十二
隅田川の湿った風が吹き抜ける入船町。その一角にある渡海屋江戸店の真向かいにある茶店で、高柳凌庵は静かに「みたらし団子」を口に運んでいた。表面の焦げ目と甘辛い餡の味が、昂ぶる神経を不思議と落ち着かせてくれる。
凌庵は待っていた。盟友である新太郎と頼れる目明かしの仁吉、そして正義の執行を。目の前の華美極まる店構えの中に、黒い腹を抱えた悪狸共が救っているのだ。凌庵は御上への密書と同時に、北町奉行の遠山金四郎へも密書を飛ばしていた。その内容は、捕らえた刺、岩永又右衛門と疾風の久蔵を一医者を狙った「殺人未遂および請負」の罪人として、佐葦の露とは別件として徹底的に洗うべしという提言だった。本筋の捜査が京極らの政治的圧力で封じられたのなら、別の傷口からメスを入れ、奥に潜む膿を掻き出す。まさに、患部を直接叩く外科手術の発想であった。
自然と腰の虎徹に手を伸ばした凌庵の脳裏には、ある思想が浮かんでいた。
「上医は国を医す」
自分同様に検使医を請け負っていた祖父が、検死を引き受ける理由としていつも言っていた言葉だ。優れた医師は個人の病のみならず、社会や国の乱れをも治療する。父代わりの清左衛門が、愛情ゆえに「手を引け」と幾度も制止したことは痛いほど解っていた。彩乃も死ぬほど心配していた。今日も上手い事理由を見つけ、ここまで馳せ参じた次第だ。
検使医として死者の無念を聞き、八丁堀の住人として江戸の地を踏み締める身として、例え周りから制止されたとしても、眼前の腐敗を見過ごすことは自らの魂を殺すに等しい。
世の中の乱れと言う名の「病原」を斬る為ならば、例えどんな目にあったとしても悔いはない。これが凌庵の信念だ。
「相変わらず待たせやがる。」
最後の一玉を平らげ、温かい茶で喉を潤した時、「兄貴っ!」という弾んだ声が聞こえた。
「来たか」
見上げれば喧嘩支度を整えた仁吉と、近藤家伝来の陣笠を深く被り、腰の得物を確かめる新太郎が立っていた。その顔は、長年の宿敵を追い詰めた鬼の首を取ったかのように晴れやかであった。
「その顔から察すると?」
「ああ吐いたぜ、兄貴! 又右衛門と久蔵の野郎がな。闇の依頼を仲立ちしていたのは南町の黒沢左門。そして依頼主の筆頭は、山本屋仙之助と桔梗屋角右衛門だ。すべて繋がった!」
新太郎は声を潜めながらも、その言葉には熱い勝利の確信がこもっていた。 「奴らは今、伝馬町の牢屋敷の中だ。元十手持ちが人殺しの下手人として放り込まれたんだ、牢内は蜂の巣をつついたような大騒ぎよ。百叩きか、それとも糞尿まみれの御馳走攻めか・・・、まあ自業自得、ざまあみやがれってんだ」
「ならばもう一人、いや三人の土産を、同じ牢へ放り込んでやるか。」
凌庵が立ち上がった刹那、もう一人の重厚な影が合流した。陣笠を被り、鎧を身に纏った神山平蔵である。
「神山様、来てくださったか」
「同じ与力の立場にある者が悪事に加担しているとは、断じて許せん。俺とて団野道場の皆伝を受けた身だ。新太郎に後れは取らぬぞ。」
「町方随一の剣客たる神山様が御助成くださるのなら、勝ったも同然。」
「煽てるな。」
「行くぞ、荒療治にな。」
凌庵、新太郎、平蔵。そして背後に控える仁吉と捕り方たち。正義のメスを握る者たちが、渡海屋の門前に集結した。
「御用改めだ! 神妙にいたせ!!」
新太郎の雷鳴のような叫びと共に、渡海屋の重厚な門が蹴り破られた。
「な、何事です!」
泡を食って飛び出してきた店者たちを、仁吉が相撲仕込みの突き押しで次々と撥ね退けていく。
一行は迷わず、奥に位置する離れへと突き進んだ。そこは外の喧騒を遮断した静謐な空間のはずだったが、襖を荒々しく引き開けた先にいたのは、案の定、茶を囲んで密談を交わす三人の悪鬼であった。南町与力・黒沢左門、桔梗屋角右衛門、そして山本屋仙之助が膳を囲んでいる。
