第2話 中にいたもの
【記録 C71E20】
施設周辺において、複数個体による構造物への攻撃を確認した。規定された条件に基づき、防衛機構が作動した。
---
三日目の朝、母親に牛乳を買ってきてくれと頼まれた。
大学はまだ休講だった。急ぐ理由もないので、昼近くになってから財布を持って家を出た。
空から巨大な黒い物体が降りてきたというのに、近所を歩く分には、その影響らしいものが見当たらない。コンビニの雑誌棚に並んだ新聞の見出しくらいが、唯一それらしい痕跡だった。
店内にはいつもの音楽が流れていて、作業着姿の男が弁当を選んでいる。
牛乳を一本取ってレジへ向かう途中、スマホが震えた。友人だった。
《今日暇?》
《暇》
《見に行こうぜ》
何を、とは聞かなかった。
《嫌だ》
《まだ何も言ってない》
《宇宙船だろ》
《正解》
思わず笑ってしまった。
巨大構造物が降りた場所はここからかなり離れている。周辺では今も自衛隊と警察が立ち入りを規制しているはずで、わざわざ時間をかけて見に行ったところで、遠くから黒い塊を眺めて帰ってくるだけだろう。
《規制解除されたら行けばいいじゃん》
《いつになるか分からんだろ》
《じゃあニュースで見ろ》
《本物と映像は違う》
友人はしばらく食い下がっていたが、俺が付き合わないと分かると一人で行くと言い出した。
十分もしないうちに、スマホがまた震えた。
《調べたら遠かったからやめる》
やっぱり馬鹿だと思った。
---
家へ戻ると、母親は洗濯物を畳みながらテレビを見ていた。
三日前からどの局も巨大構造物の話ばかりだ。同じ映像を何度も見せられているせいか、母親の目は画面より洗濯物の方に向いている。
「牛乳」
「冷蔵庫入れといて」
言われた通りにしてから、昼飯を探しに台所を覗く。
背中で、アナウンサーの声が少し慌ただしくなるのが聞こえた。
振り返る。
画面いっぱいに巨大構造物が映っていた。
三日前に見たときは、継ぎ目さえよく分からない黒い塊だった。その側面に、今は大きな穴が開いている。
「これ、前から開いてた?」
「さっき開いたみたいよ」
母親はシャツを畳みながら答えた。
現場からかなり離れた場所で撮っているらしく、望遠で拡大された映像は細かく揺れていた。開口部の奥は暗く、何があるのかまでは見えない。
冷蔵庫から昨日の残りの焼きそばを出して温め、テレビが見える場所で食べることにした。
何か出てくるのではないかと思ったのだ。
半分ほど食べても何も起こらない。専門家が構造物の材質について話し始めた頃には、俺の興味も薄れてきた。
「結局何なんだろうね、あれ」
俺が箸を止めて言った。
「そのうち分かるんじゃない?」
母親は洗濯物を畳む手を止めなかった。
「中に誰かいるのかね」
「いたらもう出てきてるんじゃない?」
「恥ずかしがり屋なのかも」
「何しに来たんだよ」
そんな話をしながら昼飯を食べ終え、皿を台所へ持っていく。
水道を流して焼きそばのソースを洗い落としていると、居間から母親の声が飛んできた。
「ちょっと来て。何か出たよ」
手をすすいでテレビの前へ戻る。
さっきまでの開口部ではなく、構造物から少し離れた草地をカメラが追っていた。
何かが歩いている。
遠目には大きな牛のようにも見えたが、画面の中央へ収まるにつれて、身体の後ろから長い尾が伸びているのが分かった。
「何あれ」
母親がテレビへ近づいた。
俺も答えられないまま見ていると、その生き物がゆっくり横を向いた。
顔から伸びた角と、頭の後ろに広がる大きな襟のような形。それを見た瞬間、子供の頃に持っていた図鑑が頭に浮かんだ。
「……トリケラトプス?」
俺は思わず呟いた。
「やっぱり?」
母親が身を乗り出す。
「いや、知らんけど」
「どう見てもそうじゃない?」
俺もそう思った。
だからこそ、すぐには信じられなかった。
テレビでも何と呼べばいいのか決めかねているらしい。しばらく映像だけが流れたあと、スタジオの専門家が、種を断定することはできないと前置きしてから角竜類の特徴に似ていると説明した。
「トリケラトプスじゃん」
俺が言うと、母親が笑った。
「さっき知らんって言ってたでしょ」
「だって専門家も似てるって」
「似てるだけ?」
「だから知らんって」
スマホが震えた。
友人から《恐竜じゃん》と届いていた。《恐竜だな》と返す。
---
それからは、昼飯を食べる前までの退屈さが嘘のようだった。
最初に見つかった角のある生き物を追っていたカメラとは別の場所からも映像が入り始めた。夕方になるまでには、二本脚で走るものや首の長い巨大なものまで画面に現れるようになった。
ネットを開く。
映像から種類を特定しようとする人間が大勢いて、その下では、なぜ絶滅した生き物が巨大構造物から出てきたのかについて好き勝手な説が飛び交っていた。
俺もいくつか読んだが、どれも途中から話が大きくなりすぎて読む気をなくした。
遺伝子から作ったという説ならまだ分かる。
恐竜を絶滅前に回収して保存していたという話になると、誰が何のために、というところからもう分からない。
友人が言っていた「宇宙人が持ってきた」が、ネットではむしろ単純な説に見えてきた。
夕方、政府の会見が始まった。母親は夕飯を作りながら、音だけを聞いている。
