第1話 空から来たもの
【記録 A09BF5】
来訪個体は、保護対象との接触方法について情報を要求した。要求された情報を提供後、同個体は施設外へ退出した。
---
昼休みの学生食堂は、いつも通りうるさかった。
食器のぶつかる音。椅子を引く音。あちこちから聞こえる笑い声。
少し離れた席の会話など、ほとんど聞き取れない。
俺はそんな騒がしさの中で焼肉定食を食べながら、券売機の値段を思い出していた。
五百八十円。
先月までは五百五十円だった。
何も変わっていないように見える日常も、三十円ずつくらいは勝手に変わっていくらしい。
「なあ、これ見た?」
向かいに座っていた友人が、食べかけの丼を脇へ押しやってスマホを差し出してきた。
「何?」
「いいから見ろって」
画面を覗き込む。
青空と街並み。その間に、黒いものが浮かんでいた。
手が震れているうえにかなり遠くから撮っているらしく、輪郭はぼやけている。
それでも飛行機やヘリコプターとは明らかに違う。
飛んでいるというより、ほとんど動いていないように見えた。
「隕石?」
俺が言ってみる。
「隕石が止まるかよ」
「じゃあ飛行機」
「こんな飛行機ある?」
友人が指で画面を拡大する。荒い映像がさらに荒くなっただけで、正体までは分からなかった。
「CGじゃね?」
「俺も最初そう思ったんだけどさ」
友人が言った。
友人は動画を閉じて、別の投稿を開いた。
今度も黒い物体が空に浮かんでいる。眼下に広がっているのは、さっきとはまるで違う街だった。
さらに次の映像。海岸線が見えて、その沖合で同じようなものが雲の下をゆっくり降りていく。
「映画の宣伝とかじゃないの」
「世界規模で?」
「最近そういうのあるじゃん」
「どういうのだよ」
「知らんけど」
俺は焼肉を一切れ口に入れた。少し冷めていた。
「宇宙人じゃね?」
「なんで一番可能性低そうなところに行くんだよ」
「でも宇宙船っぽくない?」
「本物の宇宙船を見たことあるの?」
「ないけど、宇宙船って見たら分かるだろ」
「分かんねえよ」
自分のスマホを取り出す。
ロックを外すと、ニュースアプリのアイコンに赤い数字がついていた。
開く。
>《世界各地で正体不明の巨大物体を確認》
見出しの下に、写真が並んでいた。
アメリカ、中国、インド、フランス。
どれも友人の動画とよく似た黒い影で、記事を指でスクロールすると、現地当局が周辺空域を閉鎖したという一文が目に入った。
「マジなんだ」
「だから言ったじゃん」
「宇宙人とは書いてないだろ」
「まだな」
「まだって何だよ」
顔を上げる。
食堂のテレビでも、同じ画面が映っていた。
いつの間にか音量が上げられていて、近くの学生たちも食事の手を止めて見上げている。
『現時点で、物体の正体や目的については分かっていません。政府は関係各国と情報を共有し――』
「やっぱ宇宙人じゃん」
「何がやっぱりなんだよ」
友人は楽しそうだった。
俺も怖くなかったわけではない。
ただ、テレビの中の巨大な物体と、目の前の焼肉定食が、どうにも結びつかなかった。
同じテレビを見ながら笑っている学生もいれば、午後の講義をサボるかどうか相談している奴もいる。
厨房から食券の番号を呼ぶ声が響き、食べ終えた学生がトレーを返却口へ運んでいく。
壁の時計を見る。三限まで、あと十分もなかった。
「俺、行くわ」
スマホを鞄にしまいながら言った。
「講義?」
「三限」
「こんな日に?」
「休講になってないし」
「人類滅亡するかもしれないぞ」
友人がわざとらしく脅かしてくる。
「滅亡したら単位いらないけど、滅亡しなかったら単位いるだろ」
友人が吹き出した。
「四限は?」
「出ない」
「なんで?」
「出席取らないから」
「人類の危機より出席かよ」
「そういうこと」
三限は出席を取るが、四限は取らない。だから三限だけ出て帰る。
それが朝から決めていた今日の予定で、正体の分からない何かが空に浮かんだからといって、変える理由には今のところならなかった。
---
講義室の扉を開ける。
普段より、空席が少し目立った。
教授が来るまでの間、学生たちは当然のように例の物体について話していた。
宇宙船だと言う奴。新型兵器だと言う奴。
巨大な観測用気球ではないかと真面目に推測している声も聞こえてきたが、誰の言葉にも確信はなかった。
後ろの席に座り、スマホを開く。
国内でも一つ発見された、という記事が表示されていた。
ここからはかなり離れている。地図の縮尺を指で広げてみても、それだけは確かだった。政府は周辺への立ち入りを規制し、自衛隊を派遣したという。
自衛隊が動いているなら、少なくとも俺が考えることではないだろう。
画面を閉じ、鞄にしまう。
何なのかは、そのうち調べた人間が教えてくれる。
教授が入ってくると、学生たちはようやくスマホから顔を上げた。
教授は教卓に資料を置き、普段より落ち着かない教室を見回して苦笑した。
「皆さんが気になっていることは分かりますが、残念ながら私の専門ではありません」
教室に笑いが起きた。
「したがって、通常通り講義を始めます」
今度はさっきより大きな笑いが起きた。
俺もスマホを鞄にしまった。
教授が黒板に文字を書き始める。チョークの音が続くうちに、さっきまで食堂のテレビを占領していた巨大物体が、急に遠い出来事になった。