「これはこれは……北町の方々。夜分に大層な武装で、何の御用ですかな?」
角右衛門が落ち着き払った動作で茶碗を置いた。その細い目が、冷ややかに凌庵たちを射抜く。
「神山殿、何事にござるかな?佐葦の露の一件ならば、御老中の下知が下ったはず。」
「佐葦の露とは別件だ、此方の凌庵先生が刺客に襲われた一件だ。」
「ほっほっほ、一町医者が襲われた一件の為に何と仰々しい・・・。」
「其の方が一枚噛んでいる疑惑が浮上したのだ。」
「これはしたり、その様な世迷言を・・・。」
「じゃかましいやい!手前が、凌庵先生抹殺に噛んでいる事は、こちとらお見通しなんでえ! 又右衛門と久蔵が、洗いざらい吐いたぜ!」
仙之助は口腔内で密かに舌打ちをし、取り繕う様な笑顔を向けて煽る様な声を掛ける。
「その凌庵先生が刺客に襲われたからと言って、あっしらになんの関わりがあるってんですかい?検使医なんてしているから、恨みでも買ったのではないかい?」
「元締めの言う通りじゃ。おい北の若造、証拠なき捕縛は、お主の首を飛ばすことになるぞ?」
「馬っ鹿野郎っ!証拠はこれだぁ!!」
そう言うと新太郎は、ある書付を見せつけた。
遠山金四郎は、密書を受け取った直後、隠密廻り方と御庭番の吉兵衛に命じ、黒沢左門の身辺を完璧に洗っていたのである。
欲に目が眩んだ左門は、谷中に囲っている妾の家を秘密の書庫としていた。吉兵衛は既にその妾宅に忍び込み、左門が仙之助らと交わした「暗殺の依頼」と「密輸の分け前」を記した密書を、鮮やかに盗み出していた。欲で五感が鈍った左門は、超一流の盗賊である吉兵衛の侵入さえ察知できなかったのだ。
新太郎の手には、金四郎から託された「隠密廻り方からの情報」と称されるその密書が、握られていたのだ。
「そ・・・、それは・・・。」
「オメエの妾は口が軽くて助かったぜ、全部吐いちまったよ。これは栄達の未来を約束する切り札だとな。」
「不満ならば同じものを書いてもらおうか、幾ら書き方を変え取り繕うと、それぞれの癖は出る物だ・・・。」
平蔵や凌庵から止めの一言を投げかけられると、仙之助と角右衛門の顔が一気に青ざめた。
「なっ、なんてこった・・・・。」
「筒抜けだったと言うのか・・・・。」
硬直する仙之助と角右衛門は、震える手で杯を落として畳を汚した。
「ぐうの音も出ねえようだな。この上は、神妙にした方が身のためだぜ?」
命を取り損なったはずの凌庵が、冷徹な医者の目で彼らを射抜いた。その視線は、もはや人間を相手にしているのではなく、摘出すべき「腫瘍」を凝視しているかのようであった。命を取り損なったはずの凌庵が、冷徹な医者の目で彼らを射抜いていた。
絶望の淵に立たされた仙之助は、狂乱したように座敷の奥へ向かって叫んだ。
「おい! 出て来い! こいつらを皆殺しにしろ!!」
追い詰められた鼠が最後に放つ、破れかぶれの咆哮であった。
襖が激しく蹴破られ、奥の控室から、抜身の刀を構えた用心棒や渡海屋の荒くれ者たちが雪崩れ込んできた。その数、十数人。いずれも江戸の裏社会で血を吸い慣れた、仙之助の配下らしい質の悪い兇賊たちである。
「やはりただじゃ認めねえようだな、斬り合い何て好まねえが、降り掛かる火の粉は払わなけりゃならねえな。」
凌庵はすらりと虎徹の大刀を抜き、刀を下段に構える。
「独りも逃すな!無関係な店の者は捨て置け!」
神山平蔵の号令と共に、北町の捕り方たちが一斉に踏み込んだ。
室内は一瞬にして、罵声と鋼のぶつかり合う凄絶な戦場へと化した。
「邪魔だ、どきやがれ!」
