第14話 東へ
夜が明ける前に、一度目が覚めた。
外で人の声がしていた。怒鳴り声ではない。何人かが低い声で話しながら、壊れた柵を直している。
起き上がると、身体のあちこちが痛んだ。昨日、柵を押したせいだろう。腕にも背中にも力が入らない。
それでも、眠っていられる気分ではなかった。
昨夜、恐竜が森へ消えたあとで、隠していた荷車を回収した。薬だけは先に抱えて戻った。
家を出る。
集落の中央にある小屋には、まだ灯りがついていた。
肩を撃たれた男が寝かされている。交易で持ち帰った薬は、昨夜のうちに使った。傷を洗い、血を止め、教えられた通りの量を飲ませた。
弾は肩の中に残っている。それをどうするかは、誰にも分からなかった。
小屋を覗くと、手当てをしていた女がこちらを見た。
「起きたの」
「あの人は?」
「寝てる」
「熱は?」
「少し」
女は濡らした布を絞り、男の額へ戻した。
「薬、効いてる?」
「分からない」
その返事を聞いて、俺は苦笑した。
「何?」
女が眉をひそめる。
「いや。最近そればっかり聞くなと思って」
「分からないものは分からないでしょ」
「そうなんだけどさ」
交易に出る前なら、薬を持ち帰ればそれで終わりだと思っていた。必要なものを手に入れて、集落へ帰る。それが今回の仕事だった。
薬は持ち帰った。工具もある。誰も途中で死ななかった。なら、うまくいったはずだった。
「水、替えてくる」
女が立ち上がった。俺は入口を空ける。すれ違うとき、女が足を止めた。
「間に合って良かった」
「え?」
「薬」
女はそれだけ言って外へ出た。
寝ている男を見る。肩には新しい布が巻かれている。薬がなければどうなっていたのかは分からない。あっても、どうなるかは分からない。それでも、持って帰ってきた意味はあったらしい。
俺は小屋を出た。
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門の近くでは、壊れた柵の修理が続いていた。昨日、大型の恐竜がぶつかった場所だ。柱を一本入れ替えなければならないらしく、集落の男たちが倉から木材を運び出している。
西から来た連中は手伝っていなかった。門の外で火を焚き、出発の支度をしている。
昨夜は結局、中へ泊めなかった。食料だけを渡し、連中は門の外で夜を越した。要求された二十人分ではない。今ここにいる人数が、その日をしのげる程度だった。それで納得したのかどうかは分からない。ただ、昨夜はそれ以上揉めなかった。
門へ近づくと、白髪混じりの男が柵に寄りかかっていた。眠っていないような顔をしている。
「ずっといたの?」
俺が聞くと、男は欠伸をした。
「交代した」
「寝た?」
「少し」
「俺より酷い顔してるけど」
「元からだ」
男の視線は門の外へ向いている。西の連中が荷物をまとめていた。
「行くのかな」
「行くだろ」
「西に帰る?」
「見てみろ」
男に言われ、俺も外を見る。荷物を背負った連中は、道の東側へ集まっていた。昨日、交渉役の男が言っていた。ここから東へ行く。
「本当に行くんだ」
「そのために来たんだろ」
「何しに?」
「知らん」
「聞かなかったの?」
俺は少し呆れて聞き返した。
「聞いた」
「何て?」
「教えないってさ」
白髪混じりの男は面白くもなさそうに答えた。
門の外では、昨日の交渉役が人数を確認している。一人、二人と呼び寄せ、荷物を見て回る。昨日、勝手に門へ入ろうとした若い男もいた。銃を肩に掛けている。
肩を撃たれた男の顔が頭に浮かび、腹の奥が少し熱くなった。
「行って殴るなよ」
白髪混じりの男が言った。
「行かないよ」
「顔に出てる」
「殴られた方じゃないぞ。撃たれたんだ」
「知ってる」
「下手したら死んでた」
「ああ」
「なのに、あいつ普通に帰るのか」
「帰らない。東へ行く」
「そういう話じゃない」
男はしばらく黙っていた。
「じゃあ、どうしたい」
聞かれて困った。撃った男を差し出させる。殴る。銃を取り上げる。食料を返させる――どれも頭には浮かんだ。そのあとどうなるのかまで考えると、どれも言えなかった。
「分からない」
「そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
昨日までなら、その態度にも腹が立ったかもしれない。今は少しだけ分かる。答えがないのではなく、選んだあとにも続きがある。それが面倒なのだ。
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「おい」
門の外から声をかけられた。交渉役の男だった。
白髪混じりの男が柵から背を離す。
「何だ」
「ちょっと来い」
「ここで言え」
交渉役は集落の中を見た。
「昨日撃たれた奴、生きてるか」
「生きてる」
俺が答えた。
交渉役の男が俺を見る。
「そうか」
「それだけ?」
俺は思わず聞き返す。
「ああ」
「撃った奴は?」
俺は東へ出る準備をしている若い男を見た。
交渉役もそちらを見る。
「連れていく」
「見れば分かる」
