第13話 襲撃
朝になるのを待たずに、荷物をまとめた。
空はまだ暗い。東の端がわずかに白み始めているだけだったが、白髪混じりの男はもう外に出ていた。
「行けるか」
男が聞いた。
「寝てないけど」
若いのが欠伸をしながら答える。
「歩きながら寝るなよ」
「無理でしょ」
「お前ならやりそうだ」
「どういう意味」
「そのままの意味だ」
昨日までなら笑えた。今日は誰も笑わなかった。
火を消した跡を土で埋め、荷車を外へ出す。薬はある。工具もある。斧と釘は減った――それ以外は、交易に出たときと大きく変わらない。なのに帰り道だけが、まるで別の場所になっていた。
「普通の道を使う?」
年長の男が聞く。
白髪混じりの男は首を振った。
「昨日の光が連中なら、そっちにいる」
「じゃあまた昔の道?」
「ああ」
「荷車通れるのか」
「通す」
「答えになってない」
「置いてくか?」
「通します」
荷車の柄を握る。若いのも反対側についた。
「帰ったら何する?」
歩き出してすぐ、若いのが聞いた。
「まずみんなに話す」
年長の男が答える。
「そのあと」
「またそれか」
「大事じゃん」
「着いてからだ」
「着く前に決めた方がよくない?」
誰も答えない。俺も考えていた。
戦う、払う、逃げる――昨夜、白髪混じりの男から聞いた三つ。どれも嫌だった。
「戦ったことある?」
俺は白髪混じりの男に聞いた。
「連中と?」
「ああ」
「ある」
「勝った?」
「何を勝ちって言うかによる」
「追い返したとか」
「一度はな」
「一度?」
「次は倍来た」
若いのが黙る。
「それで?」
「払った」
「じゃあ負けたじゃん」
「そうだな」
男は気にした様子もなかった。
「恥ずかしくないの?」
「生きてたからな」
若いのは何も言わなくなった。その返事だけは、妙に強かった。
---
太陽が出る頃には、森へ入っていた。草に埋もれた古い道を進む。途中から舗装も消えた。木の根を越えるたび荷車が跳ね、そのたび薬の箱を押さえる。
「もっとゆっくり」
若いのが言う。
「急げって言ったの誰だよ」
俺が言い返す。
「壊したら意味ないだろ」
「じゃあどっち」
「急いで丁寧に」
「無茶言うな」
若いのがぼやきながら荷車を引く。少しだけ、いつもの感じに戻った。
その直後だった。
白髪混じりの男が手を上げた。全員が止まる。
「今度は何」
若いのが声を落とす。
男はしゃがみ、地面を見る。足跡だった。人間の、新しい足跡。
「何人」
年長の男が聞く。
「分からん」
「また?」
若いのが俺を見る。
「俺を見るな」
男は足跡を追って少し進んだ。
「荷物がある」
「何が」
「重いもの運んでる」
泥に深く沈んだ足跡がいくつも残っている。俺には、それ以上分からなかった。
「どっちへ?」
「東」
帰る方向だ。
「近い?」
「分からん」
「それも?」
「足跡に時計ついてないからな」
「時計って何」
男が一瞬、若いのを見る。
「……後で誰かに聞け」
「何それ」
「今はどうでもいい」
歩き出そうとしたところで、男がまた止まった。
「待て」
「今度は?」
「これ」
道の脇。草が折れている。そこに細い紐が張られていた。
「触るな」
俺たちは離れる。紐の先は木に結ばれ、その少し上に金属の筒がぶら下がっている。
「何?」
「音が鳴る」
「罠?」
「見張り用」
「恐竜?」
「人間」
男が慎重に紐を外す。
「これ、昨日はなかった?」
俺が聞く。
「俺はここを通ってない」
「じゃあ分からないじゃん」
若いのが言う。
「ああ」
でも新しい。そう言わなくても分かった。結び目がきれいだった。葉もまだ踏まれたばかりだ。
「見張ってる?」
