第3話 一か月
【記録 4D82AC】
来訪個体は、保護対象との共同生活に関する情報を要求した。要求された情報を提供後、同個体は施設外へ退出した。
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最初の巨大構造物が降りてから一か月ほど経つと、朝の支度に一つだけ新しい習慣が増えていた。
家を出る前に、大学からの連絡と電車の運行情報、それから周辺の規制情報を確認する。
その日の画面には、通学に関係しそうな通知は出ていなかった。
「今日は普通に行けるの?」
朝食を片づけていた母親に聞かれ、スマホをポケットへしまう。
「今のところは」
「その言い方、最近多いね」
「朝は何も出てないから大丈夫だろ」
「帰りは?」
「帰りに出たら、そのとき考える」
以前なら、そんな会話をしてから大学へ行くことなどなかった。
それでも最近は、この程度なら予定通りの一日に入る。
駅へ向かう道には、通勤する人も学生もいる。コンビニには配送トラックが停まっていた。
川沿いの遊歩道だけは立入禁止のテープが張られている。数日前、そこで何か目撃されたらしい。俺はそれを避け、駅まで歩いた。
電車も時刻表から五分ほど遅れただけで来た。
大学まで一緒になった友人が、改札を出るなりスマホを見せてきた。
「これ見た?」
画面を覗く。
高速道路の料金所。その向こうから、首の長い巨大な恐竜が植え込みへ顔を伸ばしていた。
「またでかいな」
俺が呆れて言った。
「竜脚類っぽい」
友人はもう恐竜図鑑気取りだった。
「名前は?」
「種類までは分からん」
「じゃあ結局分からないんじゃん」
「お前はもうちょっと興味持てよ」
「危ない?」
「たぶん草食」
「じゃあ俺には十分」
友人はこの一か月で妙に恐竜へ詳しくなった。
俺の方は逆で、最初こそニュースに出るたび種類を調べていたが、今では名前を覚える気がほとんどない。肉食か草食かさえ見た目だけでは当てにならないのだから、知らない生き物には近づかないという決め方の方が確実だった。
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大学へ着けば、そこから先は以前とほとんど変わらない。
講義があり、昼になれば学食へ行き、友人とどうでもいい話をする。
隣のテーブルから恐竜の名前が聞こえてきても、周囲の学生は誰も振り返らなかった。
一か月前なら違ったと思う。
誰かが新しい映像を見つければ人が集まり、テレビに恐竜らしい影が映っただけで教室中がざわついた。
今では、どこに何が出たかより、自分が帰る道にいるかどうかの方が重要だった。
その日の四限も予定通り始まった。
途中で何台ものスマホが一斉に震え、教授まで講義を止めて自分の通知を確認する。
駅へ向かう主要道路の近くで大型生物が確認され、警察が周辺を封鎖している――画面にはそう出ていた。
「帰宅時には大学からの案内を確認してください」
教授はそれだけ伝えると、再び板書へ戻った。
教室にも大きな騒ぎは起きず、隣の席から小さく「またか」と聞こえた程度だった。
俺も駅の状況だけ確認して、スマホを伏せる。
授業が終わる頃には解除されているだろうと思っていた。
ところが四限を終えて正門へ向かうと、駅へ行けなくなった学生たちがすでに集まっていた。
「まだ駄目だって」
友人が大学からの通知を見せる。
「じゃあ待つか」
俺が提案する。
「隣駅まで歩こうぜ」
「嫌な予感しかしない」
「山沿いから抜ければ近い」
「何分?」
「二十分くらい」
「くらい、って言ったな」
「三十分見とけば余裕」
地図を見る限りでは、それほど無茶な道にも見えなかった。
いつ解除されるのか分からない駅前で立っているよりはましかもしれない。そう思い、結局ついていった。
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三十分後、隣駅はまだ見えていなかった。
「二十分」
俺が念を押す。
「予想だから」
友人は悪びれもしなかった。
「三十分も過ぎたけど」
「もう近いよ」
「何で分かる?」
「地図」
「さっきからその地図に騙されてるんだけど」
住宅地はとっくに途切れ、道路の右側には山の斜面が迫っていた。
反対側には畑が広がっているものの、人の姿はなく、車もたまに通る程度しかない。
駅へ近づいているというより、街から離れているようにしか見えなかった。
「戻らない?」
俺が言いかけたところで、友人が道路脇へしゃがみ込んだ。
「これ、見ろよ」
柔らかい土に、大きな足跡が残っている。
乾きかけた跡は、山側から道路までいくつも続いていた。
「恐竜?」
「たぶん」
「危ないやつ?」
