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神剣イグニスを封じし傭兵は、姉殺しの記憶を知らない ――灰灯院に帰るレイナの神代録  作者: 玉響すばる
第2章 神剣イグニスの影

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第12話 北へ向かう支度

 翌朝の灰灯院は、静かだった。


 静かだが、重くはなかった。


 昨夜のことを、子どもたちは細部までは知らない。


 ただ、何かがあったことだけは分かっている。


 だからこそ、皆いつもより少しだけ真面目に動いていた。


 ユノは文句を言いながらも薪を運び。


 サラは食堂の布を丁寧に畳み。


 アレンは帳面の端を押さえながら、ルミエラの手元を見ていた。


 レイナはその様子を、食堂の入口から眺めていた。


 懐の鉄片は冷たい。


 火床の石も沈黙している。


 だが、今日は違う。


 静かなのは、嵐の前だからだと分かっている。


「見ているだけで済むなら、今日は楽ですね」


 ルミエラが言った。


 帳面から目を上げずに。


「皮肉か」


「半分は」


「残り半分は」


「本当に、見ているだけで済ませたいという願望です」


 レイナは小さく息を吐いた。


 その気持ちは分かる。


 だが、もう無理だ。


 昨夜の白い影は、はっきりと灰灯院を見た。


 ただの通りすがりではない。


 試したのだ。


 ここが何を守る場所かを。


 そして、自分が何に繋がれているかを。


「行くのは今日じゃない」


 レイナが言う。


「だが、準備は今日からだ」


 ルミエラはそこで初めて手を止めた。


 帳面を閉じる。


 その仕草は静かだったが、わずかに硬い。


「どこまで行くつもりですか」


「北方大陸まで」


「一人で」


「今のところはな」


 ルミエラは少しだけ目を細めた。


「今のところ、という言い方は嫌いです」


「私も好きじゃない」


「なら、もっとはっきり言ってください」


 レイナは食堂の中へ入り、卓の端に腰を下ろした。


 真正面から言え、ということだろう。


 ルミエラはそういう時、絶対に引かない。


「一人で行く」


 レイナは言った。


「灰灯院を空にできない」


「私もついていけない」


「子どもを連れてもいけない」


 ルミエラは頷いた。


 確認のための言葉だったのだろう。


 分かっていても、口にしないと収まらない時がある。


「ルクスフェルは」


「案内はするだろう」


「でも一緒には来ない」


「多分な」


「ヴァルグレンは」


「来ない」


 そこは即答だった。


 鍛冶神は、自分の火床から離れない。


 あの神はそういう存在だ。


 ルミエラはそれ以上、誰が来るかは聞かなかった。


 代わりに、現実的なことを聞く。


「何日分、持っていきますか」


「十日」


「少ないです」


「重いと走れない」


「十五日分にしてください」


「多い」


「十ニ日」


 レイナは少し考えた。


「……それでいい」


 ルミエラはすぐ立ち上がった。


「保存食をまとめます。  乾燥肉。  堅パン。  豆。  塩。  火打石は」


「ある」


「包帯は」


「減ってる」


「後で補充します」


 その会話を、ユノが少し離れた場所から聞いていた。


 顔が、分かりやすく強張っている。


 レイナは視線だけでそれに気づいた。


「ユノ」


「……何だよ」


「聞き耳を立てるなら、隠れてやれ」


「隠れてたつもりだ」


「下手だな」


 ユノはむっとした顔で近づいてきた。


 木の匙を握ったままだ。


「北に行くのか」


「行く」


「どれくらい」


「分からん」


「いつ戻る」


 まっすぐな問いだった。


 レイナは少しだけ考える。


 誤魔化すべきではない。


 だが、曖昧にもしたくない。


「戻る」


 結局、そう言った。


「それだけは決まってる」


 ユノは唇を結んだ。


 納得していない顔だ。


 だが泣く顔でもない。


「俺も行く、って言ったら」


「却下だ」


「最後まで聞けよ」


「聞かなくても同じだ」


「役に立つかもしれないだろ」


「なら、ここで役に立て」


 ユノが言葉に詰まる。


 レイナは続ける。


「灰灯院は、私がいなくても回らないと駄目だ」


「ルミエラ一人じゃ足りない」


「薪。  水。  見張り。  小さいやつの面倒。  字の練習」


「お前にやることはいくらでもある」


 ユノは不満そうに眉を寄せた。


 だが、反論はしなかった。


 子ども扱いされたことではなく、戦力として外されたことに腹を立てている顔だ。


 そこは少しだけ、悪くないと思う。


「それに」


 レイナは言う。


「お前はまだ、返事が遅い」


「関係あるか?」


「ある」


「名前を呼ばれた時に、すぐ戻れるやつの方が強い」


 ユノは黙った。


 昨夜のことを、少しは察しているのだろう。


 ただの精神論じゃないと分かっている顔だった。


「分かったよ」


 ようやくそう言う。


「分かったなら、まず食え」


「もう食った」


「じゃあ働け」


「結局それかよ」


 ユノはぶつぶつ言いながら戻っていった。


 その背を見送りながら、ルミエラが小さく言う。


「だいぶ懐きましたね」


「懐いてない」


「そういうことにしておきます」


 昼まで、灰灯院は慌ただしく動いた。


 ルミエラは保存食を分け、包帯を巻き直し、古い地図を引っ張り出した。