俺が聞く。
「たぶん」
「うちの方を?」
男は答えなかった。
---
昼前に、俺たちの集落へ続く大きな道へ戻った。あと半日も歩けば着く。そう思っただけで身体が軽くなった。
「ここからなら分かる」
若いのが言う。
「何が」
「帰れる」
「今までも帰ってたろ」
「なんか違うじゃん」
分かる気はした。見慣れた地形が出てくる。曲がった標識、崩れた橋の跡、いつも水を汲む細い沢――知っているものが、一つずつ増えていく。
「もう大丈夫かな」
若いのが言った。
「何が」
「連中」
「まだ着いてないだろ」
「でもここ、うちの近くだよ」
白髪混じりの男が振り返った。
「近いから来ないって考えは捨てろ」
「分かってるけど」
「ならいい」
言い方はきついが、若いのももう反論しなかった。
少し進み、沢を越える。その先で、俺は妙なものを見つけた。
「待って」
俺が言う。
「何」
道端に布が落ちている。拾い上げる。見覚えがあった。
「これ」
年長の男が取る。麻袋の切れ端――俺たちの集落で使っているものだ。
「何でここに」
俺が呟く。
「落としたんじゃない?」
若いのが言う。
「誰が」
「集落の誰か」
「何しにここまで」
昨日、俺たち以外が外へ出る予定はなかった。少なくとも、交易に出る前には聞いていない。
「風で飛んだ?」
若いのが言う。
「こんな重い布が?」
俺が返す。
「じゃあ何」
誰も答えられなかった。
白髪混じりの男が布を見て、道の周りを調べ始める。
「ここ」
呼ばれて近づく。木の根元に、何か重いものを置いたような窪みがあった。さらにその先には、いくつもの靴跡が続いている。
「集落の人?」
俺が聞く。
「分からん」
「何人?」
「多い」
「多いって」
「十よりはいる」
胸の奥が冷えた。
「いつ」
「新しい」
「今日?」
「たぶん」
年長の男が歩き出した。
「急ぐぞ」
今度は誰も文句を言わなかった。
荷車を引いて走ることはできない。だから、できるだけ速く歩いた。車輪が石に当たり、薬箱が揺れる。若いのが息を切らす。それでも止まらない。
道を曲がる。次の坂を越えれば、遠くから集落の柵が見える。
---
「先行く」
俺は荷車から手を離した。
「待て」
年長の男が止める。
「見てくるだけ」
「一人で行くな」
白髪混じりの男が俺を見る。
「二人で行く」
「俺も」
若いのが言う。
「お前は荷車」
「何で」
「薬持って帰るんだろ」
昨日、俺が言った言葉を返された。若いのは嫌そうな顔をしたが、柄を握り直した。
「すぐ戻って」
「ああ」
「銃は置いていけ」
年長の男が言った。
白髪混じりの男は一瞬だけ眉を寄せたが、腰から銃を外した。
「見つかった時、話をしに来たとは言いにくくなる」
六発の弾が入った銃を、年長の男が受け取る。
俺と白髪混じりの男で先へ出る。走る。坂を上る。息が上がる。
頂上に着く少し前に、男が俺の腕を掴んだ。
「止まれ」
「何」
「しゃがめ」
言われるまま伏せる。
「集落見えるぞ」
「だから」
「頭出すな」
少しずつ上がる。草の間から向こうを見る。
柵があった。見慣れた集落だ。煙も上がっている。壊れていない。
「普通じゃん」
俺が言う。
「門見ろ」
男が言う。
見る。開いている。昼間なら、それ自体はおかしくない。でも門の前に人がいた。何人も。知らない顔だった。
「連中?」
俺が聞く。
「たぶん」
「もう来てる」
「ああ」
「何人」
「見えるだけで九」
「中にも?」
「いるだろうな」
「撃ち合いは?」
「聞こえない」
「じゃあ話してるだけ?」
「たぶんな」
少し安心した。本当に少しだけ。
「戻ろう」
俺が言う。
「何で」