『現在、巨大構造物周辺において確認されている複数の生物について、専門家による調査を進めています。現時点では、恐竜類の特徴を有する生物であることが確認されています』
「それ、恐竜ってことじゃないの?」
台所から母親が言った。
「たぶん」
「じゃあ恐竜って言えばいいのに」
「本物かまだ分かんないんじゃない?」
「本物じゃない恐竜って何よ」
「俺に聞くなよ」
会見では記者たちも似たようなことを聞いていた。
絶滅した恐竜そのものなのかと問われても、どこから来たのかと聞かれても、返ってくるのは調査中という答えばかりだった。
昼からテレビを見続けても、あれが本当に六千何百万年前に絶滅した恐竜なのかは分からなかった。
それでも、生き物だということだけは分かった。
そこまで分かると、三日前よりは考えやすかった。
何なのかも分からない巨大構造物が空に浮かんでいたときには、何が起こるのか想像することさえできなかった。けれど、中から出てきたのが動物なら、少なくとも近づかなければいい。
熊が出た山へわざわざ入る必要がないのと同じだ。
---
そう考えていたので、夕飯のあとに友人から動画が届いたとき、タイトルだけで嫌な予感がした。
《恐竜に触ってみた》
規制区域へ入り込んだ配信者が撮影した動画らしく、再生数はすでにかなり伸びていた。
《こいつ馬鹿だろ》
友人から続けてメッセージが届く。《これは馬鹿》と返してから、再生した。
画面の中で、若い男が声を潜めながら林を歩いていた。
『今、例の巨大構造物の近くまで来てます』
男の後ろには木々の隙間から黒い構造物が見えている。本当に規制区域へ入っているらしい。
『昼間、こっちに恐竜がいたんですよ。草食のやつだったら、ちょっと触れるかもしれない』
「やめとけよ」
誰もいないのに声が出た。
もちろん、録画された男には聞こえない。
しばらく林を進んだところで、男が急にしゃがんだ。
『いた』
カメラが木々の向こうへ向けられる。
そこにいたのは、昼間に見た角のある巨大な恐竜とは違っていた。人間より少し大きい程度で、二本の後ろ脚で立ち、細い身体から長い尾を伸ばしている。
『あれ、何だろ。草食かな』
男は笑いながら、少しずつ近づいていった。
相手が逃げないのを見て安心したのか、途中から足取りまで大胆になった。
『結構いけるんじゃね?』
恐竜との距離が縮まっていく。それにつれて、見ている俺の方が落ち着かなくなった。
それまで動かなかった恐竜が、男ではなく右手の藪へ顔を向けた。
次の瞬間、そこから飛び出してきた何かに男が反応するより早く、映像が大きく傾いた。叫び声と一緒に、カメラが地面へ落ちる。
草の隙間から空が見えた。
画面の外で男が叫んでいる。
何が起きているのかは見えなかった。
やがて声が途切れ、少しして動画も終わった。
再生画面に戻ってからも、俺はしばらくスマホを持ったまま座っていた。
もう一度見る気にはならなかった。
十分ほどして、スマホが震えた。
《死んだらしい》
ニュースを開く。
規制区域へ侵入した男性が死亡し、現場の状況から周辺に生息していた恐竜に襲われた可能性が高い、とあった。
気分は悪かった。
さっきまで普通に喋っていた人間の声が、途中から悲鳴に変わるところを見てしまったのだから当然だと思う。
ただ、怖いからといって、恐竜が突然こちらを殺しに来るわけではない。
あの男は自分から立入禁止区域へ入り、誰も生態を知らない動物へ近づいていた。熊や猪が相手でも同じことをすれば危険なのだから、恐竜に襲われたからといって、今すぐ自分の生活まで危なくなったと考える必要はないはずだった。
俺はそう納得して、動画を閉じた。
---
夜になって喉が渇き、冷蔵庫から水を出そうと居間へ行くと、母親がテレビの前に座っていた。
「まだ見てるの?」
「これ」
促されて画面を見る。
巨大構造物の周辺を夜間撮影した映像が流れていた。
昼間には草地を歩く一頭をカメラが追っていたのに、今は数える気にもならないほどの影が広い範囲を動いている。
『最初に生物が確認された地域では、構造物から離れて移動する個体が相次いで確認されており、現時点でその数は二百頭を超えるとみられています。これを受け、自治体は避難対象地域をさらに拡大しました』
「二百頭だって」
母親に言われ、俺は冷蔵庫を開けたままテレビを見ていた。
「昼は一頭じゃなかった?」
「ずっと出てきてるみたいよ」
水を取り出してから画面へ目を戻す。地図に表示された避難区域は、昨日より大きくなっていた。俺たちの住んでいる町とはまだ離れているが、昼間まで規制区域の外だった場所にも色がついている。
「ここは?」
「入ってないよ」
「じゃあ大丈夫か」
「今のところね」
母親はそう言ってテレビを見続けた。
俺は水を飲みながら、もう一度地図を確認した。
確かに遠い。
明日も大学は休講になっているし、わざわざあちらへ行く理由もない。配信者のように自分から規制区域へ入らなければ、少なくとも今夜の俺にできることは何もなかった。
部屋へ戻ると、スマホが震えた。
《今日見に行かなくてよかったな》
昼間のやり取りを思い出して少し笑い、《だから言っただろ》と返した。
充電器につないだスマホを机に置き、ベッドへ入る。
目を閉じると、動画の最後に聞いた叫び声が浮かんできた。
それでも、あの場所と自分の部屋の間には、まだ十分な距離がある。
今夜は、それで眠ることができた。