 レイナは矢じりと短刀を整え、水袋を確かめ、荷を軽くするために余分なものを落としていく。


 子どもたちは、何か大きなことが始まる気配を感じ取っているらしかった。


 だが誰も騒がない。


 騒いで止められる相手ではないと、薄々分かっているからだ。


 午後、裏庭で剣帯を締め直していると、アレンが近づいてきた。


 足音がまだ遠慮がちだ。


「何だ」


 レイナが聞く。


 アレンは少し迷ってから、手を差し出した。


 中には、細い麻紐がある。


「これ」


「何だ」


「帳面のしおりに使ってたやつ」


 レイナは受け取った。


 ただの麻紐だ。


 だが、結び目が一つだけ作ってある。


「お守りのつもりか」


 アレンはこくりと頷いた。


「名前、忘れないように」


 レイナは少しだけ目を細めた。


 喉の奥に、何とも言えないものが引っかかる。


 こういうのは苦手だ。


 だが、無下にもできない。


「……使う」


 そう言って、剣帯の内側へ結びつける。


 アレンはそれを見て、少しだけ安心した顔をした。


「ありがとう」


「別に」


 短く答えると、アレンは小さく頭を下げて戻っていく。


 入れ替わるように、サラが来た。


 こちらは両手で何かを抱えている。


 小さな布袋だ。


「今度は何だ」


 レイナが聞く。


「乾いた花」


 サラが答えた。


「ルミエラが、嫌な夢を見ないように枕元に置くやつだって」


「旅で枕元は贅沢だな」


「じゃあ、袋の中に入れて」


 レイナは布袋を受け取った。


 微かに、乾いた草と花の匂いがする。


「分かった」


「絶対だよ」


「お前ら、妙なところで偉そうだな」


 サラは少しだけ笑って走っていった。


 残されたのは、麻紐と花の袋だ。


 どちらも軽い。


 だが、妙に重い。


 夕方になる頃には、準備はほとんど整った。


 食堂の卓に荷を広げ、最後の確認をする。


 干し肉。


 堅パン。


 豆。


 塩。


 包帯。


 火打石。


 水袋。


 地図。


 火床の石。


 鉄片。


 剣。


 最低限だ。


 だが足りる。


「足りないものは」


 ルミエラが聞く。


「ない」


「強がりは」


「少しある」


「正直で結構です」


 ルミエラはそう言って、最後に小さな革の手帳を差し出した。


 レイナは眉を寄せる。


「これは」


「灰灯院の古い記録を写したものです」


「北方に関する部分だけ抜きました」


 レイナは受け取る。


 薄い。


 だが中身は重そうだ。


「読めるかは分かりません」


 ルミエラが言う。


「でも、持っていく価値はあります」


「そうだな」


 レイナは手帳を荷へ入れた。


 日が沈む。


 灰灯院の灯がひとつずつ点る。


 夕食は、いつもより少し静かだった。


 皆、言いたいことを飲み込んでいる。


 その静けさは嫌いじゃなかった。


 空々しい励ましより、ずっとましだ。


 食後、子どもたちは順に寝所へ戻される。


 ユノだけが最後まで食堂に残ろうとして、ルミエラに耳を引かれていた。


「痛っ」


「明日は朝から薪です」


「行く前に一言くらい」


「今のうちに言っておきなさい」


 ユノは不服そうにしながらも、レイナの前まで来た。


「……死ぬなよ」


 レイナは一瞬だけ黙った。


 そして答える。


「お前もな」


「俺はここにいる」


「だからだ」


 ユノは少しだけ目を見開いた。


 それから、ぶっきらぼうに頷いて去っていく。


 夜。


 子どもたちが寝静まった後、ルミエラとレイナは門の前に立っていた。


 ルクスフェルも来ている。


 今夜は灯だけではなく、薄い人影が少しだけ濃い。


「発つのは明朝だ」


 レイナが言う。


「分かっています」


 ルミエラが答える。


 それから少しだけ間を置いて続ける。


「帰ってきてください」


 昨日も聞いた。


 今日も聞いた。


 だが、今夜のそれは少し違った。


 祈りに近い。


「帰る」


 レイナは言う。


「名前を忘れてもか」


 ルクスフェルが、不意に挟んだ。


 レイナはゆっくりそちらを見る。


「忘れない」


「断言するか」


「する」


 胸の奥で、別の音がかすかに揺れる。


 レイナス。


 それでも今、口にするのはこっちだ。


「レイナだ」


 はっきり言う。


 門柱の灯が、少しだけ強く揺れた。


 ルミエラは静かに目を伏せた。


 それが安堵なのか、祈りなのか、レイナには分からない。


 ただ、悪くない沈黙だった。


 その夜、寝台に入っても、レイナはしばらく眠れなかった。


 旅立ち前の夜は、いつもそうだ。


 だが今夜は少し違う。


 今回は、戻る先がいつも以上にはっきりしている。


 灰灯院。


 ルミエラ。


 ユノ。


 サラ。


 アレン。


 名前をひとつずつ胸の中で確かめる。


 すると、霧は少し遠ざかる。


 レイナは目を閉じた。


 北は遠い。


 だが、もう歩き出すしかない。


 忘名宮がこちらへ影を伸ばすなら、その根元まで行って断つしかない。


 それが、今の自分にできることだ。


 夜更け。


 ようやく眠りに落ちる直前、胸の奥で微かに誰かの声がした気がした。


 ――戻ってこい。


 ヴェルセリアの声だったのか。


 自分の願いだったのか。


 それは分からなかった。


 だが、朝には発つ。


 それだけは、もう決まっていた。

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