「荷車連れてくる」
「待て」
「でも」
「今、あそこに薬持って入る気か?」
言われて気づく。荷車、薬、工具――向こうが欲しがるものばかりだ。
「隠す?」
俺が聞く。
「ああ」
「どこに」
「森」
「取られたら」
「連中に渡すよりましだ」
それも嫌だった。でも、ここまで持って帰って、そのまま目の前で取られる方がもっと嫌だった。
「分かった」
戻ろうと身体を引いた。
そのとき、集落の方から声が聞こえた。内容までは分からない。誰かが怒鳴っている。次に、もっと大きな声。
「何?」
俺が言う。
「静かに」
白髪混じりの男が制した。
柵の内側で人が動く。門の前にいた連中も振り返る。誰かが一人、外へ出てきた。うちの集落の男だ。見覚えがある。
「何してる」
俺は身を乗り出しそうになった。白髪混じりの男が服を掴む。
「待て」
集落の男が何か叫ぶ。道を塞いでいる連中の一人が近づく。殴った。
「……!」
立ち上がりかけた俺を、男が引き倒した。
「離せ」
俺が言う。
「行くな」
「殴られた」
「見れば分かる」
「じゃあ」
「お前一人で何する」
俺は何も言えなかった。向こうには銃がある。俺たちには、今ここに一丁もない。
「戻る」
男が言う。
「仲間連れてくる」
俺が言う。
「それで戦う?」
「まず状況見る」
「今殴られたじゃん」
「殴られただけだ」
「だけ?」
「死んでない」
腹が立った。
「お前の集落じゃないから言えるんだろ」
男の顔が変わった。言ってから後悔した。でも取り消せなかった。
「そうだな」
男は静かに答えた。
「だから俺が冷静でいられる」
それ以上何も言えなかった。
「戻るぞ」
今度は従った。
---
荷車のところへ戻ると、みんなこちらを見た。
「どうだった?」
若いのが真っ先に聞く。
「来てる」
俺が答える。
「何人?」
「少なくとも九」
「中は?」
「分からん」
「うちの人は?」
「いる」
「大丈夫?」
「分からん」
若いのが眉を寄せる。
「そればっか」
「本当に分からない」
自分で言って、白髪混じりの男の言葉を思い出した。分からないことは、分からない。
「荷物隠すぞ」
年長の男が言った。道から少し外れた森へ荷車を入れ、枝をかぶせる。薬だけは箱から出して、さらに奥へ持っていく。
「全部?」
若いのが聞く。
「全部」
「持って帰れなくなるよ」
「今持って入ったら取られる」
若いのが黙る。
「武器は?」
俺が聞く。
銃は二丁。俺たちが持ってきた一丁と、白髪混じりの男が置いていった一丁。それに槍が数本ある。
「弾、何発」
俺が聞く。
「合わせて十七」
年長の男が答える。
「少な」
若いのが呟く。
「撃ち合うために持ってきてない」
年長の男が言う。
恐竜を追い払うためのものだった。人間と戦うためではない。
「どうする」
誰かが聞いた。全員が白髪混じりの男を見る。
「俺を見るな」
「知ってるんだろ」
若いのが言う。
「知ってるだけだ」
「でも俺らより分かる」
男が舌打ちした。
「まず話す」
「誰と」
年長の男が聞く。
「集落の人間」
「どうやって」
「裏から入れる道あるか」
「ある」
俺が答える。
「畑の方」
「連中は?」
白髪混じりの男が聞く。
「見張ってるかもしれない」
俺が答える。
「かもしれないばっかだな」
若いのが言う。
「今日は特にそうだ」
白髪混じりの男が言う。
「で?」
「二人で行く」
「また?」
「人数増やすと目立つ」
年長の男が首を振る。
「今度は俺が行く」
「俺も」
俺が言う。
「お前はさっき行った」
「だから道分かる」
少し揉めた。結局、俺と年長の男が裏へ回ることになった。白髪混じりの男は残る。