仁吉が、歯向かってくる敵を十手と腕っ節を用いて、まさに契っては投げの大暴れ。その剛力は、相撲取り顔負けの働きぶりだった。
「背中は任せろ先生、あんたは仙之助を!」
新太郎は近藤家伝来の銘刀、五郎入道正宗を抜き払い正眼にそれを構える。北辰一刀流、千葉周作が御玉ヶ池に開いた「玄武館」において麒麟児の誉れ高かい高弟。自慢の剣を多いに振るうその様は、まさに荒武者だった。
「斬るな新太郎っ!生け捕りにせよ!!」
「承知ィ!」
鋭い踏み込みと共に放たれた一閃が、用心棒の刀を真っ向から叩き折る。返す刀で峰打ちを浴びせ、敵を畳の上へ沈めていく。
左門も悪事に手を染めなければ有能な与力、腕も中々の者だった。他の捕り方を斬り捨て、庭の障子をあけ逃げ出そうとした。しかし、そうは行かぬと平蔵が「待て!」と行く手を阻む。
「左門!最後ぐらい潔く致せ、必要ならば俺が介錯してやる。」
「ほざけ・・・、与力とは名ばかりの御目見え以下・・・。侍として生まれたのなら、天下を夢見て何が悪い!」
「かりそめの天下を望むなど、愚かな奴め・・・。」
「やかましい!俺の様な使い走りを掬って下さる、あのお方の夢の為!死ねぇ!」
左門は上段から唐竹割に斬り込んでくるが、平蔵は鉄鞭でそれを弾き、その勢いのままに首に鉄鞭を叩き込んだ。まともにそれを受けた左門は、うめき声を上げてその場に突っ伏して動かなくなった。
凌庵もまた、愛刀を振るい確実に相手を再起不能にしていた。
「医者の首を獲れば、阿波屋が金貨を積んでくれるぞ!」
「恩賞は思いのままだ!!」
子分の一人が下卑た笑いを浮かべ、凌庵の胸元を狙って突きを放つ。相手の力任せの突きを交わすのは糸も容易かった。
音無しの剣—太刀音を立てず相手を制する秘剣。余計な血を流さず、即座に相手を制する医者を生業とする凌庵らしい剣技だ。その人たち人たちが、相手の急所を捕らえ動けなくしていた。
仙之助も角右衛門も、同じ穴の狢。親分の為に長脇差を振るう子分をうっちゃり、自分だけ逃げだそうとする。
だが、その行く手を凌庵が立ち塞いだ。
「逃げようと言うのか、どこまでも見下げ果てた奴らめ。」
「ちっ・・・、畜生・・・・。」
「貴様っ、医者が人を斬ると言うのか?」
「斬りはせぬ、裁きを受けさせる。故に吐け、悪事の本筋を。」
「う、うるせえ!俺は只、食いッぱぐれた奴らに場所を作ってやっただけだ!文句があるならお上に言いやがれ!!」
長脇差を抜き払った仙之助は、苦し紛れに突撃してきた。窮鼠猫を嚙むと言うが、追い詰められた者程力を発揮する様だ。その技の一つ一つに覚悟が伺えた。
対峙する二人を見た角右衛門は、そろりそろりと後ろに下がって自分だけでも逃げようとした。しかし、そこに忍び装束に身を包んだ吉兵衛が音も無く降り立った。
「おぅ、悪党のタニマチ。テメエだけ逃げようたってそうは行かねえ。」
「ひっ、ひいぃ!」
身を翻して逃げ出そうとする角右衛門に、吉兵衛は打根の万力鎖を投げ巻き付けた。鮮やかな技で引き寄せると、石突の部分でみぞおちを付き気絶させた。ばたりと角右衛門が倒れた音に気付いた仙之助は、もはやこれまでとがむしゃらに長脇差を振り回す。凌庵もまた、この男は手の施しようがないと悟った。
「くたばれぇ!!」
最後の斬撃を右に避けると、切っ先を右に起こし左袈裟懸けに振り下ろす。兜や石灯籠を叩き切ったと言う虎徹の鋭刃は、仙之助の右腕の筋を捕らえた。
「ぎゃああああ。」
夥しい鮮血を吹き出し、仙之助はその場に倒れ込んだ。凌庵が斬ったのは、親指を通る橈骨神経部分、これを斬られれば耐え難い激痛と共に、右腕の力が入らなくなる。
「これで聞き手は使えまい、その痛みは己の罪深さと知れ。」
