第2話 火床の残響
灰灯院の朝は早い。
夜明け前、まだ空が青みを持たないうちから、台所では火が入る。 水を汲む音。 パン生地を叩く音。 薪が爆ぜる音。 小さな咳払い。 眠そうな子どもの足音。
レイナは裏庭の井戸で顔を洗い、濡れた前髪を指でかき上げた。
冷たい水が頬を打つ。 昨夜から続く胸のざわつきは、まだ消えていなかった。
神剣イグニス。 そんな名は知らない。 だが、火を見た時に走る妙な違和感は、昨夜のあれ以来、少しだけ濃くなっていた。
「また難しい顔をしていますね」
背後から声がした。
振り向くと、ルミエラが木桶を抱えて立っていた。 修道服の袖はまくられていて、朝から働く気満々の顔をしている。
「顔はいつも通りだ」
「そういうことにしておきます」
ルミエラは井戸の縁に桶を置く。 中には、洗い終えた布が何枚も入っていた。
「ユノたちは」
「もう起きています。 あの子たち、気を張っていた反動で昼まで寝るかと思ったんですが」
「図太いな」
「生き延びる子はそういうものです」
ルミエラはさらりと言った。 その声音には、慰めでも哀れみでもない、経験の重みだけがあった。
彼女もまた、この場所で育った人間だった。
灰灯院で拾われ。 灰灯院で名を与えられ。 灰灯院で生きる術を覚え。 そして今は、ここを守る側に立っている。
ルミエラは桶を持ち上げ直しながら、レイナをちらりと見た。
「戻るなり村ひとつ抱えてくるのは、どうかと思いますが」
「村は抱えてない。 三人だ」
「十分多いです」
「減らすか」
「その冗談、嫌いです」
レイナは鼻を鳴らした。 ルミエラも、少しだけ口元を緩めた。
「朝食のあとで、ユノに薪割りを教えてください」
「いきなりか」
「いきなりです。 何もしない時間が長いと、余計なことばかり考えますから」
「お前は容赦がないな」
「あなたほどではありません」
言いながら、ルミエラは建物の中へ戻っていく。 レイナはその背を見送り、それから空を見上げた。
曇りかけていた。 昼には雨になるかもしれない。
その時。 裏門の方で、小さな鈴のような音が鳴った。
風鈴ではない。 門にも鈴はついていない。 けれど灰灯院では、たまにそういう音がする。
レイナは深く息をついた。
「朝からか」
裏門へ向かう。 苔むした石畳を抜け、小さな木戸を開けると、その向こうの森道に淡い灯がひとつ浮いていた。
「おはよう、レイナ」
ルクスフェルだった。
今朝は人の形を少しだけ取っている。 輪郭の曖昧な青年のようにも、痩せた老人のようにも見える。 顔立ちは整っているはずなのに、見たそばから印象が滑り落ちていくような、不思議な姿だ。
「暇そうだな」
「朝の挨拶に対する返答としては最悪だな」
「神に朝も夜もあるのか」
「あるとも。 私が見ている者たちにはある」
ルクスフェルはそう言って、木戸の上の灯を見た。 灰灯院の小さな火は、今朝も静かに揺れている。
「加護は切れていないようだな」
レイナが言う。
「誰のおかげだと思っている」
「私とルミエラと、ここで働く連中の努力の結果だろ」
「可愛げがない」
「お前が言うな」
ルクスフェルは笑ったようだった。 表情はよく見えないのに、不思議とそう分かる。
「北の古道の祠。 今日のうちに見てこい」
「昨日も聞いた」
「聞いただけで行っていないだろう」
「忙しい」
「知っている。 だから朝のうちに言いに来た」
「命令口調だな」
「頼み事だ」
「神の頼みはろくでもない」
「今回は石を戻すだけだ。 ついでに一つ、拾い物があるかもしれん」
レイナの目が細くなる。
「何だ」
「行けば分かる」
「それが嫌いだ」
「お前は嫌いなものが多すぎる」