「何かあったら?」
俺が聞く。
「逃げろ」
「どこへ」
「北」
「集落は?」
「戦うって決まってから戦え」
男が俺を見る。
「腹立ったからって始めるな」
さっきのことを言っている。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるよ」
たぶん。
---
裏の畑へ回る。ここは何度も通ったことがある。子供の頃から知っている。柵の一部が低くなっていて、畑仕事の人間はそこから出入りする。近づく。人影はない。
「行くぞ」
俺は小声で言った。
柵を越える。年長の男も続く。自分の集落なのに、忍び込むみたいだった。
畑の間を進み、家の陰へ入る。声が聞こえる。門の方だ。
「だから、無理だって言ってる!」
集落のまとめ役の男の声だった。知っている声だ。
「無理じゃない」
知らない声が返す。門の外に立つ、落ち着いた声の男のものだった。
「今まで払ってないだろ!」
まとめ役が怒鳴る。
「今まではな」
落ち着いた声の男は動じない。
「じゃあこれからもだ」
「そういう話をしに来たんだよ」
怒鳴っていない。むしろ、まとめ役の方だけが荒れていた。
「守ってくれなんて頼んでない!」
まとめ役が声を荒らげる。
「頼まれてなくても、ここから西の道は俺たちが見てる」
落ち着いた声の男が答える。
「勝手にだろ」
「そうだな」
「じゃあ帰れ」
「それはできない」
「何で」
「ここを使うから」
「何を」
「道」
一瞬、静かになる。
「……何のために」
まとめ役が押し殺した声で聞く。
「東へ行く」
落ち着いた声の男が答えた。
俺と年長の男は顔を見合わせた。東。さらに向こうへ。
「どこまで」
まとめ役が食い下がる。
「それは言えない」
「うちを通るな」
「通らない」
「じゃあ何が欲しい」
「食料。それと寝られる場所」
「何人分」
返事が少し遅れた。
「食料は二十人分。寝るのは、今ここにいる連中だけでいい」
年長の男の顔が変わる。食料だけでも二十人分。今見えている人数より多い。
「今夜から?」
まとめ役の声がかすれる。
「今夜から」
「何日」
「分からない」
「ふざけるな」
「ふざけてない」
会話だけ聞けば、交渉だった。でも断れる交渉ではない。
「帰れ」
まとめ役が突き放すように言った。
「今日は無理だ」
「なら明日」
落ち着いた声の男は、あくまで淡々としていた。
「それも分からない」
「じゃあ何日だ!」
まとめ役の声が裏返る。
「分からないって言ってるだろ」
初めて、落ち着いた声の男の口調に苛立ちがにじんだ。
その直後、別の声がした。
「面倒だな」
若い男の声。倉を見ればいいと言い出した、あの乱暴な男だった。
「最初から倉見ればいいだろ」
「黙ってろ」
落ち着いた声の男が振り返らずに制す。
「でもさ」
「黙れ」
今度は、有無を言わせぬ声だった。
白髪混じりの男から聞いた話を思い出す。全部取らない。話は通じる。だから厄介。
「俺たちは盗みに来たんじゃない」
落ち着いた声の男が、まとめ役へ向き直る。
「必要な分を出してくれれば、それで終わる」
「それを盗るって言うんだよ!」
まとめ役が唾を飛ばして言い返す。
「違う」
「何が違う!」
「返す」
俺は年長の男を見る。
「返す?」
小声で聞く。男も首を振る。
門の方では会話が続いている。
「何を返すんだ」
まとめ役がなおも詰め寄る。
「守る」
落ち着いた声の男が、当然のように言う。
「いらない!」
「今はいらなくても、いるようになる」
その言い方が嫌だった。脅しているのか、本気なのか。たぶん両方だった。
「誰から守る」
まとめ役の声が掠れる。