友人は足跡を見ながら少し考えた。
「ハドロサウルス系なら草食」
「なら行こう」
「名前には興味ないの?」
「襲うかどうかだけ分かればいいよ」
「草食でも近づくなよ」
「じゃあ余計に名前いらないじゃん」
写真を撮っている友人を待ちながら、俺は山の方を見た。
恐竜がいたとしても、足跡が乾いているなら今すぐ近くにいるとは限らない。
そう考えながら歩き始めた。
少し先のカーブへ差しかかったところで、林の中から激しい物音が聞こえてきた。
枝が折れる。斜面の土が崩れる。
何かが山を駆け下りてくる。
「何だ?」
友人が立ち止まった直後、カーブの向こうから黒い身体が飛び出してきた。
「熊!」
反射的に二人で後ずさった。
熊はこちらを見ていなかった。
後ろ脚の片方をうまく使えないらしく、身体を大きく揺らしながら道路を横切り、そのまま山側の斜面へ逃げ込もうとする。
ところが怪我のせいで思うように登れず、一度は崩れた土と一緒に身体を滑らせた。
それでも前脚で斜面を掻き、木々の間へ消えていく。
「戻ろう」
「うん」
熊がいると分かっている道を進む理由はなかった。
ところが引き返そうとしたところで、熊が入っていった斜面の下から、小さな生き物が姿を見せた。
細い身体を二本の後ろ脚で支え、長い尾を水平に近い角度で伸ばしている。
「恐竜か」
友人が声を落とす。
「小さいな」
「肉食っぽい」
「分かるの?」
「歯見れば何となく」
その恐竜は俺たちを気にすることもなく、熊が消えた方向へ駆け上がっていった。
今のうちに離れようとしたが、道路の反対側にある藪からも同じような個体が現れた。
友人に肩を叩かれ、指差された先を見る。少し離れた草むらにも一頭いた。
三頭。
どれもこちらを見ていない。
やがて林の奥から低い唸り声が聞こえ、木々が激しく揺れた。
熊が再び斜面から降りてくる。
その後ろには、さっき追っていった一頭がついていた。
道路まで出た熊が身体を起こして前脚を振ると、小さな恐竜は届く前に素早く身を引いた。
まともにぶつかれば熊の方が強い。
俺の目には、そう見えた。
にもかかわらず、恐竜は逃げ去らない。熊が四本脚へ戻ると、再び距離を詰める。その間に反対側から別の一頭が近づいており、熊がそちらへ気づいて振り向けば、今度は最初の個体が逆側へ回ろうとする。
「……挟んでない?」
友人に言われて、俺も三頭の動きを見るようになった。
恐竜たちは熊へ一斉に飛びかかろうとはしていない。
熊が一頭を追えば、追われた方はすぐに距離を取り、その隙に別の一頭が背後へ寄る。熊が向きを変えるたびに相手も場所を変えるため、傷めた後ろ脚を庇っている熊だけが何度も身体を回さなければならない。
いつの間にか、三頭目の姿が見えなくなっていた。
「一頭どこ行った?」
「分からん」
熊は二頭を振り切ろうとしたのか、林へ向かって走り始めた。
その進路の先で草が動く。
さっきまで見えなかった一頭が、熊の向かう場所へ先に回っていた。
急に進路を塞がれた熊は大きく方向を変え、その拍子に傷めた後ろ脚が崩れた。
「今の、先回りしたよな」
友人の声が少し低くなった。
「そう見えた」
立ち直った熊は別の方向へ逃げようとしたが、二頭が後ろから追い、三頭目が逃げ道側へ寄っていく。
恐竜たちは熊を倒そうと無理に近づかない。
熊が向かってくれば離れ、逃げようとすれば進路を狭めるため、時間が経つほど熊だけが動かされていた。
やがて道路脇まで追い込まれた熊は、身体を起こそうとして前脚を浮かせたものの、そのまま再び四つん這いになる。
一頭が距離を詰めると唸って威嚇したが、恐竜は前脚が届くより先に下がり、熊が追えないと見ると再び近づいていった。
「もう行こう」
友人は黙って頷いた。
何が起きるのかは分かっていた。
最後まで見る必要はなかった。
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来た道を戻りながら何度も振り返ったが、三頭が追ってくる様子はない。
住宅地が見えてからもしばらく歩き続け、人が出入りしているコンビニを見つけたところで、ようやく足を止めた。
二人とも飲み物を買い、店の前にあるベンチへ座った。
「……あいつら、考えてやってたよな」
しばらくして友人が言った。
「たぶん」
「先回りしてたじゃん」
「狼とかも群れで狩るだろ」
「熊を?」
「熊じゃなくても。ライオンとか、シャチとか」
「恐竜もああいうことするのかな」
「動物なんだから、する奴もいるんじゃない?」
自分で口にすると、少し納得できた。
恐竜だから特別に賢いのではなく、群れで狩りをする動物がいるというだけなら、今まで知っていた世界から大きく外れる話ではない。
「お前、本当に何でも普通にするよな」