「好きなものが少ないだけだ」
「同じことだよ」
ルクスフェルは肩をすくめるように灯を揺らした。
レイナは木戸にもたれ、しばらく黙った。 森の匂いが湿っている。 雨は近い。
「……祠が荒れてる理由は」
「人間だ。 最近、あの辺りで遺跡崩しが流行っている」
「盗掘か」
「似たようなものだ。 古い石や彫像を砕いて売る連中がいる。 愚かで、目先が利く」
「どこにでもいるな」
「人間は昔より帳簿が好きになったが、欲深さは変わらん」
レイナは小さく息を吐いた。
「分かった。 昼までには見てくる」
「良い返事だ」
「恩着せがましい」
「恩を着せているからな」
その時、ルクスフェルがふと沈黙した。
淡い灯が、レイナの肩越しに灰灯院の建物を見やる。
「昨日の子らは」
「生きてる」
「そうか」
「様子を見に来たのか」
「少しは」
「らしくない」
「私も長くここを見ているのでな」
その声音は、ほんの少しだけ柔らかかった。
九百年。 その長さを、レイナは正確には想像できない。 自分も長く生きているはずなのに、その前後は霧のように曖昧だからだ。
ただ、この場所がずっと在ったことだけは、身体のどこかが知っている気がした。
「ルクスフェル」
「なんだ」
「昨夜、灯が妙に揺れた」
「見ていたか」
「見た」
「感じたか」
「少しだけ」
ルクスフェルは即答しなかった。
灯がゆっくり揺れる。 木々の間を抜ける風が、やけに冷たい。
「封じられたものは、時々眠りが浅くなる」
「何の話だ」
「お前にはまだ早い話だ」
「それも嫌いだ」
「知っている」
レイナは苛立ちを隠さずに言う。
「お前たちは、いつもそうだ。 知っている顔をして、肝心なことは言わない」
「言えば楽になると思うか」
「少なくとも、今より腹は立たない」
「それはどうかな」
ルクスフェルの声が少し低くなった。
「お前はまだ、知らぬままでいられるから歩けている部分がある。 全部を持ったままでは、足が止まるぞ」
レイナは答えなかった。
そうかもしれない。 そうではないかもしれない。 いずれにしても、こういう時のルクスフェルは、これ以上言わない。
卑怯な神だと、レイナは思う。 だが、嘘をつかない分だけ始末が悪い。
「お使いは昼までだったな」
「ああ」
「帰りに南の林道は使うな」
「理由は」
「崩れている」
「本当か」
「半分は」
「残り半分は」
「つまらない連中が張っている」
「盗賊か」
「人攫いだ」
レイナの目が変わった。
空気が一瞬で冷える。 ルクスフェルがわずかに灯を揺らした。
「灰灯院を探っているわけではない。 だが、難民流れを狙っている」
「数は」
「六か七。 お前には少ない」
「私に少ないかどうかは聞いてない」
「そう怒るな。 面倒な連中だ、で十分だろう」
「十分だ」
レイナは木戸を閉めた。
「昼までに祠。 帰りに南の林道」
「その通り」
「雑談は」
「もう終わりだ。 お前が不機嫌になったからな」
「最初からだ」
「違いない」
次の瞬間、ルクスフェルの輪郭はふっと薄れた。 残ったのは小さな灯だけで、それも風に溶けるように消える。
森はただの森に戻った。
レイナはしばらくその場に立ち尽くし、それから踵を返した。
朝食の席では、ユノが必死にパンを噛みしめていた。 まだ幼い女の子はスープを両手で抱え、足を折った少女は眠そうな顔で周囲を警戒している。
レイナが入ると、ルミエラがすぐに見た。
「行くんですね」
「顔に出てたか」
「出ていました。 いつもの“面倒な頼まれ事をされた顔”です」
「便利だな」
「長い付き合いですから」
レイナは椅子に腰を下ろし、出された黒パンを手に取る。 固い。 だが灰灯院の食事は、量だけはきちんとある。
