第1話 帰る場所
死体の匂いが、まだ風に残っていた。
焼けた木の臭い。 湿った土。 乾ききらない血の気配。
戦が終わった村というものは、だいたいどこも同じ顔をしている。
崩れた柵。 火を浴びた屋根。 踏み荒らされた畑。 家畜のいない納屋。 泣く力も尽きたような静けさ。
レイナは、村外れの坂をゆっくり下りながら、片手で外套の襟を直した。
腰には長剣。 背には大剣。 どちらも手入れは行き届いているが、飾り気はない。
傭兵の装備としては質がいい。 だが、王都の騎士のような華やかさはなかった。
銀にも灰にも見える長い髪が、風に揺れる。 整いすぎた顔立ちは、この荒れた村にはひどく似合わない。 それでも彼女が歩くと、土と血の匂いの中にだけ自然に溶けた。
戦場に似合う美しさ、というものがある。 レイナはそういう類の女だった。
「姉ちゃん!」
甲高い声が飛んできた。
坂の下、倒れた荷車の陰から、小さな影が駆け寄ってくる。 十歳に届くかどうかの男の子だった。 顔は煤け、服は破れ、片方の靴がない。
「見つかったか」
レイナが足を止める。
「二人! 生きてるのが二人! でも、ひとりは足がひどい!」
「案内しろ」
「うん!」
少年はすぐに駆け出した。 レイナは短く息をつき、その後を追う。
村に来たのは、傭兵依頼の帰りだった。 街道沿いの警護を終えて、灰灯院へ戻る途中。 遠目に煙が見えたので寄っただけだ。
本来なら、依頼の外だ。 金にもならない。
だが、煙の立つ村を見過ごすほど、彼女は器用に生きていない。
案内されたのは、半壊した家の裏手だった。 崩れた壁の内側に、少女がひとり、老女がひとり、身を寄せるように倒れていた。
少女は十三、四だろう。 左脚に梁が当たったらしく、血が止まりきっていない。 老女は意識があるが、呼吸が浅い。
レイナはしゃがみ込むと、まず少女の傷を見る。 骨が折れている。 だが、まだ助かる。
「水は」
「持ってきた!」
さっきの少年が、汚れた桶を両手で差し出した。
「よし。 お前は役に立つな」
そう言うと、少年は少しだけ胸を張った。
レイナは桶の水で布を湿らせ、手早く傷の周りを拭く。 動きに迷いがない。 戦場での応急処置は、剣と同じくらい身体に染みついていた。
「痛っ……」
「生きてる証拠だ。 喋れるなら死なない」
少女が涙目で睨む。 レイナは構わず、折れた木材を支えにして脚を固定した。
「お、婆ちゃんは」
「息はある。 水を少しだけ飲ませろ。 無理に起こすな」
「う、うん」
「お前、名前は」
レイナが少年を見る。
「ユノ」
「そうか、ユノ。 今から村に残ってる生きた人間を探す。 歩けるやつを集めろ。 死体は後回しだ」
少年の顔が強ばる。
「……死んだ人も、探したい」
「分かってる」
レイナは低く言った。
「だが、死者は逃げない。 生きてるやつは、今逃げる」
ユノは唇を噛み、それからうなずいた。
「……分かった」
「賢いな。 行け」
少年が走り去る。
その背を見送りながら、レイナは一瞬だけ目を細めた。
生き延びる子どもの目だ、と思った。 嫌でも覚える。 逃げるべき時に逃げ、泣くべき時に泣けなくなる目。
そういう目を、レイナは知っていた。 知りすぎるほどに。
少女の処置を終えると、彼女はゆっくり立ち上がる。 村の中心に目を向けると、焦げた風の向こうに小さな祠が見えた。
壊れかけた石の祠。 道祖神とも、土地神ともつかぬ、小さな祭壇。
レイナの胸の奥で、微かにざわりとしたものが走る。
気のせいではない。
こういう時、たいていは気のせいではない。
レイナは無言で祠へ向かった。