俺が吐き捨てる。
「じゃあ何が聞きたい」
交渉役が問い返す。
「何かないのかよ」
自分でも、曖昧な聞き方だと思った。
交渉役はすぐには答えなかった。
「昨日の一発は、こっちの決まりでも駄目だ」
「だから?」
「罰は与える」
「何する」
「それをお前に決めさせる気はない」
やっぱり腹が立った。
俺が何か言う前に、白髪混じりの男が口を挟んだ。
「東へ何人で行く」
交渉役の視線がそちらへ移る。
「それを聞くために呼んだんじゃない」
「俺はそれを聞きたい」
白髪混じりの男は引かなかった。
「昨日言っただろ」
「二十人ってのは、食料の人数だ。泊まるのは、ここにいる連中だけでいいって話だった」
交渉役の男が少し笑った。
「昔より面倒になったな」
「お互い様だ」
二人の間に、俺の知らない時間がある。昨日から何度か感じていた。白髪混じりの男が、俺たちより西の連中を知っている理由。聞きたいとは思った。でも、今聞いても全部は話さないだろう。
「二十七」
交渉役が答えた。
「ここにいるのは?」
白髪混じりの男が畳みかける。
「十二」
「残りは」
「先に行ってる」
白髪混じりの男の顔から眠そうな感じが消えた。
「いつ出た」
「三日前」
「どこまで行く」
「言えない」
「恐竜が西から逃げてる」
白髪混じりの男が唐突に言った。
交渉役の男が黙った。
俺は二人を見る。
「昨日のやつ?」
「あれだけじゃない」
白髪混じりの男が答えた。
「交易に出る途中でも見ただろ」
俺たちを見つけたラプトルが、襲わずに逃げた。死んでいる土地の近くでも、恐竜はそこから離れるように動いていた。そして昨日は、種類の違う恐竜が何頭も西から東へ走ってきた。ばらばらだった出来事が、そこで初めて一つにつながった。
「西で何か起きてる?」
俺が聞いた。
「かもしれん」
白髪混じりの男が答える。
「何が」
「分からん」
まただ。でも今度は、その言葉を笑う気になれなかった。
交渉役の男が東の道を見る。
「だから行くんだよ」
「何?」
俺が聞き返す。
「俺たちも分からない」
「じゃあ、何で東に行く」
「西に戻るよりましだからだ」
それだけ言うと、交渉役は仲間のところへ戻っていった。
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日が昇る頃、西の連中は出発した。十二人。銃を持つ者、槍を持つ者、荷物を背負う者。昨日はあれほど集落へ入りたがっていたのに、今日は誰もこちらを見ようとしない。東へ続く道を、一列になって歩いていく。
俺たちの集落を襲いに来たのだと思っていた。それも間違いではない。食料を要求された。寝る場所も要求された。断ればどうなったのかは分からない。実際に一人撃たれた。
それでも、連中の目的はここではなかった。俺たちの集落は、途中にあっただけだ。そのことの方が、俺には気味が悪かった。
「追いかけなくていいの?」
声がして振り返る。昨日、一緒に交易へ出た若いのがいた。いつの間にか起きてきたらしい。
「何で追いかけるんだよ」
「何しに行くか気になるじゃん」
「気になるけど」
「じゃあ」
「行かない」
俺が即答すると、若いのは意外そうな顔をした。
「珍しい」
「何が」
「行くって言うかと思った」
「何で」
「昨日、先に集落見に行ったじゃん」
「あれは家だろ」
自分の集落だったから行った。殴られているのも、撃たれたのも、知っている人間だった。東へ行く連中が何をするのかは気になる。でも、それだけでついていく気にはならなかった。
「それより柵直すぞ」
「俺らも?」
若いのが顔をしかめる。
「昨日押しただろ」
「押したけど」
「壊れてるだろ」
「そうだけど」
「じゃあやる」
「帰ってきたばっかりなのに」
「昨日帰ってきたんだよ」
「同じじゃん」
若いのはぶつぶつ言いながらも、俺についてきた。
昨日、大型の恐竜がぶつかった場所では、新しい柱を立てる穴を掘っていた。年長の男が俺たちを見る。
「遅い」
「今起きた」
若いのが悪びれずに答える。
「正直に言うな」
「嘘ついた方がいい?」
「働けばどっちでもいい」
若いのに鋤を渡す。俺は倒れた柱を運ぶ方へ回った。
いつもの仕事だった。壊れたら直す。足りなくなったら取りに行く。恐竜が来たら追い払う。冬になる前に食料を貯める。そうやって、この集落は続いてきた。
たぶん今日も続く。明日も。
それなのに、昨日までと同じには思えなかった。
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昼前、撃たれた男が目を覚ました。熱はまだあったが、水を飲んだ。自分で身体を起こそうとして女に怒られたらしい。その話が広がると、集落の空気が少しだけ軽くなった。
交易の荷物も、ようやく倉へ運び込んだ。薬、工具、残った釘――そして、予定より少ない斧。年長の男が一つずつ確認し、まとめ役が記録を取る。
「これで全部?」
まとめ役が聞いた。
「全部」
年長の男が答える。
「少ないな」
「向こうにもなかった」
「次は?」
