第10話 忘名宮の影
午後の灰灯院は、表向きいつもと変わらなかった。
ユノは渋い顔で字の練習をしていた。
アレンはルミエラの横で帳面の端を押さえている。
サラは洗濯物を畳みながら、何度も外の気配を窺っていた。
教団の外套が残した冷たさは、建物の中にまだ薄く残っている。
それでも人は、手を動かしているうちに少しずつ日常へ戻る。
灰灯院という場所は、そうやって保たれてきたのだろうとレイナは思った。
裏庭の木陰で、レイナはひとり火床の石を掌に載せていた。
小さな黒い石だ。
見た目はただの焼けた鉱石にしか見えない。
だが、指先に触れると、奥に熱を閉じ込めているのが分かる。
ヴァルグレンが渡したもの。
ネムノアの滓を遠ざけると言った石。
懐に入れている鉄片と並べると、空気が僅かに張る。
互いを知っているもの同士が、沈黙のまま向き合っているようだった。
「難しい顔ですね」
ルミエラが来た。
いつの間にか、足音もなく隣に立っている。
「今日は皆それを言うな」
「今日は本当に難しい顔をしていますから」
レイナは石を握り込んだ。
「子どもたちは」
「落ち着きました」
ルミエラは裏庭の向こうを見やる。
ユノが窓辺で何かを覗いているのが見えた。
覗き込む先には、たぶん字の帳面ではなく外の様子があるのだろう。
「ユノは」
レイナが言う。
「気にしてるか」
「しています」
ルミエラは即答した。
「アレンもです。サラも。皆、あの外套を見ると少し昔へ引っ張られます」
レイナは黙った。
分かる。
旗や紋章や整った服は、守られる側には綺麗に見えないことがある。
連れていかれる側からすれば、どれも同じだ。
「レイナ」
ルミエラが少し声を落とす。
「北へ行くことになるんですか」
レイナはすぐには答えなかった。
火床の石と鉄片を見下ろす。
どちらも静かだ。
だが、静かなものほど重い。
「多分な」
やがてそう答える。
「まだ今日明日の話じゃない。だが、向こうもこっちを見てる」
「忘名宮」
ルミエラが言った。
レイナは顔を上げる。
「知ってるのか」
「名前だけは」
ルミエラは頷いた。
「灰灯院に残る古い記録の中に、北方の白い碑文群に近づくな、という一文があります。意味までは書かれていませんでしたけど」
レイナは少しだけ眉を寄せた。
「お前、それを先に言え」
「聞かれなかったので」
「そういうところ、ルクスフェルに似てきたな」
「不本意です」
そう言う割に、ルミエラの口元は少しだけ緩んでいた。
「ただ」
彼女はすぐに表情を戻す。
「古い記録は、ひどく曖昧でした」
「北方には名を失わせるものがある。記録を持ち込むな。子を連れて行くな。名を呼び合え。そういう断片だけです」
レイナは火床の石を握る手に少しだけ力を入れた。
名を呼び合え。
それは今の灰灯院の掟にも近い。
昔から同じものがあったのか。
それとも、同じ脅威がずっとそこにあったのか。
どちらにしても気分のいい話ではない。
「帳面、見せろ」
レイナが言う。
「夜に」
ルミエラが答えた。
「子どもたちが寝た後なら」
「分かった」
短く会話が切れる。
その時、裏口の方から大きな音がした。
「うわっ!」
ユノの声。
レイナとルミエラは同時に振り向いた。
食堂の中で、ユノが椅子ごと倒れていた。
アレンが立ち上がりかけている。
サラはびくっと身体を縮めていた。
「何やってる」
レイナが入ると、ユノは慌てて起き上がる。
「ち、違う」
「何が違う」
「窓のとこに誰かいた気がして」
ルミエラが窓辺へ寄る。
外を見る。
人影はない。
ただ、灰色の空と、風に揺れる木々が見えるだけだ。
「見間違いじゃないの」
サラが小さく言う。
ユノはすぐ反発した。
「見間違いじゃない。白いやつがいた」
レイナの視線が鋭くなる。
「白い?」
「服みたいな。顔は、よく見えなかった」
アレンが口を開いた。
「俺も」
全員がアレンを見る。
彼は少しだけ迷ってから続けた。
「さっき、水を汲みに出た時、門の向こうに立ってるのを見た気がする。白くて、細くて、でも……」
「でも?」
レイナが問う。
「思い出せない」
その一言で、空気が変わった。
ルミエラの表情が固まる。
レイナは二人の子どもを見比べた。
怯えている。
だが、嘘を言っている目ではない。
「名前は」
レイナが聞く。
ユノが首を傾げる。
「は?」
「その白いやつのことを、何か名前で考えたか」
「いや」
ユノはすぐ首を振った。
