第11話 灯の外
その夜、レイナは灰灯院の門の外に立っていた。
門柱の灯は小さく揺れている。
その傍らに、ルクスフェルの淡い光が浮かんでいた。
灰灯院の中からは、まだ子どもたちの声がかすかに聞こえる。
ルミエラが名簿を読み上げているのだろう。
名を呼び。
名を返す。
たったそれだけのことが、今夜はやけに重かった。
「白い影を見たのは、二人だけか」
レイナが問う。
「今のところはな」
ルクスフェルが答える。
「だが、二人で済んだことを喜ぶ段階ではない」
「分かってる」
レイナは短く返した。
冷たい夜気が頬を撫でる。
風は弱い。
それなのに、灯の周りだけが時折不自然に揺れた。
「ここから先は、灰灯院の中で話すな」
ルクスフェルが言う。
「聞かせたくないからか」
「それもある」
「だが、一番は違う」
レイナは目を細めた。
「何だ」
「名を守る場所で、名を削る話を長くするのは良くない」
その言い方が妙に気に障る。
だが否定はできなかった。
ルクスフェルはいつも曖昧だ。
だが時々、ひどく正しいことを言う。
「歩くぞ」
レイナは門柱から背を離した。
「遠くへは行かん」
ルクスフェルの灯がふわりと先に進む。
「灯の届くところまでだ」
灰灯院の裏手へ回る。
石壁の向こうには畑があり、その先には低い林がある。
昼は子どもたちが薪を拾いに入る場所だが、夜は誰も近づかない。
レイナは歩きながら、懐の鉄片に手を当てた。
冷たい。
だが、眠っている感じではない。
目を閉じて息を潜めている何かだ。
「北方大陸」
レイナが言う。
「碑冠遺跡」
「忘名宮」
「どこまで知ってる」
ルクスフェルの灯が少しだけ揺れた。
「場所として知っている」
「神としても知っている」
「だが、私が見たのは今の姿だけだ」
「神代そのものを、あの場所で見たわけではない」
レイナは黙って聞いた。
「昔は名を刻む場所だった」
ルクスフェルが続ける。
「王の名。 死者の名。 契約の名。 神へ捧げる名」
「残すための場所か」
「そうだ」
「だからこそ、ネムノアを封じる楔として選ばれた」
レイナは低く息を吐いた。
前にも聞いた話だ。
だが、灰灯院の子どもに影が出た後で聞くと、重みが違う。
「今さら封じが擦れる理由は」
「分からん」
ルクスフェルは即答した。
「だが、理由は一つではないだろう」
「封印は年月で摩耗する」
「人の手も入る」
「現神の管理も弱る」
「中立神の見張りも薄くなる」
「その全部が少しずつ積もる」
レイナは眉を寄せた。
「役に立たんな」
「万能を期待するな」
「神だろ」
「だからこそだ」
レイナは鼻を鳴らした。
ルクスフェルはそれには構わず、林の手前で止まる。
「ここだ」
「何が」
「見てみろ」
レイナは視線を前へ向けた。
最初は何もないように見えた。
夜の林。
風に揺れる枝。
白く薄い月の光。
だが、じっと目を凝らすと、木々の間に何かがいる。
白い。
細い。
人の形に近い。
だが、顔がない。
いや、顔があるのに思い出せないような、ひどく気持ちの悪い見え方だった。
白い影は一つではない。
二つ。
三つ。
遠くに立っているだけだ。
近づいてはこない。
ただ、見ている。
そのことだけが分かる。
「……滓か」
「そうだ」
ルクスフェルが言う。
「まだ遠いから、ここでは形が薄い」
「だが、灰灯院に近づいている」
レイナの重心が自然に沈む。
剣を抜く距離ではない。
だが、見逃す距離でもない。
「斬るか」
「今はやめておけ」
「なぜだ」
「薄すぎる」
「斬っても霧散するだけで、根は分からん」
ルクスフェルの灯が、わずかにレイナの前へ出る。
「お前は、目の前にいれば斬れる」
「だが今は、斬るより見る時だ」
レイナは少しだけ目を細めた。
見る。
あまり好きな行為ではない。
見ている間にも、向こうは近づいてくるからだ。
だが、今夜に限っては、それが正しいのだろうとも思った。
白い影の一つが、枝の向こうでふっと揺れた。
その瞬間。
レイナの頭の奥で、誰かの名が滑った。
思い出しかけて、抜ける。
近い誰かだったはずだ。
気づいた時には、ルミエラの名を心の中で強く呼んでいた。
