第12話 境界
「あいつ、本当に人を守ってたんだよ」
白髪混じりの男は、それきりしばらく黙った。
道は東へ続いている。俺たちが帰る方向だ。
男が急ぐと言った理由も、まだ全部は分からない。ただ、昨日から西の連中がいつもより動いている。それだけは俺たちにも分かっていた。
「その人、今も西にいるんだよね」
若いのが聞く。
「ああ」
「じゃあ何で東のこと気にしてるの?」
「西にいるから、東を見ないとは限らないだろ」
「ここら辺まで?」
男は答えなかった。代わりに歩く速度を上げる。
「ちょっと」
若いのが荷車を引きながら声を上げた。
「こっちは荷物あるんだけど」
「急げるだけでいい」
「何があるかも分かってないのに?」
「だから急ぐんだよ」
「意味分かんない」
「俺も全部は分かってない」
「またそれ?」
「嫌ならここで別れていいぞ」
若いのが口を閉じた。別れる気はないらしい。俺も同じだった。
この男が信用できると決まったわけではない。それでも、道を塞いだ連中よりはましに見える。少なくとも、銃を六発並べた。それだけで人を信用していいのかとも思うが、昨日までの俺なら考えもしなかった基準だった。
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夕方が近づいた頃、男が急に道を外れた。
「こっち」
「道ある?」
若いのが聞く。
「ある」
「見えないけど」
「昔はあった」
それは今あると言えるのだろうか。草の間に、崩れた舗装が少しだけ残っている。荷車の車輪を何度も取られながら進む。
「普通の道じゃ駄目なの?」
俺が聞く。
「駄目じゃない」
「じゃあ何でこっち」
「見られたくない」
みんなの足が少し遅くなった。
「誰に?」
「連中」
「さっき会ったじゃん」
「さっきのは道で集めてる奴らだ」
「他にもいる?」
「いる」
「どこに」
「その辺」
若いのが周囲を見る。
「見えないよ」
「見えるようにいたら見張りにならないだろ」
嫌なことを言う。
「いつから?」
年長の男が聞いた。
「見張るようになったの」
「かなり前から」
「この辺も向こうの場所なのか?」
「場所って何だ」
「支配してる場所」
白髪混じりの男は少し考えた。
「そこが面倒なんだよ」
歩きながら、地面の草を棒で払う。
「柵があるわけじゃない」
「じゃあどこから?」
「決まってない」
「決まってない?」
「ここから向こうは俺たちの土地です、なんて線はない」
「でも取り分は取るんだろ」
「ああ」
「だったら向こうの場所じゃん」
「そう思うか?」
「違うの?」
男は肩をすくめた。
「こっちの集落に聞けば、違うって言う」
俺たちのことだった。
「向こうに聞けば?」
「守ってる範囲だって言う」
「じゃあ両方?」
「そうなるな」
「変じゃん」
若いのが言う。
「変でも困るのはこっちだ」
その通りだった。向こうが「ここまで」と言えば、こちらが認めなくても人は来る。取り分を要求する。拒めば人数を増やす。地面に線がなくても、それで十分だった。
「俺たちの集落まで来ると思う?」
俺は聞いた。
男はすぐには答えなかった。
「今までは来てない」
「これからは?」
「知らん」
その言葉が、今までで一番嫌だった。
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少し進んだところで、男が立ち止まった。
「静かに」
「何?」
「声出すな」
全員が止まる。男は道の脇へしゃがんだ。俺たちも少し遅れて伏せる。
前方に、古い建物があった。屋根は半分落ち、壁も崩れている。人が住めるようには見えない。
「何がいる?」
若いのが囁く。
男が指を立てた。黙れ、という意味だった。
しばらく待つ。何も起きない。鳥が鳴き、遠くで何か大きなものが枝を踏む音がする。恐竜かもしれない。それでも男は動かなかった。
俺には何も見えなかった。
十分ほど経って、ようやく男が立つ。
「行くぞ」
「何だったの?」
「いなかった」
「誰が?」
「見張り」
「いなかったなら良かったじゃん」
男が振り返る。
「良くない」
「なんで」
「いつも一人いる」
みんな黙った。
「今日は?」
「いない」
「たまたまじゃない?」
「かもな」
「じゃあ」
「でも昨日から人が動いてる」
男は崩れた建物を見る。
「いつもいる奴まで動いたってことだ」
急いでいる理由が、少しだけ見えた。
「どこへ?」
俺が聞く。
「それを確かめる」
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建物の裏を通り、さらに東へ進む。日が落ち始めていた。このままでは今日中に帰れない。
「野宿になるぞ」
年長の男が言った。
「そのつもりで急いでる」
「意味が逆だろ」
「今、道の真ん中で寝るよりいい場所がある」
「どこ」
「昔の整備場」
「使える?」