「恐竜」
「自分たちでやってる」
「今はな」
「人間か?」
まとめ役が皮肉っぽく言った。
「お前らみたいな?」
しばらく返事がなかった。
「そういうのもいる」
落ち着いた声の男が、あっさり認める。
「お前らだろ!」
まとめ役が声を張り上げる。
何人かが笑った。向こう側だった。
俺の拳に力が入る。年長の男が首を振る。まだだ。分かっている。
「二十人分なんて出せない」
まとめ役が絞り出すように言った。
「なら十人分」
「出せない」
「五」
「数の問題じゃない」
「じゃあ何の問題」
「一度出したら次も来る」
門の外が静かになった。俺は息を止める。向こうも分かっている。
「誰に聞いた」
落ち着いた声の男の口調が、初めて鋭くなった。
「何を」
まとめ役が身構えるように聞き返す。
「次も来るって」
「西の集落の話くらい入ってくる」
「そうか」
声が少し遠ざかる。誰かと話している。内容までは聞こえない。
---
その間に、家の陰から一人出てきた。集落の女だった。俺たちを見つける。目を大きくする。叫ばれそうになり、指を口に当てた。女はすぐに黙った。こっちへ来る。
「帰ってたの」
小声だった。
「今」
俺が答える。
「薬は?」
「ある」
女の顔が緩む。
「良かった」
「何があった」
俺が聞く。
「朝来た」
「何人」
「最初は九」
「今は?」
「分からない。外にもいる」
「何された」
「まだ話だけ」
「殴られた人いた」
俺が言う。
「あれは先に掴みかかったの」
「こっちから?」
「帰れって押したら、殴られた」
思っていたのと少し違った。だからといって、向こうが正しいとは思わない。
「怪我は?」
「口切っただけ」
「他は」
「ない」
「誰か捕まった?」
「ない」
年長の男が少し息を吐く。
「じゃあまだ」
「でも」
女が門の方を見る。
「倉を見せろって」
「見せた?」
「まだ」
「絶対見せるな」
「分かってる」
「人数は?」
俺が聞く。
「こっち?」
「ああ」
「集まってる。弓も出した」
「銃は?」
「三丁」
俺たちの二丁を合わせれば五。それでも弾は少ない。
「戦う気?」
女は答えなかった。
「みんな何て」
「割れてる」
「払う?」
「子供いる家は、食べ物くらいならって」
「他は」
「一度やったら終わらないって」
「逃げるって人は?」
「どこへ」
それだけだった。そうだった。逃げる場所がない。
俺たちはここに住んでいる。畑もある。井戸もある。倉もある。恐竜が出たときに避難する場所も決めてある。全部置いて逃げるなら、生き延びても何を食べるのか分からない。
「白髪の男連れてきた」
俺が言う。
「誰?」
「昔、向こうにいた」
女の顔が変わる。
「連れてきて大丈夫?」
「たぶん」
「たぶん?」
「銃は六発だった」
「何の話」
「いや」
説明している時間はなかった。
「呼んでくる」
年長の男が言う。
「俺残る」
俺が言う。
「勝手に動くなよ」
「分かってる」
年長の男が来た道を戻る。俺は女と残った。
門の方では、また話が始まっていた。
「今日だけだ」
落ち着いた声の男が言う。
「食料を出せ。今夜だけここで休ませろ。それで終わりだ」
「信じられるか」
まとめ役が言う。
「じゃあどうすれば信じる」
「帰れ」
「それは無理」
同じところを回っている。
日が高くなっていた。みんな疲れている。こういうときに何か起きる気がした。俺にも理由は分からない。ただ、長く話せば話すほど、誰かが我慢できなくなる。
---
「おい」
別の声。さっき「倉を見ればいい」と言った、あの若い男だった。
「もういいだろ」
「黙ってろ」
落ち着いた声の男がぴしゃりと言う。