ルミエラ。
灰灯院。
ユノ。
サラ。
アレン。
ひとつずつ、杭を打つみたいに心の中で確かめる。
すると霧が少し引いた。
「そういうことか」
レイナが呟く。
「相手の名を思い出せなくするだけじゃない」
「自分の中の繋がりを削るのか」
ルクスフェルの灯が細くなった。
「理解が早いな」
「嬉しくない」
「だろうな」
白い影はまだ立っている。
距離は変わらない。
だが、見ているだけで疲れる。
それが分かった。
「灰灯院に灯があるのは、こういうためか」
レイナが言う。
「帰還の灯は、道を示すだけではない」
ルクスフェルが答える。
「名前に戻るための灯でもある」
「洒落たことを言うな」
「本当のことだ」
レイナは答えなかった。
その時だった。
林の奥。
白い影のさらに向こうで、別の何かが動いた。
今までの影とは違う。
もっと濃い。
もっと輪郭がある。
人の形に近い。
いや。
人が白布を被って立っているようにも見える。
それが一歩だけ前へ出た。
レイナの背筋が冷える。
「ルクスフェル」
「分かってる」
神の声も、今度ばかりはわずかに硬かった。
「あれは滓じゃない」
「何だ」
「近いものだが、もう少し濃い」
「名を失いかけた何かかもしれん」
レイナは剣の柄に手を置いた。
抜く。
その寸前。
白布のような影が、こちらへ顔を向けた。
顔がある。
だが、認識が滑る。
男か女かも分からない。
老いているようにも若いようにも見える。
ただ一つだけ。
その影が、声もないのに何かを呼んだ気がした。
レイナは一瞬だけ、自分の名を忘れかけた。
胸の奥がひどく冷える。
足元が空になるような感覚。
その瞬間、門柱の灯が強く揺れた。
灰灯院から、ルミエラの声が飛ぶ。
「レイナ!」
たった一声だった。
だが、それだけで霧が裂けた。
レイナは息を吸い込む。
自分の名前。
自分のいる場所。
全部が一気に戻る。
同時に、白い影はふっと後ろへ退いた。
林の奥へ。
他の滓ごと、風にほどけるように消える。
静寂が落ちた。
レイナは剣を抜かないまま、しばらく動けなかった。
ルクスフェルも珍しく黙っている。
やがて、レイナは低く吐き出した。
「……今のは、何だ」
「名を呼び返される前提で動いたな」
ルクスフェルが言った。
それは答えではない。
だが、意味は分かった。
「灰灯院を試したのか」
「おそらくな」
「名を守る場かどうか」
「あるいは、お前がどれだけ繋がれているか」
レイナはゆっくり振り返った。
灰灯院の裏口に、ルミエラが立っていた。
夜着の上に外套だけ羽織っている。
寒いだろうに、そんなことは気にしていない顔だった。
「大丈夫ですか」
ルミエラが問う。
レイナは数歩戻り、それから短く答えた。
「助かった」
ルミエラの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
「名前を呼ぶくらいしかできません」
「十分だ」
レイナはそう言った。
今夜ばかりは、それが本心だった。
ルクスフェルの灯が、二人の間で静かに揺れる。
「見ただろう」
神が言う。
「もう滓だけでは済まない」
「分かった」
レイナは頷いた。
そこで迷いはなかった。
「準備をする」
「北へ行く」
ルミエラが目を伏せる。
止めない。
もう止める段階ではないと分かっている顔だった。
「灰灯院は私が守ります」
彼女は静かに言った。
「名簿も。 子どもたちも。 帰る場所も」
レイナはその言葉を、正面から受けた。
重い。
だが逃げなかった。
「頼む」
それだけ返す。
ルミエラは頷いた。
ルクスフェルは何も言わない。
ただ、門柱の灯が今夜は少しだけ強く見えた。
夜の冷気の中で、レイナはもう一度林の方を見た。
白い影は、もういない。
だが、見ていたものの気配だけは残っている。
忘名宮。
北方大陸。
名喪失の魔神ネムノア。
全部が、もう遠い話ではない。
レイナは懐の鉄片と、腰の火床の石に同時に触れた。
冷たいものと、熱を秘めたもの。
その両方を持って、自分は北へ行くのだと、ようやく身体が理解した。
灰灯院の灯が、背中で静かに揺れていた。