「しばらく無理だろ」
まとめ役が顔を上げる。
「何で」
「東から荷が来てない」
交易先で聞いた話を、年長の男が説明した。二度続けて、東から来るはずの人間が来なかったこと。薬も工具も、そのせいで減っていたこと。
まとめ役の手が止まる。
「西からは恐竜が来て、東からは人が来ないのか」
誰も答えなかった。
西の連中は東へ向かった。俺たちが交易先で聞いた、来なくなった人間も東にいる。昨日の恐竜は西から逃げてきた。
全部が関係しているのか。たまたまなのか。今の俺たちには確かめる方法がない。
「次の交易、どうする」
俺が聞いた。
年長の男が腕を組む。
「薬が足りなくなれば行くしかない」
「同じ道?」
「他にあるか?」
「あるにはある」
俺が答えると、年長の男が嫌そうな顔をした。
「死んでる土地の近くだろ」
「あそこは嫌だな」
若いのがすぐに言った。
「お前には聞いてない」
年長の男がぴしゃりと返す。
「俺も行ったじゃん」
「次も行く気か?」
「行かないの?」
若いのが逆に聞き返す。
年長の男は答えなかった。俺も答えられなかった。
次がいつになるかも分からない。その頃、道がどうなっているのかも分からない。
交易へ出る前は、道は道だと思っていた。危険な場所を避け、恐竜の縄張りを避ければ、向こうの集落まで続いている。今は、その途中に人間の縄張りまで増えていた。それどころか、昨日まで安全だった場所を恐竜の方が捨て始めている。
俺たちが知っている道は、もう同じ道ではないのかもしれない。
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夕方、柵の修理が終わった。新しく立てた柱だけ色が違う。その根元には、大型の恐竜が残した足跡がまだあった。
俺は道具を片づけてから、柵の外へ出た。昨日、恐竜たちが走っていった場所まで歩く。森へ入るつもりはない。ただ、少し見たかった。
地面には無数の跡が残っている。大きな足跡と小さな足跡、踏み潰された草、折れた枝――昨日の混乱の跡がそのまま残っていた。
その中に、三本指の跡を見つけた。
ラプトルだ。
昨日までなら、見つけた時点で周囲を警戒していた。近くにいないか。巣がないか。集落へ続いていないか。
今も、それは同じだ。危険なものは危険だ。近づきたいとも思わない。それでも、足跡を見た瞬間に浮かんだものが、昨日までとは違った。
女だった。ラプトルの背に乗っていた女。
あれは何だったのだろう。どうやって乗った。なぜ襲われない。あのラプトルだけなのか。他にもいるのか。どこから来た。
考えても、一つも答えは出ない。
森の奥から物音がした。俺はすぐに顔を上げた。何も見えない。しばらく待っても、恐竜は出てこなかった。
少し前なら、それで安心して帰ったと思う。今日はもう少しだけ森を見ていた。
「何してる」
後ろから声をかけられた。白髪混じりの男だった。
「別に」
「別にで柵の外に出るな」
「すぐ戻るよ」
男も地面の足跡に気づいた。
「ラプトルか」
「ああ」
「新しい?」
「昨日のだと思う」
「ならいい」
男はそれ以上興味を示さなかった。
「なあ」
俺が声をかける。
「何だ」
「昨日の女」
「乗ってた奴か」
「あれ、何だと思う?」
「人間だろ」
「それは見れば分かる」
俺は少しむっとした。
「じゃあ女」
「そういうことじゃない」
「なら知らん」
俺はため息をついた。
「昔はいなかった?」
「ラプトルに乗る奴?」
「ああ」
「俺は見たことない」
「話も?」
「ない」
男が嘘をついているようには見えなかった。
この人なら何か知っているかもしれないと思っていた。昔を知っている。西の連中も知っている。俺たちが知らない道も知っていた。それでも、知らないものがある。
「じゃあ、誰に聞けば分かるんだろうな」
俺が呟くと、男が森を見る。
「本人じゃないか」
「どこにいるんだよ」
「知らん」
思わず笑った。男も少しだけ笑った。
「帰るぞ」
「ああ」
集落へ向かう。柵の中では夕飯の支度が始まっていた。煙が上がっている。子供が走っている。修理したばかりの柱のそばで、誰かが余った縄を巻いている。
いつもの集落だった。
ここへ帰るために、俺たちは交易へ出た。薬を持ち帰るために。工具を持ち帰るために。それだけの旅だった。
でも、外へ出てみれば、知らないことばかりだった。恐竜が避ける土地がある。西には人間を従わせながら生きている連中がいる。東から来るはずの人間が来なくなっている。恐竜たちは、何かから逃げるように西から移動している。そして、その恐竜の背に乗っている人間がいる。
俺は柵をくぐる前に、一度だけ振り返った。
森は何も答えない。ラプトルの姿もない。あの女もいない。昨日見たことさえ、今では少し現実味がなかった。
それでも地面には、三本指の足跡が残っている。
俺たちは恐竜のいる世界で生きている。
ずっと、そう思っていた。
けれど、あの女も同じ世界に生きているのだとしたら。
同じなのは、恐竜がいるということだけなのかもしれない。