「思いつかなかった」
アレンは黙っている。
その黙り方が嫌だった。
レイナはしゃがみ込み、アレンと目線を合わせる。
「お前は」
アレンの喉が動く。
「……思った」
「何だ」
「誰かに似てる気がした。でも、誰か分からなくなった」
ルミエラが小さく息を呑んだ。
ネムノアの滓だ。
まだ薄い。
だが、確実に近い。
相手の名を思い出せないのではなく、似ている誰かの名が抜ける。
それは始まり方として、十分すぎるほど悪い。
「ユノ」
レイナが言う。
「お前、今すぐ自分の名前を言え」
「は?」
「いいから」
「ユノ」
「もう一回」
「ユノ」
「サラ」
レイナが次に呼ぶ。
サラが肩を震わせる。
「はい」
「自分の名前」
「サラ」
「アレン」
「……アレン」
そこまで聞いて、レイナは立ち上がった。
今はまだ大丈夫だ。
だが、確実に風は来ている。
ルミエラも同じ結論に至ったらしい。
「今夜から、名簿の読み合わせをします」
彼女が言う。
「夕食の後、全員で一度ずつ自分の名前を声に出します」
ユノが怪訝そうな顔をする。
「何でだよ」
「大事だからです」
ルミエラの答えは短かった。
それ以上はまだ言わない。
子どもたちの不安を増やすだけだからだ。
レイナは窓辺へ行き、外を見る。
木々の間に白いものは見えない。
だが、見えないからいないとは限らない。
ネムノアの滓は、そういう気配をしていた。
「レイナ」
ルミエラが後ろから低く呼ぶ。
レイナは振り返らないまま答える。
「今夜、帳面を見る」
「ええ」
「それと、ルクスフェルも呼ぶ」
「来ますか」
「来させる」
その言い方に、ユノが少しだけ目を丸くした。
「神って呼べるのか」
レイナは振り返り、少しだけ口元を歪めた。
「面倒だがな」
ユノがふっと笑う。
その笑いは、さっきまでより少しだけ強かった。
怖い。
だが、怖いだけでは終わらせない。
そういう空気を、レイナはわざと作った。
夕方になるまで、灰灯院は普段通りに動いた。
薪を割る音。
水を汲む音。
ルミエラの注意する声。
子どもたちの小さな笑い。
その全部が、見えない何かに対する抵抗に思えた。
名を呼ぶ。
返事をする。
仕事をする。
日常を回す。
それ自体が、ここでは意味を持つのだろう。
日が落ちる頃、食堂に小さな灯がいくつも灯された。
大きな明かりではない。
だが、灰灯院は昔から灯を絶やさない。
卓の上に帳面が置かれる。
ルミエラが開く。
古い記録と、新しい記録。
擦り切れた頁と、新しい頁。
九百年分の名の重みがそこにある気がした。
子どもたちが集まる。
少し緊張した顔。
けれど、逃げる顔ではない。
ルミエラが最初に自分の名を言った。
「ルミエラ」
続いて、ユノ。
「ユノ」
サラ。
「サラ」
アレン。
「アレン」
順番に続く。
食堂の中に、人の名前が小さく、確かに積み重なっていく。
レイナも最後に呼ばれた。
ルミエラが静かに言う。
「レイナ」
一瞬だけ。
胸の奥で別の音が揺れた。
レイナス。
だが今は、それに引かれない。
レイナははっきりと答える。
「レイナ」
その瞬間、門の外で灯が揺れた。
誰かが来た。
いや。
来させた。
レイナは立ち上がる。
ルミエラと目が合う。
子どもたちには、まだ笑ってみせる。
「少し外へ行ってくる」
そう言って扉を開けると、門柱の灯の傍らに、淡い光がひとつ浮いていた。
ルクスフェルだった。
「遅い」
レイナが言う。
「神にも都合がある」
ルクスフェルが返す。
「それより、お前のところへ、もう風が届いたか」
レイナは門の外の闇を見た。
「白い影が来た」
「子どもが見た」
「名を思い出せなくなる兆しもある」
ルクスフェルの灯が、ほんの僅かに沈む。
「思ったより早いな」
「北方で何が起きてる」
「まだ断定はできん」
「だが、碑冠遺跡の封じが静かに擦れている」
レイナは門柱に手を置いた。
冷たい石だ。
だが、その内側にはルクスフェルの加護の熱がある。
「行くしかないか」
ルクスフェルはすぐには答えない。
その沈黙が、答えとほとんど同じだった。
「まだ少し、準備の時間はある」
やがて神は言った。
「だが長くはない」
「分かってる」
レイナの声は低かった。
灰灯院の中からは、子どもたちが自分の名を言い直す声が聞こえる。
その小さな積み重ねを、聞こえないふりはできない。
レイナは夜の森を見た。
北は、まだ見えない。
だが確かに、もうこちらへ手を伸ばしていた。