「昼になるぞ」
若い男が苛立たしげに言う。
「だから何だ」
「中入ろうぜ」
「待て」
足音がした。門の方で人が動く。
「入るな!」
うちの誰かが叫ぶ。
「話してるだけだろ!」
若い男が言い返す。
「まだ決まってない!」
うちの誰かの声。
「いつまで話すんだよ!」
若い男の声。
声が重なる。俺は家の陰から少し顔を出した。若い男が門を越えようとしている。うちの男が押し返す。別の男も出る。その手に槍がある。
「やめろ!」
誰かが叫ぶ。どちら側か分からなかった。
若い男がうちの男を押す。槍が上がる。
次の瞬間、乾いた音がした。銃声。一発。
全員が止まった。俺も動けなかった。誰が撃った。どこへ。
門の近くにいた男が膝をつく。うちの人間だった。
「……え」
女が走り出す。
「待て!」
俺が止めようとしたが、間に合わなかった。俺も出た。門へ向かう。
「下がれ!」
向こうの男の誰かが叫ぶ。
「撃つな!」
別の声もする。誰かがまた銃を構える。うちの人間も弓を引く。
「やめろ!」
俺が叫んだ。誰も聞いていない。
倒れた男の肩から血が出ている。死んではいない。腕を押さえている。
「誰が撃った!」
集落のまとめ役が怒鳴る。
「違う、地面狙った!」
撃った側の誰かが言い返す。
「当たってるだろ!」
まとめ役が言う。
「跳ねたんだよ!」
「知るか!」
弓が放たれた。向こうの一人が身を伏せる。矢は門柱に刺さった。
「撃つな!」
落ち着いた声の男が叫ぶ。今度は自分の味方へ向けていた。
「誰も撃つな!」
その声で一瞬止まる。
俺は倒れた男のところへ走る。
「動ける?」
「ああ」
「中へ」
女と二人で支える。血は多い。肩からだった。たぶん貫通していない。でも俺には分からない。
「薬ある?」
女が聞く。
「ある」
「持ってきて」
「森」
「何で!」
「隠した!」
「早く!」
走ろうとした。
---
そのとき、門の外から声がした。
「おい!」
振り返る。知らない男が一人、森の方を指している。
「何か来る!」
全員がそちらを見る。何も見えない。
「恐竜?」
誰かが言う。
枝が揺れた。一つではない、いくつも。低い鳴き声がする。
「何だ」
「分からん」
「ラプトル?」
「多いぞ」
さっきまで向かい合っていた人間たちが、今度は同じ方向を見ている。森の奥から鳥が一斉に飛び立った。
その直後、一頭のラプトルが飛び出してきた。
「構えろ!」
誰かが叫ぶ。銃が上がる。弓も上がる。俺は息を呑んだ。
ラプトルは、こちらを見なかった。全速力で道を横切っていく。逃げている。
あの日と同じだった。交易へ向かう途中、俺たちから逃げた一頭。あれを思い出した。
「撃つな!」
今度は俺が叫んだ。
「何で!」
誰かが返す。
「こっち来てない!」
俺が言う。
ラプトルは柵沿いを走り、そのまま森へ消える。
次にもう一頭、さらに二頭。
「群れ?」
誰かが言う。
「違う」
俺には分からない。でも揃って同じ方向へ逃げている。西から東へ。人間のことなど、ほとんど気にしていない。
「何から逃げてる」
誰かが言った。
そこへ、白髪混じりの男の声が後ろからした。
「下がれ!」
戻ってきていた。
「門閉めろ!」
「でも外に――」
誰かが言う。
「全員入れ!」
白髪混じりの男が言う。
集落のまとめ役が男を見る。
「こいつらも?」
「今そんな話してる場合か!」
白髪混じりの男が怒鳴った。
森の奥で、何かが鳴いた。低い声だった。今まで聞いたことのない声ではない。でも、一頭ではなかった。
「早く!」
誰かが叫ぶ。