「屋根はある」
「水は?」
「井戸もある」
「恐竜は?」
「入ってたら追い出す」
「簡単に言うなよ」
若いのがぼやく。
そこへ着いた頃には、もう暗くなり始めていた。建物は思っていたより大きかった。昔は何台も車を入れていたのだろう。大きな扉は片方が外れている。
中を確認する。糞が落ちていた。古い。小型の恐竜が入り込んだことはあるらしいが、今はいない。
「ここなら火焚ける」
白髪混じりの男が言った。
「煙見られない?」
「小さくしろ」
「見張られてるんじゃなかったの」
「だから小さく」
「それで見えない?」
「暗くなればな」
若いのが俺を見る。
「この人、説明雑じゃない?」
「本人に言え」
「聞こえてるぞ」
「じゃあ丁寧に説明して」
「嫌だ」
少し笑った。今日初めてかもしれない。
荷物を建物の奥へ寄せる。年長の男が薬を確認する。それを見て、白髪混じりの男が聞いた。
「大事なんだな」
「当たり前だ」
「誰か病人か?」
「今はいない」
「じゃあ何でそんなに」
「いなくても使うだろ」
男は少し黙った。
「そうだな」
「お前らは?」
「何が」
「薬」
「ある」
「どのくらい」
白髪混じりの男が笑った。
「聞くか、普通」
「お前が聞いたんだろ」
「そうだった」
火を起こす。干し肉を少し炙る。昼間、水と交換した食べ物も残っていた。
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「百人いるって言ってたよな」
俺が聞いた。
「今はもっといるかもしれない」
「何で増える」
「来るから」
「どこから」
「潰れた集落」
「恐竜に?」
「恐竜。病気。食い物。人間」
「それを全部入れるの?」
「昔はな」
「今は?」
「入れる」
「じゃあ同じじゃん」
「違う」
「何が」
男は火を見た。
「入ったら、向こうの人間になる」
「どういう意味?」
「働く。守る。取り分を集める。決まりに従う」
「嫌なら?」
「出ればいい」
「簡単?」
「簡単じゃない」
「なんで」
「外に何もない奴が多いからだよ」
俺たちは黙った。
集落を失った人間が、百人いる場所へ辿り着く。食べ物があり、柵があり、銃を持つ人間がいて、恐竜も追い払ってくれる。入るなと言う方が難しい。
「それで増えた?」
「ああ」
「増えたから足りなくなった?」
「ああ」
「足りないから外から取る?」
「ああ」
若いのが顔をしかめる。
「ぐるぐるしてない?」
「してるな」
「止めればいいじゃん」
「何を」
「人入れるの」
「見捨てるってことか?」
「……そうなるの?」
「なる」
若いのは黙った。火の中で枝が折れた。
「昔からそうだったの?」
俺が聞く。
「何が」
「来た人を入れるの」
「昔からだ」
「リーダーが決めた?」
「最初は違う」
「じゃあ誰」
「みんな」
「またそれか」
「本当だよ」
男は少し笑った。
「最初の頃は、助かった人間が一人増えるだけで嬉しかった」
「何で」
「人が減ってたから」
その言葉だけ、妙に軽くなかった。
「D-DAYのすぐ後?」
「ああ」
「どんなだった」
若いのが聞く。
「何が」
「その人」
「誰」
「リーダー」
男の顔が変わった。
「また聞くのか」
「だって気になるじゃん」
「知らない方がいいって言っただろ」
「もう名前知っちゃったし」
「忘れろ」
「無理」
「努力しろ」
「顔は?」
「知らなくていい」
「背高い?」
「普通」
「怖かった?」
若いのが食い下がる。
「昔は?」
「うん」
男は火に木を足した。
「怖くなかった」
「今は?」
「怖い」
「何でそんな変わったの?」
男は答えなかった。
「ねえ」
若いのがなおも聞く。
「うるさい」
「聞くだけじゃん」
「寝ろ」
「まだ早いよ」
「じゃあ黙って食え」
若いのが干し肉を噛む。それでも目は男から離れていなかった。
「市長の息子って言ってたよね」
今度は俺が聞いた。
男が俺を見る。
「お前もか」
「何でそんな奴が最初から人集められたんだ」
「父親がいたからだ」
「市長?」
「ああ」
「町で一番偉かった?」
「さっきそう言った」
「どんな人」
白髪混じりの男は、少し考えた。
「逃げなかった人だよ」
若いのが干し肉を噛むのを止める。
「恐竜から?」
「ああ」
「死んだ?」
男は火を見る。
「ああ」
「その息子を守って?」
誰も続きを言わなかった。
男は顔を上げた。
「誰から聞いた」
「親父から聞いたって、さっき」
「そこまで言ってたか」
「違うの?」
男はしばらく黙った。
「違わない」
それ以上は話さなかった。
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夜になった。見張りは二人ずつ。最初は俺と白髪混じりの男だった。
他の連中が横になったあと、二人で壊れた扉の近くに座る。
「本当に来ると思う?」
俺は聞いた。
「誰が」
「西の連中」