近づくにつれ、焼け跡の空気が少しだけ変わる。 熱ではない。 もっと古い、気配のようなもの。
祠の前に立つと、崩れた注連縄の奥に、小さな灯皿が置かれていた。 油は尽き、火は消えている。 だが、見ているだけで、何かがこちらを見返している気がする。
「……いるんだろ」
レイナがぼそりと言う。
風が吹いた。 祠の奥で、乾いた草が擦れる音がした。
そして、呆れたような声がした。
「相変わらず愛想がないな、お前は」
老人のようでもあり、若者のようでもある。 男とも女ともつかぬ、曖昧な声だった。
レイナは片眉だけを上げる。
「先に声をかけてくる神に、礼儀を尽くす必要はない」
「減らず口も達者だ」
「用があるなら言え。 こっちは忙しい」
「その前に、無事に戻ってきたことを喜ぶ言葉でも期待していたのだが」
「似合わない」
くく、と笑う気配がした。
祠の影から、淡い灯の粒がひとつ、ふわりと浮かぶ。 それは人の姿にはならない。 ただ、小さな火のようなものが、レイナの目の高さで揺れた。
灯と帰還の中立神、ルクスフェル。 地方では迷い子除けの小神として祀られることもあるが、その正体を知る人間は少ない。
レイナにとっては、昔から少し面倒な相手だった。
「また拾うのか」
ルクスフェルが言う。
「見捨てろと?」
「言わんよ。 お前は昔から、拾わなくてもいいものを拾う」
「昔を知ってるような口を利くな」
「知っているとも」
レイナの目がわずかに細くなる。 だがルクスフェルは、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、灯がひとつ、祠から村の西へと流れる。
「まだ二人、生きている。 井戸のそばだ」
「最初から言え」
「雑談は大事だ」
「神の癖に暇だな」
「神だから暇なのだよ」
レイナは鼻を鳴らすと、踵を返した。
「帰りに寄れ」
ルクスフェルが言う。
「嫌だ」
「灰灯院への加護を少し厚くしてやってもよいが」
「……用件だけ言え」
「北の古道の祠が荒れている。 供え石を戻しておけ」
「それだけか」
「それだけだ。 今回はな」
「面倒だな」
「お前ほどではない」
レイナは返事をしなかった。
井戸のそばでは、本当に二人が見つかった。 片腕を火傷した男と、まだ幼い女の子だった。
半日かけて、生存者を集め、火を消し、荷車を組み直し、歩ける者に死者の確認をさせた。 少女の脚は応急でどうにかなった。 老女も夜を越せそうだった。
日が沈みきる頃には、村に残るべき者と、近隣の街へ向かうべき者の仕分けまで終えていた。
村人の一人が、おずおずと銀貨袋を差し出してくる。
「傭兵さま……これを……」
レイナは袋の重みを指先で測り、それをそのまま返した。
「食料を買え。 冬が近い」
「ですが……」
「私は別口で稼いでる」
嘘ではない。 ただ、それでも十分とは言えないのが傭兵というものだ。
村人は深く頭を下げた。 レイナは受けるでもなく、その場を離れる。
連れていくのは三人。 ユノと、井戸のそばにいた女の子、それから足を折った少女だ。 老女は村に残ると決めた。 男は街へ出た後、職を探すらしい。
「どこへ行くの」
荷車の上で、幼い女の子が訊いた。
「灰灯院」
「遠い?」
「歩けば着く」
「優しくない答え」
少女がむすっと言う。
レイナは少しだけ口元を緩めた。
「優しい答えが欲しいなら、シスターに聞け」
「シスター?」
「うるさいのがいる」
「優しいの?」
「たぶん」
「たぶん?」
「怒る時は怖い」
それを聞いて、ユノが少し笑った。 今日初めての、子どもらしい笑いだった。
夜半、野営地で火を起こす。 ユノが薪を集め、レイナが干し肉を炙り、少女たちは毛布にくるまる。