ノートを取る。帰りにコンビニへ寄ろうか、それとも家まで我慢しようか。そんなことを考えているうちに、三十分ほどが過ぎた。
最初に鳴ったのが誰のスマホだったのかは分からない。
一台が鳴る。それに続いて、別の場所からも警報音が聞こえた。
ポケットが震える。俺のだった。
教授が、黒板へ向けていた手を止めた。
画面を見る。
>《正体不明の巨大物体に関する情報》
国内で確認されていた物体が地上へ到達した、と一行目にあった。
周辺地域では交通規制が拡大している。近隣住民には屋内待機――そこまで読んで、俺は一度、記事の文字から目を離した。
教室のあちこちでスマホを取り出す音がした。
「着陸したって」
近くの席から誰かが上ずった声を上げた。
「落ちたんじゃなくて?」
「動画あるぞ」
あちこちで似たような声が重なった。
教授も自分のスマホを確認してから、少し困ったように教卓へ戻した。
「大学から指示があるまでは、講義を続けます」
今度は誰も笑わなかった。
講義が再開されても、さっきまでの空気には戻らなかった。
教授の声を聞きながら机の下でスマホを覗く学生が増えていく。誰かが新しい記事を見つけるたび、囁き声が隣へ、そのまた隣へと伝わっていった。
俺も一度だけ、画面を開いた。
現地からの映像に、巨大物体が墜落した形跡はない。速度を落としながら、自ら地上へ降りたように見えた。
すでに自衛隊と警察が周辺を封鎖している。記事の最後の一文――住民にけが人は確認されていない――を、俺はもう一度読んだ。
肩の力が、少しだけ抜けた。
事故ではないらしいし、現場にはもう自衛隊もいる。近づいてはいけないのなら封鎖して、その間に専門家が調べればいい。
そんなことを考えていたところで、教室のスピーカーからチャイムが鳴った。
『学生の皆さんにお知らせします。本日の講義は、三限をもってすべて休講とします。安全を確認のうえ、速やかに帰宅してください』
放送が終わると同時に、教室がざわついた。
教授もしばらく天井のスピーカーを見上げていたが、やがて黒板の前へ向き直った。
「ということなので、今日はここまでにします。大学から追加の連絡があった場合は必ず確認してください」
予定より三十分以上早く、講義が終わった。
---
廊下へ出る。
他の教室からも学生が一斉に流れ出てきて、階段は普段の昼休み以上に混雑していた。
人波に押されながら歩いていると、スマホが震えた。友人からのメッセージだった。
>《外見ろ》
何だよ、と思いながら校舎を出る。
正面の広場に、大勢の学生が立ち止まっているのが見えた。
誰もが同じ方向を見ていた。
俺もつられて空を見上げた。
遠くに、黒いものが浮かんでいた。
昼休みにスマホの画面越しに見た映像とは違う。今、俺はこの目でそれを見ている。
国内で最初に確認された物体は、ここから見えるような距離ではないはずだ。だとすれば、これは別の一つなのだろう。
形まではよく分からなかった。
ただ、大きかった。
どれほど離れているのかも分からないものが、肉眼ではっきり見えている。そのことに気づいた途端、食堂で見た動画よりもずっと巨大に感じられた。
「な?」
いつの間にか隣に立っていた友人が、得意げに言った。
「何が、な、だよ」
「宇宙船」
「まだ決まってないだろ」
「じゃあ何だと思う?」
俺はもう一度、空を見た。
「……分からん」
俺が認めると、友人はにやりとした。
「だろ?」
「お前も分かってないじゃん」
「俺は宇宙船だと思ってるから」
「それは分かってるって言わねえよ」
周囲では何人もの学生がスマホを空へ向けていた。
友人も撮ろうか迷っているようだったが、結局スマホをポケットへ戻した。
「恐竜とか出てきたりして」
「もっとねえよ」
「なんで?」
「絶滅してるだろ」
「宇宙人が持ってきた」
「設定盛るな」
友人が笑ったので、俺も笑った。
そのまま駅へ向かう学生の流れに加わる。
大学の外へ出てみれば、駅までの道は拍子抜けするほど普段と変わらなかった。
コンビニには客が入り、信号が青になれば車が交差点を通り抜け、停留所にはいつものようにバスが入ってくる。
駅前に立つ警察官の数だけは、いつもより多かった。それでも電車は多少遅れているだけで、止まってはいなかった。
改札を通る。
ホームで電車を待ちながら、もう一度スマホを開いた。海外でも同じような物体が次々と地上へ到達しているという記事が、次から次へと画面に流れてくる。正体について確かな発表は、まだどこにもなかった。
電車がホームへ滑り込んでくる。
俺たちはいつものように乗り込み、空席がなかったのでドアの近くに立った。
発車する。窓の向こうを、見慣れた街が流れ始めた。
昼休みにあんなものを見たのに、道路では車が信号を待っている。
店には灯りがつき、駅に着けば人が乗り降りして、ドアが閉まれば何事もなかったように次の駅へ向かう。
それを眺めているうちに、さっき空に見えた巨大な黒いものまで、また少し遠くなったような気がした。
何なのかは分からない。
俺はそれを、まだ確かめてはいない。
けれど、分からないままでいるのは今日だけだろうと思っていた。
明日になれば、今日より何か分かっているはずだった。