「ここに?」
「うちの集落に」
「分からん」
「そればっかだな」
「分からないことは分からない」
「でも、何か知ってるんだろ」
「何を」
「いつもと違うって」
男は暗い外を見る。
「昔、何度かあった」
「何が」
「人が一斉に動くこと」
「取り分を集めるため?」
「違う」
「じゃあ」
「境界を広げる時」
その言葉で眠気が消えた。
「どうやって」
「まず道を見る」
「昨日の三人?」
「たぶん」
「次は?」
「集落を見る」
「二人が東へ行ったのは?」
「たぶんそれだ」
「その次」
「人数を集める」
今日、道に八人いた。
「それで?」
男は答えなかった。
「それで何」
「話しに行く」
「誰が」
「向こうの人間が」
「何を」
「これからはこっちで守るって」
「頼んでないのに?」
「頼んでなくても」
「断ったら?」
「断れる」
「本当に?」
「一回はな」
嫌な答えだった。
「二回目は?」
「人数が増える」
昼に立ち寄った集落の話を思い出した。最初は五人だった。断ると、次は十二人になったという。
「三回目は?」
男が俺を見る。
「大体、その前に払う」
しばらく何も言えなかった。
「うちまでどのくらい」
「ここから?」
「西の連中が、今まで来てた場所から」
「二日」
「近いじゃん」
「だから急いでる」
やっと全部がつながった。昨夜の三人、昨日東へ急いだ二人、今日道にいた八人、そして見張りが消えていた場所。
「うちを見に行った?」
「かもしれない」
「もう?」
「だから分からん」
「帰ったらどうする」
「知らせる」
「その後」
「お前らが決めろ」
「お前は?」
男は少し笑った。
「俺はもう向こうの人間じゃない」
「でも知ってる」
「知ってるだけだ」
「だったら手伝ってよ」
自分でも驚いた。頼むつもりはなかった。
男も少し驚いた顔をした。
「何を」
「分からん」
「おい」
「来たらどうすればいいか」
「戦うか、払うか、逃げるか」
「それだけ?」
「だいたいな」
「他にないの」
若いのが食い下がる。
「話す」
「通じる?」
「相手による」
「リーダーなら?」
男は黙った。
「話は通じる?」
「通じる」
「じゃあ」
「通じるから厄介なんだよ」
「またそれか」
「あいつは馬鹿じゃない」
声が少し低くなる。
「こっちが十しか出せないなら、十全部は取らない。六で済ませる」
「それなら」
「次の月も六だ」
俺は黙った。
「その次も?」
「ああ」
「ずっと?」
「払えるうちは」
「払えなくなったら?」
「別のものになる」
「人?」
「土地かもしれない」
「土地?」
「畑。井戸。道」
「持っていけないじゃん」
「だから自分たちのものにする」
やっと「境界」という言葉の意味が分かった気がした。線ではない。柵でもない。向こうが何を取るか、どこまで口を出すか――それが少しずつ近づいてくる、というだけの話だった。
「今、境界どこなの」
俺は聞いた。
男は暗闇の向こうを指した。
「分からん」
「じゃあ何で境界って」
「昨日までは、たぶん西だった」
「今日は?」
「ここかもしれない」
俺は外を見る。何もない。草と、壊れた道と、森があるだけだ。
なのに、少し前までとは同じ景色に見えなかった。
---
夜明け前。交代の時間が近づいた頃、遠くで音がした。
俺と男は同時に立ち上がる。
「何?」
中で誰かが起きた。
「静かに」
男が外へ出る。俺も続く。
暗い道の向こう。小さな光が動いている。一つ、二つ、三つ。
火だ。松明かもしれない。遠い。こちらへ来ているのか、横切っているのかまでは分からない。
「何人」
「見えない」
男が目を細める。
「消せ」
「何を」
「火」
俺は中へ走る。
「火消して」
「何で」
「早く」
土をかける。建物の中が暗くなる。
若いのも起きてきた。
「何?」
若いのが寝ぼけ声で聞く。
「人」
俺は短く答える。
「どこ」
「外」
「何人」
「分からん」
「また?」
「うるさい」
全員、声を落とす。
外の光は少しずつ動いている。やがて一つが消えた。次に二つ目。三つ目も見えなくなる。
「行った?」
若いのが囁く。
「分からん」
白髪混じりの男は、しばらく動かなかった。やがてこちらを振り返る。
「明るくなったらすぐ出る」
「帰る?」
「ああ」
「一緒に?」
男は少し迷った。
「集落まで行く」
「知り合いは?」
「後だ」
「いいの?」
「今はそっちじゃない」
年長の男が起き上がる。
「何があった」
白髪混じりの男が答える。
「たぶん、お前らのところまで来てる」
「誰が」
「連中だ」
眠気が一気に消えた。
「まだ分からないだろ」
俺が言った。
「ああ」
「なら」
「分からないから急ぐんだよ」
昨日、同じことを聞いた。今度は意味が分かった。
朝になれば帰る。薬を持ち、工具を持ち、斧と釘を少し失っただけの交易だったはずなのに。
帰る場所そのものが、昨日までと同じとは限らなくなっていた。