「変なことにしたって何にもならないだろ」
「夢ねえな」
「熊が食われてるところ見て夢語るなよ」
友人が吹き出したので、俺も笑った。
さっきまで張りつめていたものが、それで少しだけ緩んだ。
結局、隣駅へ行くのは諦めて大学まで戻ることになった。
駅前の規制はすでに解除されており、少し待てばいつもの電車にも乗れた。
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家に着くと、玄関まで出てきた母親に遅かった理由を聞かれた。
「友達と隣駅まで歩こうとしてた」
俺は正直に答えた。
「どっちから?」
母親の声が少し尖った。
「山の方」
「熊出てるって言ったでしょ」
「出たよ」
母親の顔から表情が消えた。
「何が?」
「熊」
「……会ったの?」
「道路に出てきただけ」
「それを会ったって言うの」
「こっちには来なかったから」
「来なかったからじゃないでしょ」
恐竜に追われていたことまで言えば話がさらに長くなる。俺は黙っておいた。
夕飯の頃には、母親の怒りも少し収まっていた。
テレビには、住宅地の近くまで入り込んだ大型肉食恐竜が自衛隊によって駆除された映像が映っていた。道路へ横たわる巨大な身体の周囲で、隊員たちが作業している。
「今日の熊より大きい?」
「全然大きい」
「じゃあこっちの方が怖いね」
「どうだろ」
昼間に見た三頭を思い出した。
ただ、画面の中の恐竜はもう動かない。周辺の避難指示も解除される、とテロップに出ていた。
母親もそれ以上ニュースへ興味を示さず、明日はゴミの日だから朝出しておいてくれと話題を変えた。
「八時半まで?」
「そう」
「起きれたら」
「起こすから大丈夫」
俺も明日の講義を思い出し、何時の電車に乗ればいいか考えた。
今日も道路は一度塞がれたが、夕方にはまた使えるようになった。
巨大な恐竜が住宅地へ来ても駆除され、そのあとで人間は元の生活へ戻っていく。
山で見た三頭の狩りも、知らない生態ではあったが、動物として考えれば理解できないものではない。
この一か月、そんなことを何度も繰り返すうちに、最初は世界の終わりに見えた恐竜たちも、少しずつ日常の中へ収まり始めていた。
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夕飯を終えて部屋へ戻り、スマホを充電器につないだところで画面が震えた。
友人からのリンクだった。
《これ見ろ》
ニュースサイトを開く。
>《世界各地で新たな巨大構造物を確認》
一瞬、一か月前の記事を間違えて送ってきたのかと思った。
日付を確かめる。
今日だった。
掲載された写真には、夜の都市の上空へ浮かぶ巨大な黒い構造物が写っている。アメリカで数時間前に確認された、とキャプションにあった。
記事を読み進めている途中で、画面が更新された。
中国でも同様の構造物が見つかっていた。
さらに新しい速報が追加され、今度は別の国の名前が表示される。
最初に見た確認数も、もう変わっていた。
俺は居間へ向かった。
「母さん、ニュース見て」
「何?」
「また来たみたい」
母親がテレビをつける。
すでに通常番組は中断されていた。
夜の市街地からの中継。建物の向こうに、一か月前と同じ巨大構造物が浮かんでいる。やがて映像が別の場所へ切り替わると、今度は海上にあり、その次に映った海外の都市にも黒い巨体があった。
「これ、全部新しいの?」
「今日来たやつらしい」
「何個?」
「まだ分かんない」
アナウンサーも総数を言い切れないらしく、各地から情報が入るたび、画面に表示される確認数が修正されていく。
スマホが震えた。
友人からの電話だった。
『見てる?』
「見てる」
『百超えたって』
「百?」
『今ニュースに出た。たぶんまだ増える』
画面の世界地図へ、次々と印が加わっていく。
俺はそれを目で追った。
一か月前に降りてきた構造物は、世界中を合わせても十ほどだった。
そこから出てきた恐竜に道路を塞がれても、待っていれば再び通れるようになった。危険な大型種が人里へ入れば、自衛隊が対処してきた。そうして生活を続けられた経験が積み重なったからこそ、俺は恐竜のいる世界にも慣れ始めていたのだと思う。
けれど、その経験の前提になっていた数そのものが、今夜になって崩れている。
『これ、大丈夫なのかな』
友人に聞かれ、俺は返事を探した。
いつものように、今まで何とかなった理由を使えばいい。
そう思ってみても、世界中で今も増え続けている構造物に当てはめられる答えは見つからなかった。
「……分からん」
それだけ言うと、電話の向こうも静かになった。
テレビでは、その間にも確認数が更新され続けていた。