腕の筋を斬られ、のたうち回る仙之助。その姿は、江戸庶民を陰謀の犠牲にし、天として恥じなかった男とは思えぬ、誠に無様な姿だった。
全ての悪人を捕縛し終えた新太郎は、目の前に転がる仙之助を見て驚いた。
「斬ったのか?」
「急所には至っておらぬ、但しすぐに縫合せねば一生使い物にならぬぞ。」
「どうせ死罪、放って置け。しかし凌庵先生、相当な腕前だな。書院番の男谷様も申しておったよ、剣術を志せば間違いなく良き武芸者になったと・・・。」
「大袈裟です、ただ適当に木刀を振るっていただけでござるよ。」
「そうか、ともかく御助成感謝いたす。さ、怪我を負った者の治療を頼むぞ。」
「承知した。」
江戸を震撼させた陰謀の一部が崩れた瞬間だった。入船町の夜空には、ようやく雲が切れ、澄んだ月光が差し込み始めていた。凌庵は虎徹を鞘にしまった。江戸を蝕む巨大な病巣の、第一段階の摘出はここに完了したのである。
盛大な捕物から数日後、北町奉行所の白洲は、張り詰めた緊張感に支配されていた。梅雨の盛りの冷たい雨風が砂利を撫で、微かに舞い上がる塵さえもこれから下される裁きの重さを予感させていた。
砂利の上には、数日前までの傲慢な面影を失い、やつれ果てた三人の男。黒沢左門、山本屋仙之助、桔梗屋角右衛門、岩永又右衛門、疾風の久蔵が捕縛の縄も痛々しく引き立てられていた。また重要参考人として、渡海屋の江戸店舗を差配する大番頭が呼び出されていた。
正面の座には、名奉行の誉れ高い遠山金四郎が、威厳を湛えて座している。その鋭い眼光は、悪鬼たちの魂の奥底まで見透かすかのようであった。
「さてこれより、医師高柳凌庵襲撃並びに歌之丞暗殺。及び御法度の密貿易、夢一芝居に関する一件について吟味いたす。一同面を上げい。なお本日は、薬品に絡む一件につき、襲撃の被害者でもある高柳凌庵にも臨席を願っておる。左様心得よ。」
金四郎の言葉に顔を上げた下手人。するとすかさず左門が言葉を投げかける。
「遠山様、手前は仮にも南町において与力の立場にある身。白洲に下手人として座らされるのは心外、鳥居様も御承知の事でしょうな?」
左門は南町奉行の意向を笠に無言の圧力をかけた。だが、現実は非常だった。
水野派の急先鋒として知られる鳥居耀蔵は、事件の発覚と同時に、己への火の粉を懸念して驚くべき速さで動いていた。
江戸城の廊下ですれ違った耀蔵は、金四郎にこう言った。
「黒沢左門には兼ねてより如何わしい噂があり、綿密な調べの結果御役御免と相成った。存分に吟味なされよ。」
目付出身の奉行である耀蔵が「妖怪」と言われる理由の一つは、密かに行われる政敵への内偵である。それは他の幕臣に限らず、自身の配下にまで至っている。
「諦めよ左門、貴様が『後ろ盾』と信じていた鳥居奉行は、貴様を真っ先に切り捨てたぞ。もはや貴様に武士の身分はない。ただの罪人として、この白洲に立っているのだ。」
遠山の厳しい言葉が、左門の胸を抉った。かつてあれほどまでにへつらい、忠誠を誓った権力者から、紙切れ一枚のように捨てられた絶望。左門はガタガタと震えた。
吟味は迅速に進められた。所々しらばっくれる事はあったが、ぐうの音も出ぬ証拠がその都度並べられて、弁解の余地はなかった。
左門の口から溢れ出したのは、江戸の闇を司る権力構造の醜悪な真実であった。
「佐葦の露」の独占、三島屋の追い落とし、そしておはつや歌之丞の殺害。これらすべての絵図を描き、陰から操っていたのは、幕府大目付・京極備前守、そして闕所奉行・柴田監物という、法を守るべき立場にある高官たちであった。
「・・・守銭奴で知られる三島屋伊左衛門を退け、阿波屋治兵衛を新たな御用商人の座に据え、その利権を我らで分け合う。三島屋の身代を没収し、その上がりを京極様や柴田様の懐へ流し込む。それが、我らの画策したすべてにございます」