門の外にいた連中も動いた。さっきまで追い返そうとしていた相手を、俺たちは中へ入れる。一人、二人、三人――銃を持った男たちが、次々と門をくぐる。誰も取り分の話をしなかった。
最後の一人が入ったところで門を閉める。閂を落とす。
「何が来る」
俺が白髪混じりの男に聞く。
「知らん」
「またかよ」
「見てないんだから知らん!」
珍しく男が怒鳴った。
---
柵の外、木々の間を、何かが走っている。一つではない。ラプトルが逃げる方向とは逆から、集落へ向かって。
「みんな離れろ!」
誰かが叫ぶ。
柵が揺れた。外から何かがぶつかった。一度、二度、三度。木が軋む。
「来るぞ!」
誰かが言う。
槍を握る。さっきまで、人間同士で戦うかどうかを考えていた。今は柵の向こうにいるものしか見ていなかった。
次の衝撃で、柵の一部が大きく内側へ傾いた。隙間から、恐竜の頭が見えた。ラプトルではない。もっと大きい。
「押さえろ!」
誰かが叫ぶ。
人が集まる。うちの男も、西の連中も。誰がどちらかなど、もう分からない。崩れかけた柵を、十人以上で押し返す。
外側から恐竜が暴れる。怖がっている。怒っているのではない。逃げたいのだ。
「なんでこっち来る!」
誰かが叫ぶ。
「知らん!」
「撃つ?」
「撃ったら暴れる!」
白髪混じりの男が言う。
「もう暴れてるだろ!」
誰かが言い返す。
白髪混じりの男が柵の隙間を覗く。
「待て」
「何」
俺が聞く。
「こいつ一頭じゃない」
俺も見る。森の向こう、何頭もの恐竜が走っている。種類も違う、小さいものも大きいものも――どれも同じ、東の方向へ。
あの日と同じだった。死んでいる土地から離れていた恐竜たちとも同じだった。ただ、今は数が違う。
「何だよこれ」
若いのが、いつの間にか隣にいた。
「荷車は?」
俺が聞く。
「隠したまま」
「何で来た」
「みんな来たから」
「戻れ」
「今戻れる?」
無理だった。柵がまた揺れる。若いのも押さえる。
「これ、連中のせい?」
「違うだろ」
「じゃあ何」
「知らん!」
今度は俺が怒鳴った。
---
その瞬間、何かが森から飛び出した。
ラプトルだった。一頭、二頭、三頭。さっきのものとは違う。こちらへ走ってくる。
「撃て!」
西の男の一人が銃を上げる。
「待て!」
白髪混じりの男が叫ぶ。
「なんで!」
「上!」
何を言っているのか分からなかった。
ラプトルの一頭が、柵の手前で横へ跳ぶ。その背中に何かいる。人。一瞬、そう見えた。
「……は?」
それ以上、若いのは言葉を続けられなかった。
女だった。ラプトルの背に乗っている。長い髪が揺れる。鞍のようなものが見える。手綱はない。
女が何か叫んだ。聞き取れない。
ラプトルたちが散る。柵へ突っ込もうとしていた大型の恐竜の横へ回り込む。一頭、もう一頭。噛みつかない。追い立てる。
大型の恐竜の向きが変わる。柵から離れる。
「何してる」
誰かが呟いた。俺にも分からなかった。
女が乗ったラプトルが一度こちらを見た。ほんの一瞬。次にはもう森へ向かっていた。他のラプトルもついていく。大型の恐竜も、その方向へ逃げていく。
柵にかかっていた力が消えた。
俺たちは全員、その場に残された。西の連中も、うちの人間も。銃を持ったまま、槍を持ったまま。誰もすぐには喋らなかった。
「今の」
若いのが言う。
「見た?」
「見た」
俺が答える。
「人、乗ってたよね」
「ああ」
「ラプトルに?」
「ああ」
「なんで?」
「知らん」
若いのが俺を見る。
「それは本当に知らん」
ようやく言うと、若いのは笑わなかった。
森の向こうで、また恐竜の鳴き声がする。でもさっきより遠い。
俺は壊れかけた柵を見る。その向こう。
女とラプトルの姿は、もうどこにもなかった。