火を見ていると、時々、妙に胸がざわつくことがある。
炉の熱。 赤く焼けた鉄。 叩かれる音。 誰かの手。
知っているはずのない光景が、目の奥をかすめる。
レイナは目を閉じた。 胸の底で、名も知らぬ痛みがかすかに疼く。
だが、それ以上は何も出てこない。
昔のことは、いつもそうだった。 手を伸ばせば、霧のように逃げる。 残るのは剣だけ。 剣の感覚だけ。
だから彼女は、考えすぎないことにしていた。
「レイナ」
毛布にくるまったユノが、小さな声で呼ぶ。
「なんだ」
「灰灯院って、どんなところ」
レイナは火を見つめたまま答える。
「腹が減ったら飯が出る」
「うん」
「風呂は狭い」
「うん」
「ルミエラは口うるさい」
「うん」
「働かされる」
「えぇ……」
「だが、寝る場所はある」
そこで少し、間を置く。
「名も、与えられる」
ユノはしばらく黙っていた。 火がぱちりと鳴る。
「……じゃあ、いいところかも」
「そうかもな」
レイナはそう言って、ようやく火から目を上げた。
夜空は晴れていた。 冷たい星がいくつも瞬く。
どれだけ遠くへ行っても、最後には戻る場所がある。
それだけで、人は完全には壊れない。
たぶん。
たぶん、そういうものなのだろうと、レイナは思っていた。
翌朝、灰灯院が見えたのは昼前だった。
森の切れ目に、古い石造りの建物が現れる。 大きくはない。 立派でもない。 だが屋根はきちんと直され、壁の補修も行き届いていた。
門の前には古びた灯台のような石柱があり、そこに小さな灯火が揺れている。
九百年続く孤児院、灰灯院。
レイナはそれを見ると、わずかに肩の力を抜いた。
門の前では、修道服姿の女が腕を組んで待っていた。
「遅かったですね、レイナ」
シスター・ルミエラ。 柔らかな顔立ちをしているが、目だけはごまかしが利かない。
「寄り道した」
「見れば分かります。 三人も増えてるじゃないですか」
「二人に減らすか?」
「馬鹿を言わないでください」
ルミエラはため息をつき、それから子どもたちを見る。 その目が一瞬でやわらかくなった。
「ようこそ。 ここでは、まず温かいスープが出ます」
幼い女の子が、ほっとしたように泣き出した。 ユノは泣くのを堪えた。 足を固定した少女は、俯いたまま唇を噛んでいる。
ルミエラは何も急かさない。 ただ門を開けて、静かに言った。
「中へ」
レイナは荷を下ろしながら、門の上に揺れる小さな灯を見た。 風は吹いているのに、火は消えない。
ルクスフェルの加護。 九百年続く、古き盟約の灯。
「また無茶をしたでしょう」
ルミエラが横目で言う。
「してない」
「その答えを信じるのは、ここでは子どもだけです」
「十分だろ」
「まったく」
ルミエラは呆れたように言って、それから少しだけ微笑んだ。
「おかえりなさい、レイナ」
レイナは一瞬だけ言葉に詰まった。
こういう言葉は、あまり得意ではない。
だが、返さないのも違う気がして、短く答える。
「……ああ」
灰灯院の扉が開く。 温かい匂いが流れてくる。 パンと煮込みと、誰かが生きている匂い。
レイナはその中へ足を踏み入れた。
その時、門の灯が、ほんの一瞬だけ不自然に揺れた。
誰にも気づかれないほど小さく。 けれどレイナだけは、胸の奥にかすかな違和感を覚えた。
火ではない。 もっと古い何か。
まるで、遠くで封じられた刃が、眠りの中で微かに鳴いたような。
レイナは振り返った。
灰色の空。 森の向こう。 ずっと遠く、見えないどこか。
理由もなく、胸がざわついた。
それが神剣イグニスの目覚めに繋がる最初の兆しだとは、この時のレイナはまだ知らない。