左門は、己の罪を認めることで、せめて武士としての最期の矜持――あるいは「切腹」という死に場所を得ようと必死であった。しかし、遠山がさらにその奥に潜む「黒幕」の名を問いただした瞬間、左門の態度に異様な変化が生じた。
「これほどの大掛かりな陰謀、京極や柴田だけの知恵ではあるまい。水野忠邦失脚を目論み、裏で糸を引く大物がいると踏んでいるが・・・。」
相手の名前は出さず、まさにオブラートに包んで相手を問い詰める金四郎。
「滅相もござらぬ!そもそも、違法な化粧品が横行し、風俗が乱れたのは、厳しすぎる『改革』が民の心を荒廃させたからに他なりませぬ。すべての元凶は、己が政策を盤石に銭と目論み、無茶な政を行う水野忠邦にある!」
左門は、本多長門守の名を出すことだけは頑として拒んだ。彼はすべての罪を「改革への反発」という理屈にすり替え、政争の深部だけは守り通そうと固く口を閉ざした。
「左様か・・・。」
腐っても役人、流石に口が堅いようだ。
遠山金四郎は、左門の沈黙の背後に潜む巨大な「影」を感じ取りながらも、現時点で得られた証拠と自白に基づき、断罪の鉄槌を下した。
「裁きを申し渡す。呉服商、桔梗屋角右衛門。貴様は私利を貪り民を惑わした。終生遠島を申し付ける。香具師、山本屋仙之助。ならびに刺客・岩永又右衛門、疾風の久蔵。貴様らは私欲のために多くの血を流し、余を惑わす麻薬密輸に加担した。よって、打ち首獄門を言い渡す。」
「ひっ、ひぃぃ……!」
仙之助は腰を抜かし、泥水を啜るようにして慈悲を乞うたが、捕り方たちに容赦なく引き立てられていった。そして、遠山の眼光は最後に黒沢左門へと向けられた。
「黒沢左門。公儀の役人でありながら、法を汚し、権力を笠に着て悪徳を尽くした罪、万死に値する。本来ならば獄門のところであるが、すべてを白白状した功に免じ、評定所送りの上、切腹を申し付ける」
切腹。それは武士として最低限の体面を保つことを許された、最後にして唯一の情けであった。左門は力なく「ははっ・・・、恐れ入りましてございます。」と平伏し、その場に崩れ落ちた。
「これにて一件落着」と言う言葉と共に、吟味は終了した。
白洲で凌庵は、この光景を静かに見つめていた。悪人たちが裁かれ、闇の一部は晴れた。しかし、凌庵の心は晴れやかではなかった。本多長門守という巨大な「病原」は依然として無傷であり、江戸の闇はさらに深く潜ったに過ぎないことを、医者としての直感が告げていた。
傍らに立つ新太郎が、低く呟いた。
「先生、これでひと段落だな。だが、あの黒沢の顔を見たか。何かを、恐ろしい何かを隠し通した顔だ。」
「無様な者だ・・・。だが、まだ大きな狸が巣食っている・・・。」
「そちらの方は難しいだろうな・・・。」
相手は幕府高官、どうあがいた所で町方にどうこうできる相手ではない。白洲から中へ入り、金四郎の前に出た凌庵。
「金さん、お疲れさん。」
「おぅ先生、俺はオメエさんに謝らなきゃいけねえな。仮にも刺客たちは十手捕り縄を賜っていた身だ。そんな奴が罪もねえオメエさんの命を狙ったんだ。済まなかった。」
「謝る事はねえ、・・・だが金さん、俺は城中に渦巻く獅子身中の虫を野放しにしておくつもりはねえ・・・。」
只ならぬ雰囲気を感じ取った金四郎は、声を潜めて凌庵に言った。
「上様は・・・、何と?」
「そうせい、ただそれだけよ。」
「左様か、成れば存分にやりなされ。」
とだけ言い、金四郎は役宅へと下がって行った。一件の裏でほくそ笑む悪人達の怪しい微笑を思い浮かべると、凌庵は覚悟を決めて拳を握りしめた。




