「ぎゃあああああっ!」

 激痛に襲われた治兵衛は、引き金を引く前に短銃を畳の上に落とした。屋根裏から見守っていた弥一郎の、寸分の狂いもない神技であった。すかさず、巨漢の鬼岩が地響きを立てて突進し、自慢の怪力で治兵衛の身体を畳に組み伏せると、太い捕縄で一瞬にして身動きが取れぬよう縛り上げた。

 「その者は生かしておけ。身ぐるみを剥がし、すべての証拠と共に、後の処遇は北町奉行の遠山殿に一任する。」

 「はっ。畏まりました。」

 凌庵は刀の血を懐紙で拭い、カチリと硬質な音を立てて鞘に収めると、ちらりと本郷丹後守の様子を見た。老侍は槍を支えに、まだ肩を激しく上下させている。

 「爺。無茶しやがって。その息の下がりよう、心音の激しい乱れ・・・。これ以上の立ち働きは、 医者として完全に見過ごせんぞ。次からは大人しく神田の屋敷で寝ていろ。」

 凌庵のぶっきらぼうながらも、深い温かみのこもった言葉に、本郷は皺だらけの顔を綻ばせ、嬉しそうに苦笑いを浮かべた。

 「これはしたり・・・。この丹後、まだまだ錆びついてはおりませぬ。若の危機とあれば、たとえ地獄の果てまでもお供し、この槍を振るうのが当然の務めにございます。この程度の若造どもに、遅れは取りませぬわい。」

 弥一郎が、静かに凌庵の傍らに跪いた。足元には、もはや物言わぬ屍となった京極と柴田、そして絶望に身を震わせる阿波屋が転がっている。

 「終わりましたな、若・・・。江戸を蝕んでいた大きな腫瘍が、ひとまずは摘出できました。」

 凌庵は、月光に照らされた凄惨な光景を見つめながら、静かに、しかし断固とした口調で応えた。

 「病というものは、目に見える患部を切り取っただけでは、決して完治したとは言えんのだ。まだ、一番深い根っこが残っている。悪党とは雑草と同じだ。日光を遮り、油断すれば、すぐにまた江戸の土壌から生えてくる。」

 凌庵の冷徹な視線は、この一件の背後に潜むさらなる巨悪――老中格・本多長門守、そして未だ姿を見せぬ「次なる死神」たちの影へと向けられていた。

 「若の苦労は絶えぬ、というわけですな。本来ならば、神田三河町の御屋敷で、悠々と書を嗜んでおられるべきお身分でございますのに・・・。」

 丹後守の嘆きに、凌庵は鼻で笑って撥ね退けた。

 「野に下ったのは俺の意志だ、爺。野に下った以上、この目に映る世の中が乱れたのなら、それを正す。それが『高柳凌庵』として生きる俺の定めであり、医者としての意地だ。」 その言葉には、徳川の血を引きながらも、民の痛みを知る者として生きる道を選んだ男の、迷いなき覚悟が刻まれていた。

 「弥一郎、爺を屋敷まで送り届けてやれ。一刻も早く温かい湯に浸からせ、血の巡りを整えさせるんだ。それと、兄上に、京極一派は完全に片付いたと、そして江戸の風通しが、ほんの少しばかり良くなったと伝えろ。」

 「はっ。承知いたしました。」

 弥一郎が本郷の腕を支えようとすると、老侍は「儂はまだ年寄りではないわい」と子供のようにぶつぶつと小言を漏らしながら、竹林の奥へと消えていった。静まり返った別寮に残された凌庵は、再び静かに夜空の月を見上げた。ひとつの事件という病巣を切り取った重い確信と共に、次なる戦いへのメスを、彼はすでに研ぎ澄ましていた。

 数日後。江戸城の深奥に位置する御用部屋は、京極備前守と柴田監物の突然の「成敗」と、阿波屋治兵衛の捕縛という大スキャンダルに揺れていた。しかし、室内には勝利の余韻など微塵もなく、重苦しい静寂と、互いの腹を探り合う冷徹な視線が交錯していた。

 老中首座・水野忠邦は、上座で微動だにせず、眼前の男たちを睥睨していた。

 「京極殿が何者かに成敗され、あのような醜聞が明るみに出るとは。大目付ともあろう者が、商人と結託して『佐葦の露』なる毒水を弄んでいたとは、開いた口が塞がらんな、本多殿。」

 水野の鋭い視線を受けながらも、本多長門守は臆面もなく、しらじらしい溜息をついて扇子を手弄んだ。

 「水野殿、配下の落ち度は、取りも直さず手前の不手際。あのような暴挙に及んでいたこと、心よりお詫び申し上げます。・・・しかし、改革を進めてからというもの、どうにも江戸に不心得者が増えた気がいたしますな。」