「昼までに戻る」
「戻らない時の方が多いでしょう」
「今日は戻る」
「珍しい」
「南の林道に人攫いがいる」
ルミエラの目が鋭くなった。
「何人」
「六か七」
「子どもは外に出しません」
「そうしろ」
「あなたは」
「祠を見て、そのまま潰す」
「一人で?」
「私の他に誰がいる」
ルミエラは小さく息をついた。 諦めではない。 止めても無駄だと知っている人間の溜息だ。
「ユノ」
「は、はい」
「今日は薪割りは中止です。 代わりに文字の練習をします」
「えっ」
「嫌そうな顔をしない」
「薪割りの方がまし……」
「聞こえていますよ」
子どもたちの空気が、少しだけ和らぐ。 レイナはパンをちぎりながら、その様子を見ていた。
こういう朝があると、少しだけ現実に引き戻される。 剣でも神でもなく、人の生活の方へ。
それが良いことなのかどうか、彼女には分からない。 だが悪くないとは思う。
食事を終え、剣帯を締め直す。 腰の長剣だけでいいかと一瞬考えたが、結局背の大剣も背負った。
門を出る時、ルミエラが後ろから声をかける。
「レイナ」
「なんだ」
「無理はしないでください」
「してない」
「それももう聞き飽きました」
レイナは少しだけ振り返る。
「昼には戻る」
「戻れなかったら?」
「夕方だ」
「それでも戻らなかったら?」
「……明日の朝には戻る」
ルミエラは困ったように笑った。
「最初からそう言えばいいんです。 いってらっしゃい」
「ああ」
灰灯院の門を出る。 石柱の灯が、朝の風の中で静かに揺れている。
森道は湿っていた。 昨夜の雲が空を覆い、木の葉の裏が白く見える。
北の古道までは、それほど遠くない。 かつて巡礼路だったらしい道は、今では半ば森に呑まれ、石畳もところどころ割れている。
レイナは足音を殺して歩いた。 誰もいないはずの道だが、こういう場所には大抵、何かがいる。
獣。 盗掘屋。 あるいは、昔の残り滓。
やがて、小さな祠が見えた。
昨日ルクスフェルが言っていた場所だ。
石組みは崩れ、供え石は転がり、祠の背後には新しく掘り返された跡があった。 誰かが中をこじ開けようとしたらしい。
「趣味が悪い」
レイナが呟く。
祠の正面にしゃがみ込み、転がった供え石を拾い上げる。 思ったより重い。 ただの石ではないのだろう。
それを元の位置へ戻そうとした、その瞬間。
視界が、微かに揺れた。
火床。 熱。 赤い鋼。 打ち下ろされる槌。 火花。
知らないはずの光景が、今度は昨夜よりはっきり流れ込んできた。
誰かの手がある。 節くれ立った、大きな手。 無骨で、だが正確な手。
その向こうで、刃が赤く燃えていた。
「……っ」
レイナは思わず石を取り落としかけた。
額に冷たい汗が滲む。 心臓が、妙な打ち方をする。
ただの幻ではない。 これは何かの記憶だ。 自分のものではないはずなのに、あまりにも深く馴染んでいる。
火花の向こうで、低い声がした気がした。
――まだ、お前は剣を選ぶか。
レイナははっと顔を上げた。
誰もいない。 祠は崩れたまま。 森も静かだ。
だが、背筋だけが粟立っていた。
「……ヴァルグレン」
なぜその名が喉に上ったのか、自分でも分からなかった。
その瞬間。 森の奥で、枝を踏む音がした。
ひとつではない。 複数。
レイナの表情から、熱も迷いも一瞬で消える。
彼女は石を元の位置へ置き直し、静かに立ち上がった。 右手が自然に腰の剣へ落ちる。
音は南から。 ルクスフェルが言っていた連中だ。
人攫い。
レイナは息をひとつ吐いた。
「今日は忙しいな」
そう呟いた時にはもう、彼女の目には剣しか映っていなかった。




