第96話 旅館の秘密
俺は雫ちゃんを客室に残し、温泉へと向かった。
大浴場に行くためには、フロント前のロビーを通る必要がある。
そこを通り抜けようとした時……ソファーに腰掛けている店長を発見した。
俺は店長に声をかけようとした……。
しかし、店長はどこか、虚ろな様子であった。
ソファーに深く座ったまま、懐かしむように館内を静かに見回している。
「あ、つばさくん」
視線を巡らせていた店長と、ふいに目が合った。
「お、お疲れ様です」
「うん、今から温泉か?」
「はい……温泉あるって聞いていたので、せっかくなら入っていこうかな……と」
店長はコクッと小さく頷いた。
「そうか……。実は俺、温泉が嫌いなんだ」
「……え?」
店長はこの旅館を継ぐ最有力候補として挙がっているので、〈温泉が嫌い〉というのはかなり意外だった。
「小さい頃から、ばあちゃんにお風呂掃除を何回かやらされていたんだ……もちろんお小遣いをもらうためだったんだけどな……」
俺は簡単に『なるほど』と小さく頷き、相槌を打つ。
「でも、温泉って広いし、知らない人もたくさん入ってるだろ? 意外と汚くなっていくもんなんだよ。時間もかかるし、汗はかくしで……」
――その話を、これから温泉に入ろうとしている人に向かって言わないでほしい。
内心そうツッコミながらも、「確かに、掃除は大変そうですね」と当たり障りのない返事をした。
「でもさ……おばあちゃんは毎日、その重労働を一人でやってたんだ。そのせいで腰を痛めて、入院したこともあった」
客室にあったパンフレットで大浴場の写真を見たが、あの広さを一人で掃除するなんて到底想像がつかない。
俺は驚き、思わず「えっ!」と声を漏らした。
「それに加えて、朝夕のご飯の準備を料理長として何十年もこなし、女将としての仕事もやってのけた……。じいちゃんが残してくれたこの旅館を守るためにね」
「じ、じいちゃん……?」
ここで突然出てきた〈じいちゃん〉という存在。
「そう、じいちゃんはね……。元大工さんで、ばあちゃんと〈ある夢〉を叶えるために、この旅館を建てたんだ」
「あ、ある夢……?」
その話の続きを聞いた時。
俺は、この家族の深い絆を、さらに知ることになるのだった。
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