 皮肉を込めた本多の言葉を、忠邦は冷たく聞き流した。

 その傍らでは、南町奉行・鳥居耀蔵が青ざめた顔で平伏していた。かつての懐刀であった黒沢左門が、事件の核心で切腹した事実は、鳥居の権威に大きな泥を塗ったのだ。

 「不徳の致すところでございます。元配下の黒沢があのような大罪に加担していようとは夢にも思わず、ひたすらお詫び申し上げる次第にございます・・・。」

 鳥居は謝罪を繰り返すが、忠邦の関心はすでに彼らにはなかった。忠邦の脳裏にあるのは、現場の目撃者が語った「背に葵の紋を背負った白装束の男」の存在であった。

 (・・・阿波屋を震え上がらせ、京極を一刀の下に屠った謎の刺客。そして、黄金の懐剣。まさか、あの神田三河町の『蟠竜』が、悪陣を掃討すべくついに飛び立ったのか。)

 「過ぎたことはもう良い。再びこのような不埒者が増えぬよう、一層取り締まりに力を入れるべきだ。耀蔵、頼んだぞ。長門守殿、ご尽力よろしく頼みますぞ。」

 忠邦は淡々と議論を再開したが、その胸中は激しくざわついていた。

 (松平源七郎斉勝・・・。神田の屋敷で大人しく書を嗜んでいると思えば、鬱陶しい真似を。まあ・・好きなように飛び回るが良い。・・・だが、我が改革の牙を剥いたが最後、その時は容赦せぬぞ。謀の証拠が挙がった時は、覚悟したせよ?)

 幕府の中枢で、次なる巨悪が確実に凌庵の存在をマークし始めていた。

 一方、その頃。江戸城の天守閣に近い静かな一室で、将軍・徳川家慶は、本郷丹後守と遠山金四郎の二方から、事の顛末の報告を受けていた。

 「あ奴め、自らその手を汚してまで、江戸の膿を掻き出したというのだな。」

 報告を聴き終えた家慶の顔には、天下を統べる将軍としての厳格さはなく、一人の兄としての穏やかな、そしてどこか羨望の入り混じった微笑が浮かんでいた。

 「あれほど堅苦しい城の暮らしを嫌い、町医者に成り下がったというのに。こうして事件に介入し、悪を斬っている時が、本当は最も生き生きとしているのではないか? 丹後、あやつに怪我はなかったか?」

 「ええ。若の腕前は相当なものにございます。本音を申せば、あのお方なら、望めばいつでも徳川家、ひいては日の本の国の立派な当主になれる器量をお持ちなのですが。全く、勿体ない奴でございますな。」

 丹後守は、槍働きで疲弊した腰を少し強張らせながら嬉しそうに頷いた。

 「其方こそどうだ?腰の様子は?」

 「はっ。源七郎様には『無茶しやがって、その心音の乱れは見過ごせん』と、医者として散々叱られる始末にございました。薬箱を背負いながらも、その眼光は悪を射抜く龍の如く鋭くございました。」

 遠山金四郎も、自らの白洲での裁きを振り返りながら、深く平伏して言葉を添えた。

 「上様。源七郎様が闇で病の根を切り裂き、私が公の法で裁く。この車の両輪があってこそ、江戸の正義は辛うじて保たれました。しかし、奉行としては、源七郎様の手を煩わせず、自身の手で取り締まることが出来ねばならぬと猛省しております。この度はご迷惑をおかけいたしました。」

 「よいよい、金四郎。そう気に病むな。」

 家慶は立ち上がり、窓の外に広がる、灯火が美しく煌めく江戸の夜景を見つめた。

 「『そうせい』と言った余の言葉を、あやつなりに咀嚼し、この江戸を、民を守り抜こうとしているのだ。・・・あ奴を無理にこの堅苦しい城という檻の中に押し込むのも、気の毒というもの。あ奴には、あの自由な長屋の空気が一番似合っている。」

 家慶の引き締まった顔に、深い慈愛の情が広がる。

 「良かろう。私はこの城の中から、権力という病からこの国を診る。あ奴には、町の中から民の命を救い、悪という病を斬らせる。源七郎よ、野に放たれた龍よ、存分に励め。お前が自由である限り、江戸の正義の火は決して消えぬ。」

 将軍の静かな、しかし確信に満ちた笑い声が、夜の帳に包まれた江戸城に響き渡った。それは、権力という檻の王でありながら、野にあって民と共に生きる最愛の弟の活躍を、何よりも誇りに思う兄の、至高の情愛の証であった。